あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

子供達をとりまく現在の環境

2005-12-27 20:32:52 | Weblog

マンガの話にも関連するが、自分の子供の身の周りのことなどを考えてみると、また気が重くなる。
自分が居を構えているここは、田舎で自然環境に恵まれた土地柄でもある。しかしご存知の通り最近は子供狙いの物騒な事件が頻発しているので、田舎だからといって油断はできない。いやこの辺でも変質者が何度か出没しているので、他人事でなくなった。自分としては子供には外で思い切り遊んでもらいたいのだが、うちの場合、娘が二人なので、ほおっては置けないのだ。
それで学校から帰ってきても家の中にばかりいる。部屋の中にはテレビにビデオにファミコン、パソコン(これは子供のものではない)、雑誌やコミック本、おもちゃやぬいぐるみも、いつの間にか捨てるほど山になっている。上の娘は中学生になってケータイを手放さず、ファッション雑誌とマンガに夢中だ。部屋は明るく冷暖房がきいていて居心地もいい。それで、帰ってくると今日はどれにしようかと品定めに迷うだけで、家の外に出ることなど考えもしない。遊びの次には宿題、勉強。塾にも隔日で通う(おっと部活もやっている)。遅い時間に風呂に入り、シャンプーしてドライヤーがけをするともう12時というのが普通で、いくら注意してもなおらない。勉強が忙しいからといわれると確かにそのようなので説得力がない。下の娘も真似したがるばかり。
こういうと親がだらしないように見えるかもしれないが、ここみたいな田舎でもこうした環境は普通であり、むしろ自分のところなど品揃えとしては質素なほうだ。すべてにおいてうるさく言う方。最低限のところでなどといいながら、実体はこんなものなのだ。この状態から品数を減らすと友達とアイテムを共有できなくなる。すると、多分話が通じなくなり、乗り遅れ、おそらく仲間はずれにされるようになる、で、隙をみせようならいじめにも遭おう。親の主義で子供を縛りすぎて子供にかえって負担をかけてしまっている例も見ている。そういう親の気持ちも分からないではないが、子供は子供でこの社会に適応して生きていかなければならない。情けない話だが実情はそのようで、こういう時代の趨勢である以上ある程度周りに同化して、ある程度ほったらかしで見守っていくしかないかなと思っている。
しかし、子供はこういう環境でも外見上は破綻なく育っていくかもしれないとしても、こんなことでいいのかという疑問が自分にはいつもあり、それが割合はっきりした形を取っている。それはこうした環境の中では子供の物事へのかかわり方がほとんど2次的であるというようなこと。つまり直接かかわることなく、誰かのおかげでできあがってあたりのいいところでしか物事に触れていない。スイッチを押せば、スティックを動かせば目的が達せられるということばかりで、スイッチがどう繋がって目的に達するのか、そのしくみを理解することもなく、しくみをつなげた手間や苦労も想像することもない、まして自分がそのしくみにかかわるなど夢にも思わない。こういうことなのだ。
モノを買うのにも小さいうちは親に頼っているものだから、なにも労せずして楽しいことがはじまってしまうのだ。準備立ての面倒は一切なしに、またそんなことを意識することもなく、夢の世界に突っ走る。そうした経験を積み重ねると、子供はなんでもものごとはすでにしっかりとできあがっている、自分は自分に直接かかわりのない前のことや後のことや大それたそんなことを一切考える必要もない、と思い込むだろう。うまくいかないのは自分がマニュアルを読み忘れたか、あるいはめったにないはずれに当たったかで、その場合はクレームをつければいい。
というわけで、お膳立てがどうなのかなどという余計な頭は回す必要がない。そして、そういう頭の使い方が実際できなくなるだろう。なにしろ経験自体がぬくぬくとご都合のいい枠の中にすっぽりおさまってしまうようなものだから。一方その分柔軟な頭でゲームやインターネット、ドラマやマンガ、メール、音楽やおしゃれ世界など、知識を広げワザを磨き、大人の想像もつかないほど遠くまで自分らの世界を押し広げていくだろう。
おかげを被って受け取っていること、享受していることに恐ろしく無意識なのに、享受したうえでの制限のない経験の積み上げによる恐るべき堪能さ。どうも最近の子供達の顔を見てるといかにもさりげない、いかにも安定した涼しげな表情をしている下に、こうしたアンバランスが不気味に透けて見える気がする。切れているとよく言うが、子供達はまさしくこうして人口的な枠組みのなかで守られて育ち、その下の地道なところや地面とも切れてしまっているのではないか。

