あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

内田樹がいい

2005-11-14 20:14:10 | Weblog

内田樹は昨年末ごろ偶然にネット上でブログを目にしたところから興味を持ち、著書も何冊か読ませてもらった。長い間文学不信みたいな症状があってほとんど全く本は読まなかったのだが、内田樹はまさに目からうろこ、だった。といっても内田さんについて論じられるような頭は自分にはない。でも少しだけ内田樹について語ってみたい。

内田樹は本当に分かりやすい。というか難しいことを自分の言葉で分かりやすく噛み砕いて話してくれる。内田樹の文章を読んでいると哲学とか文学とかが何も特別なことでなくごく自然に感じられ考えられることとして浮き出てくる。この人の解釈は完全に自分のものになっているので、借りてきたようなことばがなく語りが生きて自在な感じがする。
しかも、この人のすごいのは聞く側の気持ちが分かっているかのように省略すべきは大胆にし、念を入れるところは丁寧におさらいまでしてくれる。隠したりちらつかせたりといういやらしさがなく、こうだよこうだよといってどんどん分解して内容を明らかにしてくれる。かゆいところを知っているのだ。要するに相手も見えているということなのだろう。また愛情があって惜しまず与えたい人なのだろう。
さらに気取らない日常的な会話のノリを持って、節回しの調子も良くぐいぐい進んでいく。すごいパワーがあるし、周りをぐるぐる見回しながら話しているように視野が狭くならない。まったく感心するのは、難解な事象を扱いながら常に日常と血を通わせていくことを自然に心得ていることで、なにげない平凡な時間にスッと悟りを入れてくるような手際の鮮やかさがある。
普通は学者でも作家でもこのように頭で考えることと日常を生きることが分かちがたく流通しているだろうかと思う。しかも、大学教授という肩書きだが、生徒には兄貴のように接し優しいながらもびしびしと締めて、いつでもことの核心に迫っていこうとする態度にぶれがない。
さらにすごいのは武道をやることである。それも半端でなく学業に対するのと同じ求道的な態度で行く。いや内田樹においては武道も学問もバランス上不可分でどちらもどちらのために無くてはかなわないものになっている。自分はこの身体技能?を深める道をとっていることが、内田樹の知を潤沢で生き生きとして、幅広く通じる、世間にも通じる風通しのよいものにしている大きな要因と思う。
頭で考えることはともすれば手足から離れ、そうした感覚の偏りが世間からも生活からも思考を離してしまう。自分もそんな風に感じる。内田樹はそういう意味でも達人だ。だから内田さんの書くことには生活の匂いもすれば、世間のうやむや、背丈の低さまで入っている。おやじギャクもいえば、おいおい泣いたりもする。映画の批評もし、漫画も読み、麻雀を楽しみ、料理が得意なのにカップラーメンも好物。こうしたことが身振りでない、作為がない。達人である一方どこか迂闊という愛嬌もある。
それらでしかしなしくずしになることはなく、礼節は保っている。中庸ということも知っている。先生方によく見られるおたく的偏狭さというものとは無縁だ。常に均衡を取っている。そして努力を惜しまない人だ。
内田樹は(能力の差は考えないことにしてもらって!)自分とは違うタイプの人間だと思う。だからもちろん何もかも賛成というわけはない。また最近ちょっと有名になりすぎてきたのが気になる。でも、自分がこれまで懐疑的に書いてきたようなことが内田樹においてはすべてほとんど問題にならないと思う。なにしろバランス感覚に優れた人だと思う。
内田樹は村上春樹のファンを自認しているし、ミーハーなところも(演出か?)多すぎる気がするが、どっちにむけても現在最も模範的な人物のひとり(あとは知らないが)だと自分は思う。この人だけは世間のほうにもしっかり向いているし、構えもできている。かといって後ろがおろそかになることもない。過去のタメをしっかり持って、軽やかに現在に着地している。そしておそらく覚悟ができている。ひょうきんでちょっとそわそわしていて、意外にがさつなところもあるのも魅力のうちで、実に姿がいいと思う。内田樹は都会人だが、キザな人種ではないのである。
こういう時代だからこそ最も必要とされている人が内田樹だと自分は思う。ただあまりに有名人になってしまうのは問題といえばそうかもしれない。
自分の学生時代に内田樹のような先生がいたら人生変わっていたかもと思わせる人である。

