あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

村上春樹「ノルウェーの森」を読んで

2005-11-30 22:30:10 | 村上春樹
ところで、「ノルウェーの森」を読み直してみた。読み出したら止まらなくなった。

この本は多分20年近く前に読んだはずで、そのときの印象がずっと尾を引きずっていて、今の自分の村上春樹に対する批判的な言い方に繋がっているという気がしていたけど、今回読み直してみて衝撃を受けた。記憶のイメージとはずいぶん違って思っていたよりずっと重い内容に受け取れた。自分は果たして本当にこれを読んでいたのかと疑うほどだ。表現法の違いもあるが、カフカに感じるような浮き足立ったと感じられる表現がほとんどなく、しっくりと根ざしている。
「直子は僕を愛してさえいなかったのだ」という理由が、どこをどう解釈すれば出てくるのかよく解せないのだが、キズキの死と向かい合うことから逃れられない、逃れたくない、そこでなぜかワタナベに一度だけでも反応してしまった自分の体が真の絶頂に達したのを認めざるを得ない。しかし認められない、許せない。ワタナベを認めながらもこの矛盾に激しく苦しみながら自ら命を絶った? 病魔というのはしかし、理屈を超えて個人を呪縛し死へと導いていくものだろうから、何故という理由は分からないまま、余韻を受け止めるしかないかと思ったりもする。
ただ、重くリアルにしっかり書き込まれているのに驚く反面、やっぱり自分がこれまで書いてきたような違和感というのもはっきり感じられた。
突撃隊、永沢さん、緑やレイコさんも、実在感がありながら、どこか戯画的なキャラと自分は感じた。カフカなどの作品に見られるメタファー的な村上作品世界を彷彿とさせるようなキャラ。強調して象徴的に描き出す、その手法が控えめだが自然に出ているような気がした。そして皆、有能である。突撃隊ぐらいなもので、あとはみんな能力者だ。やっぱり無能な人間はうまく描けないのだろう。緑の父の描写だけは、口もろくにきけない寝たきり病人であるせいか、よく描けていた感じがしたが、その他の下劣なことには背景がなく単に下劣なこととして吐き捨てられている。この辺が自分としては他の作品と同様ここでも一面的に感じるところだ。
そして、この作品にも一貫しているセックスに対する障壁のなさというか自由さは、この人特有という感じがした。特に20年も前にネット時代でもないその頃にこれだけの奔放さというのは、当時の一般の読者の多くは驚いて、普通の気持ちで読みつなぐことが難しかったと思う。
この作品を流れる沈着で重いムードをじっくりと受け止めて読み進めていく中で、何度も登場する性的な場面の描写がいかにも唐突な感じを受けるのは自分だけではないと思う。死や病魔と隣り合わせの恐ろしくデリケートで微妙な間柄の男女が、ごく普通の会話の中でいきなり、誰と寝た、何人と寝た、マスターベーションをしたという話になり、すぐに手でしてくれただの舐めてくれただのという。この辺のあまりのすんなりが奇異な感じがする。
さらにワタナベ君に限っては、言い方をかえれば、あらゆる女にたかられてうんざりするぐらいモテる。それで一度も呆れられたりがっかりされたりしない、他のことがうまく運ばないのにその点だけは一貫して奇跡のように順風だ。ここまで来ると、嫌味に感じる(というか村上作品の主人公はいつもこのパターンだから、ということもある)。こんなにもてる人間がなぜこれほどの精神性を持つことができるのだろう。生まれもっての高貴の人か? それにしても均衡の取れた人間なら、いざその場面となれば肉体性と精神性の葛藤があってしかるべきではないか。
他のことはすべてひどく客観的に描けるのに、その線だけはやけに一様だ。精神的にきちんと通じ合えば、あとは互いに自然にご開帳。押しとどめるものはなにひとつない。そしてそれが互いの真の理解というものだ。というようである。こういう場合むしろ普通は、話は通じたがいいがその後が難しい。愛すればこそ躊躇する。たとえば、顔が良くても毛脛があれば恥ずかしい、立派でなければためらわれる。コンプレックスのあり方が様々な形で前に出てこよう。そして何より理由もなく罪を感じる意識というのがちらりとでもないものだろうか、この人は恐ろしく繊細なのにこの分野だけは特別なのか得意なのか、無邪気にのめり込んでいる感じがする。ギラギラしていないのも特徴で(ギラギラであっはん、うっふんになってしまうのだったら、まだ許せるかも)、まるでその場面になると童心に帰るような雰囲気があるのもまた不思議。大人の現実や精神性が急に後退して、無垢な子供にいつの間にかなりかわって無邪気に交わるみたいな感じもある。これがまた不自然だ。
もう一方、意図的に強調しているのかという疑いもある。こちらの文学のどちらかといえばためらわれる禁欲的な流れを意識して、強いて呪縛を解いて日常的な感覚の中にそういうものを入れて、なんでもないものとし、それを超えた問題の方に視線を持っていこうという態度なのか。コンプレックスが土台の文学はもう古い、ぶざまだからやめて一歩先に進もう、という態度なのか。また翻訳にしても売れるための方策だろうか、計算上ある面アメリカばりをなぞらえる必要があったのか。これがないと日本のものは刺激が薄すぎると受けをねらってのことだろうか。
恋愛ものとはいえ、単なる美談に終わらせないためにしっかりセックスを語らないときれいごとになりすぎるということなのだろうか。もろににマスターベーションと言わないと。しかし直子との草原での接触や最後のレイコとのシーンまで来ると、さすがにげっそりする。レイコとまでやるのかよ!
「ノルウェーの森」はキズキや直子の死をめぐっての様々なことがらが、誇張なく本当によくぞ丹念に描けていて感心するところが多かった。しかし同時にセックスのフリーさが奇妙な矢のようにぐさっと全体を貫いて刺さっている、その違和感がどうにも大きくてやりきれないと感じる人は多いだろう。これはどうかな、ではなくこれはイカン!だと見切りをつける人も。これをポルノ小説という人がいるわけである。
性的な分野に関する限り、村上春樹には文学性というより特異性(得意性でもいい)を感じるばかりだ。この点ばっかり気にする自分がおかしいのかもしれないが、愛が主題なのだから、この点を気にしないわけにはいかない。この小説はリアルな描き方をしているという前提で見ると、こういう男女の性のありかたを非常に不自然と感じ、魅力を感じないのである。こういうふうに「する」男女ははっきり言って変だ。好きとか嫌い以前に奇妙な感じがする。何度もいうように他の点ではすごい作品と思うのだが。

