「万古清風」とは、古きにも新しきにも全ての時空にあまねく清風が吹く、という意味です。
清風は、「仏の心」あるいは「神の精神」のような悟りの気持ちを表しています。
禅において、悟りを会得してしまえば、全ての時間や空間に仏の心が染み渡っている、ということでしょうか。
禅では「問答」というものがあります。
ある日、高名な禅師が茶屋のはためく幟を指して、弟子にこう言った。
「いま、はためいている幟は、風が動いているのか?幟が動いているのか?」
弟子は考えあぐねて答えられませんでした。
こういう、答えがあるようで無い質問をして、弟子の思考を麻痺させる禅の手法です。
禅師が良い人であればいいのですが、悪人であれば、弟子の自主性を奪い麻痺させるような危険な手法です。
こんな問答もあります。
禅師が両手を叩いてこう言った。
「いま鳴ったのは、右手か?左手か?」
弟子は思考不能になり、答えられませんでした。
こういう質問は、もともと質問自体が無意味な形式をとっています。
両手を鳴らすには、右手片方でも左手片方でも不可能です。
そんな事は、考える必要もないくらいの質問です。
それを、あえて答えさせるのが禅問答なのです。
私ならば、こう答えます。
「今鳴ったのは、右手でも左手でもなく、空気の振動です!」と。
禅師は困るでしょうね。
あえて答えの無い質問に、答えてしまったのですから。
しかも、科学的には合っている答えです。
悪い外道禅師なら「理屈を言うな!」と罵るでしょうし、良い禅師ならば自分の力量の無さを反省するでしょう。
外道禅師はならば、その場で殺した方が世の中のためである、と戦国時代ならアッサリ斬首されていたでしょうね。
禅師のすべてが悟っているわけではありません。
中には、自分の欲望のために禅を利用する「野狐禅」と呼ばれいる、いんちき禅師も多いのです。
禅問答は、昔のような科学も思想も発達していない頃なら通用するでしょうが、今では無意味です。
「答えが無い」と言って、昔通用していた禅問答の全てに、今なら答えが用意できてしまうのです。
答えの無い禅問答のすべてに、答えがある時代です、時代に即して禅も発達しないと、禅自体が野狐禅になってしまうでしょう。
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