「あれ、みずほたち、えらい遠くまで行きよる。ほら見て」
弥平が手すりにつかまりながらビル群に埋め尽くされた車窓を眺めていると、隣の明香里が携帯電話の画面を見せてきた。
明香里の黒い光沢のあるスマートフォン。その大きな液晶画面には用津市内の立体地図、それに静止する青いマーキングと、赤く点滅するマーキングが表示されていた。明香里は点滅するマーキングを指し示している。
「みづほたちがさっきから線路外を移動しよるん。降りる電停はここのはずなのに、かなり手前から市電には乗っとらんみたいなんよ。どこ行きよんじゃろう? さっきメールしたとき、聞いとけばよかった」
「ちょ、ちょい待ち。なんなん? 携帯でみづほらを追跡しよるんか?」
弥平はすぐに事態がのみこめず、目を丸くして明香里に聞いた。
「ほうよ。便利じゃろう、このアプリ」
「アップリ……? ようわからんけど。で、そのアップリケはみづほも知っとるんか?」
「そりゃ、知っとるし、みづほもウチらのことを把握しとるはずよ。みづほもウチも互いにリアルタイムで通信しとるけえ、できるんよ」
「じゃあ、真由美らも追えるんか?」
「真由美は無理。真由美は束縛されるの嫌いじゃけえ、そもそもこういうアプリは使わんよ」
「ほお……。ほいじゃが、なんかすごいことになっとるんじゃのう。あ、でもよく考えたらこわいよの。恋人の後とかつけることもできるんじゃないか?」
「その、恋人が意志的に信号を発しとったらね。そうじゃなきゃ、プライバシーの問題にかかわることじゃし、技術的に絶対制限されとると思うよ。おちおち、使っとられんくなるし」
「おお、なるほどの」
「ひょっとして、やっちゃんはスマートフォンじゃないん?」
「うん、スマートじゃない。厚ぼったい」
「厚ぼったいって……。まさか、サークルで初めてアドレス交換したときから携帯替えとらんのん?」
「そう、そういうことになるかの。ネバーチェンジじゃ」
「やー、貴重! でも、スマートフォンはええよ。いろんなこと楽しめるけえね」
明香里は一連の説明を自慢げに言うのでもなく、さらりと事もなげに言うので、弥平は何度もびっくりしてしまった。弥平は、いまだに五年前から愛用しているFOMAの折りたたみ式携帯電話しか持っていない。特徴は今や当たり前となってしまった「防水タイプ」ということだけだ。時代は進んでいる。
そのとき、ゆっくりと路面電車が停止し、明香里の肩が弥平の右上腕部にしっとり当とたった。二人は密着したままで離れない。弥平は動揺しないように自然な感じを装ったが、明香里の体温が感じられてとまどった。
路面電車は交通信号の「赤」に従って停まったらしい。急に人通りや車の流れが活発になる車外の様子。K電の路面電車は、用津市内では繁華街のまっただ中をつらぬいていく。乗用車や路線バスと並走して走ることもざらにあるのだ。
「みづほら、M―4じゃったよね? M―4のゆかりの地って何があるんじゃろ?」
「M―4、M―4……。ああ、ご当地グルメのテーマパークがあるんじゃ。『用津B―1グルメ共和国』。お好み焼き、鍋焼き、うどんなど、ご当地セレクトの絶品料理が味わえる、じゃて」
弥平は明香里にたずねられるままに、市電マップの小さな文字を読みつたえた。
「ああ、グルメ共和国ね。行ったことある。やっちゃん、ある?」
「いや、ないと思う」
「飲み屋が多くある楓川町の方にあるんよ。でもね、ちょっと通りを外れただけで、ピンクのいかがわしいお店がたくさんあってびっくりしたなあ。そっか、グルメ共和国の方に行きよんじゃねえ。きっと歩いたほうが近いんじゃ」
「かもしれんの」
明香里から、ピンク、いかがわしい、なんて言葉が出てくるとは思わなかったので、息を止めそうになった。明香里は下ネタを発したわけではない。なのに、弥平は明香里をより神聖なものとして見なければ、と心の中でムキになってしまった。
「一駅目からグルメなんて。まさか、みんなで食べやせんじゃろうね」
「微妙なところじゃのう。まだ昼には早いし。タダでスタンプもらえたらええんじゃけど」
「よねー。案外、ウチらの一駅目、運が良かっただけかもね」
「うん」
弥平はただ相槌を打っただけなのに、明香里に笑われてしまった。不思議に思ったのもつかの間、路面電車が再び走りはじめ、弥平と明香里の触れていた部分が離れていく。二人が降りる駅も、もうすぐ次の電停だ。降りる準備をはじめなければならない。
