浩介は少しひるんでいる自分に気づき、空想で頬をぴしゃっとたたいた。ほどよい熱気と喧騒が交りあう空間に、そっと足を踏みいれる。眩しくはないぼんやりした光度を感じて頭上を見上げると、点灯されたばかりの十数個の水銀灯が照度を定めるために明滅していた。体育館での学年全体練習が始まる。今日こそはと思うものの、やり過ごそうという気持ちも依然として無くならない。
顔を合わせるチャンスは自ら作らねばならないが、ほんの少しの勇気があれば、彼女に声はかけられると思う。でもやっぱり、簡単にはできないことだった。
ワックスのかかった体育館の床には、白いカラーテープで引かれたいくつもの大円がすでにあった。いつの間に準備されていたのだろう。屋内で、しかもこんなに大勢の人間と踊り回るのは初めてのこと。どんな雰囲気になるのか想像もつかない。
浩介の高校では体育祭に男女混合種目があり、二年生はフォークダンスを踊らねばならなかった。他の学年では、一年生のフラッグを使ったマスゲームがある。三年生にはなぜか混合種目が無く、団体種目として男子が騎馬戦、女子は創作ダンスが割り当てられていた。
四回目の授業にして初の屋内練習。グラウンドは一年生が使用しているらしい。過去三回の練習では、ひたすらダンスの型の習得に力が入れられていて、輪を作って踊ったのは一度だけだった。男女が互いに恥ずかしさを克服することから始まり、ミスしてもいいから思いきりよく踊ることを学んだ。今日あたりから、そろそろ学年全体での連係動作に練習の主眼が置かれるのかもしれない。
連日の残暑の日射から逃れられる屋内練習は、人間の心をどこか緩めてしまう。三百人を超える生徒達の表情はどれも、笑みがこぼれているように見えた。男女が無数の小さな集団をあちこちで作り、言葉に聞こえない言葉をこだまさせている。派手なグループも、大人しいグループも緊張感をどこか欠いている風だった。
浩介は一人、自分のクラスのおおよその定位置を予測して立ち止まった。注意深く周囲を見渡すと、無意識に彼女を探してしまう。クラスの仲間と話しながらでもそれはできることだった。だが、一方にも他方にも注意を集中することは困難である。浩介は彼女からすでに一度逃げていたし、大げさだが、堂々としておきたかった。いい加減に、ちゃんと向き合わねばならなかったのだ。その機会を作って。
あちらからは、こちらが見えているだろうか。あの時のように。
過剰な自意識は、グラウンドより閉鎖的なこの体育館の中の方が断然大きくなっている。そこに帯同して鮮明に思い出されるのは、彼女の悲痛な視線、そして白い包帯だった。
あの日、遅刻するかしないかのデッドラインとも言うべき時間に家を出た。連休を前にした月末の金曜日で、前夜に気を緩ませて夜更かししたのが寝坊の原因だったのだろう。自転車のペダルを回しながら団地を下り、隣町に入って歩道の少ない市街地をひたすら走る。
国道と並走するフェンス越しの私鉄の軌道に沿っていき、途中踏切を渡って大きな狛犬がシンボルの神社の裏手に出ると、正面の一本橋を渡って川を越える。そこから段々に連なる田んぼを横目に、うねる白いコンクリート舗装の坂道を無心に駆け上がっていけば、高校正門のふもとまでたどり着くことができる。家から高校までの所要時間は約三十分だ。しかしそれは、坂道で自転車を押して上がらなかった場合のはなしだ。
時間に余裕があれば、たいていの生徒はあの坂道と真剣に付きあうことはない。自転車を押して上がるのだ。同級生と並んで会話しながら登っても息切れはしない。浩介が自転車から下りた場合、所要時間はいつもより十分増しくらいとなるが、それでもホームルーム開始の定刻前には到着できていた。だからあの日、浩介にしてみれば三十分コースでぶっ飛ばしていくのがセオリーだった。
