「もどって来い」
うんざりしているらしい監督が無線で指令を伝えてきた。
「とにかくガレージにもどって来い」
日がまだ暮れていない土曜日の午後五時、俺はフランスのポール・リカールサーキットで、来年のル・マン用に開発された真新しいフェラーリを走らせていた。バンクのついた第四コーナーを全開でとばしながら、二、三日前のエンジニアと交わした無線のやりとりを思いだす。
だいたい、エンジンを酷使しすぎなんだよ。エンジニアのルカは、チームの共通言語である英語で声を荒げた。攻撃的というよりは、大げさに自己防衛した声だ。油断するまい、相手に隙を与えまい、と虚勢を張っている。ちゃんと回転数を落としているじゃないか。こたえながら、俺はコーナーの進入でブレーキペダルを思い切り蹴飛ばし、フロントタイヤをロックさせる。もうもうと立ち上る白い煙。そうでもしていないと、欲求不満で気が狂いそうだったのだ。
だってそうじゃないか。俺たちは普通のチームメイトだったはずだ。ルカの声は青空のように穏やかだったろうし、俺の声だって、少なくともこんなに乾いてはいなかっただろう。それが現実じゃ、お互いに敵対感情をむき出しにして、車を走らせるたびに悪態をついているのだ。
ルカはため息をついた。お前は速いタイムを出せていない。冗談だろ、と俺は心の中で思う。この時期は新車の初期トラブルを洗い出し、信頼性を確保することが急務だ。特別に速く走らせる必要なんてないじゃないか。ル・マンのレースは速さと信頼性の兼ね合いが重要だと知っているくせに、一体何だっていうんだ。
新車のポテンシャルを知りたいんだよ、とルカは言った。シミュレーションでは、あと五秒ほど速いタイムを出せるんだがな――。どうせ紋切り型の理論をこじつけたいだけなのだ。新車における高速走行の重要性とかなんとかを。わかったよ、と俺は言った。わかったよ、これから気をつけてやる。
半年前に、俺は日本のレースカテゴリーでの活躍を買われて、ル・マンに参戦を表明していた今のフランスのレーシングチームに正ドライバーとして加入した。しかし、イタリアのフェラーリ社から出向し、チーム設立当初からル・マンのプロジェクトに参画していたルカは、三人のドライバー枠をすべてイタリア人ドライバーで埋めることを切望していたため、俺の存在を快く思わず、対立を深めていたのだ。
俺をチームに引き入れたその手前、俺とルカの仲介役に奔走しなければならない監督にはうまくやってくれ、と泣きつかれていた。この泥仕合で、最後に残るのは深い疲労と閉塞感しかない、と。ルカの態度は当然受け入れられるものではなかったが、板挟みになっていた監督のSOSでは背くわけにいかない。
ピットロードに進入してスピードを殺し、ガレージの前の見馴れた停車位置で止まる。車から降り、ヘルメットのバイザーを少し上げて視界を広げると、俺は少し緊張しながらガレージの中へ足を踏み入れた。普段、車両の整備をしている十数人のメカニックの気配はそこには無く、一台の予備車両が所在無さげに放置されている。ガレージの奥に青いチームシャツを着た監督だけがいた。
「タケシ」
監督はヘッドセットを外しながら、肩をすくめた。
「ルカがホテルへ帰っちまった。今日の走行はやめだ」
ほとほとあきれかえっているように見える。
「レストランの予約を入れてなかったから、だと」
ばかげている。怒りがこみあげて、たちまち血が逆流しそうになった。そんなことのためにチームを振り回し、これほどまでに落胆させるなんて。
思えば、いくらノックしても、ルカは心のドアをあけようとしなかった。顔を突き合わせれば、フェラーリに乗るのはイタリア人だ、と決まり文句だけを吐き捨てる。まるで子供のようだった。俺は機嫌をなだめたりして何とかそのドアをあけさせようとしたが、無駄骨だった。監督は壁にもたれて、ポケットから取り出したキャンディーを口の中にほうりこんでいた。
「ルカが帰ると腹が減るなあ」
監督は少しさびしそうな顔でそう言った。皮肉のつもりだろう。
「イタリアのレーシングマンは腹が減ったらスパナを置いてフォークを持ちますからね」
俺が調子付くと、監督はふふっと笑う。
「はしを持つかもしれんぞ」
「どうしてです、パスタが大好きだったでしょう」
監督の顔をのぞきこんで訊きながら、俺は何ヵ月か前、チームに加入して、はじめて監督と食事をしたときのことを思いだした。
エンジニアのルカ、あいつはな、外国へ行っても麺類をよく食べるんだ、とたのしそうに監督は言った。
