「むやみに飛ばさなくなった。速いのは分かってるから、か」
「なんのこと?」
僕が青い車を見ながらぼそりとつぶやくと、妻が不思議そうにたずねてきた。
「車のテレビシーエムの宣伝文句。これね、このやつのね」
「ちょっと、指さすのやめなさいよ。失礼でしょう」
青い車を指さしながら教えると、妻はあわてたように僕の左手をはたいた。
「こんな渋滞じゃ、ご自慢のスピードは出せやしないのにね。そもそもこの日本で安心してスピード出せるようなところはないのにな。ご愁傷様」
妻は毒舌ぶる僕を見つめたまま閉口していた。いちいち付き合うのが馬鹿らしいと判断したのかもしれない。僕はそれをちょっと寂しく思い、でも機嫌をなだめるのも悔しいので調子は変えなかった。
「こっちの貫禄勝ちだな。年季が入ってるもん。なあ、この車のシーエムをもう一度作るんならキャッチコピーはどんなのがいいと思う?」
妻に明るく振舞ってみたが、彼女の心はもはや雑誌の誌面にあるみたいだ。骨ばった手首が華奢でなんともセクシィなのに、いつのまにか日よけ用の白くて長い手袋みたいなのをしてそれを隠している。シミは将来こわいのよ、あなたもスキンケアしなきゃだめよ、と真顔でよく言ってくる妻の心づかいは、正直なところピンときたことがない。
「なあ、どんなのがいい?」
僕はむなしくも妻の関心を引きだそうとしていた。でもそれを突きはなすように、大きな音で雑誌のページをめくる彼女の態度は冷たかった。
「俺ならこうするな。むやみに飛ばさなくなった。遅いのは分かってるから。な、よくない?」
妻は変わらずに無反応だった。出会ってから遭遇した幾度の倦怠期。そこでの終末感に似た感覚が、この空間には確かにある。しかし二人はまた良好な関係に戻れるという自信が僕にはある。これは過去の倦怠期には通底していた要素だ。これには、彼女だって共鳴してくれると思う。だって僕たちは結婚しているんだから。ほどよくリラックスして互いに相手を意識しているんだから。当然といえばそれまでだけど。そのとき妻がぱん、と雑誌を閉じた。僕を悲しい目でとらえている。
「別れよう、私たち」
「なに?」
ある種の優越感に溺れていた僕は、妻のその一言に耳を疑った。
「本気で言ってんの?」
「本気よ」
「俺、なにか悪い気分にさせたかい」
「あなたは身勝手で気分屋で思いやりがないから、いつも私は悲しくなるの。だからもう別れたいの」
僕は絶句した。自分が身勝手で思いやりがないらしい人間だということは何となく知っていた。でも彼女とはそれでうまくやってこれていたし、それ以外でもこの性格が災いになったことはあまりない。継続的に彼女の僕に対する怒りが鬱積していて、それがついに爆発したのだろうか。いや、別れようだなんてきっと彼女の衝動的な思いつきだ。
だいいち、彼女が僕と別れることを今日初めから計画していただなんて考えると、血の気がひいてしまうではないか。とはいえ、とはいえだよ、とりあえず二人の絆をつなぎとめることが急務なのは間違いようのない事実だ。
「そばにいると気疲れするの。もううんざりなの」
「おいおい、ちょっと待ってくれよ。そんなのあんまりだ。急すぎるよ。ちゃんと話し合おうぜ。とにかく俺が悪かった。な、落ちついてくれよ」
「なぜ悪いと思ってるの? 深く考えてなんかいないでしょう」
返す言葉が見当たらない。パニックだ。これはパニックというやつだ。もしかして、もしかして、僕は最悪の局面を迎えているのだろうか。隣の車列がにわかに動きはじめている。妻は見切りをつけたかのように雑誌をバッグの中にしまうと、長い手袋みたいなのをダッシュボードに押しこんだ。
「さようなら」
妻はそう言いのこすと、助手席のドアをあけて車外に出た。そうして前の車との間をすり抜けるようにして隣車線に入り、ゆるゆると動いていたあの青い車の後部座席の窓をこつこつとたたいているようだった。運転者に向けてなのだろうか、えらい剣幕で何事か訴えてもいたようだった。
「なにしてんだ、あのばか」
もちろん僕は即刻シートベルトを外したし、車からも飛びだした。彼女の体を力ずくでもつかまえて、引きもどそうとしたのだ。しかし彼女はそれよりも早く、まるでタクシーでもつかまえたかのように青いプレミアムカーに乗りこんだのだ。それと時を同じくして、申しあわせたかのように隣車線が急に流れだしたもんだから、もはやお手上げだった。静かな立ち上がりのエンジン音を奏でて、青い車は走りだした。僕は妻を失いたくない一心で愛車に乗りこみ、隣車線に割って入って後を追った。
こんなのってありか。ありえないことだ。アクセルを踏みこんでも踏みこんでも、青い車が遠のいていくってのはどういうわけなんだ。速いのは分かっている、というあの文句を見せつけているようじゃないか。悪い夢であってほしい。僕はただジェット機を妻と見にきただけなんだ!
