ところで、「ノルウェーの森」を読み直してみた。読み出したら止まらなくなった。
この本は多分20年近く前に読んだはずで、そのときの印象がずっと尾を引きずっていて、今の自分の村上春樹に対する批判的な言い方に繋がっているという気がしていたけど、今回読み直してみて衝撃を受けた。記憶のイメージとはずいぶん違って思っていたよりずっと重い内容に受け取れた。自分は果たして本当にこれを読んでいたのかと疑うほどだ。表現法の違いもあるが、カフカに感じるような浮き足立ったと感じられる表現がほとんどなく、しっくりと根ざしている。
「直子は僕を愛してさえいなかったのだ」という理由が、どこをどう解釈すれば出てくるのかよく解せないのだが、キズキの死と向かい合うことから逃れられない、逃れたくない、そこでなぜかワタナベに一度だけでも反応してしまった自分の体が真の絶頂に達したのを認めざるを得ない。しかし認められない、許せない。ワタナベを認めながらもこの矛盾に激しく苦しみながら自ら命を絶った? 病魔というのはしかし、理屈を超えて個人を呪縛し死へと導いていくものだろうから、何故という理由は分からないまま、余韻を受け止めるしかないかと思ったりもする。
ただ、重くリアルにしっかり書き込まれているのに驚く反面、やっぱり自分がこれまで書いてきたような違和感というのもはっきり感じられた。
突撃隊、永沢さん、緑やレイコさんも、実在感がありながら、どこか戯画的なキャラと自分は感じた。カフカなどの作品に見られるメタファー的な村上作品世界を彷彿とさせるようなキャラ。強調して象徴的に描き出す、その手法が控えめだが自然に出ているような気がした。そして皆、有能である。突撃隊ぐらいなもので、あとはみんな能力者だ。やっぱり無能な人間はうまく描けないのだろう。緑の父の描写だけは、口もろくにきけない寝たきり病人であるせいか、よく描けていた感じがしたが、その他の下劣なことには背景がなく単に下劣なこととして吐き捨てられている。この辺が自分としては他の作品と同様ここでも一面的に感じるところだ。
そして、この作品にも一貫しているセックスに対する障壁のなさというか自由さは、この人特有という感じがした。特に20年も前にネット時代でもないその頃にこれだけの奔放さというのは、当時の一般の読者の多くは驚いて、普通の気持ちで読みつなぐことが難しかったと思う。
この作品を流れる沈着で重いムードをじっくりと受け止めて読み進めていく中で、何度も登場する性的な場面の描写がいかにも唐突な感じを受けるのは自分だけではないと思う。死や病魔と隣り合わせの恐ろしくデリケートで微妙な間柄の男女が、ごく普通の会話の中でいきなり、誰と寝た、何人と寝た、マスターベーションをしたという話になり、すぐに手でしてくれただの舐めてくれただのという。この辺のあまりのすんなりが奇異な感じがする。
さらにワタナベ君に限っては、言い方をかえれば、あらゆる女にたかられてうんざりするぐらいモテる。それで一度も呆れられたりがっかりされたりしない、他のことがうまく運ばないのにその点だけは一貫して奇跡のように順風だ。ここまで来ると、嫌味に感じる(というか村上作品の主人公はいつもこのパターンだから、ということもある)。こんなにもてる人間がなぜこれほどの精神性を持つことができるのだろう。生まれもっての高貴の人か? それにしても均衡の取れた人間なら、いざその場面となれば肉体性と精神性の葛藤があってしかるべきではないか。
他のことはすべてひどく客観的に描けるのに、その線だけはやけに一様だ。精神的にきちんと通じ合えば、あとは互いに自然にご開帳。押しとどめるものはなにひとつない。そしてそれが互いの真の理解というものだ。というようである。こういう場合むしろ普通は、話は通じたがいいがその後が難しい。愛すればこそ躊躇する。たとえば、顔が良くても毛脛があれば恥ずかしい、立派でなければためらわれる。コンプレックスのあり方が様々な形で前に出てこよう。そして何より理由もなく罪を感じる意識というのがちらりとでもないものだろうか、この人は恐ろしく繊細なのにこの分野だけは特別なのか得意なのか、無邪気にのめり込んでいる感じがする。ギラギラしていないのも特徴で(ギラギラであっはん、うっふんになってしまうのだったら、まだ許せるかも)、まるでその場面になると童心に帰るような雰囲気があるのもまた不思議。大人の現実や精神性が急に後退して、無垢な子供にいつの間にかなりかわって無邪気に交わるみたいな感じもある。これがまた不自然だ。
もう一方、意図的に強調しているのかという疑いもある。こちらの文学のどちらかといえばためらわれる禁欲的な流れを意識して、強いて呪縛を解いて日常的な感覚の中にそういうものを入れて、なんでもないものとし、それを超えた問題の方に視線を持っていこうという態度なのか。コンプレックスが土台の文学はもう古い、ぶざまだからやめて一歩先に進もう、という態度なのか。また翻訳にしても売れるための方策だろうか、計算上ある面アメリカばりをなぞらえる必要があったのか。これがないと日本のものは刺激が薄すぎると受けをねらってのことだろうか。
恋愛ものとはいえ、単なる美談に終わらせないためにしっかりセックスを語らないときれいごとになりすぎるということなのだろうか。もろににマスターベーションと言わないと。しかし直子との草原での接触や最後のレイコとのシーンまで来ると、さすがにげっそりする。レイコとまでやるのかよ!