「麺類?」
俺たちはイタリアレストランにいて、ブラウンライスのリゾットを食べていた。
「ああ。もちろんパスタも外さないんだが、モリソバとかウドンとかも食べるんだ」
俺はイタリア人といえばパスタ、と思っていたので、ルカが和風麺までも食すことに少し驚いたのだった。記憶をたぐりよせた後、監督の次の言葉をきいて、思わずどきっとした。
「あいつは他人とうまくいかなくなると、まず相手の国の水、ならぬ、相手の国の麺類に慣れようとするんだ」
フェラーリに乗る日本人は嫌うくせに、和風の麺類を食べるだなんて、そんな風にむきになるなんて、まったくルカってやつは。異文化理解が対人関係におよぼす好影響について、などという紋切り型の理論を大事にしているのかもしれない。
俺はルカがせいろうをいくつも積み上げて悪戦苦闘している姿を想像した。健気だけど滑稽で、俺は百年ぶりくらいに、ルカへの親近感を覚えた。ほんの少し、許そうと思った。
ほどなくして監督の携帯電話が鳴り、俺たちはルカからディナーの誘いを受けた。ようやくルカが心のドアをあけたのだ。俺はヘルメットを脱ぎ、監督から携帯電話を借りると、やさしくよびかけた。
「ごちそうになるよ、ルカ」
恥ずかしさからか、ルカの返事は小さかった。
「もう水に流そう。そのうちみんなうまくいくよ。俺もティフォシ(※フェラーリの熱狂的なファンのこと)に認められるようなフェラーリのドライバーになるからさ」
耳をすましたが、やっぱり返事は小さい。
俺は監督と顔を見合わせた。
「それからディナーのメニュー、日本食がいいな」
その時、やっとルカのやさしい笑い声を聞くことができた。
翌週から、ガレージにはルカの明るい笑顔があった。ル・マンへの挑戦がようやく始まったのだ。
《おわり》
ひとりごと
秋の近づく気配が、いやその前に台風の気配が気候が気になるsa12colorです。
また、短編小説を投稿しましたこの作品も車が登場します。
今作は学生時代に書いたものです。他人に粗探しをされて凹んだ記憶がよみがえります
すずしくなってきました。
星空を眺めては眠りについています サンマが食べたいなぁ
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うんざりしているらしい監督が無線で指令を伝えてきた。
「とにかくガレージにもどって来い」
日がまだ暮れていない土曜日の午後五時、俺はフランスのポール・リカールサーキットで、来年のル・マン用に開発された真新しいフェラーリを走らせていた。バンクのついた第四コーナーを全開でとばしながら、二、三日前のエンジニアと交わした無線のやりとりを思いだす。
だいたい、エンジンを酷使しすぎなんだよ。エンジニアのルカは、チームの共通言語である英語で声を荒げた。攻撃的というよりは、大げさに自己防衛した声だ。油断するまい、相手に隙を与えまい、と虚勢を張っている。ちゃんと回転数を落としているじゃないか。こたえながら、俺はコーナーの進入でブレーキペダルを思い切り蹴飛ばし、フロントタイヤをロックさせる。もうもうと立ち上る白い煙。そうでもしていないと、欲求不満で気が狂いそうだったのだ。
だってそうじゃないか。俺たちは普通のチームメイトだったはずだ。ルカの声は青空のように穏やかだったろうし、俺の声だって、少なくともこんなに乾いてはいなかっただろう。それが現実じゃ、お互いに敵対感情をむき出しにして、車を走らせるたびに悪態をついているのだ。
ルカはため息をついた。お前は速いタイムを出せていない。冗談だろ、と俺は心の中で思う。この時期は新車の初期トラブルを洗い出し、信頼性を確保することが急務だ。特別に速く走らせる必要なんてないじゃないか。ル・マンのレースは速さと信頼性の兼ね合いが重要だと知っているくせに、一体何だっていうんだ。
新車のポテンシャルを知りたいんだよ、とルカは言った。シミュレーションでは、あと五秒ほど速いタイムを出せるんだがな――。どうせ紋切り型の理論をこじつけたいだけなのだ。新車における高速走行の重要性とかなんとかを。わかったよ、と俺は言った。わかったよ、これから気をつけてやる。
半年前に、俺は日本のレースカテゴリーでの活躍を買われて、ル・マンに参戦を表明していた今のフランスのレーシングチームに正ドライバーとして加入した。しかし、イタリアのフェラーリ社から出向し、チーム設立当初からル・マンのプロジェクトに参画していたルカは、三人のドライバー枠をすべてイタリア人ドライバーで埋めることを切望していたため、俺の存在を快く思わず、対立を深めていたのだ。