中間的な位置で考えること

2005-11-30 22:28:21 | Weblog

村上春樹のことを何度も語ってきたが、ろくに読みもしないでというところがあり、それは怠慢ともいい加減とも言われるだろうが、自分の場合今まで記してきたような事情で、あくまで一般読者的ななあなあの線で感じられること、考えられることの重要さを意識せざるを得ないので、色々足りない中でおそらくは偏見も含めてものいうことを許してもらいたい気持ちがある。いくら学のある人がそういったって普通はこんな風に見ちゃうよ、という線が大事だと思うので、あまり無理したり時間のあるときに調子に乗ってのめりこみ過ぎたりというのが、ちと怖いのだ。自分流のバランス感覚でいうと、あっちの人にならないようにという意識が肝心だということがある。
もちろん、余りある時間があるわけでない、また素晴らしい頭があるわけでないだから、あっちの人になりようがないということになるのかもしれないが…。ま、とにかく、あまりいさぎよい態度とはいえないものの、ここでもちこたえるのも(自分で考えなければならないので)なかなか苦しいものであることは確かなので許されたい。
そして、こうして書かれたものは多く間違っているとしても、文学など興味のない一般の人よりもう少し突っ込んだところ、そして知識人といえるような立派な人たちの意外に気がつかないところに盲点を探り出していくかもしれないと思う。いわば中間的であるけれど、それゆえ要になる問題を少しばかり浮き彫りにできるかもしれない。そこまで立派でなくても、素人がない頭で考えるとこうだよといういい見本にはなるかもしれない、と思うのである。なるほどこんなふうに無知な人間は受け取るのか、という。
ただ、年齢的なもの、地方の人間という育ちの色がかなりはっきり出ることは免れ得ないだろう。でも今の社会を見ると、自分は田舎者という偏りがあるのがこういう場合いちばんの取り得かもしれないなどと、勝手にいやマジメに考えている。ともあれ完璧さとは程遠い場所であることだけは確かである。
ここは提起的な場所とわきまえる。しかし、それもわずかな目立たない片隅でしかない。淋しいことだが…。


村上春樹を読んだりして 田舎の不在

2005-11-28 20:07:25 | 村上春樹
ブログを見て回ってみると、村上春樹擁護派ばかりで形勢が悪いと感じる。
でも、なにも自分だってむげに何もかも反対というわけではない。作家としての態度に節操がある。作品自体も変に刺激的で誤解されやすいような内容でなく、気安く近寄れないような雰囲気を持っていると思う。その点、有名な芥川賞やその他の賞をとっているような作家でも、安易な言動で、自分らの作品自体の意味はともかくとして、やっていることの影響ということがほとんど見えていないような人も自分の知るだけで何人もいる。
その前に作品も少ししか読んでいないし、自分の側の能力で推し量れるような人物とは思っていない。普通なら語る資格なしというところだろう。ただ、数少ない接触の中でも自分にはっきり見えた部分があって、それがすごく気になるということなのだ。ささいなようでいて実は重大なこと。才能として圧倒的で世界に誇れると語られる人だけに、ほとんどカリスマ的権威になろうという勢いだけに、自分としては恥ずかしながら片隅から言っておきたいと思うのだ。
世の中にはさえないことをありあわせで延々と続けているような人たちがいて、ダサくて見栄えも悪いし、なにもはっきりしないが、それでも世界の下支えをやっているのは多くこういう人たちなのであり、そうやって土や畑や林と取っ組んでいる地方の人間がいなかったら都会もないのだということ。そしてそういう世界の辺境(これは村上さんのいう辺境とは全く意味が違うが)にいるような人たちのいかに黙々と多いことか。
ぼろぞうきんのようなそういう人たちがやっていることは、それこそ知的な都会人には堪えられないような地味で辛抱のいる仕事だ。このぼろぞうきんは想像力でおぎなえるようなしろものではない。知的な努力では近寄れない場所。そして肉体的な鍛錬や操作によって呼び寄せられるような領域でもない。残念ながら。
だから、これを直に描けなければ、せめてこういうものの欠落感を描けばいいのだ。近づき得ない意識を出せばいいのだ。のりの利いたワイシャツを喜ぶ代わりに、もらいもののジャンバーをいにしえにして離さない臭うおじさんを描いたっておかしくない。
社会や人生のこうした面をちっとも描かない、描けない、これがひどく物足りない。村上春樹クラスとしたら、大いなる欠落として感じられてしまうのだ。
自分は作品にはその人間の生きてきた経験がほぼ正直に反映されるものと思うので、エリートクラスの階段を上がった苦労の軌跡をもつ人間には無理な注文と思う。どっちにしてもどうやっても欠落はあるとして、今何が欠落してはならないのか、バランス的に考えてみることが必要ではないか。
都会の人間が都会のことを語るのはいいが、それは大勢がすでにやっていることだ。しかし、そればかりでは世界を描き出せない。都会の人間が田舎のことを直接語るのが無理としても、都会のことを語るのに田舎を背景に感じる。こういう幅の広さがないと話にならない。その点では昔の文人は都会育ちでさえ田舎の雰囲気を自然に持っていた。まあ、ものに不自由するような生活環境で、世界が今に比べれば見渡しやすかった時代ではあるが。
村上春樹はしかし、単純に都会の人間というのでもないだろう。なにかもう自分の経験が溶け込んだ肉体から心を澄ますと自然と物語が出てくる、というようだ。これは確かに自然かもしれないし素晴らしいのかもしれないが、こうなると抽出の条件として作家的隠遁生活を前提とする形になり、そして都会も田舎もない、生活の匂いがなくなってくると、だんだん作品が浮世離れしてくる。これもまた危険ではないか。文学が純度を増すかもしれないが、それを読んで感動する心で生活に帰れなくなる。作家はそれでいい、書いて食うのだから。だが一般の人はそういうわけにはいかないのである。ということでそういう作品は芸術品だとしても文学でないし、社会的にはたたえるべき価値や意味がないのではないか。むしろ危ういものとして置かれるべきなのだ。
なんだか図式的になってきてしまったが、内容が伴っていないだろうか。

