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愛国保守のメルマガ特集

現在の日本は危険な状態です。国内に反日勢力が蠢いています。在日朝鮮人、中国人がいます。また、外国のスパイが野放しです。

「移民」、これだけある問題の数々 正論トークライブで論客が白熱議論

2014-07-08 10:58:54 | 政治

「移民」、これだけある問題の数々 正論トークライブで論客が白熱議論

産経新聞

産経新聞 23時間前 産経新聞

 

 

 トークライブ「日本を移民国家にしてよいのか」(雑誌「正論」主催)が6日午後、東京都新宿区のホテルグランドヒル市ケ谷で行われ、評論家の西尾幹二氏の司会で、パネリストたちが移民問題について活発に話し合った。会場には約800人の観覧者が集まり、議論にも参加した。

 トークライブは、政府が推進・検討する外国人労働者受け入れ拡大策や移民政策について、その問題点や是非を考える材料を広く提供しようと企画された。パネリストとして評論家の関岡英之氏、ノンフィクション作家の河添恵子氏、元警視庁刑事の坂東忠信氏、経済評論家の三橋貴明氏、産経新聞社の河合雅司論説委員が順々に、現状などをリポート。その後、フリートークで議論を深めた。

 西尾氏と各パネリストの主張は以下の通り。

■西尾氏 移民を送り出す国のパワーに依存していいのか

 「移民を受け入れれば、移民を送り出す国のパワーに依存することになる。在住期限を切るからいいという意見もあるが、どんなに期限を設けても必ず定住する。そして、移民も年をとれば介護の問題も生じる。移民は日本社会で出世も求めていくだろう。日本社会には階級がないのだから、外国人を一定の仕事だけさせておくことができない。そのとき、日本社会はどう対応するのか。

 海外は、移民を受け入れても冷徹。シンガポールでは、メードが妊娠したら、すぐに帰国させる。日本ではそんなことはできない。日本は宗教的に懐が深い民族だからと、他国民を容認すべきという意見もあるが、一気に外国人を受け入れるという移民とは、まったく別の話だ。断固反対だ」

■関岡氏 反日教育を受けた中国人の増加を警戒すべき

 「安倍政権は素晴らしい政権だが、だからこそ、こういう問題でつまずいて欲しくない。外国人の技能制度では、いままで認められていなかった再入国を認め、期間も延長。業種も建設業だけといっていたのが、造船業も含めてしまった。

 労働力不足の解決というが、移民を受け入れれば、日本人が加害者にもなり得るという問題も考えるべきだ。現在でも不心得な企業が安い残業代しか払わなかったり、パワハラがあったりと問題を起こしている。

 そもそも発展途上国への国際協力だったのに、中国人の単純労働者の受け入れに成り下がっている。現在反日教育を受けた中国人が増えている。中国人を差別する気はないが、中国共産党の特殊な国家の問題であることを認識すべきだ」

■河添氏 中国人が半数超? 住民構成はあっという間に変わる

 「中国が天安門事件で無政府状態になっているとき、多くの中国人が国を逃れた。多くがユーラシア大陸の陸路を渡ってルーマニアに移動した。私は現場を見たが、多くの人が昼間は粗悪品を売る物売りをし、夜間は賭け事のカジノにいた。いま、中国は国として、人民にどんどん外国へ出て行けという政策を進めているのではないか。

 2000年以降、世界各地で見られるアジア人の多くが中国人となった。その結果、カナダやオーストラリア、ニュージーランドなど移民立国では、わずか10年ほどでどういうことが起きたか。例えば、カナダのある都市では、中国人が住民の半数以上を占めるようになった。住民構成というのは、これだけ早く変わっていく」

■坂東氏 目の前の中国人犯罪を解決できないのに…

 「移民政策を進める前に、現状を考えたい。東京の都市には、中国人の犯罪や売春をうかがわせる広告があふれている。北京語で『ビザの切れた方、なりすましで入国した方、氏名生年月日の書き換えで入国した密航者や不法滞在の皆さんを、黒から白にします』と書かれたものまである。

 東京など大都市だけではなく、岡山レベルの都市でも中国人売春組織があることがうかがえる。脱法ハーブも、中国人にしか分からない場所でやりとりされている。中国人社会には、警察官も介入が難しいのが実情で、中国人犯罪は表面化しにくい。こうした問題を解決せずに、移民を進めていいのか」

■三橋氏 人材投資、設備投資をたたき潰す政策だ

 「現在は、仕事があるが、人がいない、物がつくれないという状況で、それを外国人で埋めようとしているが、受け入れが進められようとしている建設業も造船業も、私たちの安全保障を担う産業だ。東日本大震災のとき、まず現場に入ったのは土木建設業であり、海上自衛隊の艦艇や海上保安庁の船を造っているのは造船業。

 こういう仕事を外国人がやるものだと思ってしまえば、日本人がやらなくなってしまう。そういう重要なところを外国人、特に中国人に依存していいのか。そうなったら、機密がだだ漏れだ。かつての日本の高度成長期は生産性の向上がもたらしたものであり、人材投資、設備投資を行ったからだ。それをたたきつぶそうとしているのが、いまの政策だ」

■河合論説委員 国民的議論で、さまざまな労働力活用を

 「産経新聞は外国人を受け入れることをすべて否定しているわけではないが、国民的な議論もなく、なし崩し的に受け入れることは認めないという立場だ。日本にも労働力として活躍できる人材はたくさんある。女性もそうかもしれないし、高齢者、若者、すべてを考え、そのうえで議論されるべきだ。私個人の考えでは、目前の労働力不足という問題だけで単純に考えていいテーマだろうかと思う。いまのままの低い出生率で推移すれば、毎年20万人の移民を受け入れていくと100年後には3人に1人は移民となる。そういう現実もよく考えるべきだ」

(トークライブの詳細は、8月1日発売の正論9月号に掲載されます)

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 アメブロでこの記事を掲載しようとしたら不適切な表現があると言われて掲載出来ませんでした。恐らく中国人のことを書いてあるからでしょう。アメブロは読者が多いけれど言論統制を厳しくしています。

それでこのブログに掲載しました。移民には反対です。「日本列島は日本人のものです。2000年前から日本人の国です」今更、外国人に住まわせてはなりません。今、我が国に必要なのは、グローバリズムとか国際化ではありません。「尊王攘夷・国体護持」が最も大事なことです。明治維新の情勢と似ています。

今こそ、平成維新が必要です。


韓国問題-歴史編 第3部 「お家の事情」の歴史観 : 3-7 韓国史観と日本史教科書

2014-06-16 16:10:10 | 政治

■■■ Japan On the Globe ■■■ 国際派日本人養成講座 ■■■

韓国問題-歴史編 第3部 「お家の事情」の歴史観
3-7 韓国史観と日本史教科書

 韓国に関する記述を読み比べると、我が国の歴史教科書の中に韓国の反日史観が組み込まれている様が見えてくる。
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■1.韓国からの異常な干渉■

