あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

村上春樹「海辺のカフカ」を読んで 根本的な疑問

2005-10-27 22:38:00 | 村上春樹

要するに頭の悪い組、ダサイ組は眼中におきたくないらしい。まあもともと文学も新しい新しいといって前世代から克服されて?一歩進んだ見地にあること、また、まだたどってない道を見つけること、そういうことが何より大事らしいみたいで、その辺で我先と競っているようなムードがあるように見える。だから頭も良くて才能もあって猛烈に勉強もしてぬかりなくまとめあげて、もう一歩踏み出すことができたら、賞賛の嵐みたいなそんな世界ではないか。

しかし見方によっては、こんなに贅沢な条件付の達成というものは、ある面、恵まれたものにしか得られないレベルであり、もし才能に恵まれていても、例えば時間がなければそれだけでもう得られないレベルということになる。難しいばかりでなく積み上げもなければかなうはずがなく、いくらまっとうな人間でも下手すると方向さえ定まらぬまま見送ってしまいそうな道筋である(運良く何かしらまともな指導にでもめぐり合わないと方向を見つけるのさえ困難と思う)。

そういうことを考えると、この人たちの高見とはブルジョアのそれとにていて、自分達の才能や努力の結果の達成ばかりではない幸運(優遇)を棚に上げて、お屋敷から下界を眺めている感じと余り変わらないような気がする。それで下界を軽視するなど自己矛盾もいいところではないか。自分達ばっか家庭教師付、虎の巻もばっちりで、それでつまらなく愛想のない教科書のみを相手にしてやる気もおきない仲間をバカめ!と見下すのは不公平というか、まったくおかしいとしか思えない。こうやってあらためて考えてみると、あきれるほど単純なことで拍子抜けするぐらいだ。実に明々白々なことではないか。

村上さんはおそらく今言ってきたような文壇のムードがいちばん嫌いなのかもしれない。他人の批評をさかなにして食っている批評家も嫌いだろう。にもかかわらず、結局この辺のところだけは意識をすり抜けているような気がする。村上さんのきっぱりとした物言いには少なからずこういう無能な?(というのは実は大きな大きな見誤りであると思う)人たちへの嫌悪や軽蔑で満ち溢れているような気がする。その片輪な見方がいつでも感じられるので読んでいて気持ちよくないのだ。

例えば小説中の女性を見れば、いつでも「いい女ばっか」ときている(自分にはあまり魅力的に見えないが)。なにしろ皆それほど取り柄をあたえていないようにしているつもりなのかもしれないが、それでもカッコよすぎるか、出来すぎなのだ。ナカタさんや星野さんですらぶざまでもダサクもない。自分の違和感はどうもその辺でいちばん大きいのかもしれない。自分からすればどこまでいっても「ぶざま」のほうが必然性があると感じられるし、その辺のカッコ悪さはなにも後ろ向きなものばかりではないと思っている。もちろん「ぶざま」をそのまま表現して楽しめるはずがない。若い読者もそんなものにはついていけないだろう。それにしてもどんな意図があるにせよ、サービスのし過ぎではないか、このシャレ者はどうにかならないのか!などと唾を吐きかけたくなることだってある。そして、このカッコいい連中、セックスがいつでもすんなり過ぎるのがいちばん分からない。肉体と精神ってそんなにいつも相性がいいのかって、よっぽどうっとりするような肉体の男女であるか、よっぽどどこかかぶれていないかでもなければ、あり得ない、と思ってしまう。こういう表現をさせる裏にあるのは村上さんの何なのだろうか? と不思議に思いながら、これはむしろ「特殊な部類に属する」と考えるのが自然と思うことにしている。

