ブログを見て回ってみると、村上春樹擁護派ばかりで形勢が悪いと感じる。
でも、なにも自分だってむげに何もかも反対というわけではない。作家としての態度に節操がある。作品自体も変に刺激的で誤解されやすいような内容でなく、気安く近寄れないような雰囲気を持っていると思う。その点、有名な芥川賞やその他の賞をとっているような作家でも、安易な言動で、自分らの作品自体の意味はともかくとして、やっていることの影響ということがほとんど見えていないような人も自分の知るだけで何人もいる。
その前に作品も少ししか読んでいないし、自分の側の能力で推し量れるような人物とは思っていない。普通なら語る資格なしというところだろう。ただ、数少ない接触の中でも自分にはっきり見えた部分があって、それがすごく気になるということなのだ。ささいなようでいて実は重大なこと。才能として圧倒的で世界に誇れると語られる人だけに、ほとんどカリスマ的権威になろうという勢いだけに、自分としては恥ずかしながら片隅から言っておきたいと思うのだ。
世の中にはさえないことをありあわせで延々と続けているような人たちがいて、ダサくて見栄えも悪いし、なにもはっきりしないが、それでも世界の下支えをやっているのは多くこういう人たちなのであり、そうやって土や畑や林と取っ組んでいる地方の人間がいなかったら都会もないのだということ。そしてそういう世界の辺境(これは村上さんのいう辺境とは全く意味が違うが)にいるような人たちのいかに黙々と多いことか。
ぼろぞうきんのようなそういう人たちがやっていることは、それこそ知的な都会人には堪えられないような地味で辛抱のいる仕事だ。このぼろぞうきんは想像力でおぎなえるようなしろものではない。知的な努力では近寄れない場所。そして肉体的な鍛錬や操作によって呼び寄せられるような領域でもない。残念ながら。
だから、これを直に描けなければ、せめてこういうものの欠落感を描けばいいのだ。近づき得ない意識を出せばいいのだ。のりの利いたワイシャツを喜ぶ代わりに、もらいもののジャンバーをいにしえにして離さない臭うおじさんを描いたっておかしくない。
社会や人生のこうした面をちっとも描かない、描けない、これがひどく物足りない。村上春樹クラスとしたら、大いなる欠落として感じられてしまうのだ。
自分は作品にはその人間の生きてきた経験がほぼ正直に反映されるものと思うので、エリートクラスの階段を上がった苦労の軌跡をもつ人間には無理な注文と思う。どっちにしてもどうやっても欠落はあるとして、今何が欠落してはならないのか、バランス的に考えてみることが必要ではないか。
都会の人間が都会のことを語るのはいいが、それは大勢がすでにやっていることだ。しかし、そればかりでは世界を描き出せない。都会の人間が田舎のことを直接語るのが無理としても、都会のことを語るのに田舎を背景に感じる。こういう幅の広さがないと話にならない。その点では昔の文人は都会育ちでさえ田舎の雰囲気を自然に持っていた。まあ、ものに不自由するような生活環境で、世界が今に比べれば見渡しやすかった時代ではあるが。
村上春樹はしかし、単純に都会の人間というのでもないだろう。なにかもう自分の経験が溶け込んだ肉体から心を澄ますと自然と物語が出てくる、というようだ。これは確かに自然かもしれないし素晴らしいのかもしれないが、こうなると抽出の条件として作家的隠遁生活を前提とする形になり、そして都会も田舎もない、生活の匂いがなくなってくると、だんだん作品が浮世離れしてくる。これもまた危険ではないか。文学が純度を増すかもしれないが、それを読んで感動する心で生活に帰れなくなる。作家はそれでいい、書いて食うのだから。だが一般の人はそういうわけにはいかないのである。ということでそういう作品は芸術品だとしても文学でないし、社会的にはたたえるべき価値や意味がないのではないか。むしろ危ういものとして置かれるべきなのだ。