もし知らないようでしたら、「内田樹の研究室」というブログを読んでみることをお勧めします。
過去の記事の方がなお面白いかも。


村上春樹を読んで 最も根本的な問題

2005-11-14 19:31:38 | 村上春樹

村上春樹について何度も記しているが、別になんの恨みがあるわけではないし、おそらく自分の知らない部分で自分の想像を超える巨人のような人なのかもしれない。知識人の方々からすれば、自分の言うようなことはたわごとに過ぎず、一顧だにする価値も無い。だからほっとけ、馬鹿馬鹿しいで終わりなのだろう。そもそもがしっかり作品を読み込んでいないし、自分の思い込みや勝手な推論でどんどん押して行ってとんでもないところで訳も分からない勘違いを叫んでいる。やくざな野郎だ。そんな風にいわれるのかもしれない。
確かにこうして慣れない文章をつないでみると、どんどん線で繋がっていくようで、なんだか最初に感じていたのより厚みの無い表現になって、なにか大事なものをいっぱい取りこぼしている。そんな感じがぬぐい得ない。そもそも考えることも、書くこともタメがない、辛抱が足りない…。確かにそうかもしれない。
しかし、ないないずくしでいうなら、そういう自分の努力が足りないという前に時間がないのだ。我々しがない庶民にとってはこうして書く時間は限られた短いこま切れの時間であるのが普通で、じっくり考え出したら自分の頭の悪いせいもあるだろうが、相応のまとまった落ち着ける時間というものが必要で、同じく落ち着ける空間、その他干渉の無い条件が必要なのだ。これは自分にとってばかりでなく、多くの人たちにとっての普通の現実であろう。だからこの現実上においてじっくりを要求されても前回書いたことと同様、我々庶民には無理ということがある。怠慢という前に無理なのだ。集中できるだけの数時間を都合することがなかなかかなわない。たとえ何かはできても、それを持続することはまずほとんど無理だ。
ところがどうだろう、多くの難かしい文学がそうであるように、村上さんの作品だって、われわれに非現実的な「じっくり}を要求していないだろうか。それに対してじっくり対応できないのを分かりつつ、書き散らかさずにいられなくなって、どんどん書く。足りないのは分かっている、分かっていながらこれでいいのだというところははっきりある。なぜなら準備立ててじっくりできない。それが現実だから。都合できないのが現実なのだから。そして多くの人にとっても(考え方は全然違うだろうが)おそらくこんなものだ。
言い訳であると同時に言い訳ではない。この状態においてそそくさと頭を悩まし、そそくさと思っていること思いついたことを、そそくさと書き散らかす。そんなもんが・・・しかし、これが普通の状態なのだ。無理して準備立てて周到にやろうとすると、途中で挫折するに決まっている。
何を言いたいのか自分でも分からなくなってしまいそうだが、要するに才能があるないとかバカとか利巧とか言う前に、何かそもそも最初からずれていると思うのだ。ひどく、恐ろしいほどずれている。
作家の人たちはもともと才能があるところに長い時間切磋琢磨し勉強して、そして報われて作家という有名人になり、特別な身分になった。それで飯を食っている。だから仕事自体が考えること書くこと創造することになっている。それでそういう生活から集約されてできあがった念の入った作品を自分らは読む。しかし、遠い。あまりにも遠い、いや遠くなってしまったといえばいいのか。
つまり、作家先生の境遇というものがあまりに我々庶民的な境遇と違うので、作品として結晶したものが何を語ろうが、それは必然、作家の境遇が、状況における状態も含めて生み出したもので、むしろ純度が高ければそれだけ必然的に我々と疎遠の内実となって実るはずだ。積み上げの高さも考えの深さもテンポも全然我々のレベルでない、それが我々にまともに響くはずが無い。それが例えどんなに優れたもの?であろうとも、我々にとって、そしてだから当然今の社会にとっても、理解できないばかりでなく取り入れられない、使えない、つまりは無用のものともなってしまっている・・・のではないだろうか。おかしな話だが、それが事実ではないか。
昔はまだよかった、作家は今のようなステータスがなかっただろうし、情報は行き届かず、全般に不便な時代で、自然にも近く、考えも単純で知識の積み上げも浅かったろう。しかしその分地べたに近く、読む側にも親しかった。今ほど複雑で人工的でない社会にもきちんと作用する部分はあったかもしれない。
ところが今では、作家は顔の知れた有名人であり、名誉なきちんとした職業であり、身分以上の特権階級に近い。いくらすばらしい才能が努力を重ねたとしても、かえってそれゆえに固めてしまうところの、特別なわくにはまったところから、この下界に向けてしっかり響き渡るような創造がなし得ようがないはずである。
そこで、なぜか誰も取り上げない素朴といえば素朴な疑問。

なぜ作家の人は筆でだけ食うことを選ぶのか?
(これは特殊業であり、仕事が書くこと考えることなのだから、時間に不自由することはない。またほぼ孤独な単独の作業である。一方、様々な人々の間で忙しく判断し手足をはたらく一般業の感覚からはぐっと遠のく。対極にある現場のようなものだ。)
なぜマスコミに不用意に顔を出したりするのか?
なぜ名を伏せないのか?
(有名人であり特別な人としてどこにいってももてはやされるだけでなく、街中でも普通の行動は取れない。いつでも特別ルームのお偉いさんになってしまう。わざわざ普通の生活感覚を締め出しているようなものだ。お偉い有名人であるのはいい気分なのだろうが。)
なぜ、一部でも庶民と足並みを揃える必要を感じないのか?  
(一般社会の中で人並みの経験なくして、想像力で補えるものではない。視線を無理してでもその辺に置こうとする努力もなければ社会を理解することができず、よって文学的に世界など語ることはできっこない。)
そのように考える頭だけはないのか? 
その辺で痛む良心はないのか? 
(考えないとすると、相当にイカレていると思う。あっちの人みたいなものだ。
分かっていて甘んじるのはやはりずるい。ここを突かれないのをいいことにこの問題に向き合おうとしないのは、おかしい。深遠な問題の前にこういう卑近な問題に当たらないのは大いなる矛盾ではないか。)
作家の不誠実・・・。○○賞を取って有名になったところから間違いが始まる、と自分などは思ってしまう。
別にキミたちには簡単に分からないはずから不用意に読むのはよしなさい、我々は専門家だから、というお断りがあれば問題はない。また学者や大衆作家はそれでもいいと思う。でも、孤独に(スポンサー付だが)山を攻めて、はるかなる頂に立ったとして、それは立派かもしれないが、すでに下界は雲の下、霞んで見える遠景ということにならないだろうか? 文学の名を語るならその辺の厳しい自覚が必要なのではないだろうか。

同じような内容を前にも記したと思うが、この点についてはもうちょっと言わせてもらいたい気がする。