 4年に一度の中学校の教科書採択作業が進んでいるが、扶桑社の歴史・公民教科書の採択阻止に向けて、今回は韓国からの干渉が目立つ。

 松山市には6月30日、韓国の友好都市・平澤(ピヨンテク)市から市民訪問団十人が訪れた。松山市と市教委、愛媛県、県教委に扶桑社版教科書の不採択を求める要請書を渡す手はずだった。


 しかし、県教委は「採択に関する面会には応じられない」と拒否。この訪問は、特定県議や県内の政治活動家らが訪韓して要請したものだった。[1]

 栃木県大田原市が扶桑社の採択を決めると、韓国外交通商部・李揆亨スポークスマンは「韓国政府は、わい曲された歴史教科書の採択が、日本の育つ世代に過去歴史に対する誤った認識を与え、不幸な歴史を繰り返しうるとの点について、非常に深刻に憂慮している」と発表した。[2]

 友好都市関係を利用して、他国の教科書採択に影響を与えようと活動するのは、「友好」の悪用である。また外国政府が公式にこのような発表をすることは異様な内政干渉としか言いようがない。

 なぜ韓国側は扶桑社教科書に異常な敵意をぶつけてくるのか。各教科書の韓国に関連する部分を読み比べてみれば、その理由が見えてくる。[3]


■2.どのような人物を紹介しているか■

 学習指導要領には「国家・社会及び文化の発展や人々の生活の生活の向上に尽くした歴史上の人物と現在に伝わる文化遺産を、その時代や地域との関係において理解させ、尊重する態度を育てる」とある。

 まず近世近代で国民によく知られた著名な人物を紹介している教科書を挙げると(単に名前を挙げるだけで人物紹介になっていない教科書を除く):

二宮尊徳:  扶桑のみ
明治天皇:  扶桑のみ[a]
東郷平八郎: 扶桑のみ[b]
渋沢栄一:  扶桑のみ[c]
昭和天皇:  扶桑のみ[d]

 次に、他の教科書では一般国民があまり聞いたこともないような朝鮮人が紹介されている例が目立つ。(東書:東京書籍、大書:大阪書籍、教出:教育出版、日書:日本書籍新社、日文:日本文教出版)

李舜臣(秀吉の朝鮮出兵の際の朝鮮の将軍):東書、日文
閔妃(日本の浪人に殺害された朝鮮王妃):日書
安重根(伊藤博文を暗殺した朝鮮人): 帝国、日文
柳寛順(三・一独立運動で逮捕され、獄死した少女):帝国、日文

 日本文教出版の教科書で学んだ中学生は、二宮尊徳、明治天皇、東郷平八郎、渋沢栄一、昭和天皇は知らないが、李舜臣、安重根、柳寛順は知っているということになる。


■3.「帰化人」か「渡来人」か■

 古代日本における帰化人の果たした重要な役割は否定できない。ただ、扶桑社だけが「帰化人(渡来人)」と呼び、他の7社の教科書はすべて「渡来人」と呼んでいる。

「渡来人」とは物理的な移動を指すのみだが、「帰化人」はその国の法的・政治的秩序に従い、その共同体の一部となった人びとを指す。朝鮮から古代日本にやってきた人々は、独立王国を築いたわけではなく、日本という共同体の一員として同化していった「帰化人」である。

 これをことさら「渡来人」とするのは、現在の一部の在日韓国人、朝鮮人が帰化を拒否する心情に阿っているかのようだ。


■4.聖徳太子の対隋対等外交の意義■

 聖徳太子の対隋対等外交をきっかけに、日本は中国の冊封体制(中国の皇帝に朝貢し、その土地の王として認めて貰う事)から離脱し、独自の文明圏としての歩みを始める。それに対して、朝鮮は近代に到るまで冊封体制の優等生であった。[e]

 扶桑社は太子の狙いを明確に記述している。

__________
 このときの隋の皇帝にあてた手紙には、『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや』と書かれていた。太子は、手紙の文面で対等の立場を強調することで、隋に決して服属しないという決意を表明したのだった
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 これに対し、日本文教出版は「小野妹子らを、隋に派遣した」、教育出版も「隋との国交が開かれ、小野妹子らが遣隋使として送られました」と結果を記すのみで、太子の意思がまったく書かれていない。

 東京書籍では「東アジアでの日本の立場を有利にし、中国の進んだ制度や文化を取り入れようと、小野妹子らを隋に使わし(遣隋使)、多くの留学生や僧を同行させました」とあるが、これでは隋との友好が日本の立場を有利にするという意味にもとれ、独立対等外交の意義が伝わらない。

 特に「東アジア世界の朝貢体制と日本」という一頁の主題学習では、「中国は、古代から近代にかけて、朝鮮や日本など、周りの国々との間に『朝貢』とよばれる関係を結びました」とあり、日本が韓国と同様、近代まで中国に服属していたかのような誤解を与える。

■5.元寇をどう記述しているか■

 元寇は、モンゴル帝国による世界征服に対する我が国の独立維持の戦いであった。


  フビライの最初の国書が「応じなければ武力を用いる」、二度目の国書が「日本の人民と土地の略奪」と明言している事実からも、モンゴルの武力恫喝と侵略意思は明白である。

 この点、扶桑社はフビライが「独立を保っていた日本も征服しようとくわだて」と、日本侵略の意図を明記している。

 ところが、日本教文出版は「服属をこばんだ日本に大軍を送ってきた」、教育出版は「服従しようとしない日本に遠征軍を派遣しました」などと記している。


  素直に服従していれば、戦争は避けられた、とでも、言いたいかのようだ。戦後の無抵抗平和主義の表れであろうか。

 大阪書籍は「武力を背景に」とするのは正確だが、「国交をせまりました」は、服属を国交に言い換えており、史実を歪曲している。

 東京書籍は「日本を従えようと」、日本書籍新社は「服属」、清水書院は「日本もしたがえようと」、帝国書院「朝貢と服属」などは正確な記述だが、それが武力恫喝を伴うものであった事を記していないのは片手落ちである。


■6.「高麗の抵抗」■

 元寇に際して日本側は挙国一致で激しく戦い、敵軍の上陸を2ヶ月近くも防ぎ、それが結果的に暴風雨によるモンゴル軍の全滅につながった[g]。

 ところが不思議なことに、鎌倉武士の勇戦より、高麗の抵抗を重視している教科書がある。教育出版は本文で「10世紀初めに建国された高麗がはげしく抵抗し、30年以上も戦いが続きましたが、ついには元に服従させられました」と記し、側注で「高麗で三別抄とよばれる軍が3年にわたって抵抗をおこしたため、元の日本遠征はおくれました」と述べている。