最近また年末で忙しく、書きたいことはたくさんあるのだがなかなか手が出ない。
この続きはまた明日以降…。


テレビマンガを見ていて思うこと

2005-12-17 16:32:49 | Weblog

最近のテレビマンガを見ていて思うこと(ずっと思っていたこと)。
あまりにもひどいのではないかと思う。なにがどう面白いのかよく分からないことが多いので、内容に入っていけないし、あまり興味も湧かないまま通り過ぎることが多いのが普通なのだが、子供が熱心に見ているのをはたから観ていると、こんなことでいいのかとときどき心配になる。コミック本には自分の知らない表現がいろいろあるようで、そちらの分野については全く分からない。自分がいいたいのはテレビマンガについて、お茶の間で夕方から夜にかけてどこでも見られるようなテレビマンガについてだ。特定のマンガのことをいっているが、特定といっても数は多くマンガ以外にも相通じる仲間をたくさん持っていて、商品として店先にも山積みになっている口だ。
まずは貧しい。なにもかも貧弱で退化して弱りきっているように自分には見える。だいたいこんなものを大人達が熱心に製作していることが信じられないぐらいだ。売り出しとしては商業ペースなのは当然としても、大人が相手ではなく子供が対象なのだ。子供相手のこんなものが野放しになっていくらでもだらだらと出てきて止むことがない。どこでも制御されない。いまの文化レベルをそのまま象徴しているのだろうが、節操がないにしてもひどすぎはしないか。
子供たちはまだ染まりきらぬ気持ちのまま毎日テレビ画面を前にし、こうしたぶざまなかっこうのものを繰り返し見せられることになる。教育上の問題とかそんな大層な言葉を持ち出さなくても、こんなものよくないに決まっている。子供に対する社会的な配慮という面では、些細な衛生上の問題からはじまり、年少者に対する犯罪が目立ってきた最近では、安全上の監視体制などは神経質すぎるぐらい配慮がなされ、整備対策がなされてきた。全体に子供に対してこういうやや行き過ぎたぐらいの傾向であるのに、マンガとかドラマとかそうした一番目に見えるはずのところで、信じられないほど迂闊と思うのだ。
しかし、自分はマンガの暴力的な表現とか性的な表現とかについて目くじら立てているのではない。確かに暴力的な表現も行き過ぎという場面は良く見かけるが、子供だって判断がつく、その範囲にあるものがほとんどだと思う。そうではなくて、当たり前のように見せているそもそもの全体がおかしいといいたい。
子供は考えるより習えで、繰り返し見せられるものを自然に身につけていく。やさしい、楽な、また面白いものであればどんどん吸収していく。テレビマンガはまさしくそれで、大人が思っている以上にお手本であり、子供の考えや感覚を育てているのがマンガだと思う。しかし、子供自体は自然なのであり、自然の一環として自然をなして生きている。難しいことをいいたいのではないが、とにかく子供自身はよくできた自然の生き物なのだ。そんな子供が、マンガから吸収する、習う、はては学ぶとなるとなると、あたかも自然破壊のようなものと自分は思う。
自然は基本的に自然の姿かたちに習うべきで、それ以外にまともな道があろうはずがない。もちろん社会で生きていくためにいろいろ余分なことを学ばなければならないが、根本は自然であることに変わりはない。しかし、どうだろう、テレビマンガこそ自然に対する最も典型的な人工的産物のひとつというものだろう。
いったい何か習うべき点が最近のテレビマンガにあるだろうか。そもそも、もう線や形や動き自体になんのセンスもない。いや自然をやさしくなぞらえるような方向性や印象がない。機能不全をそれこそ絵に描いたような簡単さがなさけない。ただ楽なのだ。安易でおそまつというだけなのだ。
気持ちいい親しみやすいとっつきだけに留意し、こらえ性もなく楽な方へ都合のいいほうへどんどん省略し、こじつけていくとこんなものができあがる? というふうだ。だから見るほうも楽にとっつける、簡単になぞらえることができる。つまりかたちそのものからいって子供の弱みに付け込んでいるのだ。さらに、性格の色づけや個性の出し方、ストーリーや背景、こうしたものを具体的に見てみると、陳腐で短絡的で、奇をてらうのものの創意はなく、安易でおそまつなのは驚くべきである。末端感覚にしか訴えないような、よくこれほどくだらなく劣った要素を集めて成立しているものだと感心するほどだ。
