あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

村上春樹を読んで その7

2005-11-12 21:34:30 | 村上春樹

村上春樹はインターネットを通じて読者と交流の場を作っているらしく、本にもなっていたので参考に少し読んでみた。

読者と交流の窓口を持つのは素晴らしい試みだと思う。だけど、読者の反応を嬉しいと言いながら、おもわせぶりなみたいなことばを時々漏らすだけで、泳がせておくような態度。読者の方は答えを知りたいが村上さんは自分にも分からないなどという。村上さんにもそれなりに思うところがあってやっているのだろうが、読者とは本人が考えるよりもっと弛緩した結びつきになっているのではないかと思う。
分からないが気になる、気にする、それで読者は何度も作品を読み、いろいろ考えているうちに成長していく。そんな部分はあるかもしれない。しかし、その前にそのムードでいいのだ、満足だというところに落ち着いて、その理由も無いところに居心地のよさを見出して、むしろ問うべきものを問わず地道な積み重ねをやめてフィーリングの麻薬にはまる。むしろ成長とは逆の方角を向いているのではないか。
それは読者の態度を見れば分かる。村上作品を読んで疑問を深めて胸をかきむしっているような場面に遭遇することは非常に少ない。多くはうっとりとしてふわふわした言葉を吐いて満足している。満足したようなつもりになっている。しかし、村上作品ができあがるにはそれこそ血のにじむような努力の積み上げがあったはずではないのか。
村上さんのこういう読者に対する態度を見ていると、そこにどんな深慮があるつもりかしらないが、こんなイージーな対応でいいのか。お前らは勉強が足りないでも、それは絶対に間違い勘違いだとでもはっきり言うべきときは言えばいい。とくになまくらに対してなまくらで返すような態度はなんだろうと思う。そしてここでも、作品世界同様なかなかスマートな姿を見せてくれるので、何かここにはとんでもない無理解や勘違いがあるのではないかと疑ってしまう。村上さんの作品に自分が感じるような片輪な反面がこういうところにはっきり露呈してしまっていて、それが悪い歯車をつないでいるように見える。村上さんの作品の魔力の正体はすべてとはいわないが、一部、実は村上さんの弱いところと若者の弱いところの融和的といえるぐらいの絶妙な結びつきによるものなのではないか。
そう、村上さんのファンという読者のどれだけが文学的な素養を持って対しているだろう。自分は最近興味を持ってあちこちのブログやその他の情報からファンの態度を見たり読んだりしてきたが、ほとんどがふわふわして印象的な感想に終始し、またそれで満足していると見えた。普通ではこういうことはありえないのだが、村上さんの独特の文体は理屈を跳ね除けてどうにでも自由に受け止めてかまわない、結論も求めないということなので、読者は自分に対しても無理解を認めることがなく、理由無しに自由勝手な思い込みのみで作品と付き合い続けることができる。普通ではありえないことである。
そしてその世界に酔い、認め、付き合いを持続してことを喜ぶ読者は、そこで自分などには知れない世界のある一面にしっかり触れて、つまり貴重な文学体験をしているのかもしれない、しかし、一方自分の感じているような村上作品によって決して触れられていないような世界の反面を持続的に反故にし、クールで小奇麗が好きなこだわりで閉じられたような人格を形作っていくことを躊躇しない。そんな気がする。最近の若者に見られる異常なキレイ好き、体面に対する異常なこだわり、さえないもの地道なものに対する異常な無関心、こういうものと通じる。頭はさえてかっこいいが、気に入らなければ切るのは躊躇しない。残酷なぐらいの無意識。こういうものとも通じている気がする。
自分はこういう方向へのあまりに無自覚な歩みを若者がしていくのが恐ろしく感じる。別に村上さんのせいというわけではないが、こちら側からはどこか妙に息が合って見えるのである。

なんか(つじつまが合いすぎて)変だな?


村上春樹を読んで その6

2005-11-12 16:14:04 | 村上春樹

村上春樹の小説にはシャツなどの衣類や身装具のカタカナ名の銘柄まで出して、身支度を整えるようなシーンがよく出てくる。

ひげを剃って洗いざらしのシャツを着て、ぐらいなら分かるが、自分には小奇麗なブランド物(高価というわけではない)の既製品を身につけて満足するような感覚はよく分からない。身だしなみに限らずこういう種類のこだわりが随所に見られるが、その辺も違和感があるところで、かりにも文学的といわれるような感性がそういうところに小さな喜びを見出していることを強調し、しかも繰り返し描写する必要を感じるものだろうか。

こんなのはどちらかといえばつまらないもの、取るに足らないもので、そういうことをささやかに喜ぶとしても、そんな自分を同時にちょっと惨めに感じる、という部分がなぜ少しも描かれないのかと思う。

身だしなみは大事といえば大事だ。自分にとっても相手にとっても。しかし、バリッとしたブランド物のシャツに身にまとったときの、気持ちのよさと裏腹に小奇麗にできあがりすぎているものを着せられているような居心地の悪さはどうだ。すべて目の見えないところからきていて、何かをあてにしている、それが手に取るように想像がつくものではないのだ。非常に複雑で長い工程を経て流通していることは分かるが、具体的には何も訳がわからない。そんなものが、手元にある。こんなに念入りにかっちりと作り上げられているのがなんだか自分の中身に親しまない。そんな感じがしないだろうか。クラフトマンシップというものもあるが、それは今では贅沢品となっていてやはり庶民には親しみがあるものじゃない。

何にしても他に依存していることは免れえない。しかし、こういう具合に念の入りすぎたものにまるで自然のもののように対し、自分のものとして身につけ悦に入る。こういう感覚は、本質的でないと思う。どこまでいっても気持ちよくないものではないか。自分が読みでは村上さんの作品ではこういう場面はささやかながら気持ちよいものとして描かれている。そして村上さんの好きな多くの読者はたしかにこういう場面をも気に入っているのだ。そこに喜びを見出している。

自分はまたこういう場面や道具立てを小粋と感じない。むしろキザったらしく、似非っぽく感じる。そこには未熟な若造か、どこかいい気な大人がいる感じがする。こういう感覚は自然と切れている。都会の人間には普通にこういう感覚があるのだろうか?・・・。