「ノルウェーの森」はキズキや直子の死をめぐっての様々なことがらが、誇張なく本当によくぞ丹念に描けていて感心するところが多かった。しかし同時にセックスのフリーさが奇妙な矢のようにぐさっと全体を貫いて刺さっている、その違和感がどうにも大きくてやりきれないと感じる人は多いだろう。これはどうかな、ではなくこれはイカン!だと見切りをつける人も。これをポルノ小説という人がいるわけである。
性的な分野に関する限り、村上春樹には文学性というより特異性(得意性でもいい)を感じるばかりだ。この点ばっかり気にする自分がおかしいのかもしれないが、愛が主題なのだから、この点を気にしないわけにはいかない。この小説はリアルな描き方をしているという前提で見ると、こういう男女の性のありかたを非常に不自然と感じ、魅力を感じないのである。こういうふうに「する」男女ははっきり言って変だ。好きとか嫌い以前に奇妙な感じがする。何度もいうように他の点ではすごい作品と思うのだが。
この本は多分20年近く前に読んだはずで、そのときの印象がずっと尾を引きずっていて、今の自分の村上春樹に対する批判的な言い方に繋がっているという気がしていたけど、今回読み直してみて衝撃を受けた。記憶のイメージとはずいぶん違って思っていたよりずっと重い内容に受け取れた。自分は果たして本当にこれを読んでいたのかと疑うほどだ。表現法の違いもあるが、カフカに感じるような浮き足立ったと感じられる表現がほとんどなく、しっくりと根ざしている。
「直子は僕を愛してさえいなかったのだ」という理由が、どこをどう解釈すれば出てくるのかよく解せないのだが、キズキの死と向かい合うことから逃れられない、逃れたくない、そこでなぜかワタナベに一度だけでも反応してしまった自分の体が真の絶頂に達したのを認めざるを得ない。しかし認められない、許せない。ワタナベを認めながらもこの矛盾に激しく苦しみながら自ら命を絶った? 病魔というのはしかし、理屈を超えて個人を呪縛し死へと導いていくものだろうから、何故という理由は分からないまま、余韻を受け止めるしかないかと思ったりもする。
ただ、重くリアルにしっかり書き込まれているのに驚く反面、やっぱり自分がこれまで書いてきたような違和感というのもはっきり感じられた。
突撃隊、永沢さん、緑やレイコさんも、実在感がありながら、どこか戯画的なキャラと自分は感じた。カフカなどの作品に見られるメタファー的な村上作品世界を彷彿とさせるようなキャラ。強調して象徴的に描き出す、その手法が控えめだが自然に出ているような気がした。そして皆、有能である。突撃隊ぐらいなもので、あとはみんな能力者だ。やっぱり無能な人間はうまく描けないのだろう。緑の父の描写だけは、口もろくにきけない寝たきり病人であるせいか、よく描けていた感じがしたが、その他の下劣なことには背景がなく単に下劣なこととして吐き捨てられている。この辺が自分としては他の作品と同様ここでも一面的に感じるところだ。
そして、この作品にも一貫しているセックスに対する障壁のなさというか自由さは、この人特有という感じがした。特に20年も前にネット時代でもないその頃にこれだけの奔放さというのは、当時の一般の読者の多くは驚いて、普通の気持ちで読みつなぐことが難しかったと思う。
この作品を流れる沈着で重いムードをじっくりと受け止めて読み進めていく中で、何度も登場する性的な場面の描写がいかにも唐突な感じを受けるのは自分だけではないと思う。死や病魔と隣り合わせの恐ろしくデリケートで微妙な間柄の男女が、ごく普通の会話の中でいきなり、誰と寝た、何人と寝た、マスターベーションをしたという話になり、すぐに手でしてくれただの舐めてくれただのという。この辺のあまりのすんなりが奇異な感じがする。