大通駅の電停は乗降客でごった返していた。まぎれもなく、用津市のど真ん中。クリスマスイブの喧騒は途切れることを知らない。雑貨屋へは地上の横断歩道を渡っても行くことができたが、寒さを考慮して電停の接続点の一つでもある、地下道から向かうことにした。
いくぶん遠回りをして雑貨屋の正面に出ると、巨大なベルやリースに彩られた外観に目を奪われる。この雑貨屋は全国展開されている大手チェーンの系列店で、六階建ての店舗となっていた。一階から五階までの間に、輸入雑貨、生活雑貨、さらには一品ものの自転車や文房具、工作道具などが揃えられている。最終の六階にはシネコンが入っており、客足の途絶えることがない人気スポットとなっていた。
サンタの格好をした店員が、来店者に何か記念品のようなものを配っていた。行き来する人は誰もが幸せそうに見える。明香里も例外ではなく、表情を輝かせていた。行こ、と弥平をうながすと、先頭を切って店内に入っていった。
これがサークルの行事じゃなきゃええのに。
弥平は明香里の小さな背中を見つめながら、ぜいたくな思いを捨てきることができなかった。
クリスマスソングの定番、ワムのラストクリスマスが流れる中、店内のあちこちでパーティグッズのセールがあり、にぎわっている。家族連れやカップルらが興味津々でワゴンの中をのぞいていた。
明香里は、時計売り場の横で大量に陳列されていたスノーマンのろうそく達を愛おしそうに見つめている。大小さまざまなそれらを手に取り、ときおり弥平にも掲げて見せ、飽きることがないようだった。
ひとしきり、店舗一階部分をぐるりと回り、スタンプをもらえる場所はここにはないようだということがわかった。となれば、あとは明香里入魂のスタンプ収集術を駆使すればいいわけだ。しかし、肝心の明香里はまるでショッピングにでも来ているかのように足どりがゆっくりだったのだ。
商品に目を落とす明香里の、ともすれば無邪気な様子。時間がゆるやかに流れていくようなのに、不思議と焦りが生まれない。明香里と一緒にいることが心地よく思える(うぬぼれの一歩手前だとしても―――)。
「俺、店員に聞いてくるで。スタンプの場所」
「あ、うーん。おねがい」
「ここらへんにおってくれえよ」
「はーい」
明香里は一瞬だけ顔を上げたが、また異なる商品を物色しはじめていた。
やっぱ、女性って、ショッピングみたいなの好きなんじゃの。
商店街のときとは、態度が一八〇度異なる。でも、それもまたよしとしようと思った。弥平が初めて知った彼女の一面だったからだ。
それから弥平は、一階入り口付近の総合案内まで行き、K電スタンプの場所をたずねた。スタンプは屋上階、つまりシネコンが入っている階に備えつけられているということだった。
その知らせを持ち帰ると、明香里は人いきれにまぎれることなく、「ここらへん」にいてくれた。彼女のコート、そしてロングスカートのシルエットが、丸みをおびてどきっとする。なぜ弥平と明香里がここにいるのか、その理由さえ忘れてしまいそうになる。
弥平がしばらく明香里を黙って見ていると、明香里がそれに気づき、照れながら、上? と天井を指さしてきた。弥平はうなずき、エスカレーターの方へ行こう、とうながした。
明香里が弥平の一段上に立ち、エスカレーターが上っていく。明香里は鏡面になっている壁に向かいあい、映りこむ自分の姿をしきりにチェックしていた。弥平は直視できず、慌てて目をそらした。
「スタンプ、シネコンのところにあるって」
「あ、そうなん? まさか映画観ろってことかねえ。そりゃないか」
「ないと思うけどの。でも、観れって言われたら観てもええけど」
「えー? やっちゃん、まじで言っとるん? のんびりしすぎよ、それ」
五階に到達したころ、明香里に軽くたしなめられた。弥平はデート気分を手繰り寄せすぎていた。二人で映画、そんなの願望でしかない。ましてや、その思いに明香里が気づくわけもない。
弥平はスタートラインにも立っていないのに、いや、立たせてもらえるのかどうかも怪しいのに、何とかならないものかと馬鹿な想像だけを繰りかえしていた。
いけん、何考えよんじゃろ。今はスタンプじゃ。邪念を捨てねば。
弥平は顔をぶるぶると震わせ、エスカレーターの手すりをきつくにぎりしめていた。
六階に着くと、まず開放的な空間の広がりに驚いた。しきつめられた赤色の床。正面で出迎えるのは横に広がるチケット売り場のカウンター。天井からつるされているのは、映画の告知映像を流しつづけるいくつもの大型ディスプレー。ゆったりとした待機スペース。ポップコーンのカラメルの匂いもほのかにただよってきた。