なんだか図式的になってきてしまったが、内容が伴っていないだろうか。
でも、なにも自分だってむげに何もかも反対というわけではない。作家としての態度に節操がある。作品自体も変に刺激的で誤解されやすいような内容でなく、気安く近寄れないような雰囲気を持っていると思う。その点、有名な芥川賞やその他の賞をとっているような作家でも、安易な言動で、自分らの作品自体の意味はともかくとして、やっていることの影響ということがほとんど見えていないような人も自分の知るだけで何人もいる。
その前に作品も少ししか読んでいないし、自分の側の能力で推し量れるような人物とは思っていない。普通なら語る資格なしというところだろう。ただ、数少ない接触の中でも自分にはっきり見えた部分があって、それがすごく気になるということなのだ。ささいなようでいて実は重大なこと。才能として圧倒的で世界に誇れると語られる人だけに、ほとんどカリスマ的権威になろうという勢いだけに、自分としては恥ずかしながら片隅から言っておきたいと思うのだ。
世の中にはさえないことをありあわせで延々と続けているような人たちがいて、ダサくて見栄えも悪いし、なにもはっきりしないが、それでも世界の下支えをやっているのは多くこういう人たちなのであり、そうやって土や畑や林と取っ組んでいる地方の人間がいなかったら都会もないのだということ。そしてそういう世界の辺境(これは村上さんのいう辺境とは全く意味が違うが)にいるような人たちのいかに黙々と多いことか。
ぼろぞうきんのようなそういう人たちがやっていることは、それこそ知的な都会人には堪えられないような地味で辛抱のいる仕事だ。このぼろぞうきんは想像力でおぎなえるようなしろものではない。知的な努力では近寄れない場所。そして肉体的な鍛錬や操作によって呼び寄せられるような領域でもない。残念ながら。
だから、これを直に描けなければ、せめてこういうものの欠落感を描けばいいのだ。近づき得ない意識を出せばいいのだ。のりの利いたワイシャツを喜ぶ代わりに、もらいもののジャンバーをいにしえにして離さない臭うおじさんを描いたっておかしくない。
社会や人生のこうした面をちっとも描かない、描けない、これがひどく物足りない。村上春樹クラスとしたら、大いなる欠落として感じられてしまうのだ。
自分は作品にはその人間の生きてきた経験がほぼ正直に反映されるものと思うので、エリートクラスの階段を上がった苦労の軌跡をもつ人間には無理な注文と思う。どっちにしてもどうやっても欠落はあるとして、今何が欠落してはならないのか、バランス的に考えてみることが必要ではないか。
都会の人間が都会のことを語るのはいいが、それは大勢がすでにやっていることだ。しかし、そればかりでは世界を描き出せない。都会の人間が田舎のことを直接語るのが無理としても、都会のことを語るのに田舎を背景に感じる。こういう幅の広さがないと話にならない。その点では昔の文人は都会育ちでさえ田舎の雰囲気を自然に持っていた。まあ、ものに不自由するような生活環境で、世界が今に比べれば見渡しやすかった時代ではあるが。
村上春樹はしかし、単純に都会の人間というのでもないだろう。なにかもう自分の経験が溶け込んだ肉体から心を澄ますと自然と物語が出てくる、というようだ。これは確かに自然かもしれないし素晴らしいのかもしれないが、こうなると抽出の条件として作家的隠遁生活を前提とする形になり、そして都会も田舎もない、生活の匂いがなくなってくると、だんだん作品が浮世離れしてくる。これもまた危険ではないか。文学が純度を増すかもしれないが、それを読んで感動する心で生活に帰れなくなる。作家はそれでいい、書いて食うのだから。だが一般の人はそういうわけにはいかないのである。ということでそういう作品は芸術品だとしても文学でないし、社会的にはたたえるべき価値や意味がないのではないか。むしろ危ういものとして置かれるべきなのだ。
なんだか図式的になってきてしまったが、内容が伴っていないだろうか。