それからは運悪く車線変更してきた車が進路を阻みはじめ、僕はまた完全に渋滞にはまっていた。はがゆい思いで十分あまりを過ごした。妻の携帯に電話もかけたがつながらない。やっとこさ車が流れはじめたと思ったら、隣の車線が空港方向に向かって延々と舗装工事をしている情景が目に飛びこんできたのだ。不自然な渋滞の原因はこいつのせいだったのか―――。全身の力が一気に抜け切った。工事中なんて表示はどこにもなかったはずだ。いや、どこかにあったのかもしれない。僕と妻は気づけなかったのか。ああ、そんなことはもうどうでもいい。
にぶい振動を車がひろっていく。パイロンを何本かなぎたおしているのかもしれない。その日、僕はどうやって家に帰ったのかも思いだせなかった。
せめて青い車のナンバーをメモしておけばよかった。なによりも、いらいらしなければよかった。二ヶ月が経過した今でも無念さがとめどなく心の奥底ににじんでくる。誰か妻を見かけませんでしたか。僕は彼女がいないと、だめみたいです。
《おわり》
ひとりごと
体がダルーイかも。クーラーを避けたいsa12colorです。
短編小説をまたまた投稿してみました
自分としては次回作の長編へのつなぎのつもりで書いているのですが、短編の方がお気楽に向きあえますねぇ やはり長編を書くためには短編の執筆トレーニングはかかせません
(まあ・・・、長編の草稿につまっているから、ただのいいわけなんですけどね)
嬉しいことも悲しいこともいっぱいあるといいですね
「なんのこと?」
僕が青い車を見ながらぼそりとつぶやくと、妻が不思議そうにたずねてきた。
「車のテレビシーエムの宣伝文句。これね、このやつのね」
「ちょっと、指さすのやめなさいよ。失礼でしょう」
青い車を指さしながら教えると、妻はあわてたように僕の左手をはたいた。
「こんな渋滞じゃ、ご自慢のスピードは出せやしないのにね。そもそもこの日本で安心してスピード出せるようなところはないのにな。ご愁傷様」
妻は毒舌ぶる僕を見つめたまま閉口していた。いちいち付き合うのが馬鹿らしいと判断したのかもしれない。僕はそれをちょっと寂しく思い、でも機嫌をなだめるのも悔しいので調子は変えなかった。
「こっちの貫禄勝ちだな。年季が入ってるもん。なあ、この車のシーエムをもう一度作るんならキャッチコピーはどんなのがいいと思う?」
妻に明るく振舞ってみたが、彼女の心はもはや雑誌の誌面にあるみたいだ。骨ばった手首が華奢でなんともセクシィなのに、いつのまにか日よけ用の白くて長い手袋みたいなのをしてそれを隠している。シミは将来こわいのよ、あなたもスキンケアしなきゃだめよ、と真顔でよく言ってくる妻の心づかいは、正直なところピンときたことがない。
「なあ、どんなのがいい?」
僕はむなしくも妻の関心を引きだそうとしていた。でもそれを突きはなすように、大きな音で雑誌のページをめくる彼女の態度は冷たかった。
「俺ならこうするな。むやみに飛ばさなくなった。遅いのは分かってるから。な、よくない?」
妻は変わらずに無反応だった。出会ってから遭遇した幾度の倦怠期。そこでの終末感に似た感覚が、この空間には確かにある。しかし二人はまた良好な関係に戻れるという自信が僕にはある。これは過去の倦怠期には通底していた要素だ。これには、彼女だって共鳴してくれると思う。だって僕たちは結婚しているんだから。ほどよくリラックスして互いに相手を意識しているんだから。当然といえばそれまでだけど。そのとき妻がぱん、と雑誌を閉じた。僕を悲しい目でとらえている。
「別れよう、私たち」
「なに?」
ある種の優越感に溺れていた僕は、妻のその一言に耳を疑った。
「本気で言ってんの?」
「本気よ」
「俺、なにか悪い気分にさせたかい」
「あなたは身勝手で気分屋で思いやりがないから、いつも私は悲しくなるの。だからもう別れたいの」