最新の思想をそのまま生きているような顔していたって(そんなわけないが)それが作家の短い人生の純粋で独自の生産であるはずがない、それに生産はさまざまな様態があるわけだし、前向きも後ろ向きも、学者も肉体労働者も、同じ人生、お屋敷人間が高級なわけがない。前向きに生きよという方向付けはもちろんいいに決まってし、そういうしるしや教育はなくてはならないと思う。でも、周りを見た場合、前向きであろうがなかろうがそれぞれが運命であり、かけがえのない人生であることは一緒で、そこに高級も低級もあるもんではないと思うのはおかしいだろうか(自分の中ではそれらの位相がしばしば逆転してくっきり見えるが…)。それで物語を語るのに意図的であろうとなかろうと、全体に対するある程度の公平で均質な感覚が現れていないのは、どんな場合でもおかしい、というかバランスが悪い、つまり器が小さいということにならないか。ひいき目も愛だろうが、もっと広く深い愛というのが偉業というものには満ち溢れているのではないか。隠そうとしても、あふれ出てしまうほどに・・・。


村上春樹「海辺のカフカ」を読んで その2(言い散らかし)

2005-10-25 00:39:26 | 村上春樹

以下思いついたままになるべく正直に記しますが、時間もないので順不同でまとまらず、くどくて繰り返す、繋がりも悪ければ、しめも悪い。要するに言い散らかしです。読むのは大変でしょうが、読んでもらえばおおよそ言いたいことは分かってもらえるかも、と思います。では…。

これほど騒がれているのだから(というのは理由になっていないかもしれないが)何か決定的にまともなものがあるはず、というあてをもって読んだが、それらしき十分な手ごたえのあるものが、ありそうでいて、どうしても自分には見つからなかった。

どこかの有名なブログで「村上春樹はすべての人々の心を個別にグリップする。村上春樹は神だ…」などという発言を読んで、おいおい俺らはグリップされてないぜ、神? ちょっと待ってくれという気持ちがある。

あちこちの箇所で謎めいたことばやひねった描写が出てきて、ことばのほうはかなり断定的で説教くさいと思える文句も多いが、自分にはどうもさっぱりしすぎていたり、逆に妙に理屈っぽく感じられていけない。現実的な関連性みたいなものに欠ける印象がぬぐい得ない箇所が目立つ。それに表現や描写のほうもそこで不自然に立ち止まって頭をひとひねりしないとスッとはいってこなかったり、おやっと思うほどマンガっぽい動作や背景に感じられてしまったりして、こちらの身でなぞらえるような自然な表現やはっとする描写に出会うことが少ない気がする。

また、構成が入り組んでいて作為的な感じ?がするのだが、この噛み合わせの悪さはどうやってもおさまりがつかない感じで、いたたまれないをずっと持続しながら読み進めなければならないのがつらい。それで謎解きをしてみようかと思うかというと、そこまで付き合う価値のあるような内容と感じられないのだ。怠慢なのかもしれないし、それでこんなことを書くのは矛盾していると思うのだが、自分は評論家ではないのでしろうととしての自然な感触でもって感想を述べているので…。大抵の読者はさしたる予備知識もなくこの本を読んで、不思議に思いながら頑張って読み進めていっても、そう細かい分析をするわけでもなく大まかな印象や気になった箇所などを思い起こしてみたりして、それぞれ自分なりにどこかに落ち着けるのだろうが、そのために研究的な態度で粘り強くまたこの作品に向かいあうということは余りないと思う。だから中途半端かもしれないが、この辺でちょっと考えてみるぐらいのレベルでものを言うことに意義を感じてしまうことについては悪くないと思っている。特に大衆的といえるぐらい多数の支持を得ているらしいのだから。

とはいっても自分の感触で言うのだから、当然年齢なり育ちなりの制約が出てくるわけで、特に若い人たちの受け止め方については前に書いたような想像をしてみるぐらいで、的を得たことをいうのは難しいと考える。

作品のストーリーの進行は並行的であったり入り組んでいたりでよく飲み込むことができないが、ふと思ったのは、それぞれに流れとして目に見えるようなはっきりした連絡はなさそうだが、全体としては世の中って見方によっては実はそんな風なもので、ここではものごとの脈絡、線的なつながりにあまり頓着せず、その点でルーズにした分、全体として普通の物語の進行では表現しきれない様々なパターンを寓話みたいに散りばめて、いわば現実世界を独特なかたちでなぞらえるようなひとつの作品世界を形作っている。そんな感じかとも思う。

