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短編小説「無視できない」 vol.1 (5話完結)

2010-06-30 00:26:15 | 短編小説
 浩介は少しひるんでいる自分に気づき、空想で頬をぴしゃっとたたいた。ほどよい熱気と喧騒が交りあう空間に、そっと足を踏みいれる。眩しくはないぼんやりした光度を感じて頭上を見上げると、点灯されたばかりの十数個の水銀灯が照度を定めるために明滅していた。体育館での学年全体練習が始まる。今日こそはと思うものの、やり過ごそうという気持ちも依然として無くならない。

 顔を合わせるチャンスは自ら作らねばならないが、ほんの少しの勇気があれば、彼女に声はかけられると思う。でもやっぱり、簡単にはできないことだった。

 ワックスのかかった体育館の床には、白いカラーテープで引かれたいくつもの大円がすでにあった。いつの間に準備されていたのだろう。屋内で、しかもこんなに大勢の人間と踊り回るのは初めてのこと。どんな雰囲気になるのか想像もつかない。

 浩介の高校では体育祭に男女混合種目があり、二年生はフォークダンスを踊らねばならなかった。他の学年では、一年生のフラッグを使ったマスゲームがある。三年生にはなぜか混合種目が無く、団体種目として男子が騎馬戦、女子は創作ダンスが割り当てられていた。

 四回目の授業にして初の屋内練習。グラウンドは一年生が使用しているらしい。過去三回の練習では、ひたすらダンスの型の習得に力が入れられていて、輪を作って踊ったのは一度だけだった。男女が互いに恥ずかしさを克服することから始まり、ミスしてもいいから思いきりよく踊ることを学んだ。今日あたりから、そろそろ学年全体での連係動作に練習の主眼が置かれるのかもしれない。

 連日の残暑の日射から逃れられる屋内練習は、人間の心をどこか緩めてしまう。三百人を超える生徒達の表情はどれも、笑みがこぼれているように見えた。男女が無数の小さな集団をあちこちで作り、言葉に聞こえない言葉をこだまさせている。派手なグループも、大人しいグループも緊張感をどこか欠いている風だった。

 浩介は一人、自分のクラスのおおよその定位置を予測して立ち止まった。注意深く周囲を見渡すと、無意識に彼女を探してしまう。クラスの仲間と話しながらでもそれはできることだった。だが、一方にも他方にも注意を集中することは困難である。浩介は彼女からすでに一度逃げていたし、大げさだが、堂々としておきたかった。いい加減に、ちゃんと向き合わねばならなかったのだ。その機会を作って。

 あちらからは、こちらが見えているだろうか。あの時のように。

 過剰な自意識は、グラウンドより閉鎖的なこの体育館の中の方が断然大きくなっている。そこに帯同して鮮明に思い出されるのは、彼女の悲痛な視線、そして白い包帯だった。


 あの日、遅刻するかしないかのデッドラインとも言うべき時間に家を出た。連休を前にした月末の金曜日で、前夜に気を緩ませて夜更かししたのが寝坊の原因だったのだろう。自転車のペダルを回しながら団地を下り、隣町に入って歩道の少ない市街地をひたすら走る。

 国道と並走するフェンス越しの私鉄の軌道に沿っていき、途中踏切を渡って大きな狛犬がシンボルの神社の裏手に出ると、正面の一本橋を渡って川を越える。そこから段々に連なる田んぼを横目に、うねる白いコンクリート舗装の坂道を無心に駆け上がっていけば、高校正門のふもとまでたどり着くことができる。家から高校までの所要時間は約三十分だ。しかしそれは、坂道で自転車を押して上がらなかった場合のはなしだ。

 時間に余裕があれば、たいていの生徒はあの坂道と真剣に付きあうことはない。自転車を押して上がるのだ。同級生と並んで会話しながら登っても息切れはしない。浩介が自転車から下りた場合、所要時間はいつもより十分増しくらいとなるが、それでもホームルーム開始の定刻前には到着できていた。だからあの日、浩介にしてみれば三十分コースでぶっ飛ばしていくのがセオリーだった。

 太陽の熱視線にやられ、背中はぐっしょりと汗ばむ。荒れ狂う強い風によって髪の分け目が崩れ、何度も毛根付近に痛みを感じていた。だが、ひるむわけにはいかなかった。蒼の空の下、弾丸のごとく突き抜けねばならなかったのだ。中学三年間と高校一年まで無遅刻の皆勤で通していた浩介にとって、無為な遅刻は論外であったからだ。

 うねうねとつづくコンクリートの上り坂。フラットではないザラザラの路面。自動車一台の往来がやっとであろう、その路の幅。視界の左サイドには、とげのついた緑の葉が厚い暴風壁となっている民家の垣根が、右サイドには濃緑が茂る田んぼの段々が延々と続いていく。他に生徒の姿が見当たらなかったことから、時間とのきわどい勝負になることを覚悟していた。

 やぶ蚊のような、あるいは小さなハエのような黒モジャの団体飛翔物が宙にとどまっていて、それらを口に含むこともしばしばだった。ただでさえ自転車のスピードはのろく、車体は重く感じる。気を紛らわそうと、一文字型のハンドルを握りしめ、重力に抗うように前輪を浮かせてみる。一瞬でも軽やかに進み、楽になりたかった。でも、前カゴに入っているリュックは思いのほか弾まず、車輪は地面にあっけなく着地する。
 
 サドルに尻を落とそうものなら、高さをわざと低くしているためか三輪車に乗っているような幼さを感じてしまい、余計に疲労度が増す。ぜえ、はあ、と吐き出される止まない呼吸の音は、知っている奴にはできるだけ聞かれたくないものだった。

 長い登坂の間、ある区間だけ息のつけるアップダウンがあった。民家の連なりが途絶え、山の木々に周囲が囲まれてくると、目前に全長三十メートルくらいの土管のようなトンネルが現れる。入り口付近がちょうど山の頂点のようになっていて、あとは下っていくのみという珍しい起伏になっていた。その暗がりに突入する前からは、出口が目視で確認できない。天井の低いトンネルには、点灯していない数本の細長い蛍光灯が設置されている。

 楕円を半分に切ったような光が先に見えるだけ。まるで自分の両目がヘッドライトのようになった感覚だ。軽くなったペダルを芯で捉えない、全自動的感覚。息を落ちつかせながら、つかの間の開放感を味わう。生温かな気流が正面から向かってきて、車輪のシャーっという音がやけに響いてくる影の世界。出口に向かいながら急な下りとなり、トンネルを抜けると左に大きく曲がってまた急な上りになる。その「左に大きく曲がる」箇所では、つづく上りの坂に備え、直前までのスピードをできるだけ維持していきたいという心理がはたらく。

 トンネル出口直前で右側の内壁に寄り、出口で日の光とともに現れる内側の山の斜面へ、そして右手に再び現れる田んぼの土手に向かっていく。低速であれ、高速であれ、この通路の出口ではアウト・イン・アウトのラインを攻めねばならないのだ。

 光の射す方へ飛び出す瞬間、真正面に設置されてあるオレンジポールのカーブミラーを確認する。普段ならば、通学中の生徒の自転車の存在があることから極力減速する。しかし、遅刻するかしないかの瀬戸際では、ミラーの中に人やモノの気配がなければ経験と希望的観測でMOTOライダーのようにハングオンで行く。

 浩介はあの日もそうやって左へ曲がろうとしていた。

 しかしトンネルを抜けた瞬間、田んぼの土手直前にある側溝に自転車ごと突っこんでいた女子生徒が目に飛びこんできたのだ。たまらずに急制動をかけ、現場を数メートルばかり通り越して自転車を止めた。慌てて振りかえると、溝に前輪を落としこんだ自転車の横で、浩介の通う高校の制服を着た女子生徒が路上に倒れこんでいたのだ。側溝の方に背を向けて地面に横たわるようなかっこうだった。

 コンクリートに手をついて上体を起こそうとしているが、ぶるぶると身体が震えるだけで起き上がれない。右足のローファーは脱げかかり、濃紺のソックスの「はだし」が見えかけていた。水色の通学鞄はひしゃげた前カゴの中で圧迫されるように小さくなっていて、それだけで衝撃の大きさがどれほどのものだったかが分かった。

 浩介はあわわ、とうろたえそうになるのを必死にこらえ、女子生徒に駆け寄ろうと自転車から降りた。しかし、上り坂で路面が平らではないためか、自転車が何度も倒れそうになり、バランスが取れない。結局最後は山側の斜面に立てかけておくことになった。その間の自身の怠慢な態度はもどかしかったが、俊敏に動きたくても心の動揺が大きくて動作がついてこなかったのだ(と思いたい。そう思うしかなかった)。

「だ、大丈夫ですか?」
 女子生徒に近づいたものの、声をかけるのがやっとだった。何をおどおどとしていたのだろう。目の前で起きているその異様な雰囲気に飲まれ、どのように対処すればいいのか即座に判断ができなかったのだろう。今思い返しても情けない対応である。

 両膝をついてかかがみこみ、女子生徒の様子をうかがう。照り返しの熱気で悶えそうになるのに、彼女はじっとしているしかないというむごさ。あれこれ思いをめぐらすものの、ただひたすら「大丈夫ですか?」としか聞けなかった。横たわる彼女の身体に触れていいものか、それすらもためらいつづけていた。

