ぐうたらさせてよ!(安寝の日記)

日常/演劇/宝塚/SMAP

単調になったらお仕舞いだ。

すみれの花束

2005年02月28日 20時36分43秒 | 小説書いてみました。
「これ、下さい」
何度このセリフを、目の前の青年が言った辺りだったろうか。
とうとう私の堪忍袋の緒が切れた。
「だーかーらー、何で欲しいんですか、あなたは!!」
「そんなのいいでしょう、ケチだなぁ」
「誰がケチよっ!!」
何を言っても、目の前の青年はニコニコと笑っている。
彼は、なぜそこまで「これ」が欲しいのだろうか。
何の変哲も無い、すみれの花束だと言うのに。
しかも道の途中で摘んだだけ。買い物の帰り道、綺麗だと思って野原をふらふらしていたのだ。すると、すれ違いざまに、この奇妙な青年に捕まった。
私の花束を見るなり、「僕に下さい」と笑顔で、頼んできたのである。
「これぐらいの花束だったら、その辺で摘めば手に入るじゃないですか。どうしてわざわざ…」
「じゃあ、何で『これぐらい』のものを渡してくれないんです?」
青年は微笑んだまま問う。私は言いよどんだ。
「それは、えっと…そう!自分で綺麗なのを選んだからですよ。せっかく苦労したのに…」
「僕は、その花束が欲しいんです。自分が摘んだのじゃない、あなたの摘んだのが」
「は?」
「だから下さい」
ますます意味が分からない。
「何で私のが欲しいんですか…?」
何で私はさっさと渡して逃げてしまわないのだろうか。そうすれば何の問題も無いのに。自分がどうして意地を張って渡さないのか、不思議だった。
「何で、かと言うと…」
ここにきて、初めて青年の顔に戸惑いが見えた。
「僕にもよく分からないんです。ただ、あなたが持っているその花束がとても貴重で綺麗なものに見えて…どうしようもなく欲しくなったんです。…こんなの可笑しいですよね」
「可笑しいですね」
「やっぱり」
青年が苦笑する。私もつられて笑う。
「でも私も、あなたに欲しいって言われてから何てこと無い花束が惜しくなってしまって…私も可笑しいですね」
青年は、またニコニコとして頷いた。
その顔を見ていると、何だかこのままになるのは惜しい気がして、私の頭に浮かんだ案を口に出してみた。
「あの…せっかくだから、この花束半分こしません?」
「半分こ?」
「だって…欲しいんですよね。だったら…」
「いいんですか?」
「ええ、もちろん」
私が半分にしたすみれの束を手渡すと、青年は今までとは比べ物にならない笑顔を見せた。
「ありがとう!!」
そこまで喜んでくれて、こちらこそありがとう。そう言いたい気分だったが、笑顔に留めた。
なんてことの無いすみれなのに、こうも可笑しなことになるなんて。
半分このすみれを手に、しばらく二人で歩いて帰ることになってしまった。
そして二人を分かつT字路で、お互いのすみれを振ってさよならを言った。
何故だか分からないが、明日も彼に会うと思う。
水差しの中のすみれが、片割れを呼んでいる気がするからだ。

冬の始まり。(ブログフレンズ企画小説)

2004年12月19日 22時19分10秒 | 小説書いてみました。
黒い服は、魔法使いの制服。
そう呟きながら、羽音は黒いコートに身を包んだ。足元は黒いブーツ。
黒いモヘアニットの帽子もかぶろう。
たちまち全身黒尽くめの、ウサギのような少女が出来上がった。
手袋とマフラーだけ白い。
エバタが言っていた、「魔法使いは、黒い服を着てなくちゃならないんだ。」
羽音が、どうして、と聞くと、
「黒い服は、魔法使いの制服だから。」
と答えた。
エバタは、近所のハシモトさんちに住んでいるウサギだ。
それもただのウサギではない。
人間の言葉を喋る。喋るだけじゃない。エバタは「ぬいぐるみ」なのだ。
羽音はエバタを、とても気に入っている。
エバタも羽音を気に入っているらしく、普段喋らないのに羽音とハシモトさんがいる時だけお喋りになる。
エバタとハシモトさんは二人で一人だ。
エバタはお喋りだけど、ハシモトさんは殆ど喋らない。
ただ、羽音がいると嬉しそうな顔をする。ハシモトさん、と改まって呼んでいるが、本当は羽音より五つほど年上なだけの、少年だ。
でも、何だか大人っぽくて静かで、いかにも「ハシモトさん」なのである。
白い家に、お母さんとエバタと三人暮しみたいだけど、お母さんは殆ど家にいない。
ハシモトさんは、いつもエバタと一緒だった。それに羽音が加わったのは、数ヶ月前のことで三人はすぐ仲良くなった。
夏の終わり頃に、羽音が公園で転げる落ち葉を追いかけていた時、ベンチに座っていたのがハシモトさん、その鞄から外を覗いていたのがエバタ。
何か気になって、近づいた。
「ねぇ、それなーに?」
指差して尋ねる羽音に、ハシモトさんは驚いていた。わたわたと戸惑っている。
ハシモトさんは、赤くなったり青くなったりで何も言えないみたいだった。
ふと、気付いてエバタを見て、閃いたのかエバタを鞄から取り出した。
「俺はエバタ!」そして、エバタはハシモトさんを身体全体で指して、
「こいつがハシモト。君は?」と言った。
「あたしは羽音。」
「羽音かー。きれーな名前だなぁ。」
「ありがと。エバタは何してるの?」
「俺は、ここで秋の始まりを探してるんだ。」
「秋の始まり?」
「ほら、地面に落ち葉が落ちているだろ?それも秋の始まり。」
「ふーん。」
「あと…焼き芋屋さんが来ると、秋だなぁって思うよね。」
「あたし、焼き芋大好き!」
ハシモトさんとエバタが笑ったので、羽音も笑った。
すると急に打ち解けて、日が落ちておなかの虫が鳴くまで三人はお喋りしていた。
夏が終わるとどうして寒くなるんだろう、とか雨が降るときは透明な傘の方が、空が見えるとか、たくさん話した。
でも、ちょっと人が近づくとエバタもハシモトさんも黙りこくってしまう。
人見知りなのだと、幼い頭で羽音は思った。
そしてそんな二人と仲良くなれた自分を、嬉しく思った。