ただそれをそうだと決めて了解してすんなり受け入れられればいいのだが、自分としてはこんなにルーズな人間なのにどうしてもこの不自然さをよしとして受け止められないのだ。どうしてもしっくりこない。理解できないこともあるが、それ以上にぐっとこない。心に強く訴えるものがなぜかない・・・。

それぞれいろいろな場面の表現についてはどうかというと、自分としては腑に落ちるという感触となかなかめぐり合えないのがつらかった。なぜ素直にすっと立ち上げるような表現をしないのだろう。ちょっとひねって難しくしてあるような、なぞなぞ問題のような表現の前に何度も立ち止まされる。あるいは突然専門的な知識でもなければ分かりっこないと突き放されるような言い回しに出会って、思わずなんだよいきなり! と投げ出したくなることがある。そして、自然の描き方なども生々しい感じを伝えず、いかにも都会の人の感覚触手で切り取られたような感じで、普段自然に感じているような実感を彷彿とさせてくれるような描写が少ない。

ごてごてとして重ったるい表現を嫌っているのかもしれないが、なんだかさっぱりしすぎてしまっている。無駄がないんじゃなくて人生の重みをずっしり背負っていないみたいな、箱庭的な人物を裏に想像してしまう。苦労をしていないわけはないが、多くがどちらかといえば人工社会の頭脳的な経験で、この理不尽で多様で汚い世の中の「あか」を擦り込まれた経験が不足しているような、そんな肌合いを全体に感じる。厳しい自然をじかに感じて暮らしたことのない経験を感じる。だからそう、体臭みたいなものがどうしても感じられない。

自分にが学が不足していてことばの意味すらしっかり飲み込めないからそういう感想になるのだといわれるかもしれないが。

それにしてもどんな風にしてこの物語を紡ぎ出しているのか? そこは興味深い。

相当な努力家で意志も強く、自分らの想像を超えた学というものがあるのだと思う。今時の若い人達に通じる都会的な感性やこだわりをもっていると思う。海外でも受けるのはそれなりに現代に通じる普遍性みたいなものもなぞっている部分があるからだと思う、違う土壌の人たちが翻訳の装置を通して見るとまた違った輝きを見せているのかもしれない。

 

「約束された場所で」や「アンダーグラウンド」などの仕事はすごく評価したい。前向きな苦労はしている。

手に余るものといつもつながっている感情の揺れがない。

強いのかもしれないが

臭くて、だらだらで、際限もなくて、整理もつかない、そういう諸相を抜かれた、このような世界は世界といえるだろうか。

芸術家はどこか異常だが、キレイ好きの異常かも。

色あせた…なんていっても、ちっとも色あせて感じられない文体。

顔を出さない、テレビに出ないのはいい。これは大事なことだと思う。

ナカタさんがいちばん、で次は僕か…。あとは星野さん?は若者受けしそうだが、受けそうだというだけで、あまりそれらしくない。トラックに乗る兄ちゃんはあんな風に発展しない。あくまでも運ちゃんの性格的だ 。

ジョニー・ウォーカーのやったこと、あの場面は凄かった。存在感があった。

女性が特に魅力ない。

セックスの場面など特に観念的な感じ?になっていつも現実味がまったくないが…。 どういうわけでああいう表現が出てくるのか全くわけがわからない。

自分の好悪でいえばそれまで。自分は古い人間なのかもしれない、しかし世の中は断ち切れない古いものの集積の上であるし、病んだ人間がほとんどではないか。そこをスルーして世界は描けないし、傷やくされのない熟成は温室のものではないか。

安西さんの絵やいつものイラスト、あのイメージはどういうつもりで使っているか知らないが、自分が作品や作者に感じる、あっさり感とときどき妙にシンクロしてしまうのはどういうわけか。

世界で売れているからってそれが偉業の証拠とは限らない。宮崎駿の「ハウル」だって偉業とされてしまうのだから、異国の人の受け止め方というのはどこかでおかしな変換がなられるのか、あんがいへんてこなものであったりするのだ。それに一定の層というものが対応しているだけではないか。

