小説になれるかなぁ

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泣き言はあるか

2019-03-14 21:16:23 | 短編小説

 お前が富田に出し抜かれたと思ってしまうのは、お前がのらりくらりと遊び暮らしていたからだ。

 中途で入ってきた人間ってのは、それなりに必死だ。見えないところで懸命に努力しているのは当然だ。

 お前はそこんことろを見くびっていた。富田の教育係であるなら、あいつ以上にあらゆる方面において、準備と復習を怠るべきではなかった。

 

 今さら泣きついてきても、俺はどうにもしてやれん。

 

 立場は入れ変わったんだ。明日から、いや来週からでいい。お前は工場に異動しろ。

 そこでゼロから始めるのか、終焉に向かっていくのかはお前次第だ。

 課のリーダーだったなら、部下の、一人一人の性分までもをきちんと把握するべきだった。

 

 それを重視せず、同じような失敗を犯しても、ある者には感情のままにののしり、ある者には一切の過ちをとがめもしなかった。その逆もあった。

 そんな主任に誰がついてこようか。お前は自分のやり方に、ただの一度でも立ちどまって再考したことがあったか? 進歩のない者は自分にすら目を向けない。

 

 中途の富田は過去、子会社に出向していた経歴があり、いわば即戦力だ。

 

 将来的に主任のポジションを担わせようとした社の思惑もあった。言いかえれば、お前が変わるかどうかも見極めようとしていた。  

 

 それを薄々感づいていれば、もっとやりようがあっただろうにな。

 

 お前は何も考えずに生きていただけだ。ちがうか? 昼休み、平気でスロットに興じるような人間だ。返す言葉は見つからんだろう。

 

 気づきを与えてくれる仲間を作ろうともしなかった。お前の自業自得だ。

 

 お前は必然、社内で扱いにくい駒となっていた。部下からも、上層部からもだ。

 

 俺だけがかろうじてお前の愚痴を聞ける相手だったかもしれんが、内心、迷惑に思っていた。お前の発する悪影響は、俺にも飛び火するからな。

 

 組織の風通しを乱す人間と見なされれば、どうなるか分かるだろう。

 

 富田はお前にけなされていた者の一人だったよな? お前は何か知らんが、富田を一方的に煙たがっていた。

 他の人間にもそうしていたように、相手の態度や容姿、一見の印象で敵視していたようだった。ちがうか?

 富田がお前から受けた罵詈雑言は、相当な数にのぼる。日に日に激しくなっていた。誰もが見て聞いて、嫌になるくらいだった。

 

 それでも富田は、自分の受けた傷はさておいても、真っ先にお前の理不尽さに必死に耐え続ける同僚のフォローに回っていた。

 人望ってのは、そういうところからも生まれる。それを根回しだの、機嫌取りだの、うがった見方をした奴が俺の目の前にいる。

 

 一生かかっても得られないとやっかんだのかもしれんが、みっともなかったな。

 

 私生活でもむしゃくしゃしていたのか知らんが、うっぷんを晴らす場所は見定めるべきだった。

 

 どうだ? 堪(こた)えたか? ここまできて何も感じないなどと言うなよ。

 

 まだ憎しみの気持ちの方が強いなら、もうここを去った方がいい。やり直したいという意志があるのなら、すがりついてでも目の前にある任務をまっとうしろ。

 今回のことが人生の中の一部の出来事だとする。会社人生で見れば、さらに短い一瞬の只中(ただなか)にいることになる。

 お前には味気のない通過点なのかもしれんが、それを濃いものにするか、薄いまま放置するのかで、お前の生き方に対する機微は変わってくる。

 

 一度でも、生き方を丁寧に行うことを覚えれば、何事にも肯定的になれる。

 

 人生は五分と五分と言うが、何もしなくて両方に振れるわけじゃない。

 

 悪いことがあっても、その後に良いことも起こるってのは、どちらも自分がそうなるように仕向けているからだ。

 お前は今、自分で悪い方へ仕向けたんだから、どうしたいのかは自分で分かるはずだ。やり方はお前しか知らん。

 

 俺が言えるのはここまでだ。

 

 会社は一つの堅牢な家だ。塀、外壁、そして屋根瓦、庭にいたるまで社員が守っている。

 どんなに立派な建材を用いようとも、それらを守り抜くのは社員の腕にかかっている。

 家の中に住む社員同士で諍(いさか)いあっていては、凋落するのは目に見えている。

 

 社員の和は不可欠だ。

 

 分散して働こうが、最後には一堂に会する。

 

 反目する関係にあっても、つながる手立てはある。

 

 一度や二度なら逃げてもいい。

 

 だが、考えることはやめるな。

 

 

 最後に、もしも仮にだが、お前に心の病があるのなら、まずゆっくり直した方がいい。

 俺の言ったことに向き合うのは、その後でもいいから。


短編小説「うつせみの心地して」 vol.1 (2話完結)

2018-09-19 23:36:16 | 短編小説

 三ノ輪の駅で降りて、地上に出た。いつの間にか、空は夕闇に転じている。

 目を凝らさなければ、人影すら見落としてしまうほどだった。

 

「もしもし?」

 

「もしもし? 俺だけど、かの子か?」

 

「うん、私」

 

「ああ、声を聞けてよかった。電車の中で、ずっと電話できなかったから」

 

「うん」

 

「俺、今さっき、地下鉄を降りて三ノ輪の駅を出たところなんだ。かの子、今どこにいる?」

 

 「今? 今? 南千住の駅で降りて、片側二車線くらいの道路に沿って随分と歩いて、どこかの交差点にいると思う」

 

「どこかの交差点? まだ泪橋(なみだばし)って所に着いていないのか?」

 

「そこがどこか分からない」

 

「ええ? 泪橋がいいって言ったの、かの子の方だぞ?」

 

「ごめんなさい」

 

「ああ、まあいいよ。ここで揉めるわけにはいかない。要するに、自分がどこにいるのか分からないんだよな?」

 

「ごめんなさい」

 

「あの、な。謝らなくていいから。な? それよりさ、その辺に道路標識かなんかあるだろう? 地名だけでも教えてほしいんだ」

 

「ごめん、よく分からない。目が悪いから」

 

「弱ったな……。あ、じゃあ、目立つ建物は? コンビニとか銀行とか」

 

「ごめん、全部ぼやけて見えるの。間近で見ないとよく分からない」

 

「マジか……。やっぱり、もっと簡単な場所にすれば良かったのかな。あ、責めているわけじゃないよ。俺だって、その簡単な場所すら行ったことがないんだから」

 

「そうだよね、仕方ないよね」

 

「うん。それにこっちさ、かの子のこと、あきらめていたし。でも、急に電話かかってきて、舞い上がっちゃって。詰めが甘くてごめんな」 

 

「謝らないで。ピッ。近くに来たら会えるって言ったのは、私の方だから。ピッ」

 

 かの子の声はどんどん小さくなった。でもなぜか、ピッ、という電子音だけが、はっきりと聞こえていた。

 

「私の方だから。近くに来たら会えるって言ったのは。私の方だから」

 

 かの子の声が遠くから近くになってくる。緊張感と背徳感。その二つが混ざったような心情が伝わってきた。

 無性に焦ってしまうが、落ち着かなければならない。とにかく、かの子の居場所を突き止めるしかない。

 