 女子生徒の白のセーラーは薄黒く汚れ、スカートのプリーツにも折り目を越えて白く引きずったような跡がついている。腕や膝小僧あたりに痛々しい出血も見られていた。バラバラとくずれる女子生徒の長い髪。何年生だろう。同学年か、それとも一つ上の三年生か。ほどよく垢抜けている感じから、一年生ではなさそうに見える。彼女は激痛に顔をゆがめ、浩介の存在を確かめてもなお、言葉を発せないでいた。

 助けなきゃ、助けなきゃ、彼女を助けなきゃ。

 心でわめきちらしても、全く気転をきかせられない。本当にどうしていいか分からなかった(なぜか、泣きそうでもあった)。そして、何度目かの大丈夫? を発したときだった。その場に一人の男子生徒が自転車で通りかかったのだ。浩介と同様に急いでいたようで、目を丸くした形相で急激なブレーキをかけてその場に止まったのだった。

 ボリュームのあるオールバックのような髪型、きりりと整えられた眉、勇猛果敢なりりしい顔つき。その男子生徒には見覚えがあった。中学の時の同級生。クラスが一緒になったこともないし、話したこともなかったが、浩介はその男を一方的に知っていた。中学で生徒会長をやっていた男だったからだ。

 体育館の壇上に立つ彼を何度となく仰ぎ見て、強がりで無関心を装っていた記憶が脳裏にあらわれた。浩介が彼の何を知っているかと問われたら、何も知らない、ということになるが、彼の清潔感あふれる統制力のようなものだけはずっと知っていたと答えよう。結論から言うと、彼は高校生になっても変わっていなかったのだ。

 彼は自分の自転車を山の斜面に立てかける際、浩介のように時間をかけることはなかった。さらに、倒れている女子生徒に走り寄り、当たり前のように手を触れて親身に介護を始めていったのだ。

 ブレザーパンツのポケットからハンカチやポケットティッシュをさっと取りだし、止血を試みている。そして、最近になって高校に持ち込みが制限されていた携帯電話を取りだし、どこかに救護の依頼をしているようだった。呆然としている浩介をよそに、まるで浩介がその場にいないかのごとく、自分のペースで彼女に接していたのだ。

「もういいですよ。あとは俺がしますから」
 彼は汗で滲んだカッターシャツの背を浩介に見せつけながら、浩介の顔を見ないでそう言った。浩介が役に立たない人間だと踏んだのか、はたまた彼女を気づかっての発言なのか。

「あ、あの……」
 浩介はおそるおそる彼(と彼女)に声をかけたが、大丈夫ですんで、と返されるだけだった。彼は彼女の上体を優しく抱き起こすと、心配しないで、もうじき救護の先生が来ますから、と言って聞かせていた。その状況を傍で見ているような浩介は少なからずショックだった。

 カラスがアーアーと鳴きながら、頭上を舞っている。誰が見ても、そういうことなのか。閉めだされたのならば、この場にいる意味はない。でも―――。

 とまどう気持ちに反して、浩介はすっくと立ち上がっていた。後悔してしまうくらい、その所作は早かった。生徒会長経験者の肩越しに見えた女子生徒の顔は、汗にまみれ、苦痛に耐えているように見えた。

「じゃあ、あの、これで失礼します。すみません」
 ばつの悪い、小さな声を二人にかけると、男子生徒は反応せず、女子生徒は渋い顔でこちらを見ていた。彼女のうるんでいる二つの瞳は、悲しむような、浩介を軽べつしているような感情がこもっていた。たまらず、視線をそらすしかなかった。もはや、その場から去ることしか考えられなかった。

 立てかけていた自転車を起こし、後ろを振りかえることもできず、そのまま自転車を押して上がった。とても立ちこぎを再開できる状況ではない。後ろ身には絶えず痛い視線が突き刺さっているようだった。浩介は仕方なく自転車を押したまま、坂道を駆け上がった。彼女の視界から消えてしまうまで、ずっと。ジャリジャリと鳴く靴の裏の音に自分が追いこまれていくように錯覚したのは、気のせいではなかっただろう。

 その日、浩介はぎりぎりで遅刻することはなかった。だが、彼女と元生徒会長がその後どうなったのかは知らない。その時点で、隠遁(いんとん)のような日々を過ごすことは決定的であったのだ。関わったという記憶を抹殺して逃げきればよいと思った。ところが、狭い高校内で逃げ延びられるほど世間は広くなかった。

 傷の癒えていない彼女を見つけることは、不幸にもたやすいことだったのだ。例えば登下校時や校舎の廊下で、あるいはお昼の売店や何らかの集会で彼女を見かけたのならば、その都度目を伏せて場をしのげばよかったであろう。まずかったのは、時が体育祭の団体種目の練習の真っ只中であったことだ。

 包帯を手足に巻いている彼女は目立つ存在であったし、体育祭の授業において、彼女が同学年の生徒であったということも初めて知らされたのだ。


《つづく?》


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短編小説「無視できない」 vol.2 (5話完結)

2010-06-29 00:45:06 | 短編小説
 団体種目の授業開始は、十クラスの男女がクラスごとに出席番号順で二列の隊列を組んで座り、授業内容の説明を受けて、準備体操をすることから始まる。生徒たちの視界の右手には肌色の四階建て校舎が、左手には高さのある緑のネットと、そのネット越しに望める団地の家々が見える。そこはグラウンドのほぼ中央。騒音はそれなりに聞こえるが、どこかのんびりとした静寂に包まれている。正面には運動着に着替えた学年の教師が、拡声器を手に熱弁をふるっていた。

 その教師をはさんだ左右にも各クラスの担任がずらっと並んでいて監視の目を休めないでいた。普段は生物や古典の教師であっても、皆ポロシャツにジャージといった見慣れない運動着姿を披露しているものだから、生徒の一部からは失笑が漏れていた。

 とはいえ、集団でぎゅっと押しこめられた状況では、生徒の誰もが群集の一員にすぎない。私語をつつしめ、と拡声器で怒鳴られると、一瞬にしてピーンとした空気がはりつめていた。

 晴天であった三回目の授業のときも、そんな雰囲気で始まった。ただ、冒頭の数分だけ控えめなどよめきが起こったのがこれまでとの大きなちがいだった。生徒の誰もがシーンと集中している中、校舎の玄関の方から体育着姿の一人の女子生徒が申し訳なさそうに走ってきたのだ。

 首の横の方で束ねられた比較的長い髪を揺らし、学年の生徒達の前で担任の姿を探していた。浩介はその女子生徒を見た瞬間、ぎょっとした。女子生徒の左腕と左足のももから膝にかけて、白い包帯が生々しく巻かれていたのだ。何よりも、髪型は異なっていたが、ほっそりとしたその顔は忘れようもない。あのときの女子生徒であることをすぐに確信していた。

 彼女はずらっと並ぶ教師の中からようやく担任の女性教師を見つけていた。すぐさま駆け寄り、何度か頭を下げながら事情を説明している風だ。女性教師は彼女の患部を気づかいながら了解しているようだった。

 大きな注目を浴びたまま、うつむき加減で足早に自分のクラスのもとへ吸いこまれていく女子生徒。二年一組の浩介の場所からは右の方向へ遠く離れた、九、あるいは十組の隊列のなかほどに消えていく。周囲のどよめきは解消されようとしていたが、浩介の心中ではどよめきどころの騒ぎではなかった。

 よりによって。まさか。うそだろ。

 信じられなかった。同じ学年だったなんて。しかも、このフォークダンスの授業で再会するなんて。これまで二回行われた全体練習には、参加していなかったということか? 怪我を負った状態でダンスなんか踊れるのか? 女子生徒から逃れつづけることへのわずかな望みは、派手な音を立てて崩れ去っていった。三百人近い生徒がいる中で彼女を見つけてしまった。これは偶然ではなく、めぐりめぐった末の必然であったのだろうか。どんな仮説を立ててみても、その事実に変わりようはなかった。そのときが来たというほか、なかったのだ。

 浩介は衝撃にうろたえながら、無意識にある計算を始めていた。危機回避の計算―――。

 フォークダンスの種目は二十分間という時間制限がある。そしてダンスの曲順は、マイムマイム(テンポが速く、軽快な踊りが特徴のイスラエル民謡)→オーバー・ザ・レインボウ(フォークダンスにはおおよそ似つかわしくない、スローテンポの曲調。映画「オズの魔法使い」の主題歌)→(そして再び)マイムマイムという流れだ。どれも男女間で手を取りあって踊り、互いに逆の動きをすることもある。

 ダンスの一つの輪には二クラス分の生徒が入り、全体の輪の数は十クラス分、五個になる。一つの輪の中では外側が男子、内側に女子が配されていて、踊り始めのパートナーはクラスでの出席番号が同じ異性となっていた。そこから踊り交わしていき、円が一巡する境目で、男子のみが各円の外周をつたって輪から輪へと移動していく。