 一方、元軍と日本との間では「はげしい戦いがおこなわれました」としか記していない。「武士の勇戦」よりも「高麗の抵抗」を強調しているのである。

 同様に、清水書院と帝国書院も「高麗の抵抗」に字数を割き、「そのために日本遠征はおくれた」(清水)、「日本への遠征を大幅に遅らせました」(帝国)などと、高麗が日本を助けたような書きぶりである。これでは襲来してきた元軍には二度とも高麗軍が参加していた歴史的事実を薄められてしまう。


■7.日本が他国を攻めたら「侵略」、攻められたら「遠征」■

 秀吉の朝鮮出兵に関しては、日本文教出版が「海を越える秀吉軍」、扶桑社が「朝鮮への出兵」と記した以外は、すべて「秀吉が朝鮮を侵略する」(日本書籍新社)「朝鮮侵略」(東京書籍)などと、「侵略」という言葉を使っている。

 ところが東京書籍、教育出版、日本書籍新社、帝国書院、清水書院は、元寇に関しては「遠征」「遠征軍」などという表現を用いている。


  『広辞苑(第5版)』によれば、「遠征」には「征伐」という言葉があり、「鬼を征伐する」などと言うように、征伐する方が「善」、される方が「悪」というのが一般的通念である。

 日本が他国を攻めたら「侵略」、攻められたら「遠征」では、常に悪いのは日本という事になる。

 また元寇では「対馬・壱岐二島の百姓らは、男はあるいは殺されあるいは捕らえられ、女は一カ所に集められ、数珠繋ぎにして舷側に結びつけられるなどの残虐な行為を受けた」(小学館『日本大百科全書』)が、これについては扶桑社が「略奪と暴行の被害を受けた」と記す以外、他の教科書には何の記述もない。

 しかし、秀吉の朝鮮出兵に際しては、朝鮮兵の供養のために建てた「耳塚」をあえて日本人の残虐性の象徴として紹介したり(教育出版・日本書籍新社・清水書院・帝国書院)、日本書籍新社に到っては、以下のような一文まで掲載している。

__________
 秀吉軍にしたがって朝鮮にわたることを命じられた一人の僧は、日本軍の残虐なふるまいに出くわし、「野も山も焼き払い、人を切り、人の首をしばる。そのため、親は子どもをなげき思い、子どもは親をさがし回るあわれな光景を見た」と日記に記した。
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■8.韓国併合をどう記述しているか■

 韓国併合に関しては、教育出版は以下のように述べている。

__________
 日本は韓国の抵抗をおさえて、1910(明治43)年、韓国を植民地とし(韓国併合)、韓国を朝鮮とあらためて、朝鮮総督府をおいて支配しました。
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 他の教科書も同様であるが、韓国併合に関して押さえておくべき、いくつかのポイントが書かれていない。

 第一に、武力を背景にしていたとはいえ、併合は韓国側の李完用・総理大臣が調印した「日韓併合条約」に基づいて、合法的に行われたという点である。


  これは日本政府の正式見解であり、今後の日韓国交上にも影響を与える重要なポイントである。この点は扶桑社を含め、どの教科書にも記述がない。[h]

 第二に、日本の韓国併合の目的は、植民地として搾取することではなかった。この点は扶桑社が「日本政府は、日本の安全と満洲の権益を防衛するために、韓国の併合が必要であると考えた」と指摘している。[i]

 第三に、この目的のためにも、「朝鮮総督府は植民地政策の一環として、鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い」(扶桑社)、韓国の近代化に努めた。


  さらに、医療や教育の普及、大規模な植林などを行って、生活向上に努めた結果、1906年(明治39年)からの20年間で、人口が倍増したという点も述べておくべきであろう。[j]

 他の教科書は、このような点を述べないばかりか、大阪書籍などは「学校では、日本語や日本の歴史を強制的に教えました。このように朝鮮民族の歴史や文化を否定し、日本に同化させる政策を進めました」などと、述べている。


  史実は、韓国併合当初から昭和12(193)年頃までは、日本語とともに朝鮮語も学校で必須科目として教えられていたのである。


■9.二つの「終戦時の光景」■

 最後に、日本の敗戦をどう記述しているか、を見てみよう。扶桑社は「聖断下る」と題して、終戦時の光景を次のように記述している。

__________
 9日深夜、昭和天皇の臨席のもと御前会議が開かれた。ポツダム宣言の即時受諾について、意見は賛否同数になった。10日午前2時、鈴木首相が天皇の前に進み出て聖断をあおいだ。天皇は、ポツダム宣言の即時受諾による日本の降伏を決断した。


 8月15日正午、ラジオの玉音放送で、国民は長かった戦争の終わりと、日本の敗戦を知った。明治以降、日本の国民が初めて体験する敗戦だった。
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 先の大戦について、どのような意見を持つにしても、この終戦時の光景は、日本の長い歴史の中でも胸に刻むべき一ページである。

 一方、日本書籍新社は「ソウルの西大門刑務所から出獄した独立運動家たち」の写真を載せ、「日本の支配下で独立への願いを強めていたアジアの人々は、日本の敗戦とともにいっせいに立ち上がった」と書いている。

 教育出版も「1945年8月15日のソウル」という別の写真を載せ、「朝鮮をはじめ日本の植民地や占領地の人々は解放されました」と書いている。他の教科書もおおむね同様である。

 終戦時の記事で、戦場にもならなかったソウルの光景をなぜこれほどまでに取り上げねばならないのか? 韓国の歴史教科書なら、まだ理解もできるが。

 以上の読み比べから、なぜ韓国が扶桑社の教科書に異常な敵意をぶつけてくるのか、明らかだろう。扶桑社の教科書では、他社のように韓国・北朝鮮への贖罪意識を日本の中学生に植え付けられないからだ。


 李揆亨スポークスマンの「わい曲された歴史教科書の採択が、日本の育つ世代に過去歴史に対する誤った認識を与え」とは、まさにこの事を述べている。

 しかし、弊誌にも理解できないのは、なぜ他の教科書が揃いも揃ってこれほどまでに「韓流」なのか、という点である。この点は、出版界の事情に詳しい読者からの意見を待ちたい。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(267) 変革の指導者・明治天皇 ~ ミカドから立憲君主へ
 崩御された明治天皇を世界のマスコミは日本の急速な変革の中心者として称賛した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog267.html

b. JOG(399) 東郷平八郎 ~ 寡黙なる提督 (上)
寡黙なる提督に率いられた連合艦隊は、ロシア旅順艦隊を撃滅した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog399.html