六階も階下までと同じ空間構造のはずなのに、シネコンが入っているというだけでこんなにも雰囲気がちがう。客の絶えない商業店舗のことだけはある。
おしゃれな掲示板風のタイムテーブルをのぞきこむと、今の時間帯は邦画・洋画ともにどれも上映中だった。それとなくあたりを見渡したが、映画の上映時間を待つ客が目立つだけで、K電のスタンプがどこにあるのかはわからなかった。
弥平は明香里に言われるわけでもなく、率先してスタンプの設置場所を店員に聞くことにした。チケット売り場のお兄さんに聞くと、お兄さんは一瞬判断を失ったような表情を見せたが、すぐにトイレの前の映画のチラシが置いてあるスペースにあると教えてくれた。
明香里と行ってみると、人気のない奥まった場所にトイレがあり、その手前にいくつもの映画のチラシが収納された透明ケースが壁に設置されていた。そして、K電のスタンプ用紙も同じ要領で数十枚設置されていて、おもちゃのような丸いスタンプがケースの端からチェーンでつながれていたのだ。
「『K電鉄主催のスタンプラリーに参加されている皆様へ。お好きな映画パンフレットを購入して、スタンプを集めてください。パンフレットはどれでも千円です。もれなく、当該映画にかぎり、二名様以上四名様までの特別鑑賞優待券を差し上げます。※購入の際は、映画のチラシをお持ちの上、受付スタッフにお申し出ください。スタンプは乱暴にあつかわないでください』だって。えー? お金出さんにゃいけんの?」
明香里が、ケースに貼りつけてあった注意文を読み上げ、驚きの声を上げながら弥平の顔を見てきた。弥平も慌てて文章を目で追う。子供でも読めるようにふりがなが振ってあり、どうやら本物のK電スタンプラリーのスタンプのようだった。
それにしたって、映画の優待券が付いてくるとはいえ、お金をとられるなんて? 映画館に導かれたってことは、つまり、そういうこだったのだろうけれど。これって、ありなのか?
言葉を失いそうになっていくとは、こういうことをいうのかもしれない。弥平は無意識に明香里と目を見合わせていた。
≪おわり≫
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弥平が手すりにつかまりながらビル群に埋め尽くされた車窓を眺めていると、隣の明香里が携帯電話の画面を見せてきた。
明香里の黒い光沢のあるスマートフォン。その大きな液晶画面には用津市内の立体地図、それに静止する青いマーキングと、赤く点滅するマーキングが表示されていた。明香里は点滅するマーキングを指し示している。
「みづほたちがさっきから線路外を移動しよるん。降りる電停はここのはずなのに、かなり手前から市電には乗っとらんみたいなんよ。どこ行きよんじゃろう? さっきメールしたとき、聞いとけばよかった」
「ちょ、ちょい待ち。なんなん? 携帯でみづほらを追跡しよるんか?」
弥平はすぐに事態がのみこめず、目を丸くして明香里に聞いた。
「ほうよ。便利じゃろう、このアプリ」
「アップリ……? ようわからんけど。で、そのアップリケはみづほも知っとるんか?」
「そりゃ、知っとるし、みづほもウチらのことを把握しとるはずよ。みづほもウチも互いにリアルタイムで通信しとるけえ、できるんよ」
「じゃあ、真由美らも追えるんか?」
「真由美は無理。真由美は束縛されるの嫌いじゃけえ、そもそもこういうアプリは使わんよ」
「ほお……。ほいじゃが、なんかすごいことになっとるんじゃのう。あ、でもよく考えたらこわいよの。恋人の後とかつけることもできるんじゃないか?」
「その、恋人が意志的に信号を発しとったらね。そうじゃなきゃ、プライバシーの問題にかかわることじゃし、技術的に絶対制限されとると思うよ。おちおち、使っとられんくなるし」
「おお、なるほどの」
「ひょっとして、やっちゃんはスマートフォンじゃないん?」
「うん、スマートじゃない。厚ぼったい」
「厚ぼったいって……。まさか、サークルで初めてアドレス交換したときから携帯替えとらんのん?」
「そう、そういうことになるかの。ネバーチェンジじゃ」
「やー、貴重! でも、スマートフォンはええよ。いろんなこと楽しめるけえね」
明香里は一連の説明を自慢げに言うのでもなく、さらりと事もなげに言うので、弥平は何度もびっくりしてしまった。弥平は、いまだに五年前から愛用しているFOMAの折りたたみ式携帯電話しか持っていない。特徴は今や当たり前となってしまった「防水タイプ」ということだけだ。時代は進んでいる。