「道路に沿って歩いたって言ったけど、何号線の道路?」

 

「たぶん、たぶん、464号線上にいると思う。自信は無いけど」

 

「そうか。で、その道路に交わる交差点にいるんだな? 交差点の名前、分かるか?」

 

「ごめん、分からない」

 

「分からないか……。でもな、あの、もうすぐ、もうすぐ会えると思うんだ。二人が近くにいることは確かなんだからな」

 

「うん、そう、そうだよね。ピッ」

 

「俺、急ぐわ。そっちの方へ向かうから。待ってて」

 

「……うん」

 

 息を弾ませながら、スマートフォンを左耳に当てつづける。

 銀色の筺体(きょうたい)を耳に強く押し当てていても、風を切る音は止まない。密閉するように、その空間を閉じていく。

 

「かの子さ、あの、今、そっちがいる交差点のことなんだけど」

 

「え? 何? 聞こえにくい」

 

「いや、だから、交差点のことなんだけど」

 

「ごめん、何でだろう? 聞こえにくい。ピッ」

 

「本当か?」

 

 問いかけに返答はない。屋外とはいえ、近くにいるはずなのに、電波状況が悪いなんて信じられなかった。

 あの、ピッ、という音はそれが影響して鳴っているのだろうか。

 

「もしもし、聞こえる? あ、うん。今はちゃんと聞こえているよ」

 

 不意に、かの子の聞き取りやすい応答が返ってきた。今度は、雑音など混ざっていない。

 それでも、会話が途切れてしまえば、そのまま音信不通になりそうな気がした。

 絶えず語りかけておかなければ、安心できなかった。

 

「なあ、まだそこにちゃんといるよな? 移動したりしていないよな?」

 

「うん、大丈夫だよ。私はここにいるから」

 

 かの子の懸命な様子が伝わってくる。ひとまず、ほっとした。目線を地面に落とした瞬間、黒い飛沫が左半身に襲いかかってきた。

 スピードを出したトラックが、無遠慮に水たまりの上を通過していったのだ。

 思わず、背後をふり向く。中型クラスのトラックが、見る見るうちに小さくなっていく。気持ちのやり場がなかった。

 当然、スマートフォンを持つ左手も、べったりと濡れている。拭おうにも、ハンカチはおろか、ティッシュすら持っていなかった。

 仕方なく、その忌まわしい水分を何度も振り払うことにした。

 十数秒とはいえ、かの子を遠ざけてしまった。時間を取り戻すべく、再び呼びかけていく。

 

「もしもし、かの子? ごめん。聞こえるか?」

 

 かの子は無反応だった。というより、通話が切られていた。ツー、ツー、ツーという音が、耳の中で単調に響いていく。

 慌てて、リダイヤルをした。見慣れてきた十一桁の番号を、心の中でとなえながら。

 しかし、今度は相手の携帯電話の電源自体が切られていた。

 左の胸に鈍い痛みが走る。絶望感に押しつぶされそうになった。

 左手に提げたバッグの横を、自転車に乗った学生がかすめるように通過していく。

 

 危ない! ここは歩道だろう? 心中で憤ると、例の学生は車道に下りていった。

 その間も、先を急ぐ歩行者が行き交っていく。立ち止まっていたのは自分だけだった。

 誰の邪魔にもならないよう、歩道の隅へ移動することにした。

 一体、かの子はどうしてしまったのか。今、本当に目的地へ向かっているのだろうか。

 

 冷静に状況を把握しようとしても、すぐに心の中がざわついてくる。

 それからも、かの子は電話にも出ず、反応を得る手がかりはつかめなかった。茫然となりそうだった。

 ここはさしあたって、464号線上へ進んでみよう。それで見つからないようだったら、泪橋という所へ向かおう。

 ひょっとしたら、かの子は目的地へ着いていて、それすら自分で気づいていないのかもしれないし。

 己を励ますようにして、無理やり前を向くことにした。

 

≪つづく≫


短編小説「うつせみの心地して」 vol.2(2話完結)

2018-09-18 21:12:55 | 短編小説

 スマートフォンの画面に目線を落とす。現在地の詳細が知りたかった。

 地図アプリを起動する。GPSの測定から、三ノ輪駅近くの十字路の交差点付近にいるのが分かった。

 しかし、ここはいわゆる464号線上の交差点ではないらしい。

 正面には、JR常磐線が北東から西に向かって横切っているらしかった。

 

 その方向を見やるも、街灯に照らされた小中のビル群が見えるだけ。それらの頂点部分は、闇色の空と同化するように霞(かす)んで見える。  

 その下を、休まずに動く交通の流れがある。それを制御するのは、寸分狂わぬタイミングで点灯する複数の信号機。

 どこの街でも見かける状況なのに、慣れることができない。初めて訪れる夜の街で、心細さを感じていた。

 

 その時、スマートフォンから着信音が鳴った。通話の着信だ。しかしそれは、非通知番号からの発信だった。

 なぜ、非通知? いや、しかし。このタイミングであれば、かの子からの可能性が高い。事情があって非通知なのかもしれない。

 迷いに迷ったあげく、恐る恐る、通話開始のボタンを押す。第一声がちゃんと出るのか、自分でも自信がなかった。

 

「もしもし」

 

 第一声は出てくれた。しかし、相手のそれは返ってこない。

 

「……」

 

「もしもし、どちら様ですか?」

 

「……、あ、かの子です」

 

「かの子? かの子なのか?」

 

「はい」

 

 確かに電話口の相手の声質は、かの子そのものだった。ほっとした。しかし、なぜ非通知なのだ?

 

「どうしたっていうんだ? 電話番号、非通知設定にしたのか?」

 

「ごめんね。もう終わりにしよう? 嘘だったの。でたらめだったの。ピッ。私、そこにはいないから。東京どころか、初めから日本になんかいないから」

 

「え? ええ? ど、どういうこと? 日本にいない……?」

 

 信じられないような展開に、全身に電気的な衝撃が走っていた。

 右肩が、ビル一階の店舗のシャッターに激しく当たっていく。動揺していた。

 

「ごめんね。悪いけど、会えない。会えないの」

 

 かの子の声は、申し訳なさそうに、消え入りそうになって届いてくる。返す言葉が思いつかなかった。

 必然、無音状態になる。すると、なぜか、ちっという舌打ちが聞こえてきたのだ。こちらの気のせいだろうか。

 とにもかくにも、かの子を近くに置いておかねばならない。この日までの二人の親交を無にできるはずがない。

 必死になって声を大きくしていた。

 

「う、嘘だよな? 日本にいないって? だってかの子、お前、神奈川にいるって言ったよな?」

 

「そんなこと、言ったかな」

 

「言った! 言っただろう? おい! ちょっと、いったん、ちゃんとしっかりしてみようよ! なんか、おかしいよ!」

 

「私、何をしている人だと思った?」

 

「え? 何って……。かの子はそこで、神奈川の逗子で、土産物屋さんで働いているって言ったじゃないか! 地元で会うのが嫌だから、東京の泪橋っていう場所があるから、そこがいいって。ちがうのか?」

 

「そうだと思った」

 

「な、なに、さっきからワケわかんないことばっかり言っているんだよ!」

 

 そこで、相手方からの通信音がひどく乱れ、耳に痛い奇妙な電子音が発されていた。

 さらには、「学習機能により、該当トラックを再生し終わりました」、という女声のアナウンスが聞こえてきた。

 それらが静まった後だ。明らかに男の、男の咳ばらいが聞こえてきたのは。

 

「はい、はい、お兄さん。もう、充分だろう。東京見物できて良かったな。じゃあな」

 

 がらの悪そうな男の声が一方的に聞こえ、通話も一方的に切られた。

 我が身に何が起こっていたのか。それを判断しようにも、思考することすらできなかった。

 かの子は確かに電話口に出て、通話が途切れては復活、その繰り返しを行い、互いの所在を確認し合っていた。

 

 それがどうなった? 