総合的に見て軽い寓話のような感触になってしまう

鈍く素朴で地味でさえず、もくもくと地面をみて歩くだけだが、じわっと下地となって社会を支えているようなそういう層の人達や、働き、また魅力、そういうものに対する愛情を感じない。きたないもの、半端なもの、どっちつかずで的を得ないもの、やたら単純なもの、半ば腐ったもの、ぐずぐずしたもの、…そういう諸相を村上文学はきちんととらえていない。

何かすっかりはっきりさばけすぎていて、よどんだりかすんだり、ただれたりしていない。文字でなぞっている部分があっても気持ちがそこには入っていない。しかし関係上にあるものはみんなこうした性質を備えていてそこからどうやっても自由になれないからうだうだ、くどくど、さばきも悪く、延々とさえない顔で続けるしかないのだ。年輪にはきっとこういう要素は入ってくるものだ。上昇や断絶、努力や均衡、前向きであるかさばけがいいか、傷ついて退いているか、そんないさぎよいものばっかというのは、関係性の現実味を欠いた現実感だと思う。自分がなにか決定的に足りないと思うのはそういう部分の切り落としをあまりにもさっぱりとしている(あるいは意識せずやっている)からだと思う。ぐずぐずとしたものはさっさと切ってしまえ、というのは潔いようだが、ぐずぐずを嫌悪しながら逃れられないのはなにも努力が足りないとは限らない、ぐずぐずにわざわざはまりたい人間はいない、意図せず知らぬ間にはまったのであり、多くの人にとって既に自由になれないところであり、それが怠惰や弱気やいい気などが原因とは限らない。人と人との不自由な関係性は目に見えにくいだけでそのようにぬきさしならない事情をもっているのが普通で。そういうものとぐずぐず、あるいは愚昧は近い関係にあり、だからけっしてあなどったり軽視できる性質のものではないと思う。こういうところを見ていないのか見えていないのか。

もううんざりだというような口調からすると、またあのきっぱりとした主人公を見るとこういうくすんで消耗していくような人生や人々などについてはほとんど関心がないのだろう。戦争や暴力などというが、また精神の孤独な苦難もあるが、こういう地味な困難を抱えた民衆のことは村上春樹クラスの作家がかりにも世界を語るなら抜きにできないはずだ。もっとほころびを、ただれを、腐れを、匂いを、もっとあかの溜まった表現をほしいところだ。さっぱり、すっきり、潔くというのは魅力だろうが、それでは世界は語れないし、重みも味も出てこない。だからマンガっぽく感じる。人生の重みというものを感じられない。

この要素が欠けているものはどんなに優れていようと文学の名に値しないと思うし、新しかろうが古かろうが、関係ない、滲み出てくるべきはずのものだ。

村上が人気があるのはこういうぐずぐずとして見栄えの悪い尻尾をひきずってないスマートさがあるからだろうか。だからファッショナブルな若者が好んで語るのか。それから都会的できれい好きのインテリに好かれる、それから人口的な空間の育ちの人間に受けるのか。 外国で受けるのは良く分からないが、外国でも一部の層に受けるのだろう。

現代は現代でも誰かが辺境で?畑で汗して野菜を作っているのに変わりはない。それを煮て食って排泄している器官もまた人間。自然。 人口社会はそういうものの上に成り立っているのは決して変わらない。

結果的に勝ち組に肩入れしているような…。負け組を見る暖かい目がない。それはもとから所属が勝ち組だからだ。挫折もあきらめも断絶も、村上さんの場合、勝ち組側の様態である。劣っているものにはもちろん、きっぱりせずぐずぐずした、ひきずられた、あるいは無意識のうちに時間の経過を見送った不用意だったそういう人生に目を向けていない。負け組に対する温かい目が無い。

きっかけを得るのは自力では大変だ、不可能とさえいえる。早いうちになにかしらつかまえるきっかけを得られた人はいい、求めても求めても得られず見送ったひとはどうなる。知の成果がまさか導き無しに誰にでも努力次第で得られるわけないし、そういう道筋に入ることさえ普通には難しく、迷っているうちに一般道を行くしかなくなる。きっかけさえない人のなんと多いことか。

まるっこく、鈍く、弱く、やさしいところがない女性ばかりで、いつもがっかりさせられる。

田舎の人間というものを知らない。 都会はいいが、田舎もないと都会もないのではないのか?