何かもう陰に大きなたくらみがあって知的に意図されているぐらいの完璧なお粗末さを感じる。普段は見る気もしないので思わないが、いざよく見てみると全くそのようだ。この人たちはまるで自然な自分の身体を人口のそれにすりかえたいと夢見ているかのようだ。それほど躊躇しない方向性を感じる。最近のマンガはこの方向性においても非常にマニアックというか、ある種のこだわりだけが異常に肥大して他の要素と恐ろしく不釣合いなバランスの異常なマンガを作り出している。それが平気で茶の間にも入ってくる。自分などはこう考えると恐ろしい。
昔からアニメはあったし、自分らもマンガを見て育ち、幼少の時代には楽しんだ記憶がある。しかし、昔のはやさしいとしてもこんなにくだらなく完璧でなかった。マンガはマンガの顔をしていてももっと下手であって、下手なりに現実の方を向こうとしていた。そういう手段といわないまでもステップとしてもマンガはあった。だから子供もマンガを見てなまいきになるんではなく、劇的にまた、わかりやすく現実を見せられるようなところがあった。ところが今は楽なくせにふんぞりかえって逆に現実を見返しているようなところさえある。
たしかに今は現実がどうのだの現実にどうしろだの簡単に言える時代ではなくなったし、どう進むべきか何を模範にしていいかもなかなか分からない。しかしだからといって、この野放しはありだろうか。もし現実がつまらないからせいぜいマンガで虚実を楽しめなら、それは大人向けにあるべきであって、子供にはきちんと線を引かれなければならないはずだ。なぜその線引きをしようという意見が聞こえないのか、自分には不思議でならない。
○○○教育放送ですら、民放と大差ない同レベルの無自覚なのだからあきれる。空しい大人がオタク的にマンガに熱中するのはかまわないとして、子供には関係のないことだ。それを世間全体に大げさに広げて見せるおかげで、子供は知らない間に抵抗もできぬまますっかりその道にはめられてしまって、感性そのものが人工的なものを自然と感じるような育ちをする。それこそ人格破壊のようなものだ。罪なことだ。そしてそういう育ちの人間が成長して社会を構成する。自然からますます離れていく。
自分の子供の絵などを見ていて本当に胸が痛む。いつの間にかマンガのような目や鼻や手足、輪郭しか描けなくなっている。できるならマンガやドラマも見せたくない。取り上げたいと思う。しかし、子供は子供の付き合いがあり子供はこの社会で生きていかなければならない。周囲が自然にそうしたものを受け入れているので、分かっていてどうしようもないのだ。周りの子供に通じない子供は取り残され自滅するのが自然なのだ。
まったくひどいことが日常的に継続して行われている。戦争や暴力について声高にいわれるのに、こうした現実には誰も目を向けようとしない。平凡な日常に何食わぬ顔で入り込んで、自然の健やかな芽を涼しい顔して踏みにじり摘み取っていく。その規模がすごい。全国津々浦々のお茶の間をすっかりなめつくす。テレビメディアというのは実にぬかりない。実に継続的で実に強大だ。仮にこれを陰謀とすればこれほど念入りなローラー作戦はどこの世界にもない。
別にマンガなどなくてもいいではないか。昔のディズニーアニメなら全く問題ない。そういうものを順繰りに流していればいいと思う。しかし、問題は経済のシステムの中に商品としてのマンガやアニメがしっかり安定して組み込まれてしまっている現状に今の社会があるということだ。ここでもまた知識人はどうせ迂遠な思想を持ち出してこの問題のつじつまを合わせてくれるぐらいが関の山なのだろうか? 
自分は日本が世界に誇るアニメとかそんな冗談みたいなことを言っている場合ではないと思う。


冬のソナタとチェ・ジウ

2005-12-10 21:26:33 | Weblog
冬のソナタ DVD-BOX vol.1

NHKエンタープライズ/バップ

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チェ・ジウのことを書いたら、ものすごいアクセスがあってびっくりした。
今日ももう「チェ・ジウ」と入れただけでアクセスが集中することだろうが、せっかくだからもう少しチェ・ジウについて言ってみたい。
昨日のは、「苦言を申す」みたいな言い回しになってしまって、ファンとしてはチェ・ジウの魅力についても、言っておかないと気が咎める感じなのだ。