村上春樹を読んだりして 堕ちた文学

2005-11-18 23:25:51 | Weblog

村上春樹や内田樹などに対する意見みたいなことを書いてきたのですが、実際の有名な文芸批評家はどんなことを書いているのか、たまたま機会があったのでちらっと読んでみた。ほんのちらっと。
そこで驚いたのはまず自分の書いていたような問題と同じような線が感じられたこと、いわば文学の社会性について言及するというような…。しかしさらに驚いたのは、自分の考えていたようなことはすでに問題になっておらず? もっと先にすべてが進んでいるという風な論調であることだった。な~んだそうなんだ…こういう偉い人たちが考えていないわけはないよな、と少しがっかりし、自分がまるでアホに思えた一瞬。
でももう一方、やはり自分がこのブログに書いてきたような問題がそのままそこにあるのをすぐに感じた。つまり、やはりこの人達も専門家であるということ、そして専門家であることを自覚している仕方もまた、専門家特有のものであるということだ。
自分の場合、昨年ぐらいからまた本を読み始めたが、わけあって長いことほとんど読むことを避けていたこと。また系統的に本を読むような習慣もなければその前にその手立てさえなかった自分からすれば、今まで村上春樹をだしにして書いてきたような文学の問題点はまさしく素人らしい見方というもので、勉強もしていないし、訓練されていないできの悪い頭から出た発想で、素朴といえば素朴、幼稚といえば幼稚な考えなのかもしれない。しかし、どうだろう、自分の考えが遅れていて幼稚であるとしても、一般読者はどうなのだろう。程度としては同じようなものではないだろうか? いや、問題意識という面では自分よりもっと素朴な人も多いはずだ。
で、何を言いたいのかというと、この批評家が語っているような進んだ?(サブカルチャー的)状況に今の文学があるがあるらしいということが、なんだかそうした気配は感じられていたとしても、あえてはっきり言われてみると実に「意外だ」と感じられた、ということがひとつある。つまり、社会性を問題にするにしても我々は漠然と平凡な日常を生きている感覚から考えるわけだが、それがそれぞれ個人でどんな個別な境遇の枠にはまった考えをしていて共通するところはあいまいだ(先生方のいうとおり)、しかし、文学的に深く系統的な知識がないという点では共通している、つまり無知な側はこの多様な社会においてもある程度ひとかたまりの無知さを共有しているということ。そしてこちら側からすると、専門家の先生のいうおそらく文学の正当的道筋から派生した?今の文学の方向性というものについてあたりまえに言われているようなことが、けっこう、意外に感じられるということです。そして文学に興味の無い人たちにとって見ればそんな、まさか? というぐらい恐ろしく意外で、とっぴおしもないものに感じるだろうということ。
そう、聞けば自分などは、なるほどそういうわけだったのかとは思いつつ、なぜかピンと来ない。なんでそういう方向性になって(決まって)しまったの? それで多くの作家達もおなじような意識を大なり小なり持ってそういう方向性に沿って書いているとしたらそれも意外だ。なんだか自分らの全く知らないところで勝手に決められた密約があって、だしぬかれていたような感じがある。なにしろ、文学というもののイメージは教わった限りでは模範的で見習うべき方向性を危ういなりとも持っているという意識は、相変わらず最も一般的なものだろうし、普通に生活していて毎日ニュースを見ているような感覚からすると、知らぬ間に一般道から随分違う道筋に行ってしまっている、あれれ?という感じなのだ。
それもどこにもはっきりしたあるいは親切なヒントがなく合図も見えなかった。きっと文学的な道筋から行くとそれなりの必然性があって今の文学があるのだろうが、それはそれの道で、一般庶民は全く知らない。おかしいぐらい何にも知らないのではないか。ムードだけは感じていたとしても、そういう考えにはっきり結びつくようなことはなかったはずだ。
こう考えると、先生方、作家達は、文学上でぎりぎりの戦いをして現在の思潮を築き上げてきたとしても、それはまったく我々無知人をおきざりにして独走しているということがいえるのではないか。
同じ社会に生きる人間として常に横に周りに意識しながら先生方はやっているつもりかもしれないが、先生方が語っているのは現代というようなものではなく、専門的に積み上げた知識や知恵の結果としてとらえれらた現代であり、我々無知人が生きて(意識されている)いる本当の現代ではない。