劣った人間、つまらない人間?いや実は純粋ともいえるのはこういう人たちで、その単純な力強さはある面では崇高なほどだ。実際地味に見えるが困難な仕事を着実になしとげていくのはこういう人達なのだ。驚くほど。

絵で言えば幻想的抽象画風でかっきりして中間色や濃淡の微妙がない感じ。背景も奥が深いようでいて狭い。ざれた肌合いや濁った色を極力嫌う感じの描き方。

「ありあわせ」を嫌いだとかいってもはじまらない。「ありあわせ」でもしのげてありがたいと思った経験が無いからこだわるのだろう。

しがらみを断ち切ることができないとはじまらないようだが、実際しがらみを断ち切れないところに生きるつらさがある。勇気がないといえばそうかもしれないが、しがらみから自由でない人は多いし、八方塞りがどこかに歴然としてある。他人の犠牲に成り立つ場合など。

世界を意識しているようでいて、若年層のしかも都会の人間しかその世界に対応していないような世界だ。内的なものはある面とても深いかもしれないが人生や社会がない。

それで子供っぽいというか、おじさん坊やみたいな感じがするわけだ

すごい才能なのだろうが、「世界的な作家」という評価に相応する貫禄がどこにあるのだろうか

星野くんのような運転手はほとんどいない。もっと単純で、どんなきっかけがあってもクラシックなど聞きはしない。違うだろ。ナカタさんも小奇麗過ぎるし、ささくれた田舎もんはいないんだなあ、といつも思う。

つまらないことでぐらぐらしない人間ばっかで、ある面バカにしっかりして断定調である。

コンプレックスを感じさせないと魅力がないと思うのだが。

そもそもが、相手がぶさいくだったら鼻も引っ掛けない、それではなにもはじまらないという世界である。

また、自分がモテることだけは信じて疑わないという、なぜかマジックが心にある。ここが迂闊だと意識することは無いのか?

いくら精神的にしのぎをけずる男女であってもブスに醜男だったら話にならない。すべてがそういう前提のない話だから人生がないわけだ。

ある種の差別意識を感じる。ぐずぐずして煮え切らないものへの嫌悪を感じる。

新しいはいいが、古いものを吸収していないで古いものから切れているだけでは、元も子もないという気がするが…。

こういうひとが世界的な作家であるのだろうか。

こういうのは才能があるとしても、どこまでいってもトッポイ男なのだという気がしてしまう。

悩みの出どこが深いだけでなく、すでに高尚なのだ、あるいはトッポイのだ。

田舎もんのひがみ・・・か?

不平不満ばかり、そして見下ろしたようなえらぶった言い回しまで出てしまったようで失礼。自分には本当は良く分からないところだらけで、見下ろした風なことは何もいえない(いえるわけがない)と思う。そういうつもりではない。

ある面ではものすごい人だと思うので、もう少し幅を広げてもらいたい。俗物と吐き捨てたい醜く劣った側にも人生があり、悩みがあり、出気の悪い人間だって一生懸命やっているし社会のためになっているし、そもそも自然の一環であるというような認識をもっとはっきり持ってもらいたい。その辺が欠落しているという自覚を持ってまわりを見直してもらいたい。自分が見えている部分では多くは語れないが、その辺だけは言えるような気がしている。そしてそういう大事なこと(ものすごく大事なことではないか!)を抜かしてあまりもっともらしく大きなことを語ってほしくない。まわりもあまりにもこの人を大きくイメージし過ぎのような気がする。

知識人は大体同じ側にいるので、おそらく自分の言うようなことに気がついている人が少ないはずだ。

知識人に対してはこういう正直で根源的なひとは強いだろう。考え方がおそらく借り物で無いから。でも、粗野で執拗な社会や厳しい生活環境などでもまれた経験は膨大な知識や鋭敏な感性だけでおぎなえるものではない。そして庶民にも通じる器の大きさ、それがないと大作家とはいえないと思う。

 

 