太陽の熱視線にやられ、背中はぐっしょりと汗ばむ。荒れ狂う強い風によって髪の分け目が崩れ、何度も毛根付近に痛みを感じていた。だが、ひるむわけにはいかなかった。蒼の空の下、弾丸のごとく突き抜けねばならなかったのだ。中学三年間と高校一年まで無遅刻の皆勤で通していた浩介にとって、無為な遅刻は論外であったからだ。
うねうねとつづくコンクリートの上り坂。フラットではないザラザラの路面。自動車一台の往来がやっとであろう、その路の幅。視界の左サイドには、とげのついた緑の葉が厚い暴風壁となっている民家の垣根が、右サイドには濃緑が茂る田んぼの段々が延々と続いていく。他に生徒の姿が見当たらなかったことから、時間とのきわどい勝負になることを覚悟していた。
やぶ蚊のような、あるいは小さなハエのような黒モジャの団体飛翔物が宙にとどまっていて、それらを口に含むこともしばしばだった。ただでさえ自転車のスピードはのろく、車体は重く感じる。気を紛らわそうと、一文字型のハンドルを握りしめ、重力に抗うように前輪を浮かせてみる。一瞬でも軽やかに進み、楽になりたかった。でも、前カゴに入っているリュックは思いのほか弾まず、車輪は地面にあっけなく着地する。
サドルに尻を落とそうものなら、高さをわざと低くしているためか三輪車に乗っているような幼さを感じてしまい、余計に疲労度が増す。ぜえ、はあ、と吐き出される止まない呼吸の音は、知っている奴にはできるだけ聞かれたくないものだった。
長い登坂の間、ある区間だけ息のつけるアップダウンがあった。民家の連なりが途絶え、山の木々に周囲が囲まれてくると、目前に全長三十メートルくらいの土管のようなトンネルが現れる。入り口付近がちょうど山の頂点のようになっていて、あとは下っていくのみという珍しい起伏になっていた。その暗がりに突入する前からは、出口が目視で確認できない。天井の低いトンネルには、点灯していない数本の細長い蛍光灯が設置されている。
楕円を半分に切ったような光が先に見えるだけ。まるで自分の両目がヘッドライトのようになった感覚だ。軽くなったペダルを芯で捉えない、全自動的感覚。息を落ちつかせながら、つかの間の開放感を味わう。生温かな気流が正面から向かってきて、車輪のシャーっという音がやけに響いてくる影の世界。出口に向かいながら急な下りとなり、トンネルを抜けると左に大きく曲がってまた急な上りになる。その「左に大きく曲がる」箇所では、つづく上りの坂に備え、直前までのスピードをできるだけ維持していきたいという心理がはたらく。
トンネル出口直前で右側の内壁に寄り、出口で日の光とともに現れる内側の山の斜面へ、そして右手に再び現れる田んぼの土手に向かっていく。低速であれ、高速であれ、この通路の出口ではアウト・イン・アウトのラインを攻めねばならないのだ。
光の射す方へ飛び出す瞬間、真正面に設置されてあるオレンジポールのカーブミラーを確認する。普段ならば、通学中の生徒の自転車の存在があることから極力減速する。しかし、遅刻するかしないかの瀬戸際では、ミラーの中に人やモノの気配がなければ経験と希望的観測でMOTOライダーのようにハングオンで行く。
浩介はあの日もそうやって左へ曲がろうとしていた。
しかしトンネルを抜けた瞬間、田んぼの土手直前にある側溝に自転車ごと突っこんでいた女子生徒が目に飛びこんできたのだ。たまらずに急制動をかけ、現場を数メートルばかり通り越して自転車を止めた。慌てて振りかえると、溝に前輪を落としこんだ自転車の横で、浩介の通う高校の制服を着た女子生徒が路上に倒れこんでいたのだ。側溝の方に背を向けて地面に横たわるようなかっこうだった。
コンクリートに手をついて上体を起こそうとしているが、ぶるぶると身体が震えるだけで起き上がれない。右足のローファーは脱げかかり、濃紺のソックスの「はだし」が見えかけていた。水色の通学鞄はひしゃげた前カゴの中で圧迫されるように小さくなっていて、それだけで衝撃の大きさがどれほどのものだったかが分かった。