それはいつもの日だった。羽音はハシモトさんの家でお喋りしていた。
エバタは元々くたくたの身体をフル回転して、羽音を笑わせている。
ハシモトさんの家は、明るいテラスがあって冬なのに暖かい。
外はびゅうびゅうと風が木々を揺り動かしている。
羽音は、ベランダに面した大きな窓から射す光が板張りの床に作った陽だまりに、ごろごろと転がった。
「あったか~い。」
「外は寒いけど、あったかいよなぁ。」
エバタが頷くと、羽音はそちらの方へ転がってくる。
「ハシモトさん。」
ハシモトさんは声を出さずに、首を傾げた。
「“だんとう”って何ぃ?」
「暖冬か~。暖かい冬ってことだ。」
エバタが答えた。
「ハシモトさんに聞いたのに~。」
「何だよ、俺じゃダメ?」
「ダメじゃないけど…。ハシモトさん、殆ど喋らないんだもん。」
ハシモトさんは、少し戸惑って笑った。エバタが、彼を見上げて言う。
「でも、よく暖冬なんて言葉知ってたね、羽音ちゃん。どこで聞いたのさ?」
「お母さんが言ってたの。今年は暖冬だから、雪は降らないかもねって。」
「俺にしてみれば、十分寒いように感じるけどな。な、ハシモト!」
ハシモトさんは頷いた。
羽音はむー、と膨れる。
「雪が降らないの、ヤダなぁ…。」
「羽音ちゃんは雪が好きなの?」
エバタが言うと、羽音は頬の膨れを元に戻して言う。
「だってハシモトさんが言ってたじゃない。『雪は冬の始まりなんだ』って。あたし覚えてたんだよ。」
ハシモトさんは、そうだった、と気付いたらしい。
ハシモトさんの、数少ない言葉の中でも羽音の印象に残っていたのだ。
あの時は珍しく、ハシモトさんのお母さんがいて、エバタは一言も喋らなかった。エバタはお母さんが苦手なのかもしれない、と羽音は思った。
ハシモトさんは、眉をちょっとだけ下げながら言葉少なに喋っていた。
お母さんは、あまり一緒にいられないハシモトさんと喋ろうとしていたけど、ハシモトさんはちょっと困ったように相手をしている。
お母さんは羽音にも優しくしてくれた。ハシモトさんとお母さんはよく似ている。
優しくて綺麗。ふわふわのお花みたいな人だ。
そういう風に言うと、ハシモトさんは小さな声で言った。
「母さんは花に似てるけど…僕は多分雪の方が似てるよ。」
そう言うハシモトさんは、エバタをしっかりと握り締めていて、エバタが少し苦しそうだった。ハシモトさんは、エバタがいないとダメダメなんだ。
もう一つ羽音は、雪はすぐ融けて消えてしまうのに変なの、と思った。
そして、ハシモトさんは『雪は冬の始まりなんだ』とぽつりと言ったのだ。
その時の言葉を自分で思い出したらしい、ハシモトさんはエバタを見た。
「だから、あたし雪降って欲しいの。冬の始まりが見たいの。」
「そうかー。そうだったのかー。」
エバタが、うんうんと頷く。羽音は頬杖をついてエバタに返した。
「だからねー、暖冬は困るの。雪が降らないと冬が始まらないじゃない。」
「そんなこともないんじゃないかな。」
エバタが少し呆れている。羽音はむきになって叫んだ。
「そんなことあるもん!だって、毎年雪は降ってるんだよ。冬が来なくなっちゃうよ。」
ちょっと、ずれてるんじゃないかな、とぼそぼそとエバタが言ったが、羽音は聞いていない。
「あー、どうしよう、冬が来なかったら。冬が来ないと春も来ないんだよ。エバタ、困るよね?」
「まぁ…困るかな。」
「かみさまお願い、雪を降らせてください!」
突然祈りだす羽音に、ハシモトさんも呆れ顔だ。
エバタが呟いた。
「おとぎ話なんかには、雪を降らせる魔法使いの話なんてあるけどなぁ。」
すると、その言葉に羽音が反応した。目がキラキラしている。
「その話本当?」
「おとぎ話だけど。」
「魔法使いなら、雪が降らせられるのね!」
羽音は、うきうきし始めたのか、何やらぶつぶつ言いながら考え事を始めている。
「羽音ちゃーん。何考えてるの?」
「あたしが雪を降らせるの。」
「え?」
「あたしが魔法使いになって、雪を降らせるんだ。」
エバタもハシモトさんも、口を開けて驚いている。
ちょっと面白い顔だと、羽音は思った。
「でもどうやって魔法使いになるのさ?」
当然のエバタの問いに、羽音はちょっと考えて、
「そうだよね。どうしたらいいんだろう?」
と言った。
「魔法使いって言ってもなー。」
「エバタ、魔法使いってどんな格好してるっけ。」
「うーん。ホウキ持って…。ああ、黒い服だな。」
「黒い服?」
「魔法使いは、黒い服を着てなくちゃならないんだ。」
「どうして?」
「黒い服は、魔法使いの制服だから。」
羽音は、その言葉をしっかり胸に刻み込んだ。