JOG(400) 東郷平八郎 ~ 寡黙なる提督 (下)
 日本海海戦に向かう東郷提督の静かなる闘志
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog400.html

c. JOG(279) 日本型資本主義の父、渋沢栄一
 経済と道徳は一致させなければならない、そう信ずる渋沢によって、明治日本の産業近代化が進められた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog279.html

d. JOG(136) 復興への3万3千キロ
 「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」占領軍の声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog136.html

e. JOG(311) 聖徳太子の大戦略
 聖徳太子が隋の皇帝にあてた手紙から、子供たちは何感じ取ったのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog311.html

f. JOG(057) 自主独立への気概
 7世紀にシナの册封体制から脱却し、独自の国号、年号、文字を確立した気概。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog057.html

g. JOG(207) 元寇 ~鎌倉武士たちの「一所懸命」
 蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を惜しまない鎌倉武士たちだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog207.html

h. JOG(380) 筋を通した日韓交渉
 日本政府は足かけ14年もの交渉で筋を貫き通して、「完全かつ最終的な解決」にこぎつけた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog380.html

i. JOG(254) 「親日派のための弁明」を読む
 私たちは国を奪われたのではなく、日本というましな統治者を受け入れたのである。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog254.html

j. JOG(056) 忘れられた国土開発
 日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html


韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観 :3-1 韓国製トンデモ日本史

2014-04-27 10:57:54 | 政治

■■■ Japan On the Globe ■■■ 国際派日本人養成講座 ■■■

韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観
3-1 韓国製トンデモ日本史

 日本は百済の残党が土着原住民を制圧して作った国?!
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■1.「日本海」が消える!?■

 韓国は「日本海」を「東海」という名称に改めさせようと国際的な運動を続けている。事の起こりはもう10年も前の1992 (平成4)年、韓国と北朝鮮が国連地名標準化委員会に共同で「日本海」という地名表記の是正を求める提案を行ったことである。[1]  

 平成14(2002)念8月に海図の名称を標準化する国際水路機関が作成した指針案では、韓国側の働きかけが通って「日本海」の名称が消えていた。外務省は慌てて高官を派遣して抗議し、日本の立場を支持する他の加盟国の批判もあって、この指針案を撤回することとなり、「日本海」の名称はかろうじて残された。[2]

 しかし、韓国側の執拗な運動で、百科事典エンサイクロペディア・ブリタニカ、米国の大手地図製作社であるランド・マクナリー社、新聞のワシントン・タイムズなどが「東海」の表記を併用したという。

 さらに各国の政府や民間のホームページ約8百件に「訂正要求」を行い、うち英BBC放送や英外務省など約90件のサイトに「東海」を認めさせることに成功したとしている[3]。ここまで執拗に地名を改めさせようという動きには、日本人にはなにか空恐ろしい執念を感じさせる。

 韓国側はその主張の裏付けとして、日本海は昔から「東海」と呼ばれてきており、「日本海」に変更されたのは日本が植民地統治をしていたからである、という「歴史事実」があるとしている。こんな「歴史事実」を持ち出されると、日本人はビックリしてしまう。しかし、これが簡単に反論可能な事実無視の主張だと知れば、国際社会はそんなに簡単に騙されるのかと、もう一度ビックリするだろう。


■2.日帝に奪われた地名!?■

__________
 この海は元々「東海」または「韓国海」であった。我々には東側の海であるから「東海」であり、世界人、特にヨーロッパ人にはアジアの東側にあるから東海であり、この海の東側は「太平洋」であった。よって「東海」や「韓国海」という名称は初めから韓国だけで用いられてきたのではなくて、国際的な公認表記だったのである。
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「日帝(日本帝国主義)に奪われた地名を探して」(金ギビン)という、タイトルからして、いかにも気張った本の一節である。金氏はこういう根拠として朝鮮日報(92年11月12日付け)の「研究結果」を引用している。

 そこには、1615年、コディンホ・デ・ヘレディアによるアジア地図に「MAR CORIA (韓国海)」と表記があった事を始めとして、11の地図で同様の表記をしているという年表をつけている。その中には、日本人が「朝鮮海」と呼んでいる例も3つある。

 この記事では「日本海」という表記が最初に現れた地図としてはマテオ・リッチが1602年に描いた「坤輿(こんよ)万国全図」があるが、その後200年間は、「日本海」という表記が使われなかった、と述べる。そして次のように結論を下す。

__________
 東海が「日本海」として呼ばれる傾向が強まったのは、はるか後である1904年日露戦争、そして1910年以後というのが我が学界の通説である。事態がこのようになってみると、世界に通用している「日本海」を除去することは韓国としてみれば「奪われた名前の取り戻し」となって、国際的には太平洋戦争を引き起こした日本軍国主義に対する最後の「終戦作業」の1つとなるわけである。
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■3.トンデモない嘘■

 こうまで書かれると、素人はたじたじとなってしまうが、さすがに我が国には、歴史事実をきちんと調べてくれる専門家がいる。その一人、青山宏夫氏の調査によれば、「日本海」という名称が現れる地図は「坤輿万国全図」以降、1800年までに16種を数える。したがって、「200年間は、『日本海』という表記が使われなかった」というのはトンデモない嘘である。

 日本で作られた3つの地図の一部に、「朝鮮海」と評価されているのは事実だが、これらは太平洋を「大日本海」とし、それとの対で「朝鮮海」が使用されたのである。西洋図では19世紀には、「日本海」という呼称が広く用いられており、19世紀後半は圧倒的に「日本海」が多い。

 韓国併合は1910年、20世紀に入ってからなので、日本が植民地支配によって「東海」という名称を無理矢理「日本海」に変えたという主張も事実ではない。

 これだけ明白な事実があるのだから、韓国がトンデモない主張をし始めた時から、いちいちきちんと反論していれば、国際水路機関の指針案から「日本海」が消えるような恐れはなかったはずだ。

 韓国が「東海」を主張し始めたとき、外務省もまさか、そんな嘘が国際社会で通用するはずがない、と思ったのではないか。その油断が外務省の怠慢を呼んだのだろう。国際社会でのプロパガンダ戦には、何でもあり、という基本を国際派日本人は知らなければならない。


■4.黄河文明もメソポタミア文明も朝鮮民族が作った!?■

 この「東海」のような、日本人があっと驚くようなトンデモ史観が韓国には多い。そしてそれは多分に日本にも関わったものだ。韓国の大手・東亜出版社は94年に「大朝鮮帝国史」という本を出版した。そこで描かれた朝鮮民族の発祥を要約すると、次のようなストーリーになるという。

__________
 古朝鮮の領土は北はバイカル湖から南は揚子江まで、西はモンゴル砂漠から東は日本にいたる広大なものだった。紀元前9000年前、東夷族である桓因はパミール高原の下に桓国を立て、その後バイカル湖の付近に移った。紀元前7000年前に韓国人の祖先はバイカル湖付近から分かれ、世界各地に散らばっていった。