浩介はあわわ、とうろたえそうになるのを必死にこらえ、女子生徒に駆け寄ろうと自転車から降りた。しかし、上り坂で路面が平らではないためか、自転車が何度も倒れそうになり、バランスが取れない。結局最後は山側の斜面に立てかけておくことになった。その間の自身の怠慢な態度はもどかしかったが、俊敏に動きたくても心の動揺が大きくて動作がついてこなかったのだ(と思いたい。そう思うしかなかった)。
「だ、大丈夫ですか?」
女子生徒に近づいたものの、声をかけるのがやっとだった。何をおどおどとしていたのだろう。目の前で起きているその異様な雰囲気に飲まれ、どのように対処すればいいのか即座に判断ができなかったのだろう。今思い返しても情けない対応である。
両膝をついてかかがみこみ、女子生徒の様子をうかがう。照り返しの熱気で悶えそうになるのに、彼女はじっとしているしかないというむごさ。あれこれ思いをめぐらすものの、ただひたすら「大丈夫ですか?」としか聞けなかった。横たわる彼女の身体に触れていいものか、それすらもためらいつづけていた。
女子生徒の白のセーラーは薄黒く汚れ、スカートのプリーツにも折り目を越えて白く引きずったような跡がついている。腕や膝小僧あたりに痛々しい出血も見られていた。バラバラとくずれる女子生徒の長い髪。何年生だろう。同学年か、それとも一つ上の三年生か。ほどよく垢抜けている感じから、一年生ではなさそうに見える。彼女は激痛に顔をゆがめ、浩介の存在を確かめてもなお、言葉を発せないでいた。
助けなきゃ、助けなきゃ、彼女を助けなきゃ。
心でわめきちらしても、全く気転をきかせられない。本当にどうしていいか分からなかった(なぜか、泣きそうでもあった)。そして、何度目かの大丈夫? を発したときだった。その場に一人の男子生徒が自転車で通りかかったのだ。浩介と同様に急いでいたようで、目を丸くした形相で急激なブレーキをかけてその場に止まったのだった。
ボリュームのあるオールバックのような髪型、きりりと整えられた眉、勇猛果敢なりりしい顔つき。その男子生徒には見覚えがあった。中学の時の同級生。クラスが一緒になったこともないし、話したこともなかったが、浩介はその男を一方的に知っていた。中学で生徒会長をやっていた男だったからだ。
体育館の壇上に立つ彼を何度となく仰ぎ見て、強がりで無関心を装っていた記憶が脳裏にあらわれた。浩介が彼の何を知っているかと問われたら、何も知らない、ということになるが、彼の清潔感あふれる統制力のようなものだけはずっと知っていたと答えよう。結論から言うと、彼は高校生になっても変わっていなかったのだ。
彼は自分の自転車を山の斜面に立てかける際、浩介のように時間をかけることはなかった。さらに、倒れている女子生徒に走り寄り、当たり前のように手を触れて親身に介護を始めていったのだ。
ブレザーパンツのポケットからハンカチやポケットティッシュをさっと取りだし、止血を試みている。そして、最近になって高校に持ち込みが制限されていた携帯電話を取りだし、どこかに救護の依頼をしているようだった。呆然としている浩介をよそに、まるで浩介がその場にいないかのごとく、自分のペースで彼女に接していたのだ。
「もういいですよ。あとは俺がしますから」
彼は汗で滲んだカッターシャツの背を浩介に見せつけながら、浩介の顔を見ないでそう言った。浩介が役に立たない人間だと踏んだのか、はたまた彼女を気づかっての発言なのか。
「あ、あの……」
浩介はおそるおそる彼(と彼女)に声をかけたが、大丈夫ですんで、と返されるだけだった。彼は彼女の上体を優しく抱き起こすと、心配しないで、もうじき救護の先生が来ますから、と言って聞かせていた。その状況を傍で見ているような浩介は少なからずショックだった。