「北風びゅーびゅー、落ち葉かさかさ、吹きっさらし、出がらし、すれっからし~。」
羽音は、意味の無い言葉を言うのが好きだ。
全身黒尽くめの少女が、落ち葉を次々踏んで公園に行く。
雪を降らす魔法使いの話を聞いた翌日の朝である。まだ誰もいない。
息をするたびに、ほわほわと湯気が立つ。
「汽車ぽっぽ!」
上を向いて、息を吐くと機関車そっくりだ。しばらくそのまま歩いてみたが、前が見えないので元に戻った。
「北風びゅーびゅー…ここでいいかな。」
公園のど真ん中に立つと、羽音は上を向いて両足を広げて立った。
「ちちんぷいぷい…違うな。アブラカタブラ、雪よ降れ~!」
甲高い声が、12月の青空に吸い込まれていく。が、何の変化も無い。
「ダメ、なのかなぁ~…。」
もう一度、叫んでみた。遠くで犬の遠吠えが聞こえる。
「むー…。」
羽音は腕組みをして考え込み始めてしまった。
何がいけないんだろう。服も全部黒い色にして、魔法使いらしいのに。
呪文が違うのだろうか。
もう一度、もう一度やってみよう。
両の握りこぶしを、真っ赤になるほど握り締め、口を堅く引き結ぶ。
腰に力を入れて、思いっきり構えた。
「雪を降らせてくださーい!!お願いしまーす!!雪を降らせてくださーい!!」
広い青空に、羽音の声が響き渡った。
「ぶふー…。」
吐き出した息を、また思いっきり吸い込んだ。
やっぱり無理なのか。冬は来ないんだ。
羽音ががっかりした時だった。
ひらり。
白いものが、羽音の目の前を掠めた。
「何?」
ひらり。ひらり。
次々と、降ってくる。
「雪だー!!」
笑いながら、空を見上げる。白いものが、またひらり。
でも空は、日本晴れといって良いほど晴れ渡っている。
「あれ?」
白いものはまだ降ってくる。少し後ろから降っているようだ。
背中が反り返って後ろに倒れそうになるくらい、羽音は上を見上げた。
逆さまに、ハシモトさんとエバタがいた。
「ばれちゃったか。」
エバタが、照れ笑いをした。ハシモトさんも、恥ずかしそうにしている。
羽音は急いで駆け寄った。
「エバタ、ハシモトさん!どうして?」
ハシモトさんの手には、白いものがたくさんあった。よく見るとそれは、細かく刻まれた発泡スチロールだった。
「ハシモトさん、何で…。」
困ったように、ハシモトさんは眉根を寄せた。
エバタを抱きなおそうとして、発泡スチロールとエバタを落としてしまう。
ハシモトさんが抱き上げるより早く、羽音がエバタを拾い上げた。
「大丈夫エバタ?痛くなかった?」
ハシモトさんは、本当に困った顔をしている。
だけど、羽音があんまりエバタを心配するので、ついに声を掛けた。
「大丈夫、エバタは強いから。」
「本当?ハシモトさん。何にも言わないよ、エバタ。」
「大丈夫、大丈夫なんだ。羽音ちゃん。」
「なーに?」
ハシモトさんは、顔をがしがしさすりながら笑う。
「ありがとう。」
「ん?どういたしまして?」
羽音には、訳が分からない。ハシモトさんの顔には、発泡スチロールが一杯ついていた。
羽音は、エバタを抱きしめながら尋ねる。
「どうして、あたしが来るって分かったの?」
「多分…そうだと思ったんだ。だから。怒った?」
「んーん。」
首を横に振ると、ハシモトさんは安心したようだった。
「寒いねぇ、ハシモトさん。」
「寒いね…。冬が来たんだよ。」
「冬が来たんだ?」
「うん。だから、本物の雪も降るよ。」
「本当?」
「多分。」
「そっかー。じゃあ良かった!」
羽音の笑い声が響く。ハシモトさんは、帰ろうか、と言った。
はい、と羽音はエバタの左腕を差し出した。
ハシモトさんはためらわずに、その手を握った。
羽音はエバタの右手を握る。
三人は、並んで手を繋いで歩いていく。
ハシモトさんは、今までとは人が変わったように、ちゃんと喋っていた。
反対におしゃべりなエバタは何にも言わなかったけど。
『まったく、世話が焼けるよねぇ。』
と、もしかしたら言ったかもしれない。