 紀元前4500年には中国東北部に紅山文明ひいては黄江文明を打ち立てた。紀元前3500年頃には西に向かつた一部が、メソポタミア一帯にシュメール文明を築き、紀元前2700年ごろには中国南部に進出した一部がチベットまで征服し、8O0年問統治した。また西に向かった一部はフィンランドの北側に定着し、東北に向かつた一部はべーリング海を渡つてアメりカに入りインディアンの祖先になったという。

東に向かつた一部はサハリンを伝って日本列島に入り、日本に定着し、これが「倭」の祖先となった。紀元前2173年には朝鮮族は海を渡ってこの「倭」を征伐した。よって日本族の94%は我が同族〈朝鮮族〉である。
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 同様の内容が、韓国陸軍の「民族史教育」で教えられており、もちろん正規の歴史学者からは「考古学的な裏付けがない仮説を全軍に事実かのように教育するのは性急なこと」と批判されている。これに比べたら、我が国での「邪馬台国は九州か、近畿か」という論争など、はるかに地味でつつましいものに見えてくる。


■5.日本は朝鮮民族が作った国!?■

 韓国製トンデモ日本史はまだまだ続く。玄ギョンビンの「韓国人は偉大な韓国を望む」(1992)は、日本の古代から近世までの歴史を次のように説明する。

__________
 日本は7世紀未から国家形成期に入った。それ以前の日本は三韓・伽や(ニンベンに椰のつくりの部分)・百済などが自分の領土の一部として統治してきた。しかし660年、百済が滅亡し、その後裔らが続けて行った〈百済〉復興運動が失敗するや日本列島は自らの歴史期に入ったのだ。

夫餘氏家門が日王家〔天皇家―引用者注)を形成し、新羅系・百済系・高句麗系が武力で王族や貴族集団を構築した。彼らは新しい文化や伝統を普及させる一方で、土着原住民を制圧し、列島全域へと勢力を広げ、支配力を確保して日本を建設した。
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 この歴史観なら、日韓併合も、分家と本家が再合併したようなものだから、非難されるいわれはないのだが、それはまた別の話らしい。


■6.皇室のルーツは百済!?■

 日本は百済系の旧支配層が作ったというトンデモ史観では、当然、皇室のルーツも朝鮮でなければならない。

__________
 最初に日本を支配した天皇は、百済人の末裔である15代・応神天皇(4世紀)と仁徳天皇(5世紀)父子であった。(中略)6世紀に百済の武寧王の弟が26代・継体天皇になった以後、百済の王族が7世紀末まで即位した。

百済の聖王もやはり日本の天皇であるという主張がある。百済の聖王が540年に高句麗を攻撃して失敗し、540年に日本に渡って29代・欽明天皇になったというもの。33代・推古天皇(6世紀末~7世紀初)は、百済の王族の純粋な血統を引く日本最初の正式な女王である。その夫・敏達天皇(6世紀)も百済人王族である。
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 これは平成13年12月23日に、天皇陛下が「私自身としては桓武天皇の生母が武寧王の子孫であると、続日本記(しょくにほんぎ)に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」と述べられた御言葉を、東亜日報が報道した記事の一節である。

 天皇は、「桓武天皇の生母が武寧王の子孫」という歴史的文献に記載された事をそのまま述べられただけなのだが、これが韓国マスコミでは、「皇室の起源は韓国」というトンデモ史観にすり替えられて大々的に報道された。なかには、「強い衝撃/日本マスコミ、百済部分省き報道」などと、日本のマスコミがこの「真実」を隠そうとしたと報道した韓国紙まであった。

 日本の皇室のルーツが朝鮮にあった、というトンデモ史観は、韓国内で広く信じ込まれているそうな。ついにそれを「日王家」自身が認めた、やっぱり、という事なのだろう。本当にそう信じるなら、皇室は朝鮮民族最古の王族家系なのだから、「偉大なる朝鮮民族の象徴」として尊崇してしかるべきだろう。

 もちろん韓国の学界では、こんなトンデモ史観はほとんど支持されていない。韓国での日本古代史の権威・高麗大学の金鉉球教授は、「日本の天皇家の百済起源説を主張する本も出てきているが、史料の恣意的な解釈など歴史研究者の立場から見るとき学問的成果として受け入れられない」と述べている。


■7.万葉集は朝鮮語で書かれている!?■

 古代日本は朝鮮人が作ったというトンデモ史観で、一番苦しいのは、朝鮮語で書かれた文献が皆無である、という点である。しかし韓国の逞しいトンデモ歴史家たちは、その程度ではへこたれない。作家・李寧熙は、「もう一つの万葉集」で、万葉集の歌が朝鮮語で解読できるという「学説」をうちだした。

 たとえば、額田王(ぬかたのおおきみ)の歌に次のようなものがある。

__________
金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念

 秋の野のみ草刈(か)り葺(ふ)き宿(やど)れりし宇治(うじ)の宮処(みやこ)の仮廬(かりいほ)し思(おも)ほゆ(秋の野のみ草を刈って屋根を葺いて、泊まった宇治の宮処の仮の宿のことが思い出される。)
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 これが李寧熙にかかると、朝鮮語で次のような意味になるという。
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新羅よ 刀研いで注ぎ 締め苦しむなかれ
お上の都は 刀が 来るから来襲に備えよ
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 これは百済人である舒明天皇が、新羅の攻撃に備えよと百済に警告するために、額田王に作らせた歌であったという。どうしてこんな訳が出てくるのか、第2句「美草苅葺」のみ見てみると:

「美」は朝鮮語音読で「ミ」、「草」は「セ」で「ミセ」は「ムセ」に通じ「鋳物の鉄」を意味する。「苅」は日本語訓読で「カリ」。これは朝鮮語「カルダ」(磨く)の語幹「カル」。「葺」は日本語訓読で「フキ」。これは朝鮮語「ブッキ(注ぐ)」を表す、、、。

 朝鮮語と日本語の音訓を見境なく持ち出して、それを適当に変形して朝鮮語にこじつけている。それも「葺」は別の歌では語尾「ジ」を意味する、などと一貫性がない。李寧熙のトンデモ「学説」は日韓の学界ではまったく相手にされていないが、以後、このアイデアを真似て、万葉集や日本書紀を朝鮮語で解読しようとするトンデモ歴史家が後を絶たず、半ば「定説化」してしまったという。


■8.トンデモ史観と歴史観共有!?■

 以上、韓国での「トンデモ史観」を紹介した。ここで注意しなければならないのは、こういうトンデモ史観が流行るのは韓国だけでなく、日本も同じだということである。それは李寧熙の「万葉集=韓国語」説が日本でベストセラーとなり、それが韓国に輸出された事からも窺える。日韓の違いは、同じトンデモ史観でも日本は自虐的であり、韓国側が夜郎自大的である事だ。だから両者は結びつきやすい。