 

 よく思い出せない。

 

 いや、思い出せないのではない。排除したい記憶があまりにも劇的なものだったため、思い出す前に、意識がおじけついてしまうのだ。

 耳に当てていたスマートフォンを見つめる。リダイヤルをしようと思ったが、もはや指が動いてくれない。

 手の力が抜け、筺体はそのままするりと地面に落下した。乾いた音は聞こえなかった。

 

 雨上がりのむっとする湿気が、この身にまとわりつく。じっとしていればこそ、それは逃れようがなくなる。

 掌には汗がにじみ、大気がそれに触れ、熱を奪って気化していく。それでも掌は湿っていた。

 土地勘などまるで無い場所で、このまま焦燥しきってしまうのか。

 

 群がってきた小さな虫を追い払うこともできない。それらは発光体のようになって、残像を残して消えていった。

 いくつかの角を曲がり、あるいは直線を行き、視界が開けたところで、筺体を持つ手を振りかざす。それだけのことだった。

 自分は、かの子を探していたはずなのだ。

 

≪おわり≫


短編小説「三人組」 vol.1 (2話完結)

2018-03-07 22:10:01 | 短編小説
 西野「ああ、ちょっと待って。きれいに入らない!」


 茶色のマントに包まれた細い体は、ビニール袋の中身をがさごそと探り、一人苛立っていた。


 安藤「そういうことか。お前がしたかったことは……。万引きだな」


 黒いテンガロンハットを深くかぶり、低い声でつぶやく仲間の一人。西野の隣にいれば、その頭の高さが二つ、三つ抜きん出ているのがよく分かる。身長は百九十センチを優に超えているだろう。


 西野「ちがう! 袋に入れられた物を、さらに別の袋に入れたいだけなんだから」

 安藤「その色つきの袋に入れる必要があるのか? やけに用意周到じゃないか」

 西野「うるさいなあ! ねえ、ちょっとあんた。さっきから異様に近いんだけど! 隣に立つの、やめてくれる?」

   
 西野は憤慨して、長い髪を大きく揺らしていた。怒るのは無理もない。隣のカウボーイスタイルの男は、西野の左半身にぴったりと寄り添っているのだから。

 この男、つい先ほどまでは過度に集中して漫画雑誌を立ち読みしていたのだ。確かに、西野が買物をしていたかどうかは知るところではないのだろう。

 しかし、安易に彼女を万引き犯に仕立て上げる思考というのは短絡的であるし、無理がある。趣味の悪い冗談にもなっていない。

 西野が露骨に嫌な顔を見せているのに、安藤は平然とした様子で、西野の手元を凝視していく。彼女の我慢の限界は、近いうちにやって来るだろう。


 安藤「袋の中に袋だと? 自分で言っていて苦しい言い訳だと思わんか? 実に滑稽(こっけい)だ。ふふっ、ふふふっ」

 西野「その気味悪い笑い方、やめろ」

 安藤「これか? ふふっ、ふふふっ」

 西野「人の話、聞いてる?」


 安藤は西野のきつい指摘にもへこたれず、その笑い方を何度か繰り返していた。西野が無言で安藤の横っ腹に拳を打ち込むと、男はもろくもその場にうずくまってしまった。


 安藤「ぐうっ……。痛いじゃないか。暴力反対だと、あれほど言っておいたのに……。だいたい、お前の野良犬拳法は美しくない。堂々としていない」

 西野「堂々としてなくて悪かったね。これならいいのかなっ?」

 安藤「いーちちちちちちちち! いひゃい! いひゃいって! はなひて、悪かった! 悪かったって!」


 安藤は西野に顎(あご)をつかまれると、そのまま立ち上がらされていた。そして思い切り頬(ほほ)をつねられてしまったのだ。大男が涙目になる様は、見るからに情けなかった。


 安藤「はあ、はあ、はあ……。なあおい、後戻りするなら今だぞ。店主も大目に見てくれるかもしれない。私も適当に口添えしてやる。な?」


 安藤は帽子を目深にかぶり直し、なおも食い下がっていく。本人は優しく忠告したつもりらしいが、彼(か)の女にとっては、つくづく余計な進言となったようだ。


 西野「しつこいんだよ、お前! 変質者呼ばわりされたくなかったら黙ってろ!」


 周囲に容易に響く西野の声量。店内に居合わせた客からの視線が二人に集まってくる。カウボーイ男は、自らが釈明する側に転じなければならなくなり、慌てていた。


 安藤「そ、そんなに言うのなら、見せてみろ。何を盗った、何を」

 西野「ちょ、ちょっと! 返して! 返しなさいって! 返せ、このバカ!」


 安藤は苦しまぎれに西野の持つ袋の中身を強引に確認しようとした。しかし、西野に突き離されてしまい、真実は解明できなかったようだ。


 西野「なにムキになってんの? ガキなの? こっちが恥ずかしい!」

 安藤「無念……」


 西野は初めからこうすべきだった、と独り言を発すると、安藤の隣を素早く離れていく。店内奥にある製氷機の前に移動すると、やるせないため息を漏らしていった。

 孤立した安藤には、近づく一つの影があった。眼鏡をかけ、ノーネームの灰色のレーシングスーツを身につける、細面の男だ。彼はカウボーイ男の肩に優しく手をかけていた。


 細面の男「ただでさえ、西野は気が強い。それに加え、あの目力(めぢから)だ。マスカラまつ毛が異様に長いのは伊達(だて)じゃないよ。あれは完全武装の仕様なんだ。彼女への立ち入り方というものがある」

 安藤「森下……。しかし、人としてやってはいけないことがあるんだぞ? あいつをこのまま犯罪人にしておくことなど、私にはできない」

 細面の男(森下)「まあ、そう熱くなるな。あいつが犯罪をやらかした事実はないんだから」

 安藤「どうしてそう言い切れる? あいつは、袋の中身をかたくなになってでも見せようとしない。仲間としては放っておけないだろう?」


 安藤の激しくなるばかりの様子に、森下は一瞬たじろいだかのように見えた。しかし、店内を一度冷静に見渡すと、安藤の背中に腕を回していく。さらに、彼の黒いジーンズのポケットに手を忍ばせると、そこから窮屈そうにあるモノを取り出していた。


 森下「これは何だ?」


 森下が安藤の目の前で慎重に見せつけたもの。それは掌(てのひら)に収まる大きさの、土色のキーホルダーのようだった。いや、土色に見えたものは、実は細部まで精巧に造り込まれた紐(ひも)付きの恐竜フィギュアだった。