<了>




ブログフレンズイメージキャラクター、「羽音ちゃん」の物語です。
ちょっと幼くしすぎたかな…。
羽音ちゃんとハシモトさんの物語に仕上げました。
なぜ突然、こんな物語を仕上げたかと言うと、企画があったからです。
砂蜥蜴と空鴉の砂蜥蜴さんの企画です!
詳しくは下のリンクからどーぞ。
ブログ持ちでなくても参加できるみたいなので、興味のある方は参加してみてください。
あ、でも締め切りとかあるので、砂蜥蜴さんのブログに行ってみて下さいね~。

<リンク>
砂蜥蜴と空鴉:羽音祭のお知らせ!!
BLOG FRIENDS 編集部
ブログはじめますた:羽音ちゃんテンプレートがアップデートしましたよー

大化の改新異聞四。(最終章)

2004年12月17日 21時50分34秒 | 小説書いてみました。
これで最後です。
大化の改新異聞一。 大化の改新異聞二。 大化の改新異聞三。の続き。
一。と二。微妙に直してあります。




古人は、瞼をゆるゆると開いた。今は一体どの時間なのだろう。真っ暗で、自分の姿すら判然としない闇の中、緩慢に起き上がる。身体がみしみしと、音を立てるようにきしんだ。酷く疲れている。どうして、こんなに疲れているのだろう。まるで長い夢を見ているようだ。懐かしい、悲しい夢を見ていたような気がする。
袴が、身体を動かすたびに板のように、ぱりぱりと音を立てた。顔も何かがこびりついて乾燥しているようで、気持ちが悪い。
手や足が、冷え切っている気がする。夏であるのに、震えが止まらない。
さっきの夢のせいか。
山背大兄王の、死に顔が思い出された。
あの反乱を、鞍作は大臣就任の初仕事として見事に鎮圧したのだ。
軽皇子の指示で兵士は動かされ、あっという間に山背大兄王の軍は蹴散らされた。
山背大兄王は、燃え盛る斑鳩宮で自害したと言う。
古人は、山背大兄王の死の報せを聞いて、泣いた。
同じ少年時代を過ごした彼を、そして蘇我の血が流れる一族である彼の死を悼んだ。
そして、いくら最も天皇の位に近い皇太子と言えど、蘇我一族・本宗家の前には無力な自らを悲しんだ。
なぜこうも道が分かたれたのか。あの頃は、学堂の頃は良かった、例えその身に苦しみを抱えていても、若さがそれを押し隠していられたのだから。
そのままでいられたら、きっと「こんなこと」も起きなかったのだ。
「こんなこと」?「こんなこと」とは?
「……あ。あ、あ…。」
次の瞬間、古人は完全に覚醒した。
「は…は…ううぅ…。」
自分の意思とは勝手に、全身が震えだす。歯の根が合わなくなる。
目が、ありえないくらい見開かれる。
殺される。殺される。
「い…やだ…。助け…て…。」
涙が、頬を伝う。呼吸が出来なくなる。
鞍作。兄のように慕った鞍作が。
あの時、一人の男の太刀が一閃し、鞍作の身体を切り裂いた。
そして、中大兄皇子の槍がその身体を貫き、見えた表情が忘れられない。
苦悶の表情の中に、諦めきれない力強さがあった。
彼は、確かに権力を一手にした政治家ではあったが、少なくとも大和国のためには良質な政治家だったのだ。まだ、やるべきこともあったはずだ。
鞍作は、無数の傷を負いながら中大兄皇子の槍を、自ら引き抜き、それを杖にしてなお立っていた。鬼気迫る様子に、誰もとどめを刺せない。
鞍作の眼光、そして磁場が周囲を圧している。
大極殿には、鞍作の、男たちの荒い息遣いしか聞こえなくなっていた。
すると。
鎌足が、中大兄皇子の斜め後ろに進み出た。
「中大兄様。」
緊張に立ち尽くしていた中大兄皇子が、ハッと身じろぐ。
鎌足は、跪くとそのまま、地面に落ちた太刀を拾い上げ、捧げ持った。
「これにて、とどめを。」
震えながら、中大兄皇子は頷き太刀を手に取った。
「一豪族でありながら、権力を恣にし大和国を我が物とせんとした逆臣、蘇我入鹿!!覚悟!!」
中大兄皇子の太刀が閃いた。
次の瞬間、鞍作の首は刎ねられ遥か遠くの玉砂利の上に転がった。
「鞍作…。」
そして、古人は狂気の叫び声を上げ、油断した舎人たちを跳ね除け、走り出していた。
背後に、古人を追いかけるようにいつまでも、鎌足の哄笑が聞こえていた。

