あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

村上春樹を読んで その6

2005-11-12 16:14:04 | 村上春樹

村上春樹の小説にはシャツなどの衣類や身装具のカタカナ名の銘柄まで出して、身支度を整えるようなシーンがよく出てくる。

ひげを剃って洗いざらしのシャツを着て、ぐらいなら分かるが、自分には小奇麗なブランド物(高価というわけではない)の既製品を身につけて満足するような感覚はよく分からない。身だしなみに限らずこういう種類のこだわりが随所に見られるが、その辺も違和感があるところで、かりにも文学的といわれるような感性がそういうところに小さな喜びを見出していることを強調し、しかも繰り返し描写する必要を感じるものだろうか。

こんなのはどちらかといえばつまらないもの、取るに足らないもので、そういうことをささやかに喜ぶとしても、そんな自分を同時にちょっと惨めに感じる、という部分がなぜ少しも描かれないのかと思う。

身だしなみは大事といえば大事だ。自分にとっても相手にとっても。しかし、バリッとしたブランド物のシャツに身にまとったときの、気持ちのよさと裏腹に小奇麗にできあがりすぎているものを着せられているような居心地の悪さはどうだ。すべて目の見えないところからきていて、何かをあてにしている、それが手に取るように想像がつくものではないのだ。非常に複雑で長い工程を経て流通していることは分かるが、具体的には何も訳がわからない。そんなものが、手元にある。こんなに念入りにかっちりと作り上げられているのがなんだか自分の中身に親しまない。そんな感じがしないだろうか。クラフトマンシップというものもあるが、それは今では贅沢品となっていてやはり庶民には親しみがあるものじゃない。

何にしても他に依存していることは免れえない。しかし、こういう具合に念の入りすぎたものにまるで自然のもののように対し、自分のものとして身につけ悦に入る。こういう感覚は、本質的でないと思う。どこまでいっても気持ちよくないものではないか。自分が読みでは村上さんの作品ではこういう場面はささやかながら気持ちよいものとして描かれている。そして村上さんの好きな多くの読者はたしかにこういう場面をも気に入っているのだ。そこに喜びを見出している。

自分はまたこういう場面や道具立てを小粋と感じない。むしろキザったらしく、似非っぽく感じる。そこには未熟な若造か、どこかいい気な大人がいる感じがする。こういう感覚は自然と切れている。都会の人間には普通にこういう感覚があるのだろうか?・・・。


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