 例えば一、二組の男子であれば、クラス数の昇順方向の三、四組の女子のいる円に移っていくという流れになるのだ。つまり、女子だけは常に同じ円内の陣地にとどまり、移動してくる男子をひたすら迎えていくという構図になっている。ちなみに、末端の九、十組の男子は最初の円内で一巡すると、一、二組の女子の円に入っていくことになる。

 これまでの練習では、浩介が辿りつけるのはせいぜい五、六組くらいまでの女子だった。彼女が九、または十組の生徒であると仮定すると、一組である浩介は彼女と遭遇する可能性が極めて低いことになる。危機回避は理論上できるのだ。しかし――――、

 体育座りの視界の低さにじれったくなりながらも、首を伸ばして無数の人間の頭部を凝視していく。一組男子の列後方から九、十組あたりの様子をうかがう。もはや、誰があの女子生徒かなんて区別はできない。だが、あの中に彼女はいる。気が気ではなかった。

 フォークダンスで女子の身体に触れることへの緊張感よりも、彼女に見つかることへの恐怖感の方が増していく。でも、彼女に謝らなければならないだろうということも、重々承知していた。今まで意識したこともない人生の機微とやらに、どっぷり浸かってしまったのかもしれない。ため息をついても両肩をがっくり落としてみても、時間は進んでいくのだった。


 授業開始三分前になっても館内の騒音のような雑談は収まらず、クラス単位での隊列はなかなかきれいに整わない。浩介の立ち止まっていた場所は様々なクラスで入り乱れ、もはやそこは浩介の居場所ではなくなってしまった。こうなれば彼女への意識をいったん捨て、仲間の姿を見つけないと不安になる。十クラスも集まればそこらじゅう知らない顔ばかりだし、何よりも皆が同じ体育着を着ているので見分けがつかないのだ。

 そんな混沌の中、目ざとく浩介を見つけるものもいる。日焼けした腕が突然浩介の首に回り、背後からヘッドロックをかけられた。

「優等生がいたなり~。場所取り御苦労なり~。ここが一組の陣地なり~」
「ギブギブ! 痛いってば! やめろっ! 誰が代表して場所取りなんかするのさ。ここは一組の場所じゃないって……」
「お前がいるから俺は来る。俺が来くるから皆が来る。よって俺の後に道はできるのだ」
「なんだよそれは。人を踏み台みたいに扱うなよ。離してくれよ、もう」
 
 まとわりつく褐色の腕をほどき、後ろへばっとふり向くと、クラスメートの和田がニヤつきながら浩介を見下ろしていた。男のくせしてロングヘアー(一八〇センチの長身だから似合うようなものの)にし、くるぶしが見える足首には赤いミサンガをつけるなど、おしゃれを気取っている。鼻がもげそうなほどのきついフレグランスを全身にまぶしてもいて、こいつにつきまとわれるとかなりげんなりしてしまうのも事実だった。

 浩介は手ぶりを交えて和田に指摘した。
「そっちは最後尾だろ? だれもその後ろに並びやしないよ」
「やだーん。そういえば忘れてたーん。優等生のいけずぅ」
「気色悪いっての……」
 ぶりっ子ぶる和田に向かって、おぞましいとばかりに辛らつな目線を浴びせる。和田は切れ長の一重の目をぱちくりさせて、からかうことをやめなかった。
 
 そんな和田ではあるが、高校サッカー部では主力組で右のサイドバックをこなす素顔を持つ。明るい性格も手伝い、クラスでも断トツの人気者だった。誰一人男女わけへだてなく冗談や会話を交わして、天性のリーダーシップのようなものを持ち合わせていたのだ。

 例えば、浩介のように特定のクラスメートとつるめない人間がクラス内でつまはじきにされないのも、和田のおかげだった。

 和田が浩介に定期的にからんできてくれるので、和田に近い人間も浩介に興味を持ってくれるのだ。浩介の性は「渡辺」なので、男子の出席番号最後尾の和田の一つ前に来ることもあり、何かと親しくなるチャンスもあった。浩介のマジメに見える(らしい)外観から、「優等生」というあだ名まで付けてくれて、それはクラス内でも浸透しているほどだ。

 授業中はなぜか大人しいが、和田が沈んでいるところなど見たこともない。信望が厚いから同性からは相談ごとも受けているようだ。もっとも、和田は解決策を見つけるわけでもなく、豪快に笑い飛ばしているようにしか見えないのだが。

 ともかく、浩介にとっては「友人」のような存在だった。言い表したことはないが、密かに感謝をしている。和田の言動から、はっきり友人ではなかったと分かるときが恐いけれど。

 そんな浩介の気持ちを知るべくもない和田は、半袖ウェアのすそでバフバフと風を起こしながら妙なことを聞いてくる。

「ユウさ(優等生の《ゆう》のことらしい)、意外に度胸あるよな?」
「なんのこと?」
「一瞬だけど、来る女子来る女子、その相手の顔をちゃんと見てから踊りに入るじゃん」
「そう? でもそれって変かな? 一応礼儀じゃない」
 浩介は平静を保ちながら、和田のやつ、よく見てやがるなと内心驚いていた。浩介がダンス中、代わる代わるやってくる女子の顔を一瞥(いちべつ)していたのは事実だ。だがそれは、巡りあう事はないはずのあの彼女が、いつか目の前にいるかもしれないという未完の予感を抱いていたからだと思う。和田にこのことを打ち明けようものなら、無用なほどに面白がられるだろう。なぜ逃げたかと、事の起源にまで立ち入ってくることは必至だ。危うい人物め。

「そりゃあ、変だろ。張り切ってる感じがしてイタいもん。普通はさ、恥ずかしがって顔見れないのぉ。ばかーん、って態度を相手に見せるだろ。だいたいユウはそういうキャラだよ」
「んな野郎、どこにいるんだよ」 
「ばーか。俺だって相手の顔なんか見れないんだぞ。だから、度胸あるって言ってるんだ」
「じゃあ、和田は最初に相手のどこを見て踊りに入るのよ? 足もとか?」
「そりゃあ、相手の胸だよ。なあ? ネームの刺繍(ししゅう)から見て名前を確認するだろう? おお、なだらかな丘陵地帯だなとか、BかCか? とか。もうこれ常識。ユウはGくらいがいいんだろ?」 
「変態かおのれは。知らんわ、そんなこと」
 その広い胸板に向かって裏拳を繰り出したが、簡単に避けてしまう和田。逆に、むっつりはいかんよ、と言いながら浩介の股間を急襲してくるのだった。

「う、こらっ、やめろ!」
「ユウ、アー、ビッグボーイ! ユウ、ウイン!」
「うるさいなあ、もう……」
 和田のいやらしい手をふりほどいていると、周囲には何となくクラス単位での隊列が整いつつあった。左隣は一組の女子、右隣は二組の女子達が並んでいる。女子が隣にいるというだけで、一瞬ふらちな気分になってしまうのはなぜだろう。

 確かに、浩介だって男だから女子の身体の凹凸は気になる。あわよくば触れられたら、なんて思ってしまうこともある。だが、それをおおっぴろげにして許される人間なんてほとんどいない。少なくとも、女子の前ではむっつりでいるしかない。ただ、救われているとすれば、今はあの彼女の存在があることか。彼女に関してはそんな変な気も起こせないので(多分)、総じて女子に対しては過剰に敏感にならずに済んでいる気がするのだ。

 あの彼女が隣に、いや目の前でもいい、いることを想像するだけで、それは実感できる。彼女の表情とその身体にある包帯を見れば、自然に哀れみとやるせない感情を抱きっぱなしになる。だって当然のこと。何もしてあげられなかったのだ。弁解くらいしておきたかった。

 フォークダンスに特別な思いで挑んでいるのは、他の男子生徒と一緒なのかもしれないが、その性質は大きく異なっているのだ。

 クラスごと、出席番号順の隊列のざわめきが最高潮に達しようとしたとき、バーン! という鉄同士の物体の衝突する音が大きく聞こえた。生徒という生徒がびっくりし、皆その音の方へ振りかえる。

「うるさいぞ、お前ら! 始業の鐘はとっくに鳴ってるぞ! だまらんか!」
 見れば、入退場用に開け放たれていた体育館のスライド式の大きな扉を、体躯のいい保健体育の男子教師が豪快に閉めていたところだった。坊主の体育教師、大曽根は、ほりの深い顔で怒りをあらわにしていた。その冗談の通じなさそうな硬くて熱いテンションのおかげで生徒たちからは相当嫌われている。

 当然といえば当然なのだが、奴はこうした全体練習での仕切り屋でもあった。普段の体育の授業よりも、俄然ハリキリ度が増している。彼の傍らには、いつのまにか他のクラス担任達も集まっていて、各自おだやかではない表情で生徒達へ睨みをきかしていた。

 教師たちはそのまま一列になって学年の隊列の脇を歩き、間隔を取りながら集団の前に出てくる。一瞬にして静まりかえる館内。十クラス、三百人近い人数が黙りこくる空間は、そのまま緊張感のかたまりのような広がりになる。浩介は咳をがまんしながら、微妙に真っすぐでない自クラスの隊列を後ろから見つめていた。