古人は再び、凄まじい叫び声を上げていた。
恐怖に引き攣った声が、自分でも止められない。髪がバラバラと顔に掛かった。
冠はどこにいったのだろう。走るうちに亡くしてしまった。
冠でも何でもいい、私を止めてくれ。
古人は、とうとう咳き込んで前につんのめる。だが、それを機に叫び声も止まった。
突然、戸が開かれた。
女官が息を切らせ、立っていた。逆光で表情が見えない。外はまだ日があった。
古人は闇から光に照らされ、自分を取り戻す。
と、同時に自分の姿がはっきりと見えた。
べったりと、血の色に染め上げられた袴。乾いて変色し、腿に張り付いている。
涙に濡れた顔をまさぐり、その手に目をやった。
「あ、」赤いものが目に入る。「や、だ、」
血が。血が血が血が。鞍作の死に顔が甦る。
血に染まった主の姿に、少なからず女官も驚愕したようだった。
だが、彼女も慌てていて自らの責務を全うすることしかこの瞬間は考えられなかった。
「古人様、」女官の声が、古人には遠くに聞こえる。
「蘇我の…蘇我蝦夷様が、自害なされました…!!」
終わりだ。
古人の目の前が真っ暗になった。
自分は、蘇我蝦夷と鞍作に後押しされていた皇太子だ。
程なく宮廷に自分の居場所は無くなるだろう。
そもそも、どうして鞍作が死ななくてはならなかったのだ。
彼は、悪い人間ではない。確かに、政敵に対する冷酷さや、政治を妨害する輩への冷酷さはあるが、鞍作が正しいのだから仕方が無いのだ。
そうか。中大兄皇子は、皇極天皇の息子だ。本来なら、第一の皇太子であるべき血筋だが、現在の蘇我氏中心の体制ではそれは叶わない。
しかも、鞍作は文字通り女帝の「寵愛」を一身に受けている。中大兄皇子は、母と大臣の良からぬ噂を苦々しく思っていたのに違いない。そして、蘇我氏の傀儡である、古人自身に対しても。
このままでいれば、程なく刺客を差し向けられ、自分は殺されるだろう。
今までは、美術や工芸品に目を向けて政治のことなど気にしないようにしてきたと言うのに、そうも言っていられない。
何か。何か手立てを立てなければ。
混乱して、何が何だか分からなくなる。
「どう、すれば、いい?」
「古人様?」
女官が怯えたように、声を掛けた。
逆光で、彼女の身体の背後が発光しているように見える。仏像の光背のようだ。
次の瞬間、古人は閃いた。
「刀を、持ってきてくれないか。」
「古人様?!」
女官の顔が蒼褪めたのが分かった。彼女の考えていることが手に取るようだ。
「心配しなくていい、」安心させるように、無理やりに笑顔を作った。
「お前の考えているようなことではない。すぐに持ってきてくれ、でないと…間に合わない。」
半信半疑なのか、少し逡巡した後、畏まりました、と女官は立ち去った。
これでいい。これなら、少なくとも命は狙われないかもしれない。
それに敵意が無いことも示すことが出来る。
顔にばらばらと掛かった髪の毛を、ゆっくりとかき上げた。
バリバリと音を立てる髪の毛が僅かに湿気を残している。
鞍作。すまない。私は、生きる。
卑怯だと、生き恥を晒すと言われても生きてやる。
だから、だから。
女官が小走りに戻ってきた。飾り紐のついた赤い鞘の太刀を布の上に載せて、古人に捧げた。
「ありがとう。」
古人の笑いに、女官は安心したのか緊張を解いた。
すらっと、太刀を鞘から抜く。夏の日の夕暮れ、最後の太陽の光が反射して目を刺す。一瞬、嫌なものが脳裏に見えたが、首を振って耐えた。
そして、左手で長いざんばらの髪を無造作に掴む。
「古人様?」
「見ていてくれ。これが終わったら、すぐに僧都をお呼びするように。」
二度とは、普通の生活には戻れないだろう。それでも。
古人は、目を閉じ一気に髪を根本から切り落とした。はらはらと、髪の切れ端が板葺きの床に広がる。女官が、口に両手を当て声にならない悲痛な叫び声を上げた。
これでいい。
「私は…出家する。鞍作も死に、蝦夷殿も自害された。ならば、私が弔わなければならないだろう。」
女官が、涙ながらに頷いた。感動を堪え切れず、何度も古人の名を呼ぶ。
だが、これは建前だ。私は死にたくないだけの、弱い男なのだ。
それでもいい。
古くからの友に、裏切られた男にはこれぐらいの復讐しか出来ない。
奴らにとって、僧となった古人は悩みの種になるに違いない。
僧には簡単に手出しを出来ないはず、だと思う。
古人にとって、生き続けることこそが復讐だった。
「…湯浴みをしたい。このように血で穢れた姿で、僧都にお会いするわけには行かない。」
「畏まりました。すぐにご用意いたします。」
さっと、女官が立ち上がると、ふわりと甘い香りがした。
ああ、あと数刻もすれば、現世とも別れねばならない。
僧は、世人とは違う生活を送らねばならぬ身だ。
古人は、ゆるゆると立ち上がり、戸の外に僅かに出た。
湿気をはらんだ暑い風が、不揃いな毛先を揺らす。
遠くの山に、赤い赤い日が沈んでいく。たなびく雲が、夕日に輝き眩しいほどだ。
例え天皇が変わろうが、この世がひっくり返ろうが、飛鳥野の夕映えはいつまでも変わりはしないのだ。きっとそうだ。
今になって何故か、晴れ晴れとした思いである。
だが、その心とは裏腹に、自然と両の頬を涙が伝う。
古人は、それを拭いもせず、一番の星が出る頃までいつまでも立ち尽くしていた。