 安藤「そう、そうなんだ。最近、息子がこういうのを欲しがっているんだ。これはトリケラトプス。小さいがよく出来ているだろう?」


 安藤がわざとらしく笑みを浮かべる。しかし、森下は誤魔化されないぞと言わんばかりに、安藤に詰め寄っていく。


 森下「どこで手に入れた?」

 安藤「なぜそんなことを聞くんだ? どこで手に入れようと私の勝手じゃないか」


 安藤はにわかに焦燥の色を隠せないでいる。恐竜フィギュアの存在を探り当てられたことに動揺している。それは明白だった。森下は一ミリも表情を崩さずに、安藤を見据えていく。


 森下「ならば、質問を変えるよ。これをどこで買った?」

 安藤「本質的に質問が変わっていないじゃないか……」


 安藤の全身が硬直したように動きを止めた。そして、安藤の革製のテンガロンハットは、もはや所有者の人相を隠し通せるものではなくなっていた。

 どんなにそれを目深にかぶろうが、安藤を見上げる人間がいる限り、その表情は衆目を集めるものだ。

 不意に、店内に響く音声が二人の耳に入ってきた。入ってきたというよりも、二人が黙ってしまったことによって、それが際立っただけのことだろう。

 もともと、店内には切れ目のない音が流れつづけている。今でさえ、解散発表が話題になっている、女性アイドルグループのラストシングルが聞こえている。

 新旧の人の出入りによって鳴らされる、入口のチャイム。買物の有無に限らず、客へのあいさつとお礼を欠かさない店員の声。

 靴の種類によって異なるいくつかの足音。煩雑に開け閉めされる、保冷ケースの扉のきしみ。おそらくは西野の、携帯電話の画面をタップする雑な指癖。

 無数とはいかないまでも、許容される有限の雑音があった。

 かすかに香る、チキンの唐揚げの匂いも忘れてはいけない。

 そんな店内で、森下は無言で安藤の反応を待っている。当の安藤は山の高い帽子の頂点を右手でしっかりと抑えていた。さらに目深にするつもりなのか、帽子のつばの高さは涙袋よりも下にある。

 何かを観念したようにも見えるその所作。安藤は静かに口を開いていた。


 安藤「お前が何を言いたいのかは知らないが……、別に隠すことでもない。その恐竜はこの店のレジの横にある棚から購入した」

 森下「いつ?」

 安藤「確か四、五日前だ」

 森下「証人はいるか?」

 安藤「証人なんているわけないだろう。む、待てよ。今日のレジの店員は……、いや、ちがう、初見の人間だ。残念だったな」


 森下「レシートは?」

 安藤「私がもらうような人間に見えるか? もらうわけないだろう。だいたい、店員だってその辺は見極めている。レシートを欲している客かどうか瞬時に判断しているのだぞ。お前はその陰の努力も知らないで、軽々しくレシート、レシートと連呼しないほうがいい」

 森下「しかしレシートは領収書であり、購入者の行動を辿れる重要な物証。軽視できるものではない」

 安藤「そうかい。ならば身の潔白を証明するものは無いな。残念だったな」


 手負いの状態にもかかわらず、素知らぬ顔でいる安藤。強引に話を切り上げようとしていた。森下の手からフィギュアを奪い取るようにつかむと、ポケットの中にねじこんでいく。森下は空になった掌をしばらく見つめ、その腕を力なく下げていった。


 森下「レシートの有用性を知らないようだな」

 安藤「どういうことだ?」


 森下はいぶかしがる安藤を右手で制し、ちょっと待っていろとつぶやく。そして足早に店内奥に移動すると、先程から一人で待機している西野と合流。西野と粘り強く交渉した結果、彼女の持っていた二重のビニール袋の中から、とあるモノを取り出していた。

 モノが具体的に何なのか、数がいくつあるのか、帽子を目深にかぶることを信条とする安藤には見当がつけられない。

 森下はそのままレジへ行き、対応した男の店員と二言三言、言葉を交わした。店員は森下から一枚の紙切れとモノを受け取ると、慣れた様子でバーコードを読む機械にモノを当てた。そして、レジカウンターの跳ね扉を揺らして店内の通路に出てきたのだ。


≪つづく≫

短編小説「三人組」 vol.2 (2話完結)

2018-03-06 23:47:34 | 短編小説
 男は弁当を補充していた別の女性店員にレジの番を命じると、森下と連れだって紙切れとモノを持って移動していく。二人は安藤のいる通路の、もう一つ奥側の通路で足を止めていた。

 人一倍背の高い安藤であったが、視界を覆う自らのトレードマークのために詳細を把握できない。プライドを曲げるのは悔しかったようだが、結局帽子のつばを上方に引き上げることで、真実に迫ることを決めたらしい。


 安藤「いわし……? いわしの蒲(かば)焼き?」


 知らぬうちに背伸びをしていた安藤。薄目で、かろうじて読むことのできたモノの名はそれだった。先ほどから男の店員が手にしていたモノは、魚の缶詰だったのだ。


 男の店員「こちらを、そちらの商品に交換ですね? 差額が出て、二十円高くなりますけど、よろしいですか?」

 森下「はい、かまいません。交換してください」

 男の店員「かしこまりました。申し訳ありませんが、もう一度レジにて御精算をお願いいたしまーす」


 森下が意気揚々といった感じで、レジに戻っていく。安藤は森下と視線が合いそうになったため、慌てて身を翻していた。翻したところに、なぜか肩を怒らせる西野がいる。

 西野は窮屈そうに安藤の胸ぐらをつかむと、彼の上体をこれでもかと揺らしていた。


 西野「なーんで止めてくれなかった? 商品を交換する実験とは聞いていたけど、あいつ、確実に違うメーカーのヤツに換えたよね? 店員とそういう会話をしていたよね? あんた、高みから覗いていたんでしょ? どうなのさっ!」

 安藤「おい、こら、揺らすな! 私は見ていたというより、ただの傍観者だ。だいいち、話の展開が全く読めていないんだぞ? こちらの方が説明を求めたい!」

 西野「かぁーっ、話になんない!」


 逆上しているような西野は、突き飛ばすように安藤を解放した。そこへ、にんまりとした顔で二人のもとへ戻って来た森下。眼鏡のレンズを蛍光灯の光で満たした男は、自慢げに鼻を鳴らした。
 
 森下は交換してきた缶詰を西野に見せようとしたが、彼女はそれよりも早く、森下へ噛みついていく。


 西野「誰がメーカーを変えろっつった? 愛すべき同じ銘柄(めいがら)じゃなきゃ、意味ねえだろうが!」

 森下「熱効率の循環(じゅんかん)に挑むがごとく、難易度が高い方が有意義な気持ちになる。一枚のレシートによって、元の物質が等価交換の枠を超え、別の物質に置き換わる。安藤にはその秘められた可能性の有用性を示すことができたんだ」


 西野「はあ? あたし、怒ってんの。キレてんの。それは分かるよね?」

 森下「いや、それは分からないが。少なくとも、こうして商品はバージョンアップして手元に戻ってきた。それは喜ぶべきことだと思うんだ。はい、いわしの蒲焼き。渋いね。好物だなんて知らなかった」