 和田が背後から俺の両肩をつかみ、ずれてるぜ、ユウ、とささやいてくる。ちょっかいだすなよ、という目線を必死に返すと、思わず咳が出てしまった。バイン、と空気をふるわす滑稽な音。両隣の女子が浩介の方をチラッと見ていた。和田がふきだしそうな顔でシーっと指を口にあてていた。文句の一つも言いたかったがぐっとこらえるしかなかない。

「気のすむまでしゃべったか、お前ら! ああ? 何回目の全体練習だ? 授業開始時刻に教師が来なくても、各クラスの体育委員が自発的に前に出て準備体操を始める。皆で決めた約束だったよな? なぜ守れない?」

 上から白、黒、白のコントラストのきいたコーディネート。体育教師は隊列の最前線で拡声器無しで声をはりあげていく。お決まりのねちねち説教。いびっていびっていびりたおす。はっきり言って生徒達には効用があるとは思えない。人気のない先生が何を言ったところで、我々は余計に不快な気持ちになるだけだ。信頼のある先生に注意されれば、ちょっとは気をつけようと思うものなのに。

 他の教師たちはその男よりも後ろで横一列に並び、じっとしている。スポーツウェアが映えるもの、映えないもの、男女問わず歴然としてわかる。中でも浩介の担任、地理の吉本はメタボな腹を隠すことができないことで目立っている。丸顔で鶏冠のような薄い髪形で色白。そこに白いポロシャツ、グレーのトレーニングパンツときているもんだから、まるで休日のオヤジに見える。お世辞にも運動が得意そうではない。

 体育教師の説教がそのまま五分ばかり続いた後、各クラスの体育委員の男女が隊列の前に出てきて準備体操が始まっていった。


《つづく?》


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短編小説「無視できない」 vol.3 (5話完結)

2010-06-28 00:45:06 | 短編小説
 イチ、ニィ、サン、シ。ゴォ、ロク、シチ、ハチ。

 体育委員の掛け声と姿を追いかけながら、鈍い動作の体操を行う。雰囲気の重い空気の中で始まる練習は、逆に身体を硬直させてしまいそうで恐い。
 
 準備体操が終わる頃、体育館のステージの両サイドの上方にある長方形のスピーカーからマイムマイムの音楽が一瞬だけ流れだしてきた。コポ、キーン、とハウリングのような音も耳につく。体育館内の音響の調整室から本格的に音を出すらしい。

 チャン、チャン、チャン、チャン。
 チャララ、チャンチャンチャン♪ 

 メロディと同時に、思わず手足が連動しそうになる。身体に踊り方がしみついてきているようだった。

「はーい。じゃあまず、今の隊列のまんまで、パートナーとの型の練習から入りまーす。場所が場所なので狭いですが、小さくまとまらないように」
 ピンクのポロシャツを着た若い女性教師がステージに上がり、拡声器を手に指示を出してきた。ダンスの指導の段になると、たいていいつも大曽根から女性教師に指導役が代わる。やはり、指示を出す人間は柔らかい声の周波数を持ちあわせた者でないといけない。スポコンの運動部じゃあるまいし、怒鳴られっぱなしでは息もつけない。生徒は皆、正面から左方向に顔を向けた状態で壇上の女性教師の指示を聞いた。

 各クラスの隊列の中では、一人一人が両手を肩の高さまで上げ、前後の間隔を適当に空けていく。やはりグラウンドのように広くないため、最後尾の人間達は簡単に壁際まで押しやられてしまう。もっと前に詰めて、三組女子。そう。五組の男子の中ほど、もう少し左右をひろーく、広くとって。そう。壇上の女性教師が腕を大きく揺らし、羊飼いのように生徒間の隙間をコントロールしていく。さわさわとうごめく草原のように、横長の体育館の面積いっぱいに十クラスの人間が広がっていった。

「はーい。じゃあマイムマイムからいきます。最初は音楽をかけません。こちらがリズムの声をかけるので、それにあわせてパートナーと組んでください」
 壇上から忙しく降りてきた女性教師は、生徒全員の正面の位置まで走ってきていた。ダンスの型の練習。背の順ではない隊列の中では、男女間で「高さ」のバランスが極端に合わないカップルもいる。また、クラスによってはもとから男女の人数が不均衡であったり、欠席者がいたりすることがあるので、補充員として各クラスの担任が入ることもある。

 浩介の場合、練習の当初から型のパートナーは出席番号が同じ十六番の林さんだ。下の名はたしか、ゆりちゃん(女子のクラスメートにそう呼ばれていた)。もちろん、普段から口をきくわけでもないし、フォークダンスがなければ顔を面と向かって合わせることもなかっただろう。林さんは一七三センチの浩介の肩ぐらいほどの身長で細身。いつも大量のヘアピンを頭にとめていた。おでこを全開にして髪を後ろで短くしばり、見るからに運動ができそうな女性であった。

 でも、「ごめんね」が口癖なのかと思うほどその言葉を連呼してきた。そう、動きが多少鈍かったのだ。でも、ツンとされて避けてくる女子よりかはとてもかわいげがあったので、相手が林さんで良かったと内心で思っていたりもした。

 これだけのパートナーの組があれば、中には不幸にも相性の悪い組み合わせもあるだろう。不潔っぽいオタク系男子は女子から一方的に嫌われてしまうだろうし、汗っかきを相手にするのは男子も女子も互いに気を使ってしまう。

 パートナーが入れ替わる輪の中の踊りでは、悲喜こもごもの現象が起こっていた。全クラスでの踊りはまだ一度しか経験していないが、あちこちでパートナー間での不穏な動きが見てとれたのだ。巡ってくる他のクラスの異性がろくに満足に手もつかんでくれない。まだ踊りが残っているのに中途半端に止めてしまう。これは浩介にも当てはまったことで、結構ショックがでかい。相手の表情を見ると、やはりつまらなそうな不機嫌そうな顔をしている。面白くないが、次の人にまでその不快感を引きずらないようにすることも重要だった。

 女子の中には憧れの男子と踊れることが至上の喜びのように騒ぎ立てる者もいる。周囲のクラスメートに冷やかされ、赤面して噴火する。その分かりやすい態度は、モテない人間からすればどうでもいい場面となって映っていたっけ。浩介が男子であるからなのかもしれないが、全体的に女子の方が男子を避ける傾向があるような気がする。

「渡辺君、今日も足を引っぱるかもしれないけど、よろしくね」
「あはは。気にしすぎ。こちらこそよろしく」
 林さんは両手で髪の毛を耳の後ろにやりながら、今日も申し訳なさそうに声をかけてきてくれた。珍しく体育着の半袖ウェアの裾をハーフパンツの外に出している。パンツの中にウェアを入れるとダサくなるので、男子も女子も大半はダラっと着こなしていた。林さんがそれをやると、逆の意味で不良っぽくなるので不思議だった。

 高校の体育着は男女共通のデザイン。上は左胸部にネームの入った無地の白の半袖ウェア。下は尻ポケットしかない青いハーフパンツ。体育館シューズは白地に緑色のラインが二本入った硬いゴムソールのものだ。

 男女の体育着の細かな差異としては、女子のハーフパンツの方がやや丈が長く、男子に比べてももの露出が少ないことが挙げられる。足が短く見えるが、それが逆に可愛いらしさを演出しており、女子の間での評判は悪くないらしい。問題点があるとすれば、彼女たちのトレードマークである紺のハイソックスが、見事なまでに体育着とミスマッチであることだった。

 上から白、青、ときて、紺、そして白のシューズ。体育の授業は屋外であってもローファーではなく白系統の運動用シューズを履くことになるし、やはりどう考えても紺よりも白いソックスが無難であるのは明白であったのだ。

 だが、いまだに変革の波は起きていない。女子にとって、体育の授業に合わせてもう一足の靴下を用意すること、これは案外たやすいことではないようなのだ。男子はソックスの色や形で悩むことはあまりないだろう。微妙なデリケートラインのずれが男女間ではあるらしい。林さんもワンポイントの入った紺のソックスをはいていた。

「マイムマイムのステップいきます。はい、パートナーで手を取りあって。恥ずかしがらなーい。今日で何回目なのぉ? 心は幼稚園のときに戻るぅ」
 冷やかしが入ったような女性教師の指示に反応し、十クラス分のカップルがばらばらとできあがっていく。浩介の場合、いつも林さんから両手をぎゅっとつかんできてくれるのでストレスが少ない。握りあう間、その温度だけで二人がつながっていられる。そんな異空間にいるようでもある。

 輪の踊りの中では、林さんのように目の前の男子をまるで恋人であるかのように接してくる女子もいた。マジメそうなタイプの女子にそれは多かった。「俺に気があるのかも。すっごく握ってきてくれてさ」、「ばか。俺も強く握られたって」、「なーんだ、みんなに平等なのね」。強烈な印象はそんな感じで休憩時間に瞬く間に広がっていく。女子と相対して何らかのショックに打ちひしがれた男子には、まさにオアシスとなる存在だった。

 現段階で林さんと踊るときが一女子と長く接しているときであるから、色々と思いを巡らすこともある。当然のごとく、林さんの白い肢体にはどきりとするし、身体の一部分が長い間触れれば、その部位が妙に熱く感じることもある。あとは女子全般に共通するあのいい匂い。それは牛乳石鹸で身体を洗う浩介にはどうやっても真似できない甘いフルーティーな香りであった。