 どこの国でも、こういう専門家なら相手にしないトンデモ歴史家がいて、正規の歴史研究者とトンデモ学者の距離はきわめて大きい、という事を認識すれば、近年の近隣諸国との歴史問題にどう対応するか、という問題に対するヒントが得られる。(ただし、日本にはマルクス主義流トンデモ史観が専門家の間でも残留しているが、この問題は今回は触れない。)

「歴史観の共有」はまず韓国内の専門研究者とトンデモ歴史家の間でやってもらわねばならない。慰安婦問題にしても、韓国人元慰安婦が3年間で貯めた貯金が現在の貨幣価値で4,5千万円だったという事実が残っている[a]。「残虐な日本統治」時代に朝鮮の人口は32年間で2.5倍に急成長した[b]。

 本稿で紹介したような韓国の専門研究者の意見なら、日本でもごくスムーズに受け入れられるものだ。しかし、韓国で専門研究者とトンデモ史観の乖離がこれほどあっては、日韓の専門研究者どうしの内輪の「歴史観共有」では、トンデモ史観に馴らされた韓国一般国民を納得させるのは難しく、問題の真の解決にはならない。また日韓のトンデモ歴史家どうしの「トンデモ歴史観の共有」では問題は悪化するだけである。

 これから日韓の民間交流がますます盛んになるにつれて、本稿で紹介したような韓国人のトンデモ史観に日本人が面食らう場面がますます増えてくるだろう。まずはこういうトンデモ史観が韓国内で定着しているという事を、よく知っておくことだ。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(106) 「従軍慰安婦」問題(上)
 日韓友好に打ち込まれた楔。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html

JOG(107) 「従軍慰安婦」問題(下)
 仕掛けられた情報戦争。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog107.html

b. JOG(056) 忘れられた国土開発
 日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 野平俊水、「韓国人の日本偽史」★★★、小学館文庫、H14
2. 産経新聞、「日本海」呼称残る IHO、削除案を撤回」、
H14.09.21、東京朝刊、2頁
3. 産経新聞、「『日本海名称』で韓国 『東海』浸透度を発表
H14.09.27、東京朝刊、6頁


韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人:2-3 朝鮮農村の立て直しに賭けた日本人

2014-04-06 08:26:50 | 政治


■■■ Japan On the Globe ■■■ 国際派日本人養成講座 ■■■

韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人
2-3 朝鮮農村の立て直しに賭けた日本人

 荒廃した朝鮮の農村を建て直そうと、重松は近代的養鶏の普及に取り組んだ。
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■1.「倭奴が来た(ウエノムワッソ)」

 二人の男が自転車でにやってきた。「倭奴が来た(ウエノムワッソ)」という声がした。洋服姿をしているだけで、侮蔑の眼差しを向ける。老人は逃げ、青年たちは嘲りの表情で二人を見た。女たちも戸を閉めて家の中に隠れた。

 自転車を降りた二人のうちの一人は、杖をついてびっこを引きながら歩いている。丸眼鏡に頬髭を生やした特異な風貌である。その歩く様を、子供たちがそっくり真似しながら、はしゃいで、ついてくる。

 大正14(1925)年11月、平壌から東に40キロも入った江東という寒村でのことである。平壌からは1日1回、6人乗りのバスが往復するだけで、電気もなく、夜はランプの暮らしだった。

 びっこを引く男は重松〇修(○は高に昇、まさなお)。江東金融組合の理事である。金融組合とは、日本政府によって各地に作られた小規模の組合で、高利貸しに苦しむ農民を救うために小口低利の貸し出しを行っていた。

 江東金融組合では理事の重松以下、4人の朝鮮人職員がいるだけだった。びっこを引いているのは、前任地で暴徒に襲われ、脚を打ち抜かれるという重傷を負ったからだ。

 重松が訪れたのは、江東の下里(かり)という50戸ほどので、両班(ヤンバン、貴族)の家柄から働くことを軽蔑して、のんびりと長煙管(きせる)を吸いながら、その日その日を過ごすことを誇りとしていた。そんな生活を続けていたので、零落していたが、それでも生活態度を変えようとはしなかった。

 重松は、因習を続けている下里を更正させることで、江東全体の変える模範にしようと考えたのである。


■2.養鶏の副業で農民を豊に

 重松は、江東の地に赴任してから、区域内の農民の現状を観察して回った。小作農や小農は凶作だと食べるものもなくなって、高利貸しに金を借りる。借金の返済のために僅かな土地を売り、一家離散したり、都会の浮浪者になる、という有様だった。

 金融組合が「節約して貯蓄を」と勧めても、そもそも貯蓄そのものが不可能な貧窮農家が多かった。そこで重松の考えたのが、養鶏を副業として農民を豊かにする事だった。

 トウモロコシの実をとった残りの黍殻(きびがら)を臼で擂(す)って鶏の餌にする。鶏の糞で田畑を肥やす。その卵を売り、また一部は育てて親鶏を増やす、というアイデアだった。

 こう思いついてから、重松は仕事の傍らで自力で鶏舎を建て、平壌に行って日本人の専門家から飼育の仕方を習い、10羽の白色レグホンと5羽の名古屋種を購入して育て始めた。朝晩は重松が世話をし、昼は妻が手伝う。

 艶々とした真っ白の羽と赤い鶏冠を持った白色レグホンとバラ色をした名古屋種は、鶏舎の中を元気に歩き回り、手のひらで餌を差し出すと、駆け寄ってきて、ついばんだ。

 やがて卵を生み始めると、毎晩、重松は卵が親鶏の羽の下からはみ出していないかチェックする。北朝鮮の冬では、冷えた卵は凍死してしまうからだ。

 養鶏は順調に進み、白色レグホンから生まれ育った若鶏は136羽。こららの生む有精卵を下里の村人たちに無償配布しようというのである。


■3.「うちは誇りある両班の家柄だ。卵で貯金などやれるもんかね」

 重松は李青年の案内で、立派な門構えの家に入っていった。飼い犬が吠えると、髭をたくわえた老人が出てきた。この村の長老のようだ。李青年は朝鮮式の丁寧な挨拶をした。の人も10名近く集まってきた。

 重松は朝鮮語で挨拶し、ここに来た目的を語り始めた。各戸に白色レグホンの有精卵を15個ずつ無料で配布するので、それを育て、とれた卵を供出して貰って共同販売する。卵の代金は据え置き貯金にして、貯まったお金で、豚や牛を買い、土地も買える。