ところで、自分にとってのチェ・ジウは、ほぼ「冬のソナタ」のチェ・ジウを意味し、それはそのままドラマの魅力とも繋がって切り離せないので、冬のソナタについて記してみないわけにはいかない。
といってみたものの、冬のソナタについて語ろうとすると何も上手く表現できない気がする。映像表現というのは画面を前にしての現場で多く感得するはずものであって、このように画面から離れ、時間も置いて、しかも言葉を媒介にして語ることの空しさを感じずに書くことができないのだが、冬のソナタの場合はまさにその極みであって、外側からいろいろいうことがこれだけ難しく、空しいと感じさせるドラマもそうないと思う。
冬のソナタは気持ちを引き込む引力というのが、ものすごいのだ。ドラマを見るのもどこか遊びをもって見る、どこか分散した気持ちでちょっと冷やかし目に見るとかいう、そういう余裕がなくなってしまうのだ。とにかく引き込まれる。魂をぐっとつかまえて離さない、いやそんなことを意識することもなくいつの間にか忘我の状態に陥る。酩酊とも近いだろうが、狂ってはいない。照準がピタリと合うのである。魂の照準みたいなものが。
ドラマの中で様々な色合い、段階があるが、自分にはひどく遠くひどく深くから漂ってくる、もの悲しくも美しい旋律を聴くように、じっとたたずんでしまう、冬ソナを見ているとそんな時間が流れるときが多い気がする。そして胸を締め付けられるような山場を何度も体験する。感極まるというのはこういうことなのだということを身をもって知らされる。
そして、チェ・ジウの表情を見ていると、演技を見ているという感覚がなくなって、同化してしまうようなのだ。そのときに自分のなかに湧き上がる情感というのか感情の高まりや奥行きは、それまでどこでも経験した覚えのない未知のものだった。魂ごと心底揺さぶられるとでもいったいいのか。
それは、ぺ・ヨンジュンについても同じで、男性であるから感じ方は少し変わるし落ち着いたものになるが、単純に演技力ということを考えるとしても、この二人の演技は微に入り細に入り、色分けも絶妙で、激しさも静けさも一様でないすごいレベルに達していると感心するばかりだ。
そしてドラマ全体について簡単に言うなら、物語性や事件性を含めた脚本、配役、演技、音楽、映像、すべてにおいてまれな調和があり、細部まで血が通っていると感じる。内容は運命的な転機が多いが、それを除けばシンプルといえばシンプルで、余分な内容を欲張っていない。先に言ったことと重なるが、冬ソナにはどこかはかなく不吉な運命の予感がドラマを通じて遠い洞穴から響き渡っているような感じが常にあって、自分らの奥深いところの悲しみと共鳴しているような感じがあり、この情感がなんともいえない。涙は多いが深刻を大げさに見せようというような誇張はない。
ドラマの出来としてはまさに出色で異次元とも言いたくなる。これを酔狂なドラマという人もいるだろうが、こんな酔いならいくらでも良いと思う。酔って狭まるのではなく逆に広がる。生きる滋養でもある。だから社会的にも非常に良きものである。
しかし、先に書いたように、冬ソナについては語ることで断定的に何かいっても、取りこぼすものが多すぎる。そしてこのドラマを語ることでは、切り口を変えればいくらでもボロは出てくるだろうし、自分の感想についてすら全体に一様にいえる事ではない。自分のスカスカの言語表現でもって、誰かに直接その素晴らしさを伝えるというのは無理だと思っている。
だから、冷やかす前にとにかく2時間、いや3時間だけ我慢して観てもらいたい。最初の高校性時代のドラマの表現は、いちばん突っ込みを入れやすいところだが、そこを我慢してみればもうつかまる人はつかまる。未体験ゾーンに入りこんでしまう。そして自分の身に起こった変化を驚いて受け止めることになるだろう。しかし、こんな素晴らしいドラマでもつかまらない人はつかまらない。
ただ、ろくに見もしないで評価するにはあまりにも惜しい。自分の中の冷やかし屋はこのドラマを観るうちだんだん寡黙になってくる。そしてこれが例え演技だろうが、作り物だろうが、嘘であろうが、そんなことはどうでもよくなる。ただ自分の中で尊い時間が流れるのを黙って認めるしかないのだ。個人的な感想だが、自分にとって冬のソナタはそうだった。そしてこのドラマを受け入れられる人なら一生付き合えるかなと思うのである。バカ利巧でなく、冬ソナの受け取り方で人間の質が分かれるという気がする。(あ、これはいってはいけないのかもね…)
内容としては普遍的だが、ただ特定の時代的で地方的な要素を題材としているので、若い人や文化圏の違う人たちはなかなか入っていけない世界かもしれない。あと、理屈が強くプライドの高い、インテリを気取っている人たちにも縁のない世界。また、最初から冬ソナに偏見を持って接している人は話にならないのは、悲しいことだが言うまでもない。
ということで、自分にとって冬ソナはかけがえのない時間をくれた。そのことに感謝している。やっぱりうまく言えなかったが、大体はこんなところが正直な気持ちだ。
チェ・ジウの話を中心にするつもりが、ちょっとずれたか…。