 そのまま幻惑に陶酔していると、やがてそれらの「体感」をそのままあの彼女と結びつけようとしてしまう思考が、思いがけず沸いてくることがある。そうすると、意識が飛んでしまったかのように視界に艶がなくなり、体は勝手にステップを踏んでいたりする。我に返ると、林さんと正面で衝突しそうになっていたりするのだ。

 林さんは自分のせいだと勘ちがいして謝り、浩介が否定して謝り返し、それを左隣の和田に冷やかされる。こういうことがすでに何度かあった。林さんとはくすぐったいような気持ちでいられるが、彼女とは決してそうはなれないだろうな、と考えこんでしまう。こうなると、しばらくは苦手にしているあの記憶とともに晴れない気持ちがつづいてしまうのだった。

 彼女と対峙できるかどうか、それがフォークダンスの焦点になっているのは間違いのないことだ。彼女の存在を完全に忘れ去ることができないのだということを、折に触れて思い出してしまう。このもやもやを何とかしたい。できるものならば―――。

「みぎ、ひだり、うしろ、まえ。つま先タッチの、右足ホップゥ。もどって、三歩進んでターン……」
 館内のスピーカーからはマイムマイムのにぎやかなメロディが鳴り響いていた。指導役の女性教師の声にも耳を傾け、ステップを踏みながら林さんと前後に移動する。キュッ、キュッ。シューズの裏の擦れる音が動作に反して大げさに聞こえていた。林さんは背後にすぐ迫ってくるステージ下の板の壁に気をつけなければならなかったし、浩介も油断をしていると隣のクラスの女子にぶつかることがあった。同じクラス、両隣のパートナーとの距離感も近い。やはり、体育館では狭いのだった。

 浩介の高校のマイムマイムの踊りは大まかに三つのパートに構成が分かれていて、我が高校独自のオリジナル色が強い踊り方になっている。

 ダンスは、パートナーが対面してさっと手を取りあうところから始まる。一つ目のパートは簡単なもので、各自が右足を左足の前方に出し、ツッ、ツッ、ツッ、ツッ、と円心方向へ四回ステップを踏み、また外周方向へ四回ステップを踏んでもとの場所に戻っていくというもの(女子は後ろへステップ→前へステップという形になる)。

 つづいて第二のパート。最初に円心に向かって三歩進む(女子は円心を背にした向き)。このとき、パートナーとつないでいる手を徐々に上の方へ上げていく。互いに右足を一度ホップ(膝を曲げももを上げる)させ、二人で上方に上げた手を下げながら三歩後ろに戻り、再び右足をホップ。ここまでで二つ目のパートが終わる。

 最後は、パートナーと円周上を時計方向に移動するロングセクション。冒頭、パートナーは並んで横に手を取りあい、円周上を右足から時計方向に三歩進む。そして、次の四歩目を踏むリズムで二人は対面しながら円心方向にターンをする。各自左足を右足の後方へ置き、すぐにその左足を右足前方にクロスさせ、つま先で地面をタッチ。そのまま左足を軸足として戻しながら右足をホップさせる(ここまでの動作が、音楽に合わせて打たれる教師の手拍子、つまり、「イチニィサンシ、ゴォロクシチハチ」に綺麗にハマると爽快な気分になれたりする)。

 その後はまたパートナーが並んで時計方向へ進み、途中まで同じステップを踏む。最終部分で今度は左足を左方へツーンと伸ばし、つま先タッチをして右足ホップという流れに変わる。こここまでが一セットの踊りとなっていて、これを都合三セット行うことになるのだ。その三セットが終われば、今度はステップを逆足にして足のクロス部分を「拍手」に変えたバージョンの三セットをやり遂げる。仕上げはパートナーと腕を組んでその場を一周し、男女が互いに次の相手と隣り合う。ここまでが全三パートからなるダンスの型となるのだ。

 アップテンポの音楽とそのリズムに合わせて踊るのはなかなか難しい。それもめくるめく異なる二人の間で毎回息を合わせないといけないのだ。だから、学年全体での完成度を高めようとするならば、各個人がひたすらダンスの精度を高めるしかないのだろう。たかがダンスとあなどると、力を抜いた時点で映えないダンスとなるらしい。気力、精神力が必要なスポーツであることを、思い知らされてしまう。

 館内では音楽の消えた残響音が残り、聞こえそうで聞こえない、乱れた呼吸音が漏れだしていた。

「はーい。ちょっとここで止めるね。気づいた点をひとつふたつ。あのね、二人で拍手するときなんだけど、かけ声は元気でOK。でも、各自足をクロスさせてるぅ? していない、忘れている人が多いよ。人数が多いからこそ、きちんと合わせましょう。それから楽しそうにやろっ。みんな若いんだから。見ている人が思わず踊りたくなるようなダンスを踊りましょう」

 時に模範となる女性教師の姿はよく見えず、指示を出す声だけが延々と前方から聞こえていた。指摘の中にもあった拍手の際のかけ声は、どこかのクラスが拍手をしながら「ハイ!」とふざけて叫んでいたのだが、それがかえって気分が乗ってくるということで採用された経緯があった。恥ずかしさをぬぐいきれていない浩介のような者にとってみれば、それを楽しそうにやるということが、どうも分かりかねる。

「どうしてもうまくリズムにのれなかったら心の中で歌詞をつけてもいいよ。丸美屋から新発売、うーまいどんぶり♪、ってね」
「しらねぇーし、そんな歌」
「先生が高校の頃はマイムマイムにその歌詞がついたCMをやってたの!」
「何年前のCM?」
「三年前」
「うそだー! だって先生三十路じゃん」
「うるさいよ、原田君」

 女性教師と面識があるのか、ある男子が親しげな感じで教師と対話している。こういう大集団の中で、個をアピールできる人間ってひそかにすごいと思う。目立つことに対して何の抵抗もないようにしているなんて。浩介にはとうていありえないことだ。

 心なしか蒸し暑くなってきた館内。人口密度が高すぎる。背中が汗ばんできた。床に近い高さにある小窓はどれも開けられていたみたいだが、風や空気の抜けは悪いように思う。雨の日ならば湿度には多少目をつぶっても、今よりはもう少しひんやりとしていただろう。

「ユウ、ユウ」
 ぼんやりしていると、後ろから和田がささやき声で呼んできた。

「なんだよ?」
「お前ら、いつまで仲がいいんだよ」
「はあ? ああ……。って別に、これは。その、たまたまだろうが!」
 和田は浩介と林さんがいつまでも手を取りあっているのをからかってきたのだ。まわりを見れば、女子教師の説明に聞き入っているパートナーばかりで、手をとりあったままのカップルはいなかった。浩介は顔がカッとなるのを自覚しながら、和田に苦しまぎれに小声で反論していた。林さんは赤面し、浩介の手から自分の手をそっと引いていた。

 あっけないんだ―――。

 手の触れあいがなくなったというだけで、いとも簡単に去来する心の切なさ。互いに特段の意識を払っていなかったとはいえ、林さんに配慮しなければならなかったのは浩介の方だろう。男としてふがいなさを感じる。和田の野郎め、って奴に当たってもしょうがないことだった。

 林さんは赤面したまま、ニヤついていた前の女子に何かを弁解していた。確かに二人はこの瞬間のパートナーというだけであり、好きもの同士なんて噂を外野に立てられたら心外であろう。しかし密接していたからこそ、その反動のようなものも大きくなるのだと思う。林さんを好きになりかけることだって、この先ないとは言い切れない。とはいえ、林さんはどんな男子にも優しく接するタイプの人間。うぬぼれるのは阿呆というものだ。

 浩介はしばらく自分の足元を見つめていたが、しだいに右の方へ視線を移していた。無数の男女、それらの黒い頭の数々を見やる。欠席や見学をしていなければ、今日もどこかにあの彼女はいるはずだ。

 彼女と型のパートナーをやることになっていたら、どうだったろう。
 ぼんやりと、心の中で思う。
 もちろん、ありえないことだけど。

 多くのパートナーがそうであるように、特に声をかけあうこともせず、終わっていくのだろうか。ステップや連係がうまくいかなくても、彼女は浩介を見向きもしないのではないか。ずっと無関心でいて―――。

 そんな現場を手元に手繰りよせたいような、よせたくないような揺れつづける意思がある。実際は、彼女と何も起こらないほうがいいのかもしれない。最後は決まって弱気に逃げるのだった。



《つづく?》


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短編小説「無視できない」 vol.4 (5話完結)

2010-06-27 00:03:20 | 短編小説
 マイムマイムが終わり、舞踏会のムードダンスのようなオーバー・ザ・レインボウの型の練習を済ませると、大命題の輪になって踊る訓練になだれこむ。二クラスの男女で一つの円を囲み、全体で大きな輪を五つ作ると、さすがにグラウンドのような広大な開放感はなかった。教師たちも計算をして白いカラーテープを床に引いたのだろうが、隣近所との間隔にあまり余裕はなかった。生徒達は苦笑しながら、がやがやとしゃべりはじめていく。
 
