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サンズ・トーク

自分を越えたい。時にそう思っている中高年の記。

大賀はす あるいは古代はす

2009-07-07 01:50:17 | 菜園・園芸
ブログを見た友人などから、和歌山の串本に大賀はすがある。長野の善光寺さんの天台宗の僧坊の池で見た。さらには、千葉から種を送ってもらったのが、睡蓮の鉢で花を咲かせたとの情報もいただいた。

そこで、大賀はすから思ったことを綴って見よう。

はすも植物であり、花を咲かせ、花粉によって交配されて繁殖してゆく。または、根茎が延びて繁殖する。
花粉交配であれば、他のはすとの交雑により、少しずつ種が変化してゆくことが宿命である。
2000年間、地中に埋まっていたことは、タイムカプセル状態だったわけで、そのころの種が交雑せぬまま保存されていたという貴重さがある。

2000年前の種ということは、シカゴの大学の研究機関で測定されたので、一般的に信用できる。

それでは、その頃というのは、どんな時代だったのか。
エジプトのクレオパトラの時代が2000年前。
日本では、まだ文字がなく、神話時代だったのだ。
古事記が天武天皇の時代、大安麻呂によって作られたのが、2000年前を500年も下ってからのこと。漢字が導入されて以後、ようやく記録が残るようになったのだ。
2000年前の種の時代は、支那、朝鮮の記録で判る卑弥呼よりも200年も前なのだ。
日本では、まだ文字さえもない。
大安麻呂の墓誌銘が奈良市で発掘されたとのことで、古事記の時代は、奈良に都があった。
縄文文化と弥生文化は、農耕の普及の有無で分けられるらしく、このころの奈良は相当進化した文化国家になっていたのだが。
千葉なぞはどんなレベルだったのか、種と同じ地層から、かやの木でつくられた丸木舟が発掘されたとあるが、私には、その頃千葉あたりは縄文だったか、弥生文化だったか、判別できる知識をもっていないが、とにかくそんな古い時代の種だったということは言えるのである。
丸木舟ということは、太い木の幹をくりぬいて作った素朴な舟だろう。
髪ぼうぼうの裸の男が、はすの茂る沼地を櫂で漕いでいる姿を想像する。
そういえば、千葉には加曾利貝塚という有名な遺跡がある。ここらは、貝塚が多い。種は、そのころのものだったのか。
文字は全くない時代、奈良と千葉では、言葉さえ全然通じなかったろうと、想像できる。そんな広域の交流はなかっただろう。

あれこれ、想像すればきりがないのである。


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