そのとき、ゆっくりと路面電車が停止し、明香里の肩が弥平の右上腕部にしっとり当とたった。二人は密着したままで離れない。弥平は動揺しないように自然な感じを装ったが、明香里の体温が感じられてとまどった。
路面電車は交通信号の「赤」に従って停まったらしい。急に人通りや車の流れが活発になる車外の様子。K電の路面電車は、用津市内では繁華街のまっただ中をつらぬいていく。乗用車や路線バスと並走して走ることもざらにあるのだ。
「みづほら、M―4じゃったよね? M―4のゆかりの地って何があるんじゃろ?」
「M―4、M―4……。ああ、ご当地グルメのテーマパークがあるんじゃ。『用津B―1グルメ共和国』。お好み焼き、鍋焼き、うどんなど、ご当地セレクトの絶品料理が味わえる、じゃて」
弥平は明香里にたずねられるままに、市電マップの小さな文字を読みつたえた。
「ああ、グルメ共和国ね。行ったことある。やっちゃん、ある?」
「いや、ないと思う」
「飲み屋が多くある楓川町の方にあるんよ。でもね、ちょっと通りを外れただけで、ピンクのいかがわしいお店がたくさんあってびっくりしたなあ。そっか、グルメ共和国の方に行きよんじゃねえ。きっと歩いたほうが近いんじゃ」
「かもしれんの」
明香里から、ピンク、いかがわしい、なんて言葉が出てくるとは思わなかったので、息を止めそうになった。明香里は下ネタを発したわけではない。なのに、弥平は明香里をより神聖なものとして見なければ、と心の中でムキになってしまった。
「一駅目からグルメなんて。まさか、みんなで食べやせんじゃろうね」
「微妙なところじゃのう。まだ昼には早いし。タダでスタンプもらえたらええんじゃけど」
「よねー。案外、ウチらの一駅目、運が良かっただけかもね」
「うん」
弥平はただ相槌を打っただけなのに、明香里に笑われてしまった。不思議に思ったのもつかの間、路面電車が再び走りはじめ、弥平と明香里の触れていた部分が離れていく。二人が降りる駅も、もうすぐ次の電停だ。降りる準備をはじめなければならない。
大通駅の電停は乗降客でごった返していた。まぎれもなく、用津市のど真ん中。クリスマスイブの喧騒は途切れることを知らない。雑貨屋へは地上の横断歩道を渡っても行くことができたが、寒さを考慮して電停の接続点の一つでもある、地下道から向かうことにした。
いくぶん遠回りをして雑貨屋の正面に出ると、巨大なベルやリースに彩られた外観に目を奪われる。この雑貨屋は全国展開されている大手チェーンの系列店で、六階建ての店舗となっていた。一階から五階までの間に、輸入雑貨、生活雑貨、さらには一品ものの自転車や文房具、工作道具などが揃えられている。最終の六階にはシネコンが入っており、客足の途絶えることがない人気スポットとなっていた。
サンタの格好をした店員が、来店者に何か記念品のようなものを配っていた。行き来する人は誰もが幸せそうに見える。明香里も例外ではなく、表情を輝かせていた。行こ、と弥平をうながすと、先頭を切って店内に入っていった。
これがサークルの行事じゃなきゃええのに。
弥平は明香里の小さな背中を見つめながら、ぜいたくな思いを捨てきることができなかった。
クリスマスソングの定番、ワムのラストクリスマスが流れる中、店内のあちこちでパーティグッズのセールがあり、にぎわっている。家族連れやカップルらが興味津々でワゴンの中をのぞいていた。
明香里は、時計売り場の横で大量に陳列されていたスノーマンのろうそく達を愛おしそうに見つめている。大小さまざまなそれらを手に取り、ときおり弥平にも掲げて見せ、飽きることがないようだった。
ひとしきり、店舗一階部分をぐるりと回り、スタンプをもらえる場所はここにはないようだということがわかった。となれば、あとは明香里入魂のスタンプ収集術を駆使すればいいわけだ。しかし、肝心の明香里はまるでショッピングにでも来ているかのように足どりがゆっくりだったのだ。
商品に目を落とす明香里の、ともすれば無邪気な様子。時間がゆるやかに流れていくようなのに、不思議と焦りが生まれない。明香里と一緒にいることが心地よく思える(うぬぼれの一歩手前だとしても―――)。
「俺、店員に聞いてくるで。スタンプの場所」
「あ、うーん。おねがい」
「ここらへんにおってくれえよ」
「はーい」
明香里は一瞬だけ顔を上げたが、また異なる商品を物色しはじめていた。