チェ・ジウに寄せる想い

2005-12-08 23:29:09 | Weblog

冬のソナタのチェ・ジウにはすっかり魅惑された。本当に素晴らしかった。
今年はチェ・ジウ本人としての露出度が高かったが、好感を寄せる声が多い一方、反韓流の悪口があちこちから響いてきて、チェ・ジウのイメージが知らない間に自分の中で悪くなってしまった、というか、変質させられてしまったのを否定し得ないのをとても残念に感じる。
やっぱりチェ・ジウみたいな女優はドラマの中での魅力が大事であって、日本の芸能界みたいな場に出入りして「素」のイメージを前に出すことを強調するようになると、かえって嘘っぽくなる。等身大などということを言われると、なんとなく作為というか、押し付けがましく感じてしまうのだ。別に人間なのだから「姫」でなくってあたりまえだし、はしゃいでみせたり、無理しなくていいと思うのだ。
もっとまずかったのは日韓親善大使でありながら、公式の行事をキャンセルしたり、それなのに自分の高額なコンサートを大規模に行い、日本のドラマなどにも出るという行動ぶりだ。スケジュールや体調の都合、新しい事務所の意向もあるだろうし、自分は悪い方に想像したくないのだが、もともと反感を持っている人たちには、それらの事実はいい攻撃材料になってしまっている。
現在の日韓の関係を考えると、地味な文化交流を通してという道筋で日本に出入りするのはいいのだが、最近のやり方を見ていると商業的な匂いもして、少し道をはずしていて危ない橋を渡っているような気がする。根強いファン層に支えられて、今も最も人気がある韓国女優であることは確かだが、冬ソナ一色の頃の反応とは今は、情勢が変わっているのも確かだろう。
今後日本でのチェ・ジウのイメージはどうなっていくのか、自分にはよく想像しかねる。しかし日韓合作のドラマといっても、中途半端なものしかできないと思う。仮に冬ソナとは違って明るく活発なイメージを新たに売り出すことができたとしても、冬ソナのファンにとっては、まずイメージダウンとなることは間違いないと予想がつく。
もうひとつ、最近のチェジウの画像など見る限り、やはり多少の容色の衰えというか、寄る年端には逆らえないものだなと感じることがある。30を超えたのだから、ここはやはり本国でしっかりと腰の据わった体制で、年齢なりにじっくりと演技に打ち込んでもらいたいと思う。不用意に日本に入り浸りになってイメージをおとしめるだけの結果にならないことを、ファンとして切に願うものである。
冬ソナのチェ・ジウは、とてもとても美しかったものだから…。