 西野「乙女の恥部を、そうやってたやすく晒(さら)す神経が知れない……」


 西野の怒りがはち切れんばかりになっている。森下の訳の分からない自己満足の持論は、火に油を注いだようなものだ。安藤は、この一触即発の状況をどのように収束させようか策を練ろうとした。しかし、程度の低い争いごとを前にすれば、真剣になることさえはばかられるのだった。

 だいたい、こんな諍(いさか)いを起こしている場合ではなかったはずだ。重要なことは他にある。安藤は口を大にして言いたかった。

 西野はゆらりと身体を揺らしながら、森下の手から缶詰を奪った。その瞬間、爪が立てられていたのだろう。森下は情けないくらいか弱い悲鳴を上げていた。


 森下「痛いよ……。爪切ろうよ……」

 西野「おい、森下。お前、得意気になってんじゃねえぞ? 何をやらかしてくれたんだよ? メーカーどころじゃねえじゃねえか!」

 森下「え、えええ? 缶詰のバージョンアップをしたはずだけど……」


 西野「さんまだぞ、これ?」

 森下「はい? さんま?」

 西野「いわしがさんまになってんだよ!」


 西野の男勝りのドスの利いた声が、店内に響き渡っていた。森下は虚をつかれたまま、おそるおそる缶詰を凝視していく。森下は青ざめた表情になっていた。缶詰は確かに、さんまの蒲焼きになっていた。


 安藤「さんま……? さんまの蒲焼き?」


 安藤も驚いた表情で缶詰に見入っていた。そして、西野の手からそれを取り上げようとした時、彼女の空いた手で思い切りはたかれた。シャドウの濃い西野の目元は殺気立っている。


 森下「ま、間違いは誰にでもある。そしてそれは次なる成功の元でもあるんだ……」


 よせばいいのに、森下は余計な持論を展開した。その瞬間、西野は拳を繰り出すようにして、缶詰を握ったままの右手を森下の眉間に打ち当てていた。森下は見事にノックアウトされた。

 いつかの男の店員が、三人のもとへ駆け寄ってくる。半分笑顔で、半分ひきつった戸惑いの顔で。居合わせた客達も、やじ馬根性で三人を取り囲んでいく。


 男の店員「あのー、お取り込み中にすみません。他のお客様に迷惑になるので、騒々しくするのは御遠慮下さい」


 店員が緊張しながら注意を促すが、三人の意識は容易に男には向かない。しばらくして、森下がフレームの歪んだ眼鏡を押さえながら、よろよろと立ち上がってきた。安藤は仕方なく、細面の彼を支えてやった。

 店正面の大きなガラスに、半透明の三人の姿が映り込む。ヘッドライト、テールライトが行きかう屋外は、すっかり夕闇になっていた。

 森下が薄ら笑いを浮かべ、西野と対峙していく。何か良からぬことを考えているのか。懲りない細面である。


 森下「西野に教えてやろう。さんまにあって、いわしにないもの。それは漁獲高の華麗なる変遷(へんせん)であっ……、むぐうっ……!」


 森下が再びつべこべ発言をしたため、西野が凶器と化した缶詰パンチをみぞおちに繰り出していた。安藤はたまらず、森下の背中をさすってやる。西野は鬼のような形相である。


 男の店員「あのー、これ以上騒ぎを起こされると、営業妨害になるので。警察に連絡させて頂く可能性もありますし。ね? ここは一つ、どうか穏やかに……」

 西野、安藤、森下「警察ぅ?」


 男の店員の警告に、三人は情けない声をそろえていた。そして三者三様に身を正し、天井を見上げたり、遠くを見つめたり、つまり落ち着きが無くなっていった。

 安藤が不自然な歩き方でその場を離れ、雑誌置き場に移動していく。「イチ抜け」を模索し始めたようだ。


 安藤「『切れ味鋭い街並み』、なんてタイトルあるか? 変な雑誌だよ。なあ、森下」

 森下「そ、そうだねぇ。でも、アンプラグドな感じでウケを狙っているのかもね」


 森下が安藤の脇に忍び寄り、わざとらしい同調をする。二人して、一冊の雑誌をコーラスグループの譜面のごとく、シェアしている。細面は苦悶の表情で腹に手を当てていた。

 残された西野は手段が選べず、結局、二人の背後から割って入ることしかできなかった。


 西野「何やってんの、あんたたち。最悪のコンビね」

 安藤「西野こそ酔いが残っているんじゃないか? 酔拳(すいけん)なんかやっちゃって」

 西野「酔っていません」

 安藤「おい、森下。西野を介抱してやれよ。俺には妻子がある。無理だ」

 西野「はあ? なんでこのナヨナヨ男に介抱されなきゃならないの。どうせむっつりでしょう? どさくさで襲われたら末代までの恥」

 安藤「まあ、無理するな。酒臭いんだから」


 即興の芝居を試みたせいか、その場の空気が妙に寒気を感じるものであったことは、言うまでもない。やじ馬たちは軽蔑の目線を投げかけながら、やがて包囲を解き始めていった。

 三人はささやき声で、ちょっとやりすぎたか? どうだったかな? と反省会を始めている。その三人の背後には、耳を澄ませてやりとりを盗み聞きしている男の店員がいた。


 男の店員「あのー、やっぱり、警察に連絡してもいいですかね?」


 店員の存在を感知できていなかった三人は、びくっとして後ろを振り返っていた。


 西野「やだあ、まだいらっしゃったんですか?」

 安藤「こ、これはたまげた。あ、立ち読みの件かな? 長すぎたんだな? いかんなあ、森下。ささっと決めろよ」

 森下「ん? いや、でも。定期購読を申し込もうか、どうしようかなあって。意外に迷うタイプなんだよね」


 店員の様子を探りつつ、あくまで演技を押し通す三人。墓穴を掘っているのに止められない。悪循環の連鎖である。

 店員は額(ひたい)をかきながら、どうしたものかと思案に暮れているようだった。


 男の店員「まあ、それはどうでもいいんですが……。そもそも皆さんの服装って個性がありますよねえ。ハロウィン? ではないでしょうし……。仮装、でもないでしょうし……」


 男の店員は、三人のともすれば奇妙ないでたちに疑心を抱いていく。それは裏を返せば、あくまで問題解決の糸口を探ろうとしているということだろう。

 気の強い女は茶色のマントを身につけ、大男は黒いテンガロンハットを目深にかぶり、細面のメガネ男は、灰色の無地のレーシングスーツを着用している。

 いかに個性的な感性の持ち主であっても、これらを普段着として選ぶにはなかなか勇気がいるものだ。

 つまりはもう、三人は完全に不審者として目をつけられていた。


 男の店員「となると……、変装ってとこですかね?」

 西野「変装?」

 安藤「店員さん。それを言っちゃあ、いけないよ!」

 森下「分かっていても、黙っておくのが先進性というものですよ?」


 三人は店員をきっと睨んで、口々に責め立てた。当の店員は訳も分からず、三人の剣幕の強さに唖然としている。

 その時だ。店内のトイレの扉が開かれ、一人の男が出てきたのは。ノーネクタイのスーツ姿。左右非対称に刈り上げられた短髪で、手入れが行き届いた無精ひげを生やしている。

 三人は条件反射のようにして、三度雑誌コーナーに身を寄せ合っていた。男の店員も道連れにして。


 男の店員「な、なにするんですか? 離してください! やっぱりあんたたち、変だよ!」


 店員は一人で憤慨していたが、三人は息を止めたようにして取り合わない。西野が警戒しながらも、トイレから出てきた男を目で追っていく。


 安藤「見たか? どうなった?」

 西野「出た! そのまま店を出た!」

 森下「確認。現在イチハチサンナナ。これより、『マル秘』の追尾を再開!」


 安藤、西野「了解」

 男の店員「な、なんなんだ? あんたたちは?」

 安藤「変装をよくぞ見破った。称賛に値する」


 安藤は店員にそう言い捨てると、一目散に店を出ていった。西野はウインクを、森下は四十五度のお辞儀を店員に捧げ、安藤を追った。

 三人には時間を稼ぐ必要があった。

 そしてその稼ぎ方は、大仰(おおぎょう)で下手くそであった。




≪おわり≫

短編小説「孤独の終わりに」 vol.1 (6話完結)