追記

2005-10-17 23:30:50 | 村上春樹
そうか。若者は最初はそういう読み方でも、悪くはないかもしれない。
文章の流れで下のように締めくくったが、全く外れていないにしても若者の受け止め方について自分の記したことは、ある一面について言えているだけかもしれない。


村上春樹「海辺のカフカ」を読んで

2005-10-17 23:08:52 | 村上春樹
村上春樹の「海辺のカフカ」を読んでみた(ただし読後2週間は経っている…)。
不思議な読後感があったが、最後まで続けるのが大変だった。
なんといっても消化不良の感が強く、もやもやがおさまらない。
物語に意味や脈絡を求めようとしても無駄だとは途中から分かった。なにしろ作者の方でそういふうに意図していないと思った。
それでも、わけもなく心に残るものがあればいいのだが、部分部分にはあるとしても総体としてはひっかかる重いものはなかった?ような印象だ。
粘っこく探りをいれて意図や方式を見出そうというような気も起きなかった。だいたいにして自分は学もないし。それにときどきまともなことをいっているようでもどこで作者が転調するか分からないから、根気良く付き合う気が失せてしまう。
ただしろうとしてなるべく素直に読んだつもりだが、心を強く惹かれる感触が残らなかった、といって嘘がないと思う。
それよりなぜこういうものが若者に受け、海外でも評価されているのか? そして作者のほうではどういう意図で、またどういう方法でこういう風に構成し表現を形作っているのかという疑問が強く残った、といえば当たっている気がする。
内容についてよく飲み込めないのは自分が未熟なせいなのかもしれない。でもこういうものを最近の若者がどう受け止めているのかを考えると、自分の分かりそうな部分でも問題があるような気がする。
何か最近の特に若い人などはよく分からないものに対して、ひょんなうわべの印象だけで、分かるものよりすごそう…、すごいかも?、すごい!と気持ちを盛り上げていくようなところがある。そこには理由を問う前に本質的にとらえられている本人がいるんではなく、いい感じの肯定的な気分に乗ってむしろ自身に向けて都合よく理由づけている本人がいるのではないか。あちこちで見かけた感想などを読むとどうもそんなふうに見える。すべてではないにしても。
しかし、そうなると感心したものではない。ほとんど力業めいているのだが、言い方を変えれば、幼稚な夢でも好きなように見させてくれる、ということにあてはまるのではないか、などと思ったりもしてしまう。ものごとを連絡させたりきちんと関連付けるとか、辛抱強く持続して考えるとか、そういうものをすっ飛ばにして安易な了解に行き着くということが…。好きなものを好きなとこだけ好きなように受け取っていいよ、脈絡がはっきりしていないし理由付けもないし、その気もないので読む側にこういう楽を許す、そしてそこにも疑念を与えない、口実さえいらない。カフカはそういう安易さを許す文体でもあると思う。これが最近の風潮とも通じ合う。
作家側はあえてそのように構成しているのかもしれないが、読む側が経験も反省もないところでいきなりすっ飛ばすなどあまり感心したことではないと思う。どうもそちら側に若者はいそうな気がするのだ。
作家本人が意図しないし、見えてもいないところで若者が安易に喜んで手を差し出して握手してしまっている。まずい結びつきのような気がする。意味がありそうなだけに。
だから村上春樹本人が自分の売れるのを不思議そうにしている。不思議なわけだ。その点では読者と同等になっているのではないか。
村上春樹はすごい才能なのかもしれないが、作品内容として同じようなことを表現するならもっと読者を選ぶような書き方が必要なのではないか。文学者としてはその点もっと意識されなければならないのではないか?
この点において無自覚な悪い教師になってしまっているのではないか?
人気のある文学という現象は、なんだかまともにはありえない気がする。

時間の都合もあり自分も突っ走って記してしまったが、また後、内容にもう少しだけ踏み込みたいし、訂正すべきところは訂正したいと思う。

始めてみる!

2005-10-17 00:38:57 | Weblog
ルーティンワークといいますが、どこかに閉じ込めないとなかなか始めれらないので、ここからスタートしてみようと思います。時間がないので少しづつでも根気強く続けて、なにかかたちになっていけばいいなあ・・・。とにかく始めてみないことには!