カラスがアーアーと鳴きながら、頭上を舞っている。誰が見ても、そういうことなのか。閉めだされたのならば、この場にいる意味はない。でも―――。
とまどう気持ちに反して、浩介はすっくと立ち上がっていた。後悔してしまうくらい、その所作は早かった。生徒会長経験者の肩越しに見えた女子生徒の顔は、汗にまみれ、苦痛に耐えているように見えた。
「じゃあ、あの、これで失礼します。すみません」
ばつの悪い、小さな声を二人にかけると、男子生徒は反応せず、女子生徒は渋い顔でこちらを見ていた。彼女のうるんでいる二つの瞳は、悲しむような、浩介を軽べつしているような感情がこもっていた。たまらず、視線をそらすしかなかった。もはや、その場から去ることしか考えられなかった。
立てかけていた自転車を起こし、後ろを振りかえることもできず、そのまま自転車を押して上がった。とても立ちこぎを再開できる状況ではない。後ろ身には絶えず痛い視線が突き刺さっているようだった。浩介は仕方なく自転車を押したまま、坂道を駆け上がった。彼女の視界から消えてしまうまで、ずっと。ジャリジャリと鳴く靴の裏の音に自分が追いこまれていくように錯覚したのは、気のせいではなかっただろう。
その日、浩介はぎりぎりで遅刻することはなかった。だが、彼女と元生徒会長がその後どうなったのかは知らない。その時点で、隠遁(いんとん)のような日々を過ごすことは決定的であったのだ。関わったという記憶を抹殺して逃げきればよいと思った。ところが、狭い高校内で逃げ延びられるほど世間は広くなかった。
傷の癒えていない彼女を見つけることは、不幸にもたやすいことだったのだ。例えば登下校時や校舎の廊下で、あるいはお昼の売店や何らかの集会で彼女を見かけたのならば、その都度目を伏せて場をしのげばよかったであろう。まずかったのは、時が体育祭の団体種目の練習の真っ只中であったことだ。
包帯を手足に巻いている彼女は目立つ存在であったし、体育祭の授業において、彼女が同学年の生徒であったということも初めて知らされたのだ。
《つづく?》
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顔を合わせるチャンスは自ら作らねばならないが、ほんの少しの勇気があれば、彼女に声はかけられると思う。でもやっぱり、簡単にはできないことだった。
ワックスのかかった体育館の床には、白いカラーテープで引かれたいくつもの大円がすでにあった。いつの間に準備されていたのだろう。屋内で、しかもこんなに大勢の人間と踊り回るのは初めてのこと。どんな雰囲気になるのか想像もつかない。
浩介の高校では体育祭に男女混合種目があり、二年生はフォークダンスを踊らねばならなかった。他の学年では、一年生のフラッグを使ったマスゲームがある。三年生にはなぜか混合種目が無く、団体種目として男子が騎馬戦、女子は創作ダンスが割り当てられていた。
四回目の授業にして初の屋内練習。グラウンドは一年生が使用しているらしい。過去三回の練習では、ひたすらダンスの型の習得に力が入れられていて、輪を作って踊ったのは一度だけだった。男女が互いに恥ずかしさを克服することから始まり、ミスしてもいいから思いきりよく踊ることを学んだ。今日あたりから、そろそろ学年全体での連係動作に練習の主眼が置かれるのかもしれない。
連日の残暑の日射から逃れられる屋内練習は、人間の心をどこか緩めてしまう。三百人を超える生徒達の表情はどれも、笑みがこぼれているように見えた。男女が無数の小さな集団をあちこちで作り、言葉に聞こえない言葉をこだまさせている。派手なグループも、大人しいグループも緊張感をどこか欠いている風だった。
浩介は一人、自分のクラスのおおよその定位置を予測して立ち止まった。注意深く周囲を見渡すと、無意識に彼女を探してしまう。クラスの仲間と話しながらでもそれはできることだった。だが、一方にも他方にも注意を集中することは困難である。浩介は彼女からすでに一度逃げていたし、大げさだが、堂々としておきたかった。いい加減に、ちゃんと向き合わねばならなかったのだ。その機会を作って。
