
秋の終わりではなかったかと思う。
ビルとビルの間に沈んでゆく、赤く
枯れたような夕陽を見たアメリカ人
の友人が、「こんな風景、何だか淋
しくなる」とつぶやいたことがあ
った。思わず「アメリカ人でも夕陽
を見て淋しくなることがあるの?」
と聞くと、「そりゃあるわ。失礼ね」
と彼女は少し憤慨していた。
淋しさは、まるで隙間風のように
心に入り込む。そのまま通り過ぎて
くれたらいいけれど、心の片隅で小
さな渦になり、ときどきそこを栖(
すみか)としてしまう。
淋しさに心も体も乗っ取られは
困るし、「ひとはみんな淋しいも
のよ」と断言されてしまっても
困ってしまう。けれどなぜかその
感情を嫌いではないのだ。
しあわせや喜びは何となく想像
できる。でも淋しさはどうだろ
う。淋しい人に向かって、「わか
るよ」と言ってあげられるだろう
か。私にできることは、ただ隣に
いて手を握ってあげることくらい。
淋しさが嫌いではないのは、その
向こう側にあるささやかなぬく
もりの美しさを知っているから。
ひとりだけど、決してひとりで
はないと信じているからなのだ
ろう。