先生方は現代はひとつのイメージやひとつのかたまりとしてもはやとらえられない複雑な実体で、文学もだから社会的に主導するような価値観を提示できずバラバラにサブカルチャーとしてバラバラな道筋を取らざるを得ない。というような? ことをいっているが、我々無知人は今やおたくっぽく多様に個性化し細分化しているとしても、文学的無知人としては一様にそんな風な問題意識で今の文学が成り立っているなど思いもよらない。また、それぞれがばらばらであって孤独だと感じてもぼんやりとであり、どこかに偉い人達がいて、まともな導きの手が生きているはずだというふうな意識を漠然とであっても持っていることと思う。それは周りを見てみればあまりにもはっきり自明なことだ。
実はこういうだらしないのが本当の現在であって、サブカルチャーに隠れている深刻な問題意識が現代なのは知識人の側にいえるだけで、眺められている方にそんな意識はない。そしていつまでたってもまともにそんな意識に到達することはありえない。そして当然、すべての人をひっくるめて現在はこうだという判断は知識人の言い方だと一面的過ぎる。
だとすれば、知識人側の問題は独走していることにあるだけでなく、社会的にもう文学が価値観を主導できないなどといいながらも、文学の看板を高い位置からおとすという努力をしてから無知人に提示することをしないで、相変わらず文学の名のものとに自分達側だけの了解でその存在意義を保てるサブカル本を、何も知らない庶民に向けて文学だ、これが現在だといって節操もなく平気でばらまく、その点でも問題意識のなさである(例えば○○文学賞の類は、すべて我々からすると文化的権威そのものに見える)。
結局、文学だ現代だといいながら、主導し得ないといいながら、まさに自分らが提示した問題点に自らひっかかっている。つまり、そうやって無意識なところでむしろ社会を主導してしまっている。そこまでいわなくても若い人たちを中心に強く影響を与える根本的なきっかけになっているのではないか。庶民にとって訳のわからないそして過激なものを文学の名の下にどんどん送りつけて、わからない庶民にそうしたムードを作り出すことを意図せずやってしまっている。そしてその眺めをほらそうだろうと喜んでさえいるように見える。これが現代だ、といって。
これは我々庶民が先生方の考えが分からないのと同様のことが先生方を襲っている。庶民を知らないゆえに、知らないからこそできる行動で、いわば暴挙にも近い。めちゃくちゃということだ。庶民はバカでめちゃくちゃやっている、それは先生方も同様で、むしろお手本をきちんと提示できないので、めちゃくちゃに加担しているといっていい。文学の側から節操もなく放った光が乱反射して、世の中をいっそう複雑にしている。現状をいうならこれが現状で、どちらもひどいのは一緒だと思う。子供に火遊びの道具をくれてやるのが文学みたいになっている一面があり、そちらのほうが本来の提示したはずの内容よりも庶民を動かしていたりする。
自分は前から、ちらっと表に見える最近の文学の奇態ぶり、あまりにも無模範的な内容が気になってしかたなかったが、どれだけの深慮が文学の側にあるのかはかれなかったので何とも言えなかったが、今回その原因が少し分かった気がする。全く期待はずれで、できれば文学の内容に沿った現代の問題に現実的に引きずり込まれることを期待したが、この状態では自分は文学の内容に立ち入っていくのは意味なく、文学外のところで考えなければならないのは仕方ないと思う。いいわけでなく…。
専門家は必要、しかしつなぎ役は素人、そして文学はどちらかといえばつなぎ役の素人のやることであったはずではなかったのか。そのものの深い意味という道もあろうが、社会的にどんなかたちでも有為にはたらかなければ、文学といえないのではないだろうか。
専門の側に個別の側に文学があるなら、威容のある文学の名前を取れといいたい。そして個別には「深い特殊な穴につき関係者以外立ち入り危険」と但し書きの看板をたてることだ。そう、文学の側が今いちばん使命とすべきことは、(皮肉なことだが)まず文学は昔のように模範でなく、お手本でもないということを分かりやすく説明することではないか。
もちろん自分にはひとっからげ分かったつもりはないし、文学にも色々な様態が存在し、表に出ていないだけで尊敬に値する立派な方々も多数存在すると思う(村上春樹もまだ立派な方かもしれない)。でも文学が社会的に低落していることだけは確かで、それでなお文化的に上からふりかかろうという態度だけは変わっていない。そのことについて庶民に分かることばで反省的に言える人たちがいないのかと思う。ミイラ取りがミイラというのが今の文学の状況のような気がしてしょうがない。

途中、理路混乱してますが…気持ちを汲んで下さいな。


 


内田樹がいい

2005-11-14 20:14:10 | Weblog

内田樹は昨年末ごろ偶然にネット上でブログを目にしたところから興味を持ち、著書も何冊か読ませてもらった。長い間文学不信みたいな症状があってほとんど全く本は読まなかったのだが、内田樹はまさに目からうろこ、だった。といっても内田さんについて論じられるような頭は自分にはない。でも少しだけ内田樹について語ってみたい。