あちらからは、こちらが見えているだろうか。あの時のように。
過剰な自意識は、グラウンドより閉鎖的なこの体育館の中の方が断然大きくなっている。そこに帯同して鮮明に思い出されるのは、彼女の悲痛な視線、そして白い包帯だった。
あの日、遅刻するかしないかのデッドラインとも言うべき時間に家を出た。連休を前にした月末の金曜日で、前夜に気を緩ませて夜更かししたのが寝坊の原因だったのだろう。自転車のペダルを回しながら団地を下り、隣町に入って歩道の少ない市街地をひたすら走る。
国道と並走するフェンス越しの私鉄の軌道に沿っていき、途中踏切を渡って大きな狛犬がシンボルの神社の裏手に出ると、正面の一本橋を渡って川を越える。そこから段々に連なる田んぼを横目に、うねる白いコンクリート舗装の坂道を無心に駆け上がっていけば、高校正門のふもとまでたどり着くことができる。家から高校までの所要時間は約三十分だ。しかしそれは、坂道で自転車を押して上がらなかった場合のはなしだ。
時間に余裕があれば、たいていの生徒はあの坂道と真剣に付きあうことはない。自転車を押して上がるのだ。同級生と並んで会話しながら登っても息切れはしない。浩介が自転車から下りた場合、所要時間はいつもより十分増しくらいとなるが、それでもホームルーム開始の定刻前には到着できていた。だからあの日、浩介にしてみれば三十分コースでぶっ飛ばしていくのがセオリーだった。
太陽の熱視線にやられ、背中はぐっしょりと汗ばむ。荒れ狂う強い風によって髪の分け目が崩れ、何度も毛根付近に痛みを感じていた。だが、ひるむわけにはいかなかった。蒼の空の下、弾丸のごとく突き抜けねばならなかったのだ。中学三年間と高校一年まで無遅刻の皆勤で通していた浩介にとって、無為な遅刻は論外であったからだ。
うねうねとつづくコンクリートの上り坂。フラットではないザラザラの路面。自動車一台の往来がやっとであろう、その路の幅。視界の左サイドには、とげのついた緑の葉が厚い暴風壁となっている民家の垣根が、右サイドには濃緑が茂る田んぼの段々が延々と続いていく。他に生徒の姿が見当たらなかったことから、時間とのきわどい勝負になることを覚悟していた。
やぶ蚊のような、あるいは小さなハエのような黒モジャの団体飛翔物が宙にとどまっていて、それらを口に含むこともしばしばだった。ただでさえ自転車のスピードはのろく、車体は重く感じる。気を紛らわそうと、一文字型のハンドルを握りしめ、重力に抗うように前輪を浮かせてみる。一瞬でも軽やかに進み、楽になりたかった。でも、前カゴに入っているリュックは思いのほか弾まず、車輪は地面にあっけなく着地する。
サドルに尻を落とそうものなら、高さをわざと低くしているためか三輪車に乗っているような幼さを感じてしまい、余計に疲労度が増す。ぜえ、はあ、と吐き出される止まない呼吸の音は、知っている奴にはできるだけ聞かれたくないものだった。
長い登坂の間、ある区間だけ息のつけるアップダウンがあった。民家の連なりが途絶え、山の木々に周囲が囲まれてくると、目前に全長三十メートルくらいの土管のようなトンネルが現れる。入り口付近がちょうど山の頂点のようになっていて、あとは下っていくのみという珍しい起伏になっていた。その暗がりに突入する前からは、出口が目視で確認できない。天井の低いトンネルには、点灯していない数本の細長い蛍光灯が設置されている。