2017-07-28 20:06:44 | 短編小説
 朝のホームルームが終わった教室は、一時限目に向かう忙しなさでいっぱいだった。それとは裏腹に、信次の目の前に座る生徒はのんびり構えている。


 間合いを詰められそうで詰められない。


 先週の頭から、彼とはそんな関係性の中にいた。ほどよい緊張感に包まれ、答えを見つけたいあまり、焦燥に駆られ。

 それでも、彼がぽつりと漏らした言葉は、信次の耳へはっきり届いていた。


「何だったんだろうな、あいつ」


 首をひねらせて振りかえる彼の表情は、信次が何かしらの見当をつけるのを待っている。だが、信次には簡単に見当をつけることができなかった。

 吹き抜ける風のように、突然に来て静かに消えていったあいつ。

 たった半日の出来事だった。

 記憶に残る一度きりの交流の生々しさが、まるで夢であったかのようにすら思える。


「分からない。ほんと、何だったんだろう」


 信次はそう返すのが精いっぱいだった。

 彼は、信次があいつに関する真実の一かけらでもつかんでいるのだと信じていたにちがいない。それはそうだろう。距離が離れていたとはいえ、信次があいつと触れあっていたのを彼は目撃していたのだ。器用に、見下ろしながら。

 確かに、あいつがいた時間の、限りなく最後の方を知っているのは信次なのかもしれなかった。でも、そこで感じたことを簡潔に打ち明ける自信がなかった。

 あの日信次は、あいつから不可思議な感情を植えつけられていた。でもそれを、あいつの消えてしまった理由とどう結びつけて説明すればいいのか分からず、一人考えあぐねていたのだ。

 だんまりを決め込む相手を前にしても、彼が席を立つ気配はない。信次を見つめ、しばらくしてから視線をそらし、また見つめる。

 彼はそんな行為を何度かくりかえした後、一つの提案を寄こしてきた。


「また、あの歩道橋に行ってみるか?」

「え?」

「そしたら、何か分かるかもしれない」


 目の前の彼は鼻から大きく息をもらし、首をいたずらげに傾けた。そして数秒の沈黙の後、にやっと笑って椅子を引かずに教室を出ていった。

 信次は思いもかけない展開に、息を飲む思いだった。でもそれこそが、くすぶっていた信次の心を弾けさせる正体だったと気づいたのだ。

 信次は夢中で彼の名を呼び、その背中を追いかけていた。






 あいつがクラスに加わったのは、先週の初めの月曜日。新学期が始まって約一カ月半というタイミングだった。しかも、その日は中間試験週間の初日。朝から新入りがやってくるなどと考えていた人間は、クラス内で皆無だったはずだ。

 担任の背中の後ろで、紺色のブレザー姿で現れたあいつ。リュック型の藍色の鞄(かばん)を背負い、ゴム部分が黄色の上履きを履き、白い大きな紙袋を左手に持っていた。

 信次たちの制服は男女ともに灰色を基調としたもの。指定の学生鞄は藍色の手提げ型で、今年の上履きのゴムの色は緑だった。

 それらの単純な対比だけでも、あいつが異質な存在に映ってしまったことは事実だ。いかにも、よそから来た人間だ、という風に。

 不可解な転校時期も相まって、誰もがあいつの転校に至った理由を欲していたと思う。でも、多くが肩すかしを食らっていたにちがいない。

 あいつは自己紹介の時、赤面しながら、県外の中学校から転校してきたことだけを明かした。転校の理由は具体的に語らずじまいで、担任が家庭の事情のため、とありきたりの説明を加えただけで終わっていたのだ。

