ただでさえ年末で忙しいというこの時期に
追い討ちをかけるかのような話が持ち上がった。
会社の移転である。
移転場所は神保町。
義母の会社があるビルのワンフロアである。
うちの会社では、義母の会社からの仕事が約5割を占めている。
当然、仕事となれば営業マンや編集者が
神保町と西巣鴨を行ったり来たりするわけだ。
もちろんネットが発達した今は、大抵のことはメールで済むのだが
それでも入稿や最終校正はそうはいかない。
「西巣鴨」という場所は、意外に不便である。
最寄りの駅は、三田線の「西巣鴨」駅のみ。
一番近いJRは、埼京線の「板橋」駅で、歩いて15分くらい。
そもそもオフィス街と言うわけでもないし、学生の街でもない。
旨いメシ屋が少なく、本屋も文房具屋も遠い。
下町の雰囲気は嫌いではないが、仕事の効率という点では
余り適している町とは言いにくい。
話…というより噂と言うか、「希望」レベルでの話で
義母の会社のビルへの移転話は以前からあったのだが
部屋の空きがなかったため、ずっと見送りとなっていた。
それに以前は、まだ大きなイメージセッターという出力機が
畳6帖分ほどの広さを占領していたことも、引越しの出来ない理由だった。
昨年の末に、出力機をはじめ、スキャナーや青焼き機といった
機能の割に無駄にデカイものを処分し、会社自体は身軽になった。
そこに、このたび義母の会社のビルの7階に空きができたわけだ。
広さは今の会社の5分の2程度だが、真四角なスペースなので
極めて使い勝手はよさそうである。
今の仕事場は、トイレのスペースが円形だったり、
変なところに柱があったりと、モダンと言えば聞こえはいいが
とにかくデッドスペースが多く、使い勝手が悪い。
「神保町に引っ越すことに決めたから」
例によって例のごとく、ニョウボが言う。
それが10日ほど前、すでに12月になんなんとする頃。
「ふ~ん。で、いつ?」
「年内に引っ越して、年明けから営業」
「ええ~~~?!」
昔なら「ああそう」くらいで済んだかもしれないが
コンピュータが仕事のすべてである昨今、
ネット環境を整えるのは尋常な作業ではない。
荷物を配置して「ハイ、終わり」では済まないのである。
しかも今の仕事場は、ほとんどの配線は床下を通っているから
まず机等のレイアウトをきっちりと決めた上で
配線図を起こし、床下を通して初めて机などを配置していく。
電源からコンセントを引っ張って、床がコードだらけで
迂闊に椅子も動かせないなんてことは無いようになっている。
机やロッカーのサイズを測り、部屋のレイアウトを決めるのだが
そこは机上の計算だから、必ずと言っていいほど
「ここには机が入るはずだが…」なんて事が起こってくる。
電話番号も変わる。取引銀行も変わる。名刺も作り直さなければならない。
便利になったことの代償は意外に大きく、その分不便なことも多い。
部屋の見取り図は届いたが、実際に部屋を見ておかないと
感覚がつかめないということで、ビルの管理から許可をもらって
ニョウボと、制作のチーフと一緒に下調べに出かけた。
部屋はまさに「真四角」で、余計場出っ張りもなく
今の会社と比べると確かに狭いが、使い勝手はよさそうである。
しかも配線は、床下を通るタイプではないので
今の仕事場ほど、移動が厄介ということはなさそうだ。
さて、ここで問題。
「タバコはどこで吸うの?」
今の会社は完全禁煙で、非常階段の踊り場が喫煙所だ。
おかげでタバコの本数は減ったが、夏は暑く、冬は寒い。
雨の降る日などは雫がしたたり落ちてきて、情けないことこの上なし。
それでも、同じフロアだから、トイレに行くような感覚で
ドアを開ければいいだけであった。
しかし近いが故に、電話が鳴れば呼び出され、来客があれば戻されて
そのたびにまだ長いタバコをもみ消さなければならない。
休憩の本来の目的である「憩う」事ができない。くつろげないのだ。
「喫煙所は8階だから」
早速行ってみた。
階段を上がり、廊下を歩いて一番隅っこ。
ガラス戸で仕切られて、壁の色が明らかに変わった10帖ほどの部屋。
部屋に入ると、ムッとするようなタバコの匂い。
スモーカーのオレでさえ、一瞬顔をしかめたくなるような
不健康の極みのような小部屋だ。
部屋の真ん中と、窓際に灰皿がポツンと置かれ、椅子すらない。
喫煙者には極めて優しくない場所だ。
エアコンがあるのがせめてもの救いか。
「こりゃぁ、また本数が減りますね」
同行した同じくスモーカーのチーフが、苦笑いで呟く。
「仕事にならんな、こりゃ。タバコを止めろってことかな…」
もちろん、マイナス面ばかりではない。
当然だが、いちいち行ったり来たりしないで済む分仕事の効率は上がる。
何よりも「神保町」だ。
例えば人を募集するにも「千代田区」のほうが圧倒的に有利だ。
「北区」というより「千代田区」のほうが聞こえがいい。
会社としてのステータスも上がるような気がする。
もちろん「本の街」だから、本屋も多い。
今の会社の近くだと、ちょっと専門的な本を買おうと思うと
池袋まで出なければならない。
そして一番嬉しいのは…
はい。ご想像の通り、旨いラーメン屋が多いのである。
なに、ラーメン屋ばかりではない。
昼人口が多いから、旨いものを喰わせる店が多いのである。
喫煙所から見える夜景を眺めながら、紫煙を吐き出し
静かにほくそ笑む喰いしん坊…
年末の中、クソ忙しさの合間を縫って引越し作業。
その地獄の先にあるのは天国か、はたまた地獄か…
嗚呼…無明長夜もかくばかり…
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