 重光の熱意の籠もった言葉を、村人たちは黙って聞いていたが、やがて口を開いた。

「白色の鶏は神様のものだ。そんなものを食えば罰があたる」
「鶏の卵を売って、牛や土地が買えるなんで、そんなことがあり得るはずがない」
「うちは誇りある両班の家柄だ。卵で貯金などやれるもんかね」

 重光は底知れぬ頑迷さを感じた。しかし、村人たちの嘲りの裏には、充たされぬ思いが潜んでいるような気がした。

 重松は何も反論せずに、「もっとよく静かにお考えになってください。そのうちまたお邪魔に上がります」と言って、引き揚げた。重松は自転車を押しながら、あの頑迷さを打ち破るには何度も何度も訪問し、誠意で彼らの心に触れ、愛によって彼らの心の底の魂を揺り覚まさなければならない、と考えた。


■4.見たこともない大きな卵

 重松は下里の村に何度も足を運んで、養鶏を勧めた。翌年2月末、一人の老婆が組合事務所に現れて、「卵を欲しい」と言ってきた。重松は急いで舎宅に戻り、有精卵を15個、丁寧に綿で包んで、老婆の持ってきた籠に入れてやった。老婆は見たこともない大きな卵に驚いて「アイゴー・・・」。そして自分のしていた襟巻きを卵に掛けて帰って行った。

 3月になると、重松の配る卵の大きさに驚き、ポツリポツリと下里から種卵を貰いに来る人が出てきた。その中には、かつて重松に毒づいた人たちもいた。

 3月の終わりには、老婆から「13羽、雛が孵(かえ)りましたよ」と伝えてきた。重松は時間ができると、下里に行って、雛の育て方を指導した。8月末までに520個の種卵を配布し、そのうち半分が育った。初年度としては満足すべき結果だった。

 翌春には育った鶏が産卵を始めた。その卵を組合に持ってこさせ、重松とその妻が、日本人校長や署長、朝鮮人の組合長など、比較的余裕のある家に売り歩いた。従来種の値段よりも一割ほど高くしたが、大きさと新鮮さ、それになによりも重松夫妻の志を知っているので、快く買ってくれた。

 それでもさばききれないほど、卵が持ち込まれるようになり、重松は平壌の金融組合連合会本部に販売を頼むと、斉藤清理事長は快く引き受けた。

 重松と部下たちは勤務時間終了後、集まってきた卵を一つ一つ明かりを当てて調べ、合格印を押し、厳重に荷造りして、乗合バスに載せて貰う。

 そうして届いた卵を、斉藤理事長は何個か背広のポケットに入れ、近所の銀行や会社などに出かけて、「この卵を買わないか。大きくて美味いよ。食堂で使うといい」と売って歩いた。相手は、顔見知りの経営者である。販売先は次々に決まっていった。ただ、時々、ポケットの中の卵が割れて、困ったこともあった。


■5.未亡人の借金返済

 下里で若くして夫を亡くした夫人がいた。二人の小さな子供を抱えており、組合にも37円の借金をして、途方に暮れていた。亡くなった夫は、立派なレグホンを育てていて、重松も一目置いていた人物だった。

 重松の部下は「土地がわずかばかりありますから、差し押さえをすれば、組合に損失はないですよ」と言った。それが当時の朝鮮社会の常識だった。

 重松は「そんな冷酷なことはできないよ。一度、会ってみて、話をしてみよう」と言った。しばらくして、夫人が組合にやってきて鶏卵を届け、その後で重松の前に来た。4歳の長男を抱えている。

「ご主人が亡くなられてお気の毒です」と重松から話しかけた。「ありがとうございます。その主人の病気や葬儀などもあって、借りていたお金を返したいのですが、どうにもしようがないのです」とやつれた顔で答えた。

「ここにあなたの養鶏貯金が4円55銭あります。滞貨しているあなたに払い戻しはできません。しかしあなたが豚を飼って一生懸命働いて債務を返す覚悟がおありでしたら、払い戻しを特別に認めたいと思います」

 土地を取られるものと思っていた所に、思いがけない言葉をかけられて、彼女の目は輝いた。そして4円だけ引き出し、市で子豚を買って帰った。その後も婦人は卵を組合に持ち込み続けた。重松は顔を合わせるたびに、激励の言葉をかけた。

 それから7ヶ月後、育てた豚を32円で売り、それと養鶏貯金のお金で、37円の貸付金と利子をきれいに払った。重松には何度も頭を下げて、礼を言った。

「理事さんのおかげで土地も売らず夫の債務を払うことができました。これから先も豚や鶏を飼って貯金し、子供を学校に行かせるつもりです。本当にありがとうございました」と、涙をこぼさんばかりに喜んでいた。


■6.「鶏が医生を生んだ」

 37歳の貧しい小作人がいた。妻と3人の幼い男の子を抱え、二間しかない草葺きの小屋に住んでいた。しかし重松の指導どおりに鶏を飼い、どしどし卵を組合に持ってきた。やがて養鶏貯金は27円75銭になり、もうすぐ牛を買える額に近づいた頃、重松に手紙を出した。

__________
 ・・・私は理事様の公益を広く施そうという高義に副(そ)いたいと思います。私は来る4月10日に平壌医生講習所に入学することを決心いたしました。

その学費捻出のために養鶏貯金を引き出したく思います。理事様にこのことをご了承いただければ、小生はそのご恩は永久に忘れません。[1,p157]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 重松は驚くとともに、感激した。改めて調べてみると、医者にかかれない貧しい人のために医生になろうと、毎晩、漢方医の本で独学していたという。

 平壌での一年の苦学の末、総督府より医生の免許が交付された。重松からの手紙でこの事を知った京城日報社長の松岡正男は感激して、その手紙を新聞に4段抜きで紹介した。そこでは「では、鶏が医生を生んだなどと喜んでおります」と重松は喜びを語った。


■7.「軍隊はいながらにして農村振興に役立つわけです」

 昭和5(1930)年の春、重松が平壌に出てきた際に、斉藤理事長に第77聯隊に連れて行かれた。重松の説明を受けた白石聯隊長は「朝鮮の農村で生産された野菜や卵を、そうした産業団体から納めてもらえば、軍隊はいながらにして農村振興に役立つわけです」と語った。聯隊との間で月7千個もの卵を収める契約が交わされた。

 ある時、軍事演習に合わせて、2千個もの大量注文が電報でもたらされた。重松は組合の在庫を調べたが、その半分もない。考えた末に、重松は近くの小学校の菅校長を訪ねた。

 菅校長は50歳近くになって、教育者としての最後の舞台を朝鮮人少年少女の教育に捧げようとやってきた人物である。そして雛を育てることが少年少女の情操教育にもつながると、生徒の家庭でも養鶏貯金を奨励していたのである。