都市の幻想 続き

2005-12-08 22:38:36 | Weblog

昨日書いたことの補足。

リアルタイムでなくて、思い出しながらだったからちょっと違うところがある。というか、実際現場にいると例えば高層ビルの高度感や大きさ、まっすぐでキラキラ無機的に連続して平気で長い距離と広大な面積内積を稼いでそびえ立つあの感じに圧倒されて、まずは感動すら覚える。そんな感じだろうか。
まあ、とにかく見た目の威圧的な印象に圧倒されずに色々想像をめぐらしてみるには、一呼吸必要だということがある。自分があまりに小さいのでつい外部の「とてつもなくスゲーもの」という風に見てしまいがちなところで、その印象を押し返すように思いなおして見ることが必要。
いくら圧倒的だといっても積み上げたのは人間なのだ。化合物や組み合わせを膨大な規模で機械と技術を扱って積み上げたのは、それぞれのちっぽけな人間であり、個々の仕事はすごいといってもやはりちっぽけなもので、高層ビルの偉容にひとりひとりの仕事や姿を重ね合わせてみたところで、どう見ても釣り合わないし、うまく結びつかないというものだ。
だから、奇跡的偶然のようだというのだ。不思議とできてしまっている、というようなものだ。釈然としないといえばまったくその通り。でも、できあがって現にある。びっくり玉手箱から飛び出したおばけのようなものだ(ひとりひとりの人間の大きさからするとこのぐらいの表現がぴったりではないか)。しかし騙されてはならない。ひとりひとりは全体を知らない部分であり、部分を着実にに成したというだけのことなのだ。前も知らなければ後ろも知らない、もちろん現の全体も想像がつかない。それが事実であってそれ以上のものではない。
そんなこと分かりきっているって? 分かりきっているがもはやどうにもならない、取り込まれてしまっているんだから、今更そんなことを叫んでも意味がない。だからせめて小さな楽しみでも見出してぼちぼちやるさ、今更大げさに、みっともないんだよ。そんな気持ちなのかな…。
しかし、自分の見る限り、意味がないというところでなんだか問題が終わってしまっている、というか、巧妙にすりかえられてしまっているような気がするのだ。最近の文学とか目に付くところでは、なげやりのような思い付きの爆発のような表現も様々あったりというのが、肝心のこういう問題意識(もちろんこればかりが重大な問題ではない)と繋がっているはずなのが、いつの間にかそれ自体の好事的な道にはまっていて、理由づけとしてだけこういう問題は上がってくる。
何かへンだ。問題意識が明瞭にあるんじゃなくて、問題意識の看板が立てられているから矢印のこっち側にいるみたいな、他人事みたいなところがある。こういう問題は常に新しく何度も何度も突き上げられる切実さを持っているはずなのに、当事者でなく借りてきたような言葉を語っているような気がする。はっきりはいえないが、この問題に限らず自分ら庶民にも伝わるはずの生々しい、痛々しいまでの切実な声がなぜか聞こえてこない。
最近の有名な偉い人っていうのは皆、巧妙に過ぎて保身術に長けている以上のものを感じさせる人が少ないのではないか。マスコミに何度も顔を出してボロが出ないって言うのもできすぎな感じがする。