やっぱ、女性って、ショッピングみたいなの好きなんじゃの。
商店街のときとは、態度が一八〇度異なる。でも、それもまたよしとしようと思った。弥平が初めて知った彼女の一面だったからだ。
それから弥平は、一階入り口付近の総合案内まで行き、K電スタンプの場所をたずねた。スタンプは屋上階、つまりシネコンが入っている階に備えつけられているということだった。
その知らせを持ち帰ると、明香里は人いきれにまぎれることなく、「ここらへん」にいてくれた。彼女のコート、そしてロングスカートのシルエットが、丸みをおびてどきっとする。なぜ弥平と明香里がここにいるのか、その理由さえ忘れてしまいそうになる。
弥平がしばらく明香里を黙って見ていると、明香里がそれに気づき、照れながら、上? と天井を指さしてきた。弥平はうなずき、エスカレーターの方へ行こう、とうながした。
明香里が弥平の一段上に立ち、エスカレーターが上っていく。明香里は鏡面になっている壁に向かいあい、映りこむ自分の姿をしきりにチェックしていた。弥平は直視できず、慌てて目をそらした。
「スタンプ、シネコンのところにあるって」
「あ、そうなん? まさか映画観ろってことかねえ。そりゃないか」
「ないと思うけどの。でも、観れって言われたら観てもええけど」
「えー? やっちゃん、まじで言っとるん? のんびりしすぎよ、それ」
五階に到達したころ、明香里に軽くたしなめられた。弥平はデート気分を手繰り寄せすぎていた。二人で映画、そんなの願望でしかない。ましてや、その思いに明香里が気づくわけもない。
弥平はスタートラインにも立っていないのに、いや、立たせてもらえるのかどうかも怪しいのに、何とかならないものかと馬鹿な想像だけを繰りかえしていた。
いけん、何考えよんじゃろ。今はスタンプじゃ。邪念を捨てねば。
弥平は顔をぶるぶると震わせ、エスカレーターの手すりをきつくにぎりしめていた。
六階に着くと、まず開放的な空間の広がりに驚いた。しきつめられた赤色の床。正面で出迎えるのは横に広がるチケット売り場のカウンター。天井からつるされているのは、映画の告知映像を流しつづけるいくつもの大型ディスプレー。ゆったりとした待機スペース。ポップコーンのカラメルの匂いもほのかにただよってきた。
六階も階下までと同じ空間構造のはずなのに、シネコンが入っているというだけでこんなにも雰囲気がちがう。客の絶えない商業店舗のことだけはある。
おしゃれな掲示板風のタイムテーブルをのぞきこむと、今の時間帯は邦画・洋画ともにどれも上映中だった。それとなくあたりを見渡したが、映画の上映時間を待つ客が目立つだけで、K電のスタンプがどこにあるのかはわからなかった。
弥平は明香里に言われるわけでもなく、率先してスタンプの設置場所を店員に聞くことにした。チケット売り場のお兄さんに聞くと、お兄さんは一瞬判断を失ったような表情を見せたが、すぐにトイレの前の映画のチラシが置いてあるスペースにあると教えてくれた。
明香里と行ってみると、人気のない奥まった場所にトイレがあり、その手前にいくつもの映画のチラシが収納された透明ケースが壁に設置されていた。そして、K電のスタンプ用紙も同じ要領で数十枚設置されていて、おもちゃのような丸いスタンプがケースの端からチェーンでつながれていたのだ。
「『K電鉄主催のスタンプラリーに参加されている皆様へ。お好きな映画パンフレットを購入して、スタンプを集めてください。パンフレットはどれでも千円です。もれなく、当該映画にかぎり、二名様以上四名様までの特別鑑賞優待券を差し上げます。※購入の際は、映画のチラシをお持ちの上、受付スタッフにお申し出ください。スタンプは乱暴にあつかわないでください』だって。えー? お金出さんにゃいけんの?」
明香里が、ケースに貼りつけてあった注意文を読み上げ、驚きの声を上げながら弥平の顔を見てきた。弥平も慌てて文章を目で追う。子供でも読めるようにふりがなが振ってあり、どうやら本物のK電スタンプラリーのスタンプのようだった。
それにしたって、映画の優待券が付いてくるとはいえ、お金をとられるなんて? 映画館に導かれたってことは、つまり、そういうこだったのだろうけれど。これって、ありなのか?
言葉を失いそうになっていくとは、こういうことをいうのかもしれない。弥平は無意識に明香里と目を見合わせていた。
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