さらにワタナベ君に限っては、言い方をかえれば、あらゆる女にたかられてうんざりするぐらいモテる。それで一度も呆れられたりがっかりされたりしない、他のことがうまく運ばないのにその点だけは一貫して奇跡のように順風だ。ここまで来ると、嫌味に感じる(というか村上作品の主人公はいつもこのパターンだから、ということもある)。こんなにもてる人間がなぜこれほどの精神性を持つことができるのだろう。生まれもっての高貴の人か? それにしても均衡の取れた人間なら、いざその場面となれば肉体性と精神性の葛藤があってしかるべきではないか。
他のことはすべてひどく客観的に描けるのに、その線だけはやけに一様だ。精神的にきちんと通じ合えば、あとは互いに自然にご開帳。押しとどめるものはなにひとつない。そしてそれが互いの真の理解というものだ。というようである。こういう場合むしろ普通は、話は通じたがいいがその後が難しい。愛すればこそ躊躇する。たとえば、顔が良くても毛脛があれば恥ずかしい、立派でなければためらわれる。コンプレックスのあり方が様々な形で前に出てこよう。そして何より理由もなく罪を感じる意識というのがちらりとでもないものだろうか、この人は恐ろしく繊細なのにこの分野だけは特別なのか得意なのか、無邪気にのめり込んでいる感じがする。ギラギラしていないのも特徴で(ギラギラであっはん、うっふんになってしまうのだったら、まだ許せるかも)、まるでその場面になると童心に帰るような雰囲気があるのもまた不思議。大人の現実や精神性が急に後退して、無垢な子供にいつの間にかなりかわって無邪気に交わるみたいな感じもある。これがまた不自然だ。
もう一方、意図的に強調しているのかという疑いもある。こちらの文学のどちらかといえばためらわれる禁欲的な流れを意識して、強いて呪縛を解いて日常的な感覚の中にそういうものを入れて、なんでもないものとし、それを超えた問題の方に視線を持っていこうという態度なのか。コンプレックスが土台の文学はもう古い、ぶざまだからやめて一歩先に進もう、という態度なのか。また翻訳にしても売れるための方策だろうか、計算上ある面アメリカばりをなぞらえる必要があったのか。これがないと日本のものは刺激が薄すぎると受けをねらってのことだろうか。
恋愛ものとはいえ、単なる美談に終わらせないためにしっかりセックスを語らないときれいごとになりすぎるということなのだろうか。もろににマスターベーションと言わないと。しかし直子との草原での接触や最後のレイコとのシーンまで来ると、さすがにげっそりする。レイコとまでやるのかよ!
「ノルウェーの森」はキズキや直子の死をめぐっての様々なことがらが、誇張なく本当によくぞ丹念に描けていて感心するところが多かった。しかし同時にセックスのフリーさが奇妙な矢のようにぐさっと全体を貫いて刺さっている、その違和感がどうにも大きくてやりきれないと感じる人は多いだろう。これはどうかな、ではなくこれはイカン!だと見切りをつける人も。これをポルノ小説という人がいるわけである。
性的な分野に関する限り、村上春樹には文学性というより特異性(得意性でもいい)を感じるばかりだ。この点ばっかり気にする自分がおかしいのかもしれないが、愛が主題なのだから、この点を気にしないわけにはいかない。この小説はリアルな描き方をしているという前提で見ると、こういう男女の性のありかたを非常に不自然と感じ、魅力を感じないのである。こういうふうに「する」男女ははっきり言って変だ。好きとか嫌い以前に奇妙な感じがする。何度もいうように他の点ではすごい作品と思うのだが。