 どうも、これはまいったね。せまいよねぇ。ステージ上から様子をうかがっていた数人の教師達がとまどいの声をあげていた。バスケットコートが三面ほど取れる面積でも、スケールモデルの模型のようにダンスの輪が縮小されてしまう。その現実から妥協を強いられることを嫌う教師もいるだろう。計画と実践に狂いを生じさせたくないはすだ。

 おそらくは職員会議で団体種目の進捗を尋ねられ、完成度がいま一つとあれば、最後は時間との勝負にもなりかねない。一秒でも無駄にしないために、予定変更を受けても創意工夫で乗り切ることができるか。つまるところ、教師間の連携、そして教師と生徒達の連携が重要になっていく。

 それでも、そういった絆のようなクサいテーマは、よっぽど生徒が鈍感でないかぎり持ちだされはしないだろう。たまに、カンフル剤の目的で説教にすり替えられて説かれることもある。浩介の経験上、団体に集中力がなくなってきたときによくあるパターンだった。その説教がこたえたりするから文句の言いようもない。

「はい、みんな静かにして。円がね、ちょっとグラウンドでやるときより小さいみたいなんだけど、とりあえず通しでやってみます。隣の人とぶつからないように気をつけてください。男子はちゃんと女子をリードして。わかった? じゃあ、やるよ。準備して」
 同僚の教師と方向性を定めたピンクの女性教師が、拡声器で一方的に告げてきた。ええ、この状態でぇ? どよめく館内。和田も浩介のしりに軽いケリをいれながら、せまいゼーット(Z)! とわけのわからないギャグを言ってくる始末。やりかえそうと思っていたら、マイムマイムの前奏が唐突に鳴り始めてきたではないか。

「あれ? え? もう? はいはーい、始まってるよ。ぼやっとしないでー」
 女性教師も自分の指示よりも早く音が鳴りはじめたので泡を食っているようだ。パートナー達は最初のステップがどこからになるのか大いにとまどい、バラバラのダンスの入りとなった。音楽とリズムを何とか把握していき、ようやくああ、冒頭のパートのあのステップらへん! と合点がいく。

 林さんとダンスを終え、相手が一人ずつずれていく。対角線上に見える景色も当然いつもと異なる。皆、心なしか身体を丸めているのか動きが小さい。横方向でも、遠慮がちにステップを踏まないと隣の人間の足を踏みそうになってしまう(和田なんかはもちろんわざと踏んでくるが)。窮屈な環境ではなぜかリズムに追われるように心が急かされてしまう。ひとり思いきり逆足をしてしまい、対面の二組の誰かの女子に笑われた。

「ヘイ、ユウ! めげないで! さあ君も、コロ助なり~♪」
 和田は器用に踊りながら、キテレツ大百科というアニメの主題歌の歌詞をもじって、ちょくちょく冷やかしを入れる。浩介はそのアニメを見たことがないので、完全に無視することに決めていた。それでも誰か奴を黙らせてくれ! と心の中で何度も思う。

 女子という女子、こちらの嗅覚が麻痺してしまったのではないかというくらい同じような香りがする。香りの無い女子もいるが、汗臭いわけでもない。そこで匂おうものなら男子である自分か? ということになる。女子の皮膚に触れてじとっとしていたら、当然のように自分を疑い、猛省する。フォークダンスには錯乱する要素が多々あるのだった。

 新しい相手と対面すれば、最初だけ顔を見てあとはひたすらうつむき加減になる。たまたま目線をあげてふと見てしまったものが女子のウェアの胸部だったりすると、一人で顔を赤らめてしまう。浩介はいつまでたっても女子を前に動揺してしまう自分が、嫌になりそうだった。

「はい、そろそろ一巡するよ。男子のみ移動だよ。女子は上下動の屈伸で待機」
 高みの見物でいたような女性教師が久しぶりに指示を飛ばしてきた。あっという間に林さんとの二度目の対面を終える。曲が鳴りつづく中、円の外周上の男子のみが隣の輪に移動していくことになる。その間、女子は両手を腰に当て、膝を軽く屈伸させて男子の放列を待つのだ。

 浩介は目の前の柳田という男子の後頭部を見つめながら、三、四組の女子の待つ輪に入っていった。グラウンドでの感覚よりも早めに到着した気がする。名も知らぬ、でも見覚えのある女子さんと手をとりあい、また踊りを再開していった。

 途中、幾度か女性教師からの指導が入り、熱のこもった全体練習となった。都合、二回ほど通しの練習が行われると、生徒の誰もがうっすらと上気した顔を見せ、私語をする余裕もなくなっていた。五分間の休憩の間、ほとんどの者が円の中で足を投げだしてへたりこんでいた。

 浩介は天井の鳥の巣のような鉄骨の骨組みを仰ぎ見ていた。額を覆っている小粒の汗を袖でぬぐう。風を起こすため、蒸された空気をあおいだが余計に暑苦しくなるだけだった。

「この時間、世界で一番マイムマイムとオーバー・ザ・レインボウを踊ってるゼーット(Z)」
 ごろ寝するような格好でいた和田が、長い足で浩介にひじかっくんを喰らわせて言ってきた。浩介はひじを床に強打したが、和田を睨むだけで何もしなかった。もはや反撃する力が無駄に思える。和田はつれないやつぅ、と笑いながら、他の連中にちょっかいを出しはじめていた。

 確かに、和田の指摘は正しい。いやというほど踊り回った結果、未踏の地であった七、八組の女子がいる円までやってきていたのだ。新記録樹立。もちろん、お相手は誰もが新顔だった。目の前に女の子座りで固まる四、五人の女子グループがいる。同じ学年ながら、出会うこともなかった異性。そう考えるだけで自分が知らない場所にいるみたいだった。

 ちょっと待てよ、左隣の輪は九、十組だよな―――。

 ふと思いだされたいつかの勘案。忘れていたわけではなかったが、ダンスに集中していたためおろそかにしていた。そういえば、今いる円の中にはあの彼女がいないようである。いるとすれば、予想通り最後の輪ということになる。はたして彼女はいるのだろうか。浩介はそっと隣の輪の様子をうかがった。あまり形が崩れていないその輪には九、十組の女子、三、四組の男子がいるはずだった。

 皆が、思い思いにくつろいでいる。一人一人の女子を可能なかぎり目で追う。似たような髪形が多い。遠近にいる他の者が邪魔して一々の表情はよく見えない。後ろ姿しか見えない女子では、判断材料に欠ける。目印になるかもしれない包帯を探すにしても、もっと至近距離に行かないとわからない。このまま、ダンスの練習が始まって隣の輪に移ったとして、踊りながら確認するなんてできない気がする。

 トイレに行くふりをして見てくるか。

 浩介は意を決してゆっくり立ち上がった。ただ見てみるだけだ。いても声なんかかけない。実際、かける勇気もない。目立たないよう壁づたいをそろそろと歩いていこう。

 目的の輪が右斜め前方に見えてきた。集団でいる女子のグループの中にはいそうにないが、細かく見分けるのはきついか。ぽつぽつと点在している女子はどうか。一人の子、ない、ちがう、二人の子、だめ。男女、一人ずつ。って、え? 元生徒会長がいる。オールバック、勇猛果敢なりりしい顔つき。あの時以来の姿を見た。あいつ、三、四組だっけか? いや、ちがうだろ。同じ校舎で隣の隣ぐらいのクラスにいたらとっくに気づいていたはず。

 浩介は輪のそばを限りなく近く、そしてゆっくりと歩き、元生徒会長の姿を確認していた。生徒会長はしゃがんで、座っている一人の女子と話しこんでいる。その女子は、違和感のある動きで腕を生徒会長に見せつけるようにしていた。その女子は長袖のウェアを着ているように見えたが、袖に見えたものは白い包帯であった。首の横の方で束ねられた比較的長い髪。彼女はいたのだ。

 浩介は息を止めるようにして、輪のそばを足早に通過した。見たか? 見た。自分で自分に確かめる。紛れもない事実。そして、元生徒会長と仲良くしていたっぽい。笑っていた。あの事故を契機に親しくなれたのだろうか。あちこちに散らばっていた点と線はつながりかけていた。でもそこに首をつっこむ自分がよく想像できない。浩介はただあてもなく壁際を進むことしかできなかった。

「はい、休憩終わり。もとにもどって。ほら早く」
 女性教師の突然の声にびくっとする。開け放たれていた扉まであと五メートルばかりのところ。気まずく踵を返した浩介は、誰からも不審に思われないことを願って急いで自陣に戻った。彼女と話していた元生徒会長が、輪と輪の隙間を通って遠くの方へ走っていくのが見えた。やはり、三、四組の人間ではなかったのだ。それにしても休憩時間に彼女のもとへ押しかけるなんて、関係が相当に発展しているのだろうか。妙に気になった。

 とりあえず和田は何もけしかけてこなかった。隣の輪の方をちらりと見る。彼女のいた位置、視線に人がかぶってちゃんと確認できないが、今度は左腕、左足の白い包帯が目立っていた。どうしよう。鉢合わせたらどんな態度を保てばいいのか。そわそわしてきた。