<了>




あとがき。

書きたかったんです、古人皇子が。
情けなくも逃げ惑う彼が。

最終的に彼は十年後に、自殺とも暗殺とも取れる死に方をします。
悲劇の皇太子。

大化の改新異聞三。

2004年12月17日 21時31分42秒 | 小説書いてみました。
大化の改新異聞一。
大化の改新異聞二。の続き。
一部史実と違う箇所があります。温かい目で見てやってください。




あの頃は、本当に平和だったと古人は思う。
同じ時に学び、遊び、政治について語り合った少年の頃。
世に言う「大化の改新」が起こる十数年前のことだ。
古人を始めとする皇族の子息、有力貴族の子弟が学ぶ「学堂」は、当然のこと、蘇我本宗家である蘇我鞍作入鹿、その頃は皇后であった宝媛皇女(たからのひめみこ)こと皇極天皇の実弟・軽皇子、蘇我倉山田の総領息子・石川麻呂、そしてその末席に中臣鎌足が学んでいた。中でも、鞍作と鎌足は優秀で学堂の中でも抜きん出ていた。
古人がつるむ仲間は、殆どこの四人である。それは長じてからも、続いていた。
いや、鎌足だけは違ったか。
大体、貴族の子弟が多く集まる学堂においては、父親の地位によって自然とつるむ相手も決まってくるのだろう。しかし、鎌足だけは小豪族の出であり、明らかに他の学生とは違っていた。
実際、古人は何度も鎌足が、他の学生に陰で酷い扱いを受けているのを見たことがある。そんな時、彼はいつも頭をじっと下げてひたすら堪えていた。
その姿が、古人には嵐が過ぎ去るのを待つ小動物に見えた。
高貴な血筋を持つ古人は、それを特に止めはしなかった。
年齢が、学生の中でも低かったこともある。実際、皇太子と言えども周りの人間にしてみれば、まだまだ可愛がる対象であり、古人もそれを喜んでいたのだ。
だが、鎌足はそんな自分をどう思っていたのか。
理由はどうあれ、見て見ぬ振りをしたことは確かである。
そう言えば、鎌足を庇っていたのはいつも鞍作だった。
「そんなことをして、何になる。学業で負けて悔しいなら、もっと努力すればいいだろう。」
鞍作の言葉はいつも正しく、そして影響力も強かった。
彼の背景にある、大臣が父だという事実だけでなく、彼自身の能力なのだ。
明るく、才気に満ち若々しさに溢れた佇まいは誰をも惹きつける。
その頃すでに、皇后・宝媛皇女が鞍作に執心している、と噂が流れていた。
同級の聖徳太子のわがまま息子、山背大兄王ですら鞍作の言うことには素直に従う。
山背大兄王も、古人と同じく蘇我氏を母に持つ皇太子である。
自尊心が強く、攻撃的な性格の彼は周囲の環境のせいか、徐々に歪んでいった様に思う。おっとりとした古人とは違い、嫌なことがあるとすぐに感情を表に出す。
それが災いして、自らの不遇の扱いに耐え切れず不満を募らせていたようだ。
憂さを晴らすように、鎌足に辛く当たる。幼い頃は仲良くしていた古人のことも、心なしか避けるようになった。
古人大兄皇子、山背大兄王、中大兄皇子、彼らは時代の天皇候補である。
「大兄」とは、そのことを表す。
しかし「大兄」と呼ばれながら、そして偉大な聖徳太子の息子でありながら、推古天皇が崩御した時天皇になれなかった彼の心は、いかなるものだったのだろうか。
古人には、分からない。
だが、自分も彼のような立場になっていたのかもしれない、と思ったことはある。古人は時の大臣・蘇我蝦夷に強く後押しされた皇太子だった。
古人自身、天皇の位には特に興味はなく好きな書画や焼き物、自然を眺めていれば幸せだったのだが、第二の父として慕っていた蝦夷が言うのだからと甘んじて受けていた。今考えると、それが良くなかったのかもしれない。
それ以来、学堂ではかえって高慢に振舞うようになった山背大兄王を、理解できないまま見守っていた。鞍作はそれでも、今までと変わらないように接していたが。
そう言えば、と古人は思う。
鞍作と自分以外の仲間は、自分たちの足場に不安を持っていたものばかりではなかったろうか。軽皇子は、皇后の実弟と言うだけで、皇太子ではない。石川麻呂は蘇我の傍流だ。そして中臣鎌足。彼の家は神を祀る家系で、本来学堂には通えるはずも無い。その能力を買われたものの、その分妬みは多かったのだと思う。
隅のほうで目立たないようにして、何か言われれば、何時までも頭を下げていた。
いつも笑顔を絶やさない彼を、軽皇子は好いていたが、古人にはたまにその笑顔が怖いことがあった。周囲に媚を売りながら、淡々と隙を疑っているように見えるのだ。
ただ、その頃古人はあまり難しいことを考えないように努めていたから、それがどういう意味を持っているか追求しようとはしなかった。
鎌足の、学生時代の印象は判然としない。あんなに五人で一緒に遊んだのに、何故だろうか。彼は極力、個性と才能を隠すため、目立たぬよう行動していたに違いない。
学堂を卒業して、それぞれが宮廷で力を持ち始めた時、その思いはますます強くなった。
元々、誰に対しても丁寧語を崩さなかった鎌足だが、神祇官になってからは更に線引きがぴっしりとしたように感じられる。
丁寧すぎて、むしろ冷たく感じられるほどに鎌足は完璧だった。
その隙の無さが、昔の仲間との溝を深くしたのではないか。もう、分からない。
そんな風に日々を過ごしていたが、ある年時の天皇が崩御し葬儀が盛大に執り行われた。参列者の中で、山背大兄王がただ一人意気揚々としているように古人には見えた。
だが、そう上手くは行かないものである。
蘇我氏としては、山背大兄王に天皇になられては、後の治世がやりにくい。
性格からも、真っ先に候補から外されたのだろう。
数日後、宝媛皇女が皇極天皇として即位し、その儀式を鎌足が務めた。と、同時に鞍作も新大臣に就任したのである。その直後、とうとう痺れを切らした山背大兄王が反乱を起こしたのだった。




