あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

村上春樹を読んで考えたこと その5

2005-11-08 21:02:45 | 村上春樹

村上作品は何故か非常に人気があるのは確かみたいだが、そこに生産的といえるような触れ合いが果たしてあるのだろうか。
読者の多くは、説明できないがなんとなく心を惹かれる、ショックを受けた、魅力的だ、というような感想をもらしている。こういうことばがすべて深いところから?出ているのだとしても、同時にそれはゆるいところへ結びついていないか。ムード重視で、その場的で、あとくされもないかわりになんのステップにもならない、日本人に特有のあいまいで感覚的なところにうまく取り入っているのではないか。おそらく知識人には自分にも分からないよう難しい部分で評価されている。しかし、無知な人たちはまったく無防備にやられてしまう。それで何が悪いかということはよく分からない。

ただ、若い人に見られる、瞬間感覚的な、ムード重視でふわふわしたもの、こういう性向をむしろ助長し、腰砕けに加担しているのがこういう文学の働きのひとつだとすれば、あまり積極的な意味や地位を与えて賞賛するべきものではない。社会的に価値のありそうな位置に置くべきものではないのではないか。

とらえられるかられないかは別として、見るにはしっかり見る、判断するところははっきり判断し、反省的に進んでいく、これは生きていくうえですごく重要なことだと思う。しかし村上作品を読み進めるうちに、理由なんて要らない、分からなくてもいいものはいいという具合に、懐疑的であったり反省的であったりという態度を取りにくくなってくる。なにしろ心は奪われても? こちらからなにもはっきりさせることが不可能という気にさせられる。現実生活ではあらゆる場面ではっきりした判断や決断を迫られるのに、ここにあるのはフィーリングしかない。

このパターンに慣れてしまうと、謎解きをする気がしなくなる。謎は謎でいい。いいからいい。それで終わりだ。作者自体も自分でも分からないといっているのだから、なおさらだ。無意識と無意識が理性の届かないところで深い有機的な交流をして何か新しいものを生成している、素晴らしいことだ・・・。そう信じればいいのだろうか?
作家も作品も数あれば、様々なかたちがあって当然だし、どんなパターンだって視点を変えてみれば評価すべき点が出てくると思う。なにしろこの複雑多様化した社会なのだから。しかし、村上さんの作品の位置づけは特別なものとなっていて、及ぼす影響も一種の社会現象のように格段に大きいものとなっていると思う。でも、だれもこうした疑問を投げかけることがない。いや投げかけているのかもしれないが、自分には聞こえてこない。

自分は無知だし、相当にバカでもある。でも、無知なりにこのように考えることが根本的におかしいのだろうかと思ってしまうのである。
自分にはよく分からない。


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