NHKの週刊ブックレビューを観た
この『週刊ブックレビュー』3月で終了するらしい
とてもとても残念です
読書への啓発は必要です
本に親しむきっかけがひとつなくなってしまう・・・
今回『蜩ノ記』について葉室麟さんが登場するというので楽しみにしていた^^
葉室麟さん
新聞記者などを経て50代から作家生活に入ったということです
50歳を過ぎて・・・
先が見えてきたときに思うことは誰もが同じ思いを持つようで
今まで生きてきたこと
これから生きていくこと
書くことに今後を見出した葉室さん
これまでの経験 人との出逢い・・・
思いを書き記していく道へと・・
覚悟
テーマは
運命を受け入れ 生きる
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芥川賞受賞の田中さん・・・
まさしく『外に出ることなく』
小説一筋に打ち込んできた39歳・・・
片や新聞記者などを経て50代で作家活動を始めた葉室さん
贈呈式のスピーチに人とのかかわりかたの差が現れているということだろうか・・・
<参考>1
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120217-00000625-san-ent
“もらっといてやる”田中さん、受賞あいさつ一瞬で終了 芥川賞・直木賞贈呈式
産経新聞 2月17日(金)20時34分配信
17日、東京都内で開かれた芥川賞・直木賞の贈呈式。1月17日の受賞決定直後の会見で「(受賞を)断って、気の小さい選考委員…都知事が倒れて都政が混乱してはいけないので。都知事閣下もらっといてやる”田中さん、受賞あいさつ一瞬で終了 芥川賞・直木賞贈呈式
拡大写と都民各位のために、もらっといてやる」と発言し話題を呼んだ芥川賞受賞の田中慎弥さん(39)が何を話すか注目されたが、受賞あいさつは一瞬で終了、会場に衝撃が走った。芥川賞の円城塔さん(39)、直木賞の葉室麟さん(61)とあわせて、受賞者のあいさつを紹介する。
◇
受賞者あいさつに先だって、芥川賞選考委員の川上弘美さん、直木賞選考委員の伊集院静さんが祝辞を述べた。川上さんが作家をカメレオンに例えたことを受けて、円城さんが3人の受賞者のトップを切って受賞あいさつに臨んだ。
--それでは受賞のことばをお願いいたします。まず芥川賞の円城塔さん、お願いいたします。
「目立たないほうのカメレオンです。たいへん大きな賞をいただき光栄です。読んできてくださった方々、選考委員の方々、本づくりに関わってこられた方々にたいへん感謝しております。今後とも精進していきたいと思っております。…というとスピーチが終わってしまいます。2、3分は話せ、と言われていますので、不格好で申し訳ないのですが、紙を読み上げる形で言わせていただければと思います」
(胸元から紙を取り出す)
「芥川龍之介賞というたいへん大きな賞をいただきまして、今まで読んでいただいて喜んでいただいた方々も広がり、多くの方々から感想をいただくことができました。楽しんでいただいた方々もあり、わからない・読めないという方々もあり、本当に人間というのはいろいろなのだという実感を日々、深めております。当然、読みにくさということについては私の力不足で、今後できる限り改善していきたいと思っています」
「ただ一つ気になりますのは『前衛(的)』という評価でして、前衛、前で衛(守)ると書きますけれど、何を守っていくのかということが若干、わからない。あと、守っていく場合なのか、という実感もあります。守っているだけでなく攻めなければ、という気もします。ひるがえって私の書いているものがどんなものかと考えますと『ほとんど無害』というのが当たっているのではないかと思っております。これを『多少は有用』とかですね、『割合、有害』と言われるまで持っていくべきかどうか、最近考え始めているんですけれど、こと小説の話ですから、有用性だけを目指してもあまり意味はない。このたびこうして賞をいただきましたが、これによって私が何か賢くなったとか、人徳が増したとかいうことはないわけで、これまで通りにやっていくしかないと思っています」
「ただせっかくこうして機会を与えていただいたわけですので、何かを攻める方向へ持っていければと思っております。今ごろ何をしているのかなと、時折気にかけていただければ幸いです。このたびは本当にありがとうございました」
--ありがとうございました。続いて田中慎弥さん、受賞のことばをお願いいたします
「どうもありがとうございました」
(さっさと降壇。会場がどよめく)
--万感の思いがこめられていました。ありがとうございます。それでは直木賞の葉室麟さん、お願いいたします
「えー、私は宿命的に(あいさつの順番が)田中さんの後になりますので、だいたい(何を話すか)ある程度考えてあるんですけれど、ここに上がる瞬間にそれを全部チャラにしないといけない。非常に大変なんですけれど、めげないで頑張っていきます」
「今回、直木賞をいただいて、私はものすごくありがたかった。なぜありがたかったかというと、以前の記者会見のときも言いましたが、筑豊の記録文学作家の上野英信さんをお訪ねした、という話をできたことがありがたかった。自分の青春の思い出の中で一番大事なことが話せたのは、(受賞作が)ちょうど『蜩(ひぐらし)ノ記』だったから話すことができた、そのめぐりあわせがすごくうれしかったですね」