 その場にはしんと静まる空間だけがあり、クラスメートの誰もがあいつに拍手を送るのを忘れていたほどだ。

 担任の呼びかけでとりあえずの拍手が広まっていったが、あいつは視線を下に落としてばかりだった。

 そこから、誰もがとまどいに包まれたまま、あいつとの最後の一日が始まることになった。

 普通、転校生というものは、手探りでクラスや学校に慣れていくものだろう。

 高いハードルは与えられず、時の流れに身をゆだねさせ、とりあえず環境に身を置いてもらう、というように。

 それは例えばこんな風だ。


 見本市よろしく授業や生徒、それに教師に触れ、自分の所属する場所を確認していく。

 あちらをのぞき、こちらをのぞき、興味を惹かれたものから心にしたためていく。

 従わなければならない校則、クラス内での取り決めなどには、実践の場で反復していく。

 その過程で何かしらの「初体験」に遭遇しても、周囲の援助を借りることで、あるいは経験を頼りに応用を効かせることで順応する―――。


 信次は、それらの認識が間違っていないという自負があった。自身、中学二年生のその時分まで転校する機会はなかったけれど、転校生を迎えたことは少なからずあったからだ。

 転校生が少しずつ慣れていく過程を何度となく見ていた。

 だけど、あいつの場合はそれらのどの型(かた)とも重なることがないように感じた。

 あいつは学力の習熟度を確認するため、という理由で、朝から信次たちと机を並べて試験に相対することになったのだ。

 転校早々、それは酷に映った。せいぜい別室で自習をさせるとか、個別のオリエンテーションを課すとかいうのが、配慮というものだろう。

 クラスにも学校にも溶けこむまもなく、いきなり難解な状況に放りこまれたのだ。あいつにも、かなりの不安があったことは想像に難くない。

 それでもあいつは抗することなく、新しく用意された窓際の一番後ろの席にその身を落ち着かせていた。

 そうなれば、クラスメートはあいつのことを慮(おもんばか)り、交流を自重しようとするのが本道だったろう。

 せめて、一日の試験が終わるまではそっとしておく。それくらいの気づかいは必要だったはずなのだ。

 でも、社交性の高いクラスメートたちはおかまいなしだった。あいつの個人的な情報を搾取しようと躍起になる者が続出したのだ。

 当然といえば当然の反応だが、それは余裕のない人間をさらに追いつめるようなものだ。こういう時のやじ馬根性は、見ていて気持ちのいいものではなかった。


「へー? 前の中学って私立なんだ。というか地元どこ? こんな時期に転校って珍しいよね? どこから通ってるの?」


 休憩時間毎にあいつの周囲にたかり、笑顔をふりまいてはたわいのない話をもちかけ、反応を見る。

 表面上は良きクラスメートであることを印象づけても、あいつへの興味が薄れれば、いつしか寄りつかなくなることは見え見えだった。

 それに対し、あいつはそんな輩にほほ笑みを返すだけで、あまり口を開いていないようだった。取り巻きが不完全燃焼な面持ちで席に戻るのを、信次は何度も視認していた。

 いや、視認していたというより、視界の隅で覗いていたと言った方が正しいか。

 つまり、信次にもあいつへの多少の興味があったから、取り巻く状況を感じ取ったわけだ。そのすけべ根性は、そこいらのやじ馬どもと程度は変わらなかっただろう。

 だが、単にすけべ根性だけでもない。あいつに自分と同類の匂いが漂っていることに気づき、心を乱されたというのもある。


 それは、孤独の匂いだ。


 個人的な詮索をしてこない、あるいはされない、いわば素性不明の窓際人間。他人から話しかけられれば対応するが、ことさら心を開くことはしない。

 あいつもそんな孤独な人間に見えたのだ。

 相手に応対した後、長くうつむくしぐさが、そう言っていた。




 信次の場合、交友が欲しくないわけではなかった。ただ、うわべだけで完結する当たり障りのない間柄の人間とは付き合いたくなかった。

 何に関しても無難な断定を好み、自分が陰で嫌われないことを前提に置いてくる人間は、すぐに手のひらを返しそうで信頼できない気がした。

 でもそれは裏を返せば、信次が本音をさらけ出したい相手を欲しているということだ。

 
 いろんな意見を持つ自分を分かってほしい。


 そんな内なる叫びが、常にくすぶっていたように思う。寂しいわけではなく、ただ単に、一日に一度でいいから誰かに認められたかったのかもしれない。

 でもそんな相手、見つかるわけもない。信次自身が素性をさらけ出していないのだから。

 誰だって本心を隠して建前だけで生きていたら、窒息する。本当のことばかり言っていても、人に嫌われてばかりになる。


 だから二つの間での中立を目指そうともがく。

 けれど、それが一番難しい。


 自分を特異な人間と思われたくない、でも相手にはいいように見られたい。己が属する空間でのけものにされたくないあまり、自分なりの最善の方法を探る。

 でも、少し考えた程度では、明確な答えは出ない。少し考えたことであっても、それを実践しさえすれば、光明は見いだせるのかもしれないのに、それを避けてしまう。

 すべては、自分が自分に傷つくことを恐れているからだろう。頭の中で完結させ、分かったようなつもりになる方がよっぽど楽なのだ。

 となれば、あとは逃げの一辺倒しかない。信次であれば、一人の殻にとじこもるしかなかった。傷つくことと引き換えに、孤独を選んだのだ。

 周囲から注視されていないのならば、少なくとも波風は立ちようもない。不完全ながらも、心は平穏状態を保てていたはずだった。だがそんな時にかぎって、目をつけられてしまうのだ。

 沈黙が見破られることなんてないと思っていたのに。



 空間を飛び越えて声を上げることに何の違和感も覚えない。

 自分がどう思われているのか気にもしない。

 ただただ、異質な存在を排除することだけに心血を注ぐ。

 そんな人間に信次はよく捕まった。


 例えば、たまたま合掌をせずに給食を食べ始めたら、食い意地の張っている奴だとレッテルを貼られたことがあった。


「あー、こいつ、何も言わずに食いだしたぞ。意地きたねえ」


 何という残酷な決めつけ。信次としては弁解の余地を与えてほしかったのに、そいつはその失敗を声高に主張した。周囲にも、同調するよう強要していた。

 信次には、そこに迎合して道化になることなど難しく、押し黙ったまま場の空気を悪くするのが既定路線だった。


≪つづく≫

短編小説「孤独の終わりに」 vol.2 (6話完結)

2017-07-27 23:32:46 | 短編小説
 失敗を揶揄(やゆ)された恥ずかしさと悔しさで、己を恨むと同時にそいつをも憎む。

 味方になってくれる者はいないのか。

 相手をたしなめる者はいないのか。


 心で必死に叫んでも誰も助けてはくれない。自分の存在が虚無であることを痛感し、でもそれを認めたくもなかった。

 こういうのを、俗にプライドが高いと言うのだろう。かといってプライドが高いと指摘されるのも気に障(さわ)る。まさに自分本位である。

 それを自覚しながらも、そうなるような立ち振る舞いを露見させ、固定させてしまうのは己自身。窮屈さから逃れられなくなってしまうのは、当然の成り行きであった。

 信次の身だしなみにケチをつけられたこともあった。信次が頭髪のセットのためにワックスを使用していたことを見ぬき、「お前に必要あるの? モテたいの?」と冷やかしてきたのだ。

 当然、周囲にも信次へ注目するよう促していた。

 日頃から交流をしている間柄ならば、冗談だとして切り捨てているのだろう。でも、口をろくに聞いたこともない相手に言われるのは心外だった。


「おとなしいお前が、何アピールだよ? ばっかじゃねえの?」


 繰りかえされる軽口は、どれもひどい言いようだった。周りのクラスメートに笑われているような気もして、いたたまれなかった。

 家の洗面台の鏡の前、頭髪へワックスをもみこんでいた登校前の自分。あの時の自分なんかいなければ良かったのか。前後不覚に陥ったような後悔が、追い打ちをかけてくる。

 自分なりの年頃のおしゃれに、軽く目覚めていた時期だった。それを下手な横好きのように言われ、傷ついたのだと思う。

 それに、何とかして気づいてもらいたいらしい、という誤解を周囲に与えられてしまったことも痛かった。

 信次がワックスを手にしたのは、異性への関心を惹くことも多少はあったけれど、もともとは自分の自尊心を満たすためだった。自己満足だった。

 軽口をたたく奴だってワックスを使うはずだし、信次と大差はないじゃないか。

 だいいち、沈黙している人間はおしゃれになっちゃいけないのか。

 密かに憤(いきどお)った。しかし、言い返したい言葉は声となって出ず、何もかも着ぐるみはがされたような気分になるだけだった。それ以来、信次はワックスを使うことができなくなった。

 会いたくもない、視界に入れたくもない人間がいることは、日々のストレスになっていく。本当は気の持ちようで、どうにでもなる問題なのかもしれなかった。

 だが、意識しはじめるとどうにもだめだった。

 相手への怒りと、自分への怒りがぶつかりあいながら、一日を終える。そんなことを何度も繰り返していくことになる。自滅である。

 では、相手に思いやりがあれば、嫌な指摘を受けても許せるのか、という話になる。信次を尊重した上での言動ならば、納得ができるのではないかと。

 結論から言えば、信次のいたらなさを丁寧に浮き彫りにされているようで、それも受け入れられなかった。

 授業の場に置いて、何かしらの設問が皆に与えられるとしよう。信次のクラスでは、クラスメートが班単位で分かれ、授業中の挙手の回数、発言の回数を班同士で競わせる活動が盛んだった。

 ただ単純に発言すればいいというものでもなく、発言の内容が理にかなっていたか、班員同士が協力し合っていたかなど、実践、気づき、反省、また実践の学習サイクルが求められていた。