内田樹は本当に分かりやすい。というか難しいことを自分の言葉で分かりやすく噛み砕いて話してくれる。内田樹の文章を読んでいると哲学とか文学とかが何も特別なことでなくごく自然に感じられ考えられることとして浮き出てくる。この人の解釈は完全に自分のものになっているので、借りてきたようなことばがなく語りが生きて自在な感じがする。
しかも、この人のすごいのは聞く側の気持ちが分かっているかのように省略すべきは大胆にし、念を入れるところは丁寧におさらいまでしてくれる。隠したりちらつかせたりといういやらしさがなく、こうだよこうだよといってどんどん分解して内容を明らかにしてくれる。かゆいところを知っているのだ。要するに相手も見えているということなのだろう。また愛情があって惜しまず与えたい人なのだろう。
さらに気取らない日常的な会話のノリを持って、節回しの調子も良くぐいぐい進んでいく。すごいパワーがあるし、周りをぐるぐる見回しながら話しているように視野が狭くならない。まったく感心するのは、難解な事象を扱いながら常に日常と血を通わせていくことを自然に心得ていることで、なにげない平凡な時間にスッと悟りを入れてくるような手際の鮮やかさがある。
普通は学者でも作家でもこのように頭で考えることと日常を生きることが分かちがたく流通しているだろうかと思う。しかも、大学教授という肩書きだが、生徒には兄貴のように接し優しいながらもびしびしと締めて、いつでもことの核心に迫っていこうとする態度にぶれがない。
さらにすごいのは武道をやることである。それも半端でなく学業に対するのと同じ求道的な態度で行く。いや内田樹においては武道も学問もバランス上不可分でどちらもどちらのために無くてはかなわないものになっている。自分はこの身体技能?を深める道をとっていることが、内田樹の知を潤沢で生き生きとして、幅広く通じる、世間にも通じる風通しのよいものにしている大きな要因と思う。
頭で考えることはともすれば手足から離れ、そうした感覚の偏りが世間からも生活からも思考を離してしまう。自分もそんな風に感じる。内田樹はそういう意味でも達人だ。だから内田さんの書くことには生活の匂いもすれば、世間のうやむや、背丈の低さまで入っている。おやじギャクもいえば、おいおい泣いたりもする。映画の批評もし、漫画も読み、麻雀を楽しみ、料理が得意なのにカップラーメンも好物。こうしたことが身振りでない、作為がない。達人である一方どこか迂闊という愛嬌もある。
それらでしかしなしくずしになることはなく、礼節は保っている。中庸ということも知っている。先生方によく見られるおたく的偏狭さというものとは無縁だ。常に均衡を取っている。そして努力を惜しまない人だ。
内田樹は(能力の差は考えないことにしてもらって!)自分とは違うタイプの人間だと思う。だからもちろん何もかも賛成というわけはない。また最近ちょっと有名になりすぎてきたのが気になる。でも、自分がこれまで懐疑的に書いてきたようなことが内田樹においてはすべてほとんど問題にならないと思う。なにしろバランス感覚に優れた人だと思う。
内田樹は村上春樹のファンを自認しているし、ミーハーなところも(演出か?)多すぎる気がするが、どっちにむけても現在最も模範的な人物のひとり(あとは知らないが)だと自分は思う。この人だけは世間のほうにもしっかり向いているし、構えもできている。かといって後ろがおろそかになることもない。過去のタメをしっかり持って、軽やかに現在に着地している。そしておそらく覚悟ができている。ひょうきんでちょっとそわそわしていて、意外にがさつなところもあるのも魅力のうちで、実に姿がいいと思う。内田樹は都会人だが、キザな人種ではないのである。
こういう時代だからこそ最も必要とされている人が内田樹だと自分は思う。ただあまりに有名人になってしまうのは問題といえばそうかもしれない。
自分の学生時代に内田樹のような先生がいたら人生変わっていたかもと思わせる人である。