都市の幻想

2005-12-07 21:14:59 | Weblog

田舎から都会にふいに行って、ビルの谷間で人ごみに紛れてみると、めまいのするような奇妙な感覚に襲われる。
そこいらのビルの建築ひとつとってみても、誰もこのひとつを総体として全ての関係を絵に描くことができ、全ての仕事の手ごたえをなぞらえることができないことは確かだ。大まかにすらできない。あまりにも明瞭にそういえるほどの威容である。
しかし、それはシャレじゃないが異様なことでもある。誰一人全体を見れないようなものがそこらじゅうにボンボン立って、さらにそれぞれが関係して連携を形作っている。まるでお化けだ。誰にもとらえれらないし、したがって制御もできないこれらのシステムが平然と成り立って、いちおう破綻することも無く稼動しさらに増殖していくばかりなのだから、不思議だ。このシステムの成り立ちは個人の手を完全に離れている、そして制御できない。大勢の手によってはいちおう制御されているが、個人が無力なのは確かだ。そして人間は連携するといってもあやふやなもので、結局は個人なのだ。だから個人レベルから観るとこれらは奇跡のような総体であり、成り立っていること自体は偶然という感覚にも近いものがある。
しかし、こういうめまいのするようなシステムの都会にいながら、日々一応平然と正気を保って生きて、有用に仕事ができる人間というものは不思議なものだ。ある種の人々にとっては、これらの威容は希望であり、安心であり、未来を保障するものにさえ感じられているようだが、こういう信頼感はどこから来るのだろう。それはもう実感というのにはあまりに希薄で、幼稚な気分で染められたようなバーチャル的実感というものではないだろうか。
そこで生活し働いていることは確かで偶然ではない、仮想でもない事実だ。しかし、自分の感覚として手ごたえを持ってなぞらえることも、無理なく延長していくこともできない。そういう個人の能力を完全に超えて、そういう意味では完全にあっちにある世界の中でのたよりない目に見える近景であり、手に触れられる身近な事象でしかない。とり囲んでいるのは目に見え、話に聞くこともできるが、ほぼ幻想にも等しい。
都会人であれば(今や田舎でも程度の差があるだけだが)、おそらくこの仮想的実感を日常的に生きている。ここで正直な人間は追いつかない頭、とどかない目、触れられない手を感じないわけにはいかないだろう。全幅な信頼を持っているようにそこで揺ぎ無い人間は、都会育ちで感覚が狂ってしまったのか。
しかし結局、仮想の現実は個人の能力が追いつかないというだけで、まごうことなき現実なのであり、現実である限り、法則として自然に従っている。自然の法則にのっとって着々と時を刻むその中で、巨大なシステムが誰にもその全体をそのはっきりとした意志をとらえられず、みとがめられずに進んでいく。都市はしかし自然の意志を持つわけではない。だから、無限に生成していくというのは、ありえない。システムをつなげているのはバラバラな意志であり、複雑な歯車であり、部分は部分しか知らない。とすればこれがますます際限もなく大きくなり加速していくところでは必ず破綻が来よう。
同時多発テロの映像を見て、「ハリウッド映画のようだった」などという感想が多かったが、実際新宿の高層ビルを眺めている感覚は、すでにハリウッドの大スペクタクル映画を見ている感覚と変わりないところがある。
ただ、作り物ではない本物なのだということが分かっている。しかし、頭でわかっているだけで感覚は追いつかない、なぞらえない。あまりにも貧しいイメージを膨らませ、それもすぐに引っ込み、慣れてしまい、関心の外となって次第にさわることもなくなるのだろう。なんでも慣れてしまう。慣れてしまうのは自然だ。
しかし対象と人間とのかかわりはこれではおかしいのだ。狂っている。自分達人間がが歴史的にまた集合し関連して成したものが、巨大なものとして立ちはだかっているのに、あまりにもバカだ。
政治家でなくても手順を知っている。責任者を出せ、仕組みを見直せと訴える。しかしいくら威張っても法的手段を知っていても、他人まかせなのであり、感知するところは誠に貧しくたよりないものだ。システムが巨大になればなるほどこうした経路は数多く、また複雑になり、感知するところがますますなくなり、限りなく他人任せになる。それは機械まかせになることでもあり、相手方はもう全く見えない、分からない、そんな見えないものに向かっていかめしく命令したり怒ったりするのは、なんだかもう笑える。もうほとんどおまじない呪文をとなえているようなものだ。
それなのに、その居心地の悪さみたいなものをほとんど感じていないのはどういうわけだろう。もう完全に切れてしまっているので居直っているのか、と思うとそんな意識はなさそうで、むしろこの巨大化した奇獣のような社会に安住しているように見える。誰でもこう話せば分かるだろう。しかし、分かるくせに不安にならない。天に運命をゆだねている信者のように。
しかし相手は大自然ではない、人工社会なのだ。天が奇獣のような人工社会。全員が全員のんきな方向音痴でどこに向かうとも知らない、なんのおかげも分からない。政治家だろうが、経済学者だろうが、科学者だろうが、大企業の社長だろうがいくら能力のある人間でも、ただの専門家である。解釈や効力を一義的に知ったり扱ったりできるだけである。
歴史の集積を重ね、人知を積み上げてきたはずの人間達が実は視点を変えればこんな姿だ。本当の本当にそうなのだ、それだけははっきりしている。そうではないか。まるでバカである。しかしそう思ってみたところでなにも始まらない? それはそうだ、すでにこの社会に生きている以上この歯車にはまるしかない。しかし、こういうバカをはっきり自覚する人間がいないわけがない。そして世に偉大と言いうる人たちがいるのなら、少なくともこのバカを自覚して自分の気持ちを戒めていなければおかしいと思う。どう考えてもこれを自覚できないのは致命的だと思う。ところで、自覚している人たちは何をしているのだろうか、どこで警鐘を鳴らしているのだろうか。その姿があまり見当たらないように見えるのが恐ろしい。
こういうことを考えると、自分の目に付く限りでは今の文学なんてずいぶんのんきなことをやっているような気がするのだ。