楕円を半分に切ったような光が先に見えるだけ。まるで自分の両目がヘッドライトのようになった感覚だ。軽くなったペダルを芯で捉えない、全自動的感覚。息を落ちつかせながら、つかの間の開放感を味わう。生温かな気流が正面から向かってきて、車輪のシャーっという音がやけに響いてくる影の世界。出口に向かいながら急な下りとなり、トンネルを抜けると左に大きく曲がってまた急な上りになる。その「左に大きく曲がる」箇所では、つづく上りの坂に備え、直前までのスピードをできるだけ維持していきたいという心理がはたらく。
トンネル出口直前で右側の内壁に寄り、出口で日の光とともに現れる内側の山の斜面へ、そして右手に再び現れる田んぼの土手に向かっていく。低速であれ、高速であれ、この通路の出口ではアウト・イン・アウトのラインを攻めねばならないのだ。
光の射す方へ飛び出す瞬間、真正面に設置されてあるオレンジポールのカーブミラーを確認する。普段ならば、通学中の生徒の自転車の存在があることから極力減速する。しかし、遅刻するかしないかの瀬戸際では、ミラーの中に人やモノの気配がなければ経験と希望的観測でMOTOライダーのようにハングオンで行く。
浩介はあの日もそうやって左へ曲がろうとしていた。
しかしトンネルを抜けた瞬間、田んぼの土手直前にある側溝に自転車ごと突っこんでいた女子生徒が目に飛びこんできたのだ。たまらずに急制動をかけ、現場を数メートルばかり通り越して自転車を止めた。慌てて振りかえると、溝に前輪を落としこんだ自転車の横で、浩介の通う高校の制服を着た女子生徒が路上に倒れこんでいたのだ。側溝の方に背を向けて地面に横たわるようなかっこうだった。
コンクリートに手をついて上体を起こそうとしているが、ぶるぶると身体が震えるだけで起き上がれない。右足のローファーは脱げかかり、濃紺のソックスの「はだし」が見えかけていた。水色の通学鞄はひしゃげた前カゴの中で圧迫されるように小さくなっていて、それだけで衝撃の大きさがどれほどのものだったかが分かった。
浩介はあわわ、とうろたえそうになるのを必死にこらえ、女子生徒に駆け寄ろうと自転車から降りた。しかし、上り坂で路面が平らではないためか、自転車が何度も倒れそうになり、バランスが取れない。結局最後は山側の斜面に立てかけておくことになった。その間の自身の怠慢な態度はもどかしかったが、俊敏に動きたくても心の動揺が大きくて動作がついてこなかったのだ(と思いたい。そう思うしかなかった)。
「だ、大丈夫ですか?」
女子生徒に近づいたものの、声をかけるのがやっとだった。何をおどおどとしていたのだろう。目の前で起きているその異様な雰囲気に飲まれ、どのように対処すればいいのか即座に判断ができなかったのだろう。今思い返しても情けない対応である。
両膝をついてかかがみこみ、女子生徒の様子をうかがう。照り返しの熱気で悶えそうになるのに、彼女はじっとしているしかないというむごさ。あれこれ思いをめぐらすものの、ただひたすら「大丈夫ですか?」としか聞けなかった。横たわる彼女の身体に触れていいものか、それすらもためらいつづけていた。
女子生徒の白のセーラーは薄黒く汚れ、スカートのプリーツにも折り目を越えて白く引きずったような跡がついている。腕や膝小僧あたりに痛々しい出血も見られていた。バラバラとくずれる女子生徒の長い髪。何年生だろう。同学年か、それとも一つ上の三年生か。ほどよく垢抜けている感じから、一年生ではなさそうに見える。彼女は激痛に顔をゆがめ、浩介の存在を確かめてもなお、言葉を発せないでいた。
助けなきゃ、助けなきゃ、彼女を助けなきゃ。
心でわめきちらしても、全く気転をきかせられない。本当にどうしていいか分からなかった(なぜか、泣きそうでもあった)。そして、何度目かの大丈夫? を発したときだった。その場に一人の男子生徒が自転車で通りかかったのだ。浩介と同様に急いでいたようで、目を丸くした形相で急激なブレーキをかけてその場に止まったのだった。