もし知らないようでしたら、「内田樹の研究室」というブログを読んでみることをお勧めします。
過去の記事の方がなお面白いかも。


村上春樹を読んで 最も根本的な問題

2005-11-14 19:31:38 | 村上春樹

村上春樹について何度も記しているが、別になんの恨みがあるわけではないし、おそらく自分の知らない部分で自分の想像を超える巨人のような人なのかもしれない。知識人の方々からすれば、自分の言うようなことはたわごとに過ぎず、一顧だにする価値も無い。だからほっとけ、馬鹿馬鹿しいで終わりなのだろう。そもそもがしっかり作品を読み込んでいないし、自分の思い込みや勝手な推論でどんどん押して行ってとんでもないところで訳も分からない勘違いを叫んでいる。やくざな野郎だ。そんな風にいわれるのかもしれない。
確かにこうして慣れない文章をつないでみると、どんどん線で繋がっていくようで、なんだか最初に感じていたのより厚みの無い表現になって、なにか大事なものをいっぱい取りこぼしている。そんな感じがぬぐい得ない。そもそも考えることも、書くこともタメがない、辛抱が足りない…。確かにそうかもしれない。
しかし、ないないずくしでいうなら、そういう自分の努力が足りないという前に時間がないのだ。我々しがない庶民にとってはこうして書く時間は限られた短いこま切れの時間であるのが普通で、じっくり考え出したら自分の頭の悪いせいもあるだろうが、相応のまとまった落ち着ける時間というものが必要で、同じく落ち着ける空間、その他干渉の無い条件が必要なのだ。これは自分にとってばかりでなく、多くの人たちにとっての普通の現実であろう。だからこの現実上においてじっくりを要求されても前回書いたことと同様、我々庶民には無理ということがある。怠慢という前に無理なのだ。集中できるだけの数時間を都合することがなかなかかなわない。たとえ何かはできても、それを持続することはまずほとんど無理だ。
ところがどうだろう、多くの難かしい文学がそうであるように、村上さんの作品だって、われわれに非現実的な「じっくり}を要求していないだろうか。それに対してじっくり対応できないのを分かりつつ、書き散らかさずにいられなくなって、どんどん書く。足りないのは分かっている、分かっていながらこれでいいのだというところははっきりある。なぜなら準備立ててじっくりできない。それが現実だから。都合できないのが現実なのだから。そして多くの人にとっても(考え方は全然違うだろうが)おそらくこんなものだ。
言い訳であると同時に言い訳ではない。この状態においてそそくさと頭を悩まし、そそくさと思っていること思いついたことを、そそくさと書き散らかす。そんなもんが・・・しかし、これが普通の状態なのだ。無理して準備立てて周到にやろうとすると、途中で挫折するに決まっている。
何を言いたいのか自分でも分からなくなってしまいそうだが、要するに才能があるないとかバカとか利巧とか言う前に、何かそもそも最初からずれていると思うのだ。ひどく、恐ろしいほどずれている。
作家の人たちはもともと才能があるところに長い時間切磋琢磨し勉強して、そして報われて作家という有名人になり、特別な身分になった。それで飯を食っている。だから仕事自体が考えること書くこと創造することになっている。それでそういう生活から集約されてできあがった念の入った作品を自分らは読む。しかし、遠い。あまりにも遠い、いや遠くなってしまったといえばいいのか。
つまり、作家先生の境遇というものがあまりに我々庶民的な境遇と違うので、作品として結晶したものが何を語ろうが、それは必然、作家の境遇が、状況における状態も含めて生み出したもので、むしろ純度が高ければそれだけ必然的に我々と疎遠の内実となって実るはずだ。積み上げの高さも考えの深さもテンポも全然我々のレベルでない、それが我々にまともに響くはずが無い。それが例えどんなに優れたもの?であろうとも、我々にとって、そしてだから当然今の社会にとっても、理解できないばかりでなく取り入れられない、使えない、つまりは無用のものともなってしまっている・・・のではないだろうか。おかしな話だが、それが事実ではないか。
昔はまだよかった、作家は今のようなステータスがなかっただろうし、情報は行き届かず、全般に不便な時代で、自然にも近く、考えも単純で知識の積み上げも浅かったろう。しかしその分地べたに近く、読む側にも親しかった。今ほど複雑で人工的でない社会にもきちんと作用する部分はあったかもしれない。
ところが今では、作家は顔の知れた有名人であり、名誉なきちんとした職業であり、身分以上の特権階級に近い。いくらすばらしい才能が努力を重ねたとしても、かえってそれゆえに固めてしまうところの、特別なわくにはまったところから、この下界に向けてしっかり響き渡るような創造がなし得ようがないはずである。
そこで、なぜか誰も取り上げない素朴といえば素朴な疑問。

なぜ作家の人は筆でだけ食うことを選ぶのか?
(これは特殊業であり、仕事が書くこと考えることなのだから、時間に不自由することはない。またほぼ孤独な単独の作業である。一方、様々な人々の間で忙しく判断し手足をはたらく一般業の感覚からはぐっと遠のく。対極にある現場のようなものだ。)
なぜマスコミに不用意に顔を出したりするのか?
なぜ名を伏せないのか?
(有名人であり特別な人としてどこにいってももてはやされるだけでなく、街中でも普通の行動は取れない。いつでも特別ルームのお偉いさんになってしまう。わざわざ普通の生活感覚を締め出しているようなものだ。お偉い有名人であるのはいい気分なのだろうが。)
なぜ、一部でも庶民と足並みを揃える必要を感じないのか?  
(一般社会の中で人並みの経験なくして、想像力で補えるものではない。視線を無理してでもその辺に置こうとする努力もなければ社会を理解することができず、よって文学的に世界など語ることはできっこない。)
そのように考える頭だけはないのか? 
その辺で痛む良心はないのか? 
(考えないとすると、相当にイカレていると思う。あっちの人みたいなものだ。
分かっていて甘んじるのはやはりずるい。ここを突かれないのをいいことにこの問題に向き合おうとしないのは、おかしい。深遠な問題の前にこういう卑近な問題に当たらないのは大いなる矛盾ではないか。)
作家の不誠実・・・。○○賞を取って有名になったところから間違いが始まる、と自分などは思ってしまう。
別にキミたちには簡単に分からないはずから不用意に読むのはよしなさい、我々は専門家だから、というお断りがあれば問題はない。また学者や大衆作家はそれでもいいと思う。でも、孤独に(スポンサー付だが)山を攻めて、はるかなる頂に立ったとして、それは立派かもしれないが、すでに下界は雲の下、霞んで見える遠景ということにならないだろうか? 文学の名を語るならその辺の厳しい自覚が必要なのではないだろうか。