次で最後です。

続き。

大化の改新異聞二。

2004年12月15日 01時30分06秒 | 小説書いてみました。
大化の改新異聞一。の続き。少し長め。




血の味だ。血が。血が。
――古人様、危のうございます。
平然と告げる舎人が、二人がかりで古人の体を押さえつけ動けないようにした。
そして、血が。
初めは何が起きたか、分からなかったのだ。
古人の心は、「あの時」に返っていた。
――もう、見たくないのに。
瞬く間に赤い血が飛び散り、古人の顔に、着物に、降りかかった。
無意識に叫んでいた。
鞍作、鞍作と、まるで童子が母を求める様だっただろう。
鞍作とは、現在の大臣、蘇我鞍作入鹿(そがのくらつくりいるか)のことである。
彼は現在の皇極天皇より権力を持つと言われた、今を時めく大臣だ。
いや、大臣だった。たったの数時間前までは。
数時間前、大極殿では三韓の使者を迎える儀式を執り行っていた。
皇極天皇、蘇我鞍作を中心にして極めて恙無く進行しているはず、だった。
進行役は、神祇官である中臣連鎌足である。
大極殿には、殆どの皇族・貴族が揃って使者の来訪を出迎えるため待機していた。
折りしも、皇極天皇の実弟である軽皇子は伊勢神宮へ儀式を執り行うため不在である。
古人は、天皇の壇上に一番近い上座に座していた。
その隣には、中大兄皇子がいるはずだが珍しく参上していなかった。
大極殿の壇上には女帝が座し、玉砂利の敷かれた広い地面に家臣らがひしめいている。
遅れて大臣が儀式の場に現れたあと、蘇我家傍流の一族である蘇我倉山田石川麻呂が、三韓の使者が天皇に上奏する「上表文」を読み上げるため、前に進み出た。
慣れない大役に緊張しているのか、石川麻呂はぎくしゃくと天皇の前に進み出て、笏を懐に仕舞った。
上表文を持つ手が震えている。
「…紫雲たなびく彼処所(かしこどころ)におわします、皇極の帝に申し上げ奉ります…」
声まで震えている。古人は、気になって石川麻呂の方を見た。
額にびっしりと脂汗をかき、目は左右へと泳いでいる。
とうとう、つっかえた。
流石におかしいと思ったか、鞍作が石川麻呂に近づいてきた。
石川麻呂はそれには気付いていないようだ。
そのまま、今回の使者来訪の功労者である大臣の名前を読み上げる。
「…大臣、蘇我臣鞍作入鹿殿…!」
石川麻呂の声が、裏返った。
「どうした、石川麻呂。体でも悪いのか。」
大臣が、石川麻呂を案じた、その時だった。
「母上様、御免!!」
白い玉砂利の上に、刀鉾が閃いた。同時に女官の叫び声。
大極殿の下の柱の影から、四人ほどの男たちが飛び出してきた。
おのおの、刀を持ち、一人の人物に狙いを定めている。
そしてその中心には、槍を構えた中大兄皇子の姿があった。
「中大兄!!」
古人の叫び声が、引き金だったか、たちまち鞍作は男たちに囲まれていた。
大極殿には、武器を持って入れない。
普段、抜かりの無い鞍作も、この時ばかりは太刀を佩く訳には行かなかった。
だが幼い頃から鍛錬を欠かしたことの無い鞍作のこと、徒手空拳で立ち向かい、中大兄皇子の手首を鋭く素手で打つ。
重臣らが声を上げた。
中大兄皇子が槍を取り落とし、好機とばかりに拾い上げようとした鞍作の眼前で、信じられないことが起こった。
「鎌足…!」
顔を見上げた先には、口元を歪めて笑う中臣連鎌足の姿があった。
その足元には踏みつけられた槍。
古人はすべてを悟った。
これは、仕組まれていたのだ。中大兄皇子が、鎌足が、そして蘇我一族でありながら、鞍作を裏切った石川麻呂が。すべて鞍作を誅殺せんと、この日を計画したに違いない。
血の気の引く音が、古人の耳元で聞こえた。
どうして。私たちは古くからの友人ではなかったのか。
古人には、突然世界の色が変わってしまったかのように感じられた。
しばらく抵抗は続いたものの、数分もすると一人の男の切っ先が鞍作の身体を逆袈裟に切り裂いた。
「鞍作!鞍作!」
古人の身体を、舎人が押さえ込む。必死で抵抗したが、宮廷暮らしのひ弱な身体では太刀打ちできなかった。
「危のうございます、古人様。」
「離せ!離せェッ!!鞍作、鞍作ィ!!」
ゆっくりと、鞍作の身体が傾ぎ、高貴な紫の冠が落ちた。
髪が解け、顔にかかる。口元に血の色が見えた。
視界の隅に、石川麻呂が頭を抱え崩れ折る姿が入る。
「鞍作!」
しかし、流石に頑健な身体を持つ鞍作だった。すかさずとどめを刺そうとした中大兄皇子が繰り出した槍の柄を掴み、身体ごと押さえつけたまま、遥か壇上にいる皇極天皇の顔を拝した。だが、女帝は耐え切れないかのように鞍作の真っ直ぐな瞳から、目を逸らした。
その時古人には、鞍作の声にならない叫びが聞こえていたのだ。そして女帝の嘆きも。
最後の砦である、女帝さえからも裏切られた鞍作は、諦めたかのように中大兄皇子の刃に倒れた。
同じ蘇我の血族であり、兄のような存在であり、後見人でもあった鞍作は古人のすぐ間近で首を刎ねられて倒れた。
人の身体には、これほどまでに血潮が流れてたのかと思うくらい、凄まじい量の血が噴き出した。白い玉砂利に広がるそれは、じわじわと面積を拡げ古人の沓の先にまで迫り、ついに染みた。
古人は、ひたすら呆然としていた。
目の前に広がるのは、本当に現世の光景なのだろうか。
血に濡れた槍を構えたまま、息を切らす中大兄皇子。
羅刹の表情で鞍作の亡骸を見つめ、哂う鎌足。
未だ鬼の形相で刀を鞘に収めぬ男たち。
そして首の無い強張った鞍作の亡骸。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
怖い。怖い。怖い。
次の瞬間、古人は玉砂利を蹴って、大極殿から逃げ出していた。
皇極四年、西暦645年の夏である。