 となれば、班内で誰もが平等に解答の機会を得られるよう仕向けることも必要になる。頑(がん)として挙手しない信次のために、班員は手を差しのべることになる。


「はい! はい! はい! はい! はーい!」


 目立つことをいとわない班員の一人が、それ以上指名されないと分かっていながら、班の存在をアピールするためだけに挙手を繰りかえす。教師がそのあまりの熱意に根負けすれば、作戦勝ちとなる。

 そうなれば、後は連携して信次を担ぎあげるだけだ。


「工業地帯が海沿いにあるのは、海運輸送に便利だからだよ。ほら、難しいことはないから。手を挙げて同じこと言ってみて」


 世話焼きの班長は自分の意見を口移ししてまでも、積極的でない班員を奮い立たせようとする。次いで、別の班員が大真面目な顔で身を乗りだしてくる。


「発言をしないのは、息をしていないのと一緒だよ。信次君が何を考えていのるか分からないと、周りは不安になるんだ。少しずつでいい。楽になってみようよ」


 耳もとでそんなことを言われるのだ。信次にとっては、真綿で首を絞められているのと同意だった。ささやき声で人生訓を述べられ、それによって開眼する人などいるのだろうか。


「ああ、もうじれったい。はい、先生! 信次君が手を挙げています!」


 最終的には、信次の隣の人間が信次の右手を強引に引っぱり上げ、挙手をさせる形となる。示し合わせていたかのように、教師が信次を指名。信次は班長から用意された「台詞」を代読することとなる。

 渦中で衆目を浴びる者にとってみれば、拷問のような時間だった。信次は泣くことでしか存在を主張できない赤子のようなもの。それをクラス中に知らしめるのだから。

 手を尽くしてくれた班員に感謝すべきなのだが、いやいや強制させられて、自分の身になるものなんて少しもない。勇気だとか自信だとかにならないのだ。

 毎度毎度、同じことを繰りかえして、自分がみじめになっていくばかりなのに。

 全ては傷つくことを恐れることから始まっている。成功しようが失敗しようが、傷つかないで終わることなんて、この世ではありえない。それを頭では分かっている。

 でもどうしようもなく、逃げようとする習性が心と体に刷り込まれてしまっているのだ。

 自分がまいた種(それも地中深くに)は、誰も掘り起こしてはくれない。問題の解決策が根っこの部分にしかないのならば、泥にまみれても、自らが探しださねばならなかった。

 そんな信次でも、毎週の始まりには、一応の決意を持っていたりする。今週こそは変わろう、周囲に心を開こう、というような。

 でも、何一つできずじまいだった。人間は根本的に変わりようがない。そんなもっともな理屈で自分をごまかしつづけていた。

 結局、いつかのスタートラインに戻りたい、戻ろうよと、自分が自分に懇願してくるのだ。傷つくのが嫌だとか、いいように見られたいだとか、微塵(みじん)にも思わなかった、あのまっさらな地点に。

 だから信次は、転校生のあいつが正真正銘のスタートラインにいることをうらやましく思った。

 あいつが周囲を適当にかわすその処世術のようなものが、やがて頑ななものに変化していくのか、柔軟なものに化けていくのか、その分かれ目を見ている思いだったからだ。


 自分次第で、どうにでも変われる地点にいるぞ。


 あの日始まったばかりの頃、信次はまるで自分を励ますかのように、遠巻きにあいつを望んでいた。




 試験初日の試験科目は、英語、国語、家庭科の三科目。午前の三時限だけで終わる日程だった。その間、あいつは文句を言うでもなく、窓際の一番後ろの席で試験と対峙していたようだ。

 もちろん、試験中にあいつを横目に見たとか、わざと消しゴムをそっち方面に落としたとか、そういうわけではない。

 信次の席は、机が五列横隊で並べられた中央の一番後ろで、左の方を見やれば、あいつを認めることができたのだ。アンテナを伸ばすように、雰囲気を感じ取っていたということだろう。

 後ろの席というのは、教室をわりと俯瞰(ふかん)で見ることができる。試験にあっても密集の中で圧迫されるようなストレスがない分、気楽になれるのだ。

 しかし、気持ちに余裕がなければ、周囲の鉛筆やシャーペンを走らせる音に圧倒され、瞬く間に置いてきぼりを食ったようになる。あの時の絶望感ほど悲惨なものはない。

 その点、その日はプレッシャーに飲みこまれることはないと踏んでいた。英語はもともと得意な方だったし、国語は得意でも不得意でもなかった。

 家庭科は試験よりも実習の成果に成績の比重があった(と記憶していた)し、何より体調も良かった。

 だからなのだろう。あいつから発せられる微弱な「電波」を拾おうとする余裕が生まれたのも。

 緊張感を下げつつ、次に備えて態勢を整えなければならないのが休憩時間だ。あの日、二度ほどあったその機会。一度目、信次はノートを見直すふりをして、視界の隅にいるあいつを薄く感じていた。

 例の情報収集人間たちの向こう側には、座っているあいつがいる。それを頭で理解していながら、あいつを直に見定めることはしない。

 興味のない素振りを見せ、漏れ聞こえてくる情報の断片に耳を研ぎ澄ませる。やっていることは、あいつに群がるクラスメートたちと大差はない。

 存在感の薄い人間の、やじ馬根性の表出の仕方がそれであった。

 手を替え品を替え、そして人員を替え。ひたすら似たような質問をぶつけるやじ馬たち。それでも、あいつから解答が得られたようには感じられなかった。

 質問の後、あの喧噪の中でも空間の谷間のようなものが聞いて取れた。それは、静かながらも確固としたあいつの意思表示であったにちがいない。

 しゃべりたくないのか、しゃべることが苦手なのか。質問者はとまどうばかりだろうが、信次にはそんなあいつが理解できた。

 その理由は互いが同類項だから、という決めつけからでしかなかったが、確かに理解できていたのだ。その証拠に、信次の頭の左側面はショートするように熱くなっていた。

 そうこうしているうちに、いつしか休憩も終わっていく。試験監督の教師が教室に入ってくると、やじ馬たちは岩場に隠れる船虫のように散っていった。

 あいつはいくらか救われた気分になったであろう。

 慌ただしく交錯する人いきれの中、ぼんやりと浮かんでくるあいつ。姿勢をあまり変えないで、うつむいているようだった。

 そういえば、教科書やノートを広げたり、持ち物を鞄の中にしまったりする様子はなかった。やじ馬たちのせいで、試験に対峙するどころではなかったのかもしれない。

 教室内では、ぎりぎりまで試験科目の内容を見直そうとする者もいる。それに比べ、あいつの静的なふるまいは一貫していた。試験監督の恫喝的な声が響いても、それは変わることがなかった。

 あいつにとっての「試験」は、あくまで学習の習熟度を確かめるためのもの。だから結果がどうであれ、本人はそう深刻にならないで済むのかもしれない―――。

 信次は既定の事実を思い返し、勝手にあいつをうらやましく感じた。同時に、あいつ自身でもないのに、妙な安堵を覚えていた。

 あいつへの隠しきれない興味が膨れ上がっていくにつれ、身勝手な感情が止まないでいた。

 最後の試験が行われる前の、十分間の空き時間。信次は一足早い開放感に包まれていた。その時点で残っていた科目は、頭をフルