あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

村上春樹を読んで 最も根本的な問題

2005-11-14 19:31:38 | 村上春樹

村上春樹について何度も記しているが、別になんの恨みがあるわけではないし、おそらく自分の知らない部分で自分の想像を超える巨人のような人なのかもしれない。知識人の方々からすれば、自分の言うようなことはたわごとに過ぎず、一顧だにする価値も無い。だからほっとけ、馬鹿馬鹿しいで終わりなのだろう。そもそもがしっかり作品を読み込んでいないし、自分の思い込みや勝手な推論でどんどん押して行ってとんでもないところで訳も分からない勘違いを叫んでいる。やくざな野郎だ。そんな風にいわれるのかもしれない。
確かにこうして慣れない文章をつないでみると、どんどん線で繋がっていくようで、なんだか最初に感じていたのより厚みの無い表現になって、なにか大事なものをいっぱい取りこぼしている。そんな感じがぬぐい得ない。そもそも考えることも、書くこともタメがない、辛抱が足りない…。確かにそうかもしれない。
しかし、ないないずくしでいうなら、そういう自分の努力が足りないという前に時間がないのだ。我々しがない庶民にとってはこうして書く時間は限られた短いこま切れの時間であるのが普通で、じっくり考え出したら自分の頭の悪いせいもあるだろうが、相応のまとまった落ち着ける時間というものが必要で、同じく落ち着ける空間、その他干渉の無い条件が必要なのだ。これは自分にとってばかりでなく、多くの人たちにとっての普通の現実であろう。だからこの現実上においてじっくりを要求されても前回書いたことと同様、我々庶民には無理ということがある。怠慢という前に無理なのだ。集中できるだけの数時間を都合することがなかなかかなわない。たとえ何かはできても、それを持続することはまずほとんど無理だ。
ところがどうだろう、多くの難かしい文学がそうであるように、村上さんの作品だって、われわれに非現実的な「じっくり}を要求していないだろうか。それに対してじっくり対応できないのを分かりつつ、書き散らかさずにいられなくなって、どんどん書く。足りないのは分かっている、分かっていながらこれでいいのだというところははっきりある。なぜなら準備立ててじっくりできない。それが現実だから。都合できないのが現実なのだから。そして多くの人にとっても(考え方は全然違うだろうが)おそらくこんなものだ。
言い訳であると同時に言い訳ではない。この状態においてそそくさと頭を悩まし、そそくさと思っていること思いついたことを、そそくさと書き散らかす。そんなもんが・・・しかし、これが普通の状態なのだ。無理して準備立てて周到にやろうとすると、途中で挫折するに決まっている。
何を言いたいのか自分でも分からなくなってしまいそうだが、要するに才能があるないとかバカとか利巧とか言う前に、何かそもそも最初からずれていると思うのだ。ひどく、恐ろしいほどずれている。
作家の人たちはもともと才能があるところに長い時間切磋琢磨し勉強して、そして報われて作家という有名人になり、特別な身分になった。それで飯を食っている。だから仕事自体が考えること書くこと創造することになっている。それでそういう生活から集約されてできあがった念の入った作品を自分らは読む。しかし、遠い。あまりにも遠い、いや遠くなってしまったといえばいいのか。
つまり、作家先生の境遇というものがあまりに我々庶民的な境遇と違うので、作品として結晶したものが何を語ろうが、それは必然、作家の境遇が、状況における状態も含めて生み出したもので、むしろ純度が高ければそれだけ必然的に我々と疎遠の内実となって実るはずだ。積み上げの高さも考えの深さもテンポも全然我々のレベルでない、それが我々にまともに響くはずが無い。それが例えどんなに優れたもの?であろうとも、我々にとって、そしてだから当然今の社会にとっても、理解できないばかりでなく取り入れられない、使えない、つまりは無用のものともなってしまっている・・・のではないだろうか。おかしな話だが、それが事実ではないか。
昔はまだよかった、作家は今のようなステータスがなかっただろうし、情報は行き届かず、全般に不便な時代で、自然にも近く、考えも単純で知識の積み上げも浅かったろう。しかしその分地べたに近く、読む側にも親しかった。今ほど複雑で人工的でない社会にもきちんと作用する部分はあったかもしれない。
ところが今では、作家は顔の知れた有名人であり、名誉なきちんとした職業であり、身分以上の特権階級に近い。いくらすばらしい才能が努力を重ねたとしても、かえってそれゆえに固めてしまうところの、特別なわくにはまったところから、この下界に向けてしっかり響き渡るような創造がなし得ようがないはずである。
そこで、なぜか誰も取り上げない素朴といえば素朴な疑問。

なぜ作家の人は筆でだけ食うことを選ぶのか?
(これは特殊業であり、仕事が書くこと考えることなのだから、時間に不自由することはない。またほぼ孤独な単独の作業である。一方、様々な人々の間で忙しく判断し手足をはたらく一般業の感覚からはぐっと遠のく。対極にある現場のようなものだ。)
なぜマスコミに不用意に顔を出したりするのか?
なぜ名を伏せないのか?
(有名人であり特別な人としてどこにいってももてはやされるだけでなく、街中でも普通の行動は取れない。いつでも特別ルームのお偉いさんになってしまう。わざわざ普通の生活感覚を締め出しているようなものだ。お偉い有名人であるのはいい気分なのだろうが。)
なぜ、一部でも庶民と足並みを揃える必要を感じないのか?  
(一般社会の中で人並みの経験なくして、想像力で補えるものではない。視線を無理してでもその辺に置こうとする努力もなければ社会を理解することができず、よって文学的に世界など語ることはできっこない。)
そのように考える頭だけはないのか? 
その辺で痛む良心はないのか? 
(考えないとすると、相当にイカレていると思う。あっちの人みたいなものだ。
分かっていて甘んじるのはやはりずるい。ここを突かれないのをいいことにこの問題に向き合おうとしないのは、おかしい。深遠な問題の前にこういう卑近な問題に当たらないのは大いなる矛盾ではないか。)
作家の不誠実・・・。○○賞を取って有名になったところから間違いが始まる、と自分などは思ってしまう。
別にキミたちには簡単に分からないはずから不用意に読むのはよしなさい、我々は専門家だから、というお断りがあれば問題はない。また学者や大衆作家はそれでもいいと思う。でも、孤独に(スポンサー付だが)山を攻めて、はるかなる頂に立ったとして、それは立派かもしれないが、すでに下界は雲の下、霞んで見える遠景ということにならないだろうか? 文学の名を語るならその辺の厳しい自覚が必要なのではないだろうか。

同じような内容を前にも記したと思うが、この点についてはもうちょっと言わせてもらいたい気がする。


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