「僕はもう上野さんの話はもうやめようと思っていたんです。僕が上野さんにとっての何かだったということは全然なかったわけで、上野さんの名前を出すのは非常におこがましいと思いましたし。やめようかな、と思っていたんですが、さっきの田中さんの発言を聞いたら、何かやらないと仕方ないな、と決意しまして。それで、あえてもう一度話そうと思いました」
「『蜩ノ記』というのは自分が上野さんをお訪ねしたときの思い出だ、という話は以前にしたんですが、たまたま直木賞にしていただいたことで、テレビの番組でも取り上げていただいて、番組の中で上野さんの写真も使っていただいたんですね。そういう紹介ができたことは非常にうれしかったのですが、その写真は上野さんのご子息から借りられたみたいで、その方からご伝言があり『父のことを覚えてくれていてありがとう』と。『父が生きていてくれたら祝杯をあげたことだろう』というご伝言をいただいたんですね。自分は上野さんの足元にも及ばない人間ですから、とてもほめてもらえるとは思わなかった。東京である意味、マスコミにちやほやされるようなことはしないで、早く九州に帰って仕事をしろ、としかられるのではないかと思っていたのが、ご子息からそういうご伝言をいただいて、感極まったところがありました」
「私にとっては今回の直木賞はただ単に、文学賞としていただけたうれしさだけではない。自分の青春の思い出に巡り合うことができた、非常に大切な受賞になりました。本当にありがとうございました」
「で、直木賞の作品というのは本になるので、これは私一人の力ではないわけですね。校閲をしてくれた人、帯を考えてくれた人、装丁をしてくれた人、本を運んでくれた・売ってくれた人、みんなの力で本は出来上がっている。本当はこうして壇上に上がることは苦手なんですが『そういう人たちとともに壇上に立つんだ』という思いで今、ごあいさつさせていただいております。そういう人たちの代表として申し上げます。直木賞、本当にありがとうございました」
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<参考2>
上野さんのこと
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201201240352.html
朝日新聞社 記事より
受賞作、実は「土筆の物語」 直木賞・葉室麟さん寄稿
写真:直木賞を受賞した葉室麟さん=福岡亜純撮影拡大直木賞を受賞した葉室麟さん=福岡亜純撮影〈直木賞受賞作『蜩ノ記』はこちら〉
直木賞に選んでいただいた『蜩(ひぐらし)ノ記』は「土筆(つくし)の物語」でもある、と言ったら変に聞こえるだろうか。
若い武士の檀野庄三郎が、山村に幽閉され、家譜編纂(へんさん)を続けている戸田秋谷を訪ねていくところから物語は始まる。
この場面は、学生時代に上野英信さんをお訪ねした時のイメージを描いていると気づいたのは本になってからのことだ。
25年前に亡くなられた上野さんは、福岡県の筑豊にあった炭鉱で自ら労働者となり、エネルギー革命が進む中で追い詰められていく炭鉱労働者たちを追いかけ、『追われゆく坑夫たち』『地の底の笑い話』などの作品を書き続けた。いまで言えばノンフィクション作家だが、記録文学作家という方がふさわしいように思う。
できあがったばかりの『蜩ノ記』を読んでいた際、ふと、自分の人生でも尊敬するひとを訪ねた経験があると思い当たり、もつれあっていた糸がほぐれるようにさまざまな記憶がよみがえってきた。書いている時になぜ気づかなかったのだろう、と不思議だった。
上野さんの仕事に敬意を抱いていたわたしは、緊張の余りがちがちになって、筑豊文庫という名で知られるお宅を訪ねた。上野さんはやさしく迎えてくださり、焼酎と奥様の晴子さんの手料理で土筆の卵とじのもてなしを受けた。
卵の黄身に土筆の緑が鮮やかで、「土筆ですね」と言うと、上野さんは「きょう、あなたが来られるというので、近くの土手で摘んできたんだよ」と応じられた。その言葉を聞いて、涙が出そうになった。
若いだけで、いまだ何者でもないわたしをもてなすために土筆を摘んでくださる姿が脳裏に浮かんだ。その時、古めかしくて大仰な言い方だが、「かくありたい」と心の底から思った。土筆はわたしの生きていく指針になった。
わたしの胸の内では、秋谷が幽閉されている村を囲む山は筑豊のボタ山であり、武士に抗して不穏な相談をする農民たちは、炭鉱争議の最中にいる労働者たちのイメージがあったように思う。農民の子源吉は親を助けて懸命に働く炭鉱労働者の子だ。そして何より、山村で藩の歴史を書いている秋谷は上野さんそのものだ。
危険が待つかもしれない場所に秋谷が出向くとき、庄三郎は同行を申し出る。なぜ危ない真似(まね)をするのだ、と訊(き)く秋谷に、庄三郎は、なぜだかわからないがそうしたいのだ、と答える。
書いていた時には秋谷のそばにいるだけで庄三郎はどうしてこれほど浮き立つような思いを抱けるのかよくわからなかった。しかし、いまになってみればわかる。
わたしがそうしたかったのだ。
上野さんの背を追って生きたかった。だから「土筆の物語」を書いたのだと思う。
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