 重松は、菅校長に事情を話し、朝礼の時間に全校生徒に各家庭での卵をあるだけ持ってくるように伝えてくれないか、と頼んだ。菅校長は「いいですとも、さっそくやりましょう」と快諾した。こうして4百人の生徒が、めいめいの家庭から卵を持ち込み、軽く2千個が集まって、演習地に送られた。

 軍関係では、さらに航空隊、高射砲隊、病院などが江東の卵を買ってくれるようになり、販売数は飛躍的に増加していった。昭和2年の鶏卵の販売数は993個だったが、昭和11年には30万個を軽く超えるようになった。

 それまでに養鶏貯金で購入された牛1千頭、豚2千100頭、土地2万5千坪、さらに進学資金、結婚資金、家の建て替えなどに使われ、江東農民の生活は格段に向上した。また江東の成功を見て、同様に養鶏を始める地方が数多く現れた。


■8.「実は、理事さんにお礼をしようと、頌徳碑を建てました」

 副業としての養鶏が軌道に乗ると、重松はさらに女性たちにハングルを教えたり、村人が集まって将来を論じあうための集会所を建てることを提案した。それを受けて、村人たちは朝一時間、早起きして、自力で会堂を作り上げた。こうした作業が勤勉と共同の精神を育てていった。

 昭和11(1936)年2月11日の紀元節、3番目の模範であった芝里が一番の更正として、知事から表彰された。芝里は歓喜の渦に包まれ、重松の喜びも一入(ひとしお)であった。

 3月の終わり、芝里の代表たちが組合にやってきて、重松に次の日曜日にに来てくれ、と頼んだ。「なにがあるんです?」と聞くと、「実は、理事さんにお礼をしようと、頌徳碑を建てました」という。重松は呆然としたが、もう碑は出来ているのだから、行くしかなかった。

 昭和13(1938)年6月、重松に転勤命令が出た。江東での実績が高く評価され、京城の金融組合聯合会本部で、後輩の育成をせよとの辞令である。遠方からも組合員たちが押しかけ、名残を惜しんで送別会を開いてくれた。長老の一人は「理事さん、家族の食べる分はわしらが出すから、残ってくれ」と泣き声で言った。

 その後、重松は金融組合の教育部長などを努めて、後輩の育成に邁進した。戦争が終わると、朝鮮総督府関係の有力者として逮捕状が出たが、養鶏で学資を得て出世した人物たちが、密かに手配して重松を日本に脱出させることに成功した。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(056) 忘れられた国土開発
 日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html

b. JOG(204) 朝鮮殖産銀行の「一視同仁」経営
 朝鮮農業の大発展をもたらしたのは、日本人と朝鮮人の平等・融和のチームワークだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog204.html

c. JOG(178) 日韓の架け橋・李方子妃
 日本皇族から、朝鮮王朝最後の皇太子妃、そして韓国障害児の母へ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog178.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』★★★、草思社、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4794217471/japanontheg01-22/

 

http://ac10.i2i.jp/bin/2nd_gets.php?00953189"

 

 


韓国退役軍人 ベトナム戦争の殺戮暴いた新聞社に突撃し破壊

2014-04-05 07:56:03 | 政治

韓国退役軍人 ベトナム戦争の殺戮暴いた新聞社に突撃し破壊

  2014年04月04日 07時00分提供:NEWSポストセブン

 

  民間人に大量の銃弾を浴びせ、若い女性は強姦後に殺害――。ベトナムで残虐の限りを尽くした韓国兵の蛮行について、本誌は前号、前々号と2度にわたって現地からのレポートを掲載し、大きな反響を得た。

  日本の読者に衝撃を与えたのも無理はない。そもそも、当の韓国社会でさえ、その事実が知られるまでには、多くの時間を要した。

  きっかけは、ベトナム戦争終結から24年後の1999年5月、ハンギョレ新聞社が発行する週刊誌『ハンギョレ21』(1999年5月6日号)が行なった報道だった。

  ベトナム通信員として活動していた韓国人の女性研究者が、ベトナム当局から資料を入手し現地取材と生存者への接触を重ね、韓国軍による殺戮の実態を白日の下に晒したのである。

  この記事が当時、韓国社会に与えた衝撃はすさまじいものがあった。

  同誌はその後も定期的に続報を打ちキャンペーンを張ったが、新聞やテレビなど大メディアによる後追い報道はほぼなかった。自国の暗部を暴いたことで保守層から大きな反発を招いたからだ。特に、ベトナム戦争に参加した退役軍人たちは同誌に対し、猛烈な抗議活動を行なった。

  彼らの怒りが頂点を迎えたのが翌年(2000年)の6月だった。迷彩の戦闘服を着た約2400人もの退役軍人が、ソウル市内中心部にあるハンギョレ新聞社の前に集結した。

 「ベトナム民間人虐殺の報道が、戦友たちの名誉を失墜させた」と主張し、同新聞社を糾弾するデモと集会を開いたのだ。

  だが、集会後も怒りの収まらない一部の軍人たちが暴挙に出た。角材などを振り回しながら新聞社の社屋に突撃。窓ガラスを割り、デスクやパソコンなど編集部内の物を次々に破壊していったのだ。

  韓国人ジャーナリストがいう。

 「彼らの狙いは新聞社の制作機能停止でした。パソコンなどだけでなく、輪転機を破壊し電力供給線も切断。新聞や雑誌の印刷を停止させた。さらに新聞を運ぶ貨物車を炎上させたり、新聞代金の領収書の束を数千枚も積み上げ火をつけたりと暴徒と化していた。

  彼らは“ベトコン(南ベトナム解放民族戦線の兵士のこと)を民間人だというハンギョレ新聞社は赤(共産主義者)だ!”という垂れ幕を掲げていた。殺した相手は民間人ではなく、ベトコンだったと主張し虐殺を正当化したかったのでしょう。そこで、新聞社を自由主義の敵と見なし、暴挙に出たのです」

  その場にいた新聞社の記者や従業員たちも暴行を受け、10人以上が負傷。社屋は彼らによって半日間占拠され、同社の幹部らは監禁された。

  6000人余りの警察が投入されたことで、ようやく事態は沈静化。その後、暴力行為で4人が逮捕された。

  この暴動の主体となった団体は、主にベトナム戦争の退役軍人で作られる『大韓民国枯葉剤後遺症戦友会』(以下、枯葉剤戦友会)だった。

  この枯葉剤戦友会は朴槿恵(パク・クネ)大統領への絶対的な支持を表明している有力な政治団体だ。2011年に開かれた「枯葉剤戦友会14次定期総会」には、与野党の多くの政治家が自ら出席を打診した。しかし枯葉剤戦友会から拒否され、唯一、招待された政治家が朴氏だった。

※週刊ポスト2014年4月18日号


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