俺をチームに引き入れたその手前、俺とルカの仲介役に奔走しなければならない監督にはうまくやってくれ、と泣きつかれていた。この泥仕合で、最後に残るのは深い疲労と閉塞感しかない、と。ルカの態度は当然受け入れられるものではなかったが、板挟みになっていた監督のSOSでは背くわけにいかない。
ピットロードに進入してスピードを殺し、ガレージの前の見馴れた停車位置で止まる。車から降り、ヘルメットのバイザーを少し上げて視界を広げると、俺は少し緊張しながらガレージの中へ足を踏み入れた。普段、車両の整備をしている十数人のメカニックの気配はそこには無く、一台の予備車両が所在無さげに放置されている。ガレージの奥に青いチームシャツを着た監督だけがいた。
「タケシ」
監督はヘッドセットを外しながら、肩をすくめた。
「ルカがホテルへ帰っちまった。今日の走行はやめだ」
ほとほとあきれかえっているように見える。
「レストランの予約を入れてなかったから、だと」
ばかげている。怒りがこみあげて、たちまち血が逆流しそうになった。そんなことのためにチームを振り回し、これほどまでに落胆させるなんて。
思えば、いくらノックしても、ルカは心のドアをあけようとしなかった。顔を突き合わせれば、フェラーリに乗るのはイタリア人だ、と決まり文句だけを吐き捨てる。まるで子供のようだった。俺は機嫌をなだめたりして何とかそのドアをあけさせようとしたが、無駄骨だった。監督は壁にもたれて、ポケットから取り出したキャンディーを口の中にほうりこんでいた。
「ルカが帰ると腹が減るなあ」
監督は少しさびしそうな顔でそう言った。皮肉のつもりだろう。
「イタリアのレーシングマンは腹が減ったらスパナを置いてフォークを持ちますからね」
俺が調子付くと、監督はふふっと笑う。
「はしを持つかもしれんぞ」
「どうしてです、パスタが大好きだったでしょう」
監督の顔をのぞきこんで訊きながら、俺は何ヵ月か前、チームに加入して、はじめて監督と食事をしたときのことを思いだした。
エンジニアのルカ、あいつはな、外国へ行っても麺類をよく食べるんだ、とたのしそうに監督は言った。
「麺類?」
俺たちはイタリアレストランにいて、ブラウンライスのリゾットを食べていた。
「ああ。もちろんパスタも外さないんだが、モリソバとかウドンとかも食べるんだ」
俺はイタリア人といえばパスタ、と思っていたので、ルカが和風麺までも食すことに少し驚いたのだった。記憶をたぐりよせた後、監督の次の言葉をきいて、思わずどきっとした。
「あいつは他人とうまくいかなくなると、まず相手の国の水、ならぬ、相手の国の麺類に慣れようとするんだ」
フェラーリに乗る日本人は嫌うくせに、和風の麺類を食べるだなんて、そんな風にむきになるなんて、まったくルカってやつは。異文化理解が対人関係におよぼす好影響について、などという紋切り型の理論を大事にしているのかもしれない。
俺はルカがせいろうをいくつも積み上げて悪戦苦闘している姿を想像した。健気だけど滑稽で、俺は百年ぶりくらいに、ルカへの親近感を覚えた。ほんの少し、許そうと思った。
ほどなくして監督の携帯電話が鳴り、俺たちはルカからディナーの誘いを受けた。ようやくルカが心のドアをあけたのだ。俺はヘルメットを脱ぎ、監督から携帯電話を借りると、やさしくよびかけた。
「ごちそうになるよ、ルカ」
恥ずかしさからか、ルカの返事は小さかった。
「もう水に流そう。そのうちみんなうまくいくよ。俺もティフォシ(※フェラーリの熱狂的なファンのこと)に認められるようなフェラーリのドライバーになるからさ」
耳をすましたが、やっぱり返事は小さい。
俺は監督と顔を見合わせた。
「それからディナーのメニュー、日本食がいいな」
その時、やっとルカのやさしい笑い声を聞くことができた。
翌週から、ガレージにはルカの明るい笑顔があった。ル・マンへの挑戦がようやく始まったのだ。
《おわり》
ひとりごと
秋の近づく気配が、いやその前に台風の気配が気候が気になるsa12colorです。
また、短編小説を投稿しましたこの作品も車が登場します。
今作は学生時代に書いたものです。他人に粗探しをされて凹んだ記憶がよみがえります
すずしくなってきました。
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