ボリュームのあるオールバックのような髪型、きりりと整えられた眉、勇猛果敢なりりしい顔つき。その男子生徒には見覚えがあった。中学の時の同級生。クラスが一緒になったこともないし、話したこともなかったが、浩介はその男を一方的に知っていた。中学で生徒会長をやっていた男だったからだ。
体育館の壇上に立つ彼を何度となく仰ぎ見て、強がりで無関心を装っていた記憶が脳裏にあらわれた。浩介が彼の何を知っているかと問われたら、何も知らない、ということになるが、彼の清潔感あふれる統制力のようなものだけはずっと知っていたと答えよう。結論から言うと、彼は高校生になっても変わっていなかったのだ。
彼は自分の自転車を山の斜面に立てかける際、浩介のように時間をかけることはなかった。さらに、倒れている女子生徒に走り寄り、当たり前のように手を触れて親身に介護を始めていったのだ。
ブレザーパンツのポケットからハンカチやポケットティッシュをさっと取りだし、止血を試みている。そして、最近になって高校に持ち込みが制限されていた携帯電話を取りだし、どこかに救護の依頼をしているようだった。呆然としている浩介をよそに、まるで浩介がその場にいないかのごとく、自分のペースで彼女に接していたのだ。
「もういいですよ。あとは俺がしますから」
彼は汗で滲んだカッターシャツの背を浩介に見せつけながら、浩介の顔を見ないでそう言った。浩介が役に立たない人間だと踏んだのか、はたまた彼女を気づかっての発言なのか。
「あ、あの……」
浩介はおそるおそる彼(と彼女)に声をかけたが、大丈夫ですんで、と返されるだけだった。彼は彼女の上体を優しく抱き起こすと、心配しないで、もうじき救護の先生が来ますから、と言って聞かせていた。その状況を傍で見ているような浩介は少なからずショックだった。
カラスがアーアーと鳴きながら、頭上を舞っている。誰が見ても、そういうことなのか。閉めだされたのならば、この場にいる意味はない。でも―――。
とまどう気持ちに反して、浩介はすっくと立ち上がっていた。後悔してしまうくらい、その所作は早かった。生徒会長経験者の肩越しに見えた女子生徒の顔は、汗にまみれ、苦痛に耐えているように見えた。
「じゃあ、あの、これで失礼します。すみません」
ばつの悪い、小さな声を二人にかけると、男子生徒は反応せず、女子生徒は渋い顔でこちらを見ていた。彼女のうるんでいる二つの瞳は、悲しむような、浩介を軽べつしているような感情がこもっていた。たまらず、視線をそらすしかなかった。もはや、その場から去ることしか考えられなかった。
立てかけていた自転車を起こし、後ろを振りかえることもできず、そのまま自転車を押して上がった。とても立ちこぎを再開できる状況ではない。後ろ身には絶えず痛い視線が突き刺さっているようだった。浩介は仕方なく自転車を押したまま、坂道を駆け上がった。彼女の視界から消えてしまうまで、ずっと。ジャリジャリと鳴く靴の裏の音に自分が追いこまれていくように錯覚したのは、気のせいではなかっただろう。
その日、浩介はぎりぎりで遅刻することはなかった。だが、彼女と元生徒会長がその後どうなったのかは知らない。その時点で、隠遁(いんとん)のような日々を過ごすことは決定的であったのだ。関わったという記憶を抹殺して逃げきればよいと思った。ところが、狭い高校内で逃げ延びられるほど世間は広くなかった。
傷の癒えていない彼女を見つけることは、不幸にもたやすいことだったのだ。例えば登下校時や校舎の廊下で、あるいはお昼の売店や何らかの集会で彼女を見かけたのならば、その都度目を伏せて場をしのげばよかったであろう。まずかったのは、時が体育祭の団体種目の練習の真っ只中であったことだ。
包帯を手足に巻いている彼女は目立つ存在であったし、体育祭の授業において、彼女が同学年の生徒であったということも初めて知らされたのだ。
《つづく?》
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