まだまだ続きます。

続き。

大化の改新異聞一。

2004年12月15日 01時25分40秒 | 小説書いてみました。
かの有名な大化の改新、海藤版。
古人皇子目線です。
ベースは宝塚で上演された物語。




死にたくない。死にたくない。死にたくない。
嫌だ。助けて。
怖い。怖い。怖い。
鉄の味が、口の中に溜まって気持ちが悪い。
ぜぇぜぇと荒ぐ息が喉を破ったのか。
呼吸が出来なくなってくる。
助けて。

ひたすら、もつれる足をばたつかせるように走る男が一人。
金糸の縫い取りが入った鳳凰の袍をまとい、高貴な色の冠を被っているが、
その姿はその辺りを駆け回る雑色のように、
髪は乱れ、帯は解け掛かっている。
しかも飛鳥野の夕映えに照らされた彼は、供の一人も連れてはいないのである。
そして、最も目を引いたであろう、袴に飛び散った赤い染み。
それはまだ生々しく、濡れた輝きを持っていた。
男は、走っている。
その目は血走り、何かに取り付かれたようだ。
その狂気の様子に、物売りの娘や、貢物を担いだ男たちですら、
素早く道をあけている。
それだけではない、男の頬にも、袴と同じ赤い染みがあったからだった。
男はそれには気付かず、鼻腔を掠める鉄の匂いも自らのものだと思っている。
足がもつれ、男は転んだ。拍子に、高貴な冠が落ちる。
髪の毛が、ばさばさと広がった。
転げるようにたちまち立ち上がり、後ろを何度も振り返りながら、また走り出した。
物売りたちが、その後姿を呆然と眺めている。
その後に、高貴な冠が残されていた。
男は何かに追われるように走り続け、ある屋敷の門番とすれ違った。
その恐怖に引き攣った顔のまま、走り去った男こそが、かの次代の天皇候補と目された人物、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)だと知れたのは、少し後のことである。

門の閂を掛けた。がしゃん、と言う音が少し、ほんの少しだけ古人の心を落ち着かせた。
転げるようにして、屋敷内に入りしっかりと隙間が無いように戸を閉めた。
隙間があってはいけない、気付かれる。殺される。
ぴったりと閉めた部屋は、真っ暗闇で、古人はやっとたった独りになった。
がくがくと体が震え、呼吸が上手く出来ない。膝の力が急に抜けて、板葺きの床にそのまま倒れこんだ。
そして、意識が遠くなっていくのを、感じていた。


続き。