「残り十三分だね。できるところまで、通しでいきます」
 女性教師の宣言に、多くの生徒がウェーだのエーだのと不満をもらしていたが、すぐに聞き飽きたメロディが鳴り始めていた。ほんと、しぶしぶという感じでそれぞれの輪ががさがさと動きはじめる。浩介は新しいパートナーに気を使うことよりも、彼女のもとへ自分がどれほど近づいているのか、そればかりに神経をとがらせていた。

 マイムマイムのステップパターンの異なるパートが終わろうとしていた頃、円が一巡。輪から輪へ移動するタイミングだが、その瞬間はいつも目印として覚えているなじみの女子がいないため、感覚が鈍り、ワンテンポ遅れての移動となっていた。

「何してるの? 移動していいんだよ。今は本番ではパートナーにはならない人ばかりだけど、円が一巡したら移動するクセをつけようね。では最後、オーバー・ザ・レインボウにいきます」
 時間がない、と言わんばかりに生徒達の行動に早口で注文をつける女性教師。マイムマイムの音楽は中途半端にボツリと消え、男子の走る足音だけがドカドカと響いていた。女子は隣近所同士でやる? やらない? という苦笑の表情を見せ、例の屈伸待機運動をバラバラと行っている。移動タイムに音楽がないと拍子抜けするパートになるらしい。

 甘美なスローバラードの曲調が耳に入ってくる。条件反射のように、男子はひざまずいてパートナーに手を差し伸べていた。浩介は身を低くしながら、ほぼ右ななめの対角線上にいる彼女の後姿を確認していた。いよいよ、包帯が正しく白く見えてくる。あと十人くらいの順で彼女と相対するだろうか。胸に穴が開いていくような鈍痛を感じる。

 平然としていられるだろうか。
 声をかけないほうがいいのではないか。
 
 羅列される気持ちはそのまま自分を不安定に陥れていく。自分が逃げたことから始まった長い旅路の果て、その最終盤かはたまたそのはるか手前なのか。何かが起こって何かかがすぐに過去になる。そんな気にも留めなかった時間の真理が今、とてつもない重みを持って襲いかかってきているようだった。

 差しのべていた手をパートナーがつかみ、横に並ぶ。ゆるく揺れる曲のテンポに合わせ、手をつないだまま(動作は全てイチニィサンシ、ゴォロクシチハチのリズムで)八歩ほど半時計方向に進む。冒頭は散歩をしているような趣だ。そこから腕を組み、また八歩、そして互いに組んでいた腕をそれぞれの腰の方にまわし、外側の手を前方で合わせる。同様の歩数を数えた後、合わせていた手を頭上に掲げ、男子の指先を基点とするように女子がくるりとターンをする。少し距離が離れた二人は腰の高さくらいまで腕を下ろし、名残惜しいように手を離す。男子はひざまずき、時計方向へ移動してくる新たなパートナーを迎え入れるのだ。

 案の定、このダンスでは密着しない女子がほとんどだ。初対面の者ばかりだと、それはなおいっそう仕方のないことなのかもしれない。手を強く握らない、腕を組むところでは手首と手首を合わせようとしてくる。ターンでは手をさっさっと離す。そんな態度を取られるのは当たり前のような感じになっていた。だが、浩介は一々ショックを受けてはいなかった。

 どちらかといえば、道を切り開いていくような心境でそれら一人一人の女子をすり抜けているようでもあったのだ。心は目の前の女子にあらず。彼女の存在に怯えているはずなのに、彼女をひたすら目指している。恐いもの知らずなのか、脳の制御が効かなくなっているのか、自分でもよく分からなくなっていた。

 五、四…‥、あと三人、二人。確実に近づいてくる。

 ザフッ、ザフッ。一糸乱れぬところまではいかないが、大勢が空気を切り裂く音が重なって聞こえていた。浩介は現在のパートナーと腕を組みながら歩き、目の前の男子、柳田を正面にし、その相手である彼女の後姿を右ななめ後方から見つめた。

 すぐに、彼女の左膝にぐるりと巻かれている包帯が目についた。そこには浩介だけではなく、誰もがあっ、という感じで注目してしまうインパクトがあるだろう。包帯と紺のソックスとの間、肌が露出している部位には、かすかな青紫の斑紋(はんもん)も見える。彼女の苦悶の表情と、ひしゃげた自転車のカゴがフラッシュバックした。すぐに眉間が重くなる。

 彼女は足をひきずることもなく、いたって元気に動いている。どれだけあの時の浩介を責めても、何が変わるでもない。ひるんでいてもしょうがないのだ。浩介は何とか冷静でいられるように、自分に言い聞かせていた。

 左の肩の方へ流され、濃い茶系のゴムで結ばれている彼女の髪。歩を進めるたびに、彼女のウェアには決まった形のシワができていた。細身の身体をつつみながら、コークボトルのようなラインを浮き出たせている。右腕を柳田の腰の後ろに回し、左手を彼の右手と合わせ、前の方に突き出して歩いていく。肘の内側の下の方から手首の前までを覆う包帯が大きくうかがえた。かすかに見える白い横顔を、このまま間近で見ることができるだろうか。

 逃げるようにして坂道を駆け上がった自分。そんな自分が、もうじき、彼女と一対になる。逃げ出したい気持ちがいつ降ってわいてくるか分からない。心臓がばくばくとなりっぱなしになった。隣のパートナーが、半ば強引に互いの頭上高くへ浩介の腕を持っていく。浩介は最後のパートにまで神経を使えないでいた。不快そうにさっとターンをした女子をやりすごし、浩介はひざまずいて宙に手を差しのべ、傷の入った床と白いカラーテープを見つめた。

 聞こえる音楽の一秒と、体感する時計感覚の一秒にどれほどの差があっただろう。人の近づく気配がぞっとするほど鋭く近づいてきた。内股気味にそろえられた小さなサイズのシューズが視界に入る。これまでの多くの女子と同様、密着でもなく非接触でもない中間の握力で、彼女は浩介の右手をつかんでくれていた。

 姿勢を空の方へ起こしていく。情けないくらい周囲に届く音で、膝がばきっと鳴った。白い包帯の足、小さなグーが作られた手の先、真っすぐ下に降りている包帯の左腕、青と白の体育着、ネーム、首筋、ほっそりとした輪郭。流れるように見ていく。彼女の身長を越えたあと、清水の舞台から飛び降りる覚悟で相手の表情を見た。


《つづく》


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短編小説「無視できない」 vol.5 (5話完結)

2010-06-26 00:03:20 | 短編小説
 化粧品のCMに出るモデルのように、眉が斜めの角度で綺麗に整えられていた。左の二重まぶたに小さなホクロがひとつ。茶の瞳にはにごりがいっさいない。小鼻で……。だめだ。もうそれ以上見ることができなかった。おそらく、均整のとれた美人顔だと思う。

 彼女は浩介と視線をわざと合わしていないのではなく、他の女子と同様、特段の意識を持たずに遠くの方を見ていた。パートナーが誰であろうが、一貫しているようなその姿勢。安心したようなしないような気持ちになってしまう。彼女はさっと軽いタッチで浩介と手をつなぎ、「八歩」まで歩きはじめた。

 彼女とついに、きた―――。

 手の先に彼女の手の先がある。汗ばんでいた。絶対に浩介の汗が発端だ。胸が抑えきれなくなるくらい、脈を打っている。身体ごとどこかに飛んでしまいそうだ。うつむき加減で、彼女の足の包帯をそっと見やる。ぎゅわっ、となる胸。それこそつかまれたような痛さだった。彼女が包帯姿になったのは、浩介が何かしら加担したからだと思うほかない。逃げてしまったのだ。何とでも理由が挙げられたとしても、それは事実だ。でも、逃げなければ包帯姿にならなかったとでも言うのか―――。

 だめだ、声なんてかけられっこない。

 手をつないでいない右手で思いきり拳をにぎったそのとき、授業終了の鐘が鳴った。曲の音の像が分からなくなるくらい、鐘は長く大きく響きつづけた。腕を組む直前だったこともあり、多くのカップルが条件反射のようにダンスの継続を避けていく。浩介はほんの気持ちだけ強く、彼女の手をつかんでいた。終わってほしくないような気がしたのだろう。

 それに応えてくれたとは思わない。でも、彼女は最後まで、手をつないだまま最後まで、八歩を歩いてくれた。

「はーい、そこまで!」
 教師のものとも生徒の喜びの叫びとも分からぬ声が、浩介の耳に聞こえた。

「次回は、次回は……、ちょっと! 聞いてね。次回はグラウンドで行います。男女の個別種目の練習も入ってくるので、ダンスにはあまり時間をかけられないかもしれません。各自復習をお願いします。じゃあ、解散していいよ。おつかれさま」
 最初は口に手を当てて叫んでいた女性教師だったが、生徒達が一斉にざわつき始めたので、拡声器を手にして呼びかけていた。

 彼女はいつの間にか浩介の手から離れていた。包帯の巻かれた腕を軽くさすりながら、女性教師のいる方向を見ている。浩介は自分がうん、とうなったように記憶しているが、それは心の中でのことだったにちがいない。

 あっけないものだ。何一つチャンスはなかった。自分は何がしたかったのだろう。いよいよ、いよいよだ、と何かを期待しておいて、結局及び腰になって。土台、声をかけるなんて、安っぽい自己満足だったわけだ。悲劇ぶって、自尊心をいたぶりたかっただけなのだ。やけっぱちだよ人生は。無念さが滞ることなく全身に滞積していく。