僕は絶句した。自分が身勝手で思いやりがないらしい人間だということは何となく知っていた。でも彼女とはそれでうまくやってこれていたし、それ以外でもこの性格が災いになったことはあまりない。継続的に彼女の僕に対する怒りが鬱積していて、それがついに爆発したのだろうか。いや、別れようだなんてきっと彼女の衝動的な思いつきだ。
だいいち、彼女が僕と別れることを今日初めから計画していただなんて考えると、血の気がひいてしまうではないか。とはいえ、とはいえだよ、とりあえず二人の絆をつなぎとめることが急務なのは間違いようのない事実だ。
「そばにいると気疲れするの。もううんざりなの」
「おいおい、ちょっと待ってくれよ。そんなのあんまりだ。急すぎるよ。ちゃんと話し合おうぜ。とにかく俺が悪かった。な、落ちついてくれよ」
「なぜ悪いと思ってるの? 深く考えてなんかいないでしょう」
返す言葉が見当たらない。パニックだ。これはパニックというやつだ。もしかして、もしかして、僕は最悪の局面を迎えているのだろうか。隣の車列がにわかに動きはじめている。妻は見切りをつけたかのように雑誌をバッグの中にしまうと、長い手袋みたいなのをダッシュボードに押しこんだ。
「さようなら」
妻はそう言いのこすと、助手席のドアをあけて車外に出た。そうして前の車との間をすり抜けるようにして隣車線に入り、ゆるゆると動いていたあの青い車の後部座席の窓をこつこつとたたいているようだった。運転者に向けてなのだろうか、えらい剣幕で何事か訴えてもいたようだった。
「なにしてんだ、あのばか」
もちろん僕は即刻シートベルトを外したし、車からも飛びだした。彼女の体を力ずくでもつかまえて、引きもどそうとしたのだ。しかし彼女はそれよりも早く、まるでタクシーでもつかまえたかのように青いプレミアムカーに乗りこんだのだ。それと時を同じくして、申しあわせたかのように隣車線が急に流れだしたもんだから、もはやお手上げだった。静かな立ち上がりのエンジン音を奏でて、青い車は走りだした。僕は妻を失いたくない一心で愛車に乗りこみ、隣車線に割って入って後を追った。
こんなのってありか。ありえないことだ。アクセルを踏みこんでも踏みこんでも、青い車が遠のいていくってのはどういうわけなんだ。速いのは分かっている、というあの文句を見せつけているようじゃないか。悪い夢であってほしい。僕はただジェット機を妻と見にきただけなんだ!
それからは運悪く車線変更してきた車が進路を阻みはじめ、僕はまた完全に渋滞にはまっていた。はがゆい思いで十分あまりを過ごした。妻の携帯に電話もかけたがつながらない。やっとこさ車が流れはじめたと思ったら、隣の車線が空港方向に向かって延々と舗装工事をしている情景が目に飛びこんできたのだ。不自然な渋滞の原因はこいつのせいだったのか―――。全身の力が一気に抜け切った。工事中なんて表示はどこにもなかったはずだ。いや、どこかにあったのかもしれない。僕と妻は気づけなかったのか。ああ、そんなことはもうどうでもいい。
にぶい振動を車がひろっていく。パイロンを何本かなぎたおしているのかもしれない。その日、僕はどうやって家に帰ったのかも思いだせなかった。
せめて青い車のナンバーをメモしておけばよかった。なによりも、いらいらしなければよかった。二ヶ月が経過した今でも無念さがとめどなく心の奥底ににじんでくる。誰か妻を見かけませんでしたか。僕は彼女がいないと、だめみたいです。
《おわり》
ひとりごと
体がダルーイかも。クーラーを避けたいsa12colorです。
短編小説をまたまた投稿してみました
自分としては次回作の長編へのつなぎのつもりで書いているのですが、短編の方がお気楽に向きあえますねぇ やはり長編を書くためには短編の執筆トレーニングはかかせません
(まあ・・・、長編の草稿につまっているから、ただのいいわけなんですけどね)
嬉しいことも悲しいこともいっぱいあるといいですね