同じような内容を前にも記したと思うが、この点についてはもうちょっと言わせてもらいたい気がする。


村上春樹を読んで その7

2005-11-12 21:34:30 | 村上春樹

村上春樹はインターネットを通じて読者と交流の場を作っているらしく、本にもなっていたので参考に少し読んでみた。

読者と交流の窓口を持つのは素晴らしい試みだと思う。だけど、読者の反応を嬉しいと言いながら、おもわせぶりなみたいなことばを時々漏らすだけで、泳がせておくような態度。読者の方は答えを知りたいが村上さんは自分にも分からないなどという。村上さんにもそれなりに思うところがあってやっているのだろうが、読者とは本人が考えるよりもっと弛緩した結びつきになっているのではないかと思う。
分からないが気になる、気にする、それで読者は何度も作品を読み、いろいろ考えているうちに成長していく。そんな部分はあるかもしれない。しかし、その前にそのムードでいいのだ、満足だというところに落ち着いて、その理由も無いところに居心地のよさを見出して、むしろ問うべきものを問わず地道な積み重ねをやめてフィーリングの麻薬にはまる。むしろ成長とは逆の方角を向いているのではないか。
それは読者の態度を見れば分かる。村上作品を読んで疑問を深めて胸をかきむしっているような場面に遭遇することは非常に少ない。多くはうっとりとしてふわふわした言葉を吐いて満足している。満足したようなつもりになっている。しかし、村上作品ができあがるにはそれこそ血のにじむような努力の積み上げがあったはずではないのか。
村上さんのこういう読者に対する態度を見ていると、そこにどんな深慮があるつもりかしらないが、こんなイージーな対応でいいのか。お前らは勉強が足りないでも、それは絶対に間違い勘違いだとでもはっきり言うべきときは言えばいい。とくになまくらに対してなまくらで返すような態度はなんだろうと思う。そしてここでも、作品世界同様なかなかスマートな姿を見せてくれるので、何かここにはとんでもない無理解や勘違いがあるのではないかと疑ってしまう。村上さんの作品に自分が感じるような片輪な反面がこういうところにはっきり露呈してしまっていて、それが悪い歯車をつないでいるように見える。村上さんの作品の魔力の正体はすべてとはいわないが、一部、実は村上さんの弱いところと若者の弱いところの融和的といえるぐらいの絶妙な結びつきによるものなのではないか。
そう、村上さんのファンという読者のどれだけが文学的な素養を持って対しているだろう。自分は最近興味を持ってあちこちのブログやその他の情報からファンの態度を見たり読んだりしてきたが、ほとんどがふわふわして印象的な感想に終始し、またそれで満足していると見えた。普通ではこういうことはありえないのだが、村上さんの独特の文体は理屈を跳ね除けてどうにでも自由に受け止めてかまわない、結論も求めないということなので、読者は自分に対しても無理解を認めることがなく、理由無しに自由勝手な思い込みのみで作品と付き合い続けることができる。普通ではありえないことである。
そしてその世界に酔い、認め、付き合いを持続してことを喜ぶ読者は、そこで自分などには知れない世界のある一面にしっかり触れて、つまり貴重な文学体験をしているのかもしれない、しかし、一方自分の感じているような村上作品によって決して触れられていないような世界の反面を持続的に反故にし、クールで小奇麗が好きなこだわりで閉じられたような人格を形作っていくことを躊躇しない。そんな気がする。最近の若者に見られる異常なキレイ好き、体面に対する異常なこだわり、さえないもの地道なものに対する異常な無関心、こういうものと通じる。頭はさえてかっこいいが、気に入らなければ切るのは躊躇しない。残酷なぐらいの無意識。こういうものとも通じている気がする。
自分はこういう方向へのあまりに無自覚な歩みを若者がしていくのが恐ろしく感じる。別に村上さんのせいというわけではないが、こちら側からはどこか妙に息が合って見えるのである。

なんか(つじつまが合いすぎて)変だな?


村上春樹を読んで その6

2005-11-12 16:14:04 | 村上春樹

村上春樹の小説にはシャツなどの衣類や身装具のカタカナ名の銘柄まで出して、身支度を整えるようなシーンがよく出てくる。

ひげを剃って洗いざらしのシャツを着て、ぐらいなら分かるが、自分には小奇麗なブランド物(高価というわけではない)の既製品を身につけて満足するような感覚はよく分からない。身だしなみに限らずこういう種類のこだわりが随所に見られるが、その辺も違和感があるところで、かりにも文学的といわれるような感性がそういうところに小さな喜びを見出していることを強調し、しかも繰り返し描写する必要を感じるものだろうか。

こんなのはどちらかといえばつまらないもの、取るに足らないもので、そういうことをささやかに喜ぶとしても、そんな自分を同時にちょっと惨めに感じる、という部分がなぜ少しも描かれないのかと思う。

身だしなみは大事といえば大事だ。自分にとっても相手にとっても。しかし、バリッとしたブランド物のシャツに身にまとったときの、気持ちのよさと裏腹に小奇麗にできあがりすぎているものを着せられているような居心地の悪さはどうだ。すべて目の見えないところからきていて、何かをあてにしている、それが手に取るように想像がつくものではないのだ。非常に複雑で長い工程を経て流通していることは分かるが、具体的には何も訳がわからない。そんなものが、手元にある。こんなに念入りにかっちりと作り上げられているのがなんだか自分の中身に親しまない。そんな感じがしないだろうか。クラフトマンシップというものもあるが、それは今では贅沢品となっていてやはり庶民には親しみがあるものじゃない。

何にしても他に依存していることは免れえない。しかし、こういう具合に念の入りすぎたものにまるで自然のもののように対し、自分のものとして身につけ悦に入る。こういう感覚は、本質的でないと思う。どこまでいっても気持ちよくないものではないか。自分が読みでは村上さんの作品ではこういう場面はささやかながら気持ちよいものとして描かれている。そして村上さんの好きな多くの読者はたしかにこういう場面をも気に入っているのだ。そこに喜びを見出している。

自分はまたこういう場面や道具立てを小粋と感じない。むしろキザったらしく、似非っぽく感じる。そこには未熟な若造か、どこかいい気な大人がいる感じがする。こういう感覚は自然と切れている。都会の人間には普通にこういう感覚があるのだろうか?・・・。


村上春樹を読んで考えたこと その5

2005-11-08 21:02:45 | 村上春樹

村上作品は何故か非常に人気があるのは確かみたいだが、そこに生産的といえるような触れ合いが果たしてあるのだろうか。
読者の多くは、説明できないがなんとなく心を惹かれる、ショックを受けた、魅力的だ、というような感想をもらしている。こういうことばがすべて深いところから?出ているのだとしても、同時にそれはゆるいところへ結びついていないか。ムード重視で、その場的で、あとくされもないかわりになんのステップにもならない、日本人に特有のあいまいで感覚的なところにうまく取り入っているのではないか。おそらく知識人には自分にも分からないよう難しい部分で評価されている。しかし、無知な人たちはまったく無防備にやられてしまう。それで何が悪いかということはよく分からない。

ただ、若い人に見られる、瞬間感覚的な、ムード重視でふわふわしたもの、こういう性向をむしろ助長し、腰砕けに加担しているのがこういう文学の働きのひとつだとすれば、あまり積極的な意味や地位を与えて賞賛するべきものではない。社会的に価値のありそうな位置に置くべきものではないのではないか。

とらえられるかられないかは別として、見るにはしっかり見る、判断するところははっきり判断し、反省的に進んでいく、これは生きていくうえですごく重要なことだと思う。しかし村上作品を読み進めるうちに、理由なんて要らない、分からなくてもいいものはいいという具合に、懐疑的であったり反省的であったりという態度を取りにくくなってくる。なにしろ心は奪われても? こちらからなにもはっきりさせることが不可能という気にさせられる。現実生活ではあらゆる場面ではっきりした判断や決断を迫られるのに、ここにあるのはフィーリングしかない。

このパターンに慣れてしまうと、謎解きをする気がしなくなる。謎は謎でいい。いいからいい。それで終わりだ。作者自体も自分でも分からないといっているのだから、なおさらだ。無意識と無意識が理性の届かないところで深い有機的な交流をして何か新しいものを生成している、素晴らしいことだ・・・。そう信じればいいのだろうか?
作家も作品も数あれば、様々なかたちがあって当然だし、どんなパターンだって視点を変えてみれば評価すべき点が出てくると思う。なにしろこの複雑多様化した社会なのだから。しかし、村上さんの作品の位置づけは特別なものとなっていて、及ぼす影響も一種の社会現象のように格段に大きいものとなっていると思う。でも、だれもこうした疑問を投げかけることがない。いや投げかけているのかもしれないが、自分には聞こえてこない。

自分は無知だし、相当にバカでもある。でも、無知なりにこのように考えることが根本的におかしいのだろうかと思ってしまうのである。
自分にはよく分からない。


村上春樹の小説の女性像

2005-11-08 18:27:44 | 村上春樹

また登場する女性について。

暗い過去の絵に描いたようないきさつがある。いかにもというような傷はある。頭脳的ともいえるような悩みがある。そしてAかBかどちらかという算数の問題みたいにはっきりとした問答を展開していく(肝心の意味が良く分からないところがあるが)。そして答えが○だとどんどん相手に接近していくとか、そんなふう。相手方もそれにきっちり反応していく。

それにしてもあまりにぬけめがなくスマートなのだ(あるいはユニーク)。暗さにじくじくしたところがなく頭の問題のようで妙に観念的に感じられる。おそらく女性との関係にしても抽出されたような象徴的な表現になっていて、自分のようにリアルかどうかを土台にして見るのは的外れなのかもしれないが、どちらにしても人物の陰影というのは、そんな取ってつけたようにスマートであったりくっきりしたものではないはずである。

つまらないような肉体上のささいな欠点を気にするとか、ちょっとしたことで意味も無く取り乱すとか、その場の弾みでちょっと隙が出るとか、過去のいきさつも話にするのはずかしいほどローカルであったり・・・また本当は、精神的に優れた女性なら初めから高い思念の問題だけで生きているようなきっぱりした体裁は無く、逆に当然意識されるはずの育ちの違いという深い溝を最初は感じて戸惑うのが当然だろう。他人であれば、また男と女であればなお、どのみち動揺が先にあるのが本質的で、そういうものを飛び越えてクールな男女関係を描いて、セックスまで行く。こういうのを読者はどうやって受け止めたらいいのか。

村上さんの描く女性を魅力的だとかセクシーだとかいう感覚は自分にはさっぱり理解できない。そしてこういう表現によってなにを表したいのだろう。なにを言いたいのだろう。神話がベースか何か分からないが自分にはなんの教訓も得られる気がしないし、ちっとも魅力的に感じられない。どういう意図があろうが血が通っていないのは死に体ではないか。吐息が感じられないような女性になんの魅力があろうか。

不幸で美人でキッパリとした女性ばかり前に出さないで、たまにはブスでうじうじして間延びしているが可愛いというような女性像を取り入れてもらいたいものだ。たまにでいいから。