 遠慮がちに彼女の横顔をのぞく。彼女は無音の空気のかたまりのような、さりげない雰囲気があった。浩介のことなんか、これっぽちも関心を持っていない。他の多くの男子に対するのと同じで。穴が開くほど見つめても、こちらを向いてくれることはない。

 もういいや。逃げたとか何とかって。「あれ」だけのことだったんだ。悔いはない。

 教室にもどろう。浩介は、隣の女子と話し始めた彼女を最後に見て、身体を反転させた。と思ったら、誰かに思いきり突き飛ばされ、あろうことか彼女の横の方まで来てしりもちをついてしまったのだ。突き飛ばした主は和田だった。二メートル先で突っ立っている。いたずらげな顔ではない。怒っているような、檄(げき)を飛ばしているような、そんな感情が混じった表情だ。和田は浩介が何かを発する前に、ぷいと背を向けて去っていってしまった。

 な、なんなんだよっ。和田のやつ―――。

 恥ずかしいのと腹立たしいのとで、浩介はダブルパンチを食らってしまった。至近距離にいる彼女とその友人の女子の目を気にしながら、仕方なく立ち上がる。びっくりしたような二人の顔。ここにいる立場なし。最悪だ。

「あの、だいじょうぶ?」
 思いがけず、彼女が声をかけてくれた。今さっきまで浩介のしようとしていたことが、逆転した立場で起こっている。彼女の隣の女子は、関わりたくないのか、とてもけげんな顔をしている。浩介はどうしていいか分からず、頭をかいた。和田が、乱暴だったけれども気を回してくれたということか? まさか。いや、しかし、目の前には向き合っていくれている彼女がいるわけで。

 どうする? 逃げるか、また。
 いいや、ここは男だ。ここは男というだけで、乗り切らせてくれ、和田。

 どこからか、得体の知れない気がわいてくる。浩介は目を見開いて、彼女に向かった。

「あの、うん、大丈夫です……。その、そちらは大丈夫ですか? その後」
「え? 何が?」
 きょとんとしている彼女は、意外にもサクサクッとした対応だった。透きとおる瞳、白い肌、包帯。それらから漂う可憐さや、切なさなどがあまり感じられない。隣の女子が、この人に話しかけるなんてありえない、という感じで浩介を見ているようだった。

「その包帯って、あの、自転車のときのやつでしょ? 俺、あのときさっさと逃げちゃったやつなんだけど」
 やつ、やつ。なんて幼稚な語彙しか持ち合わせていないのだろう。しかも、包帯を指さしてしまった。右膝ががたがたと震えている。止めたくても、止まらなかった。気づかれているだろうか。恥をさらしすぎても、恥はなくならない。永遠に恥を知れってことか?

「あー、あの時の人。えー、同級だったんだ。へー。こういうこともあるもんだね。うん、包帯は巻いてるけど全然平気。大げさにみえるよね。外したいんだけどね」
 彼女は閃いた、といわんばかりに明るい表情を見せた。実にあっけらからんとしている。あの苦悶の表情が、あの時だけのものだったということがにわかにも信じられない。がやがやとひきあげていく生徒達の中で、こちらのやりとりを注視しているものはいなかった。

「あ、そうなんですか。でも俺、逃げちゃったから……。情けなくて。申し訳ないなと思ってて。でも、すごい正義感のある男性がすぐに駆けつけてくれて、本当、良かったです」
 言えた。なんか知らないが、言いたいようなことはとにかく言えた。脱力する一歩手前、なんとか胸をなでおろす。隣の女子がはあ? と口を開けているが、もはやどうとらえられてもいい。

「ああ、逃げたってそんな。気にしないで。別にいいよ。後から来たキザなやつがでしゃばっただけだし」
「キザなやつって……。ええ? 親しげにしてたように見えたけど」
「とんでもない。そう見えた? 残念だなそれ。もうしつこいの。なんかさ、助けた恩義をたてにさ、どこでも彼女気取りみたいなの。勘ちがいしてるよね。もう少ししたら無視しようかなって思ってるんだけどね」

 浩介は一瞬たじろいでしまった。彼女が思ったことをズバズバ言うタイプには全く見えなかったからだ。あの凄惨な事故現場にいた女子、あの本人のはずだ。気が強いのか、根っからくよくよしない性格なのか。こんなギャップってすさまじすぎる。

 横に流した髪をときおり触りながら、ちょくちょく見せるエクボの笑顔。それはともすれば仮面、ということにもなる。あまりよくも思っていなかったあの元生徒会長を、もう少しで同情しそうになった。

 もし、浩介がこの彼女を単独で助けていたら。結果を推測するのが恐い。

「えー、でも、ありがとうね。気を使ってくれて」
「あ、いえ。こちらこそ」
「何組なの?」
「え? 俺は一組」
「そうなの。私、九組。まず会わないよね。コースが違うし。文系でしょ、そっち?」
「う、うん」
「そっか、そっか。じゃあまあ、また何かあったらよろしく。ありがとね」
「あ、はい……」
 そこまで会話すると、彼女は待たせておいた仲間の女子と歩き出していった。なしでしょー、無視しなよぉ。仲間の女子の控え目でない言葉が思いきり聞こえていた。彼女は別にいいじゃん、と口に手を当てて笑っていた。

 嵐のような時間が過ぎていったよう。周囲には人がおらず、ほとんどの生徒が入退場用の扉の前でごったがえしていた。今になって涼しい風が吹きつけ、全身を冷やしていく。どれだけ全身に汗をかいていたのかが分かる。右膝の震えはとうに消えていた。すぼめた左手の先を見つめてみると、彼女の指先の弾力がよみがえりそうになる。でも、それは他の女子に対して抱いたものと同様のものだった。

 事故は事故、それは確かに起こった。そして一人の女子に、浩介は身を構えすぎた。つまり、劇的なことはそうそう長く続かない。でました、結論。浩介はちっともすがすがしくなかったが、体育館の出口に向かうことにした。終わったのだ。また一つのことが、現在から過去に移動したということだ。

 体育館の扉の敷居をまたいだとき、ふっと肩に手をまわす人間がいた。よう、と言いながら。和田がずっと待っていたらしい。浩介は驚いたが、平静をたもとうとした。なんか照れるのだ。和田は何かしら、感づいていたということなのだろう。ただ、からかっているだけではなかった。

「よう。あの、和田さ。気づいてたのか? なんか……」
「いいって。言うな言うな。礼にはおよばん」
「どこまで気づいてた? 和田の勘ちがいってこともあるし」
「見ればアホでも分かるゼーット(Z)!」
 和田は強引にヘッドロックをかけて、真意をうかがわせない。浩介は和田の寄せてくる体重に耐え切れず、ギブアップを宣言した。おそらく、和田はあるところまで勘ちがいをし、あるところからは見る目があったのだ。事故のことまでかぎつけられるわけがないのだし。仮に別のルートから情報を仕入れていたというのも……。いや、ないな。知っていたらすぐに冷やかしてきたはずだ。いずれにせよ、浩介はマジカルな救世主、和田の行動プロセスを解明したくてたまらなかった。  

 あの事故以来、浩介は精神的に揺らぎが生じていただろう。でも、多分、過去にも似たような状態はあったはずだ。そのとき自分はどのように対応したのか。うまく対応できていなかったのならば、和田に突き飛ばされるまでうろたえていたのもうなずける。進歩していなかったということだ。とすると、和田のアクションは浩介を成長させるチャレンジ魂のようなものをうながしてくれたことになるのかも。

 下駄箱で上履きにはきかえ、渡り廊下をひょうひょうと歩く和田、そして一歩下がって浩介。だてに人気者じゃないな。人徳がたしかにある。救われた、そう思っていいのかもしれない。振り向きざまに、体育館シューズを入れた紐つきの袋で浩介の尻をしばくのはやめてほしかったけど。

「あ!」
「なに、ユウ?」
 和田が腕を止めた反動で、彼の袋が浩介の腕に何重にもからみついた。
肝心なことを一つ忘れている。彼女の名前を知らない。そういえば、彼女も浩介の名前を知らないはずだ。気づきもしなかった。すがる思いで和田に聞いた。

「和田さ、あの彼女の名前覚えてない?」
「はあ? なんでミーがそんなこと知ってんのよ?」
「え? だっていつもなだらかな丘陵地帯をチェックしてんだろ。彼女のことなんかインパクトあっただろう? ネーム見たんだろう?」
「ばーか。踊ってもいない女子のものまでチェックするかよ。それに俺は美乳専門だ!」
「びにゅう? なんじゃそら?」
「微妙の微じゃないぜ。美白の美だ」
「知るかよ! まったくもう……」

 思わず頭上のトタン屋根の方をあおむく。和田はロングヘアーを後頭部でたばねるしぐさ。意に介していない様子だ。だいたい、彼女のそれがどうだったかなんて思い出せるわけがない。そもそも注意深く見てもいないんだから。やはり、和田は多くにおいて勘ちがいをしていたようだ。浩介は和田と歩調を合わせながら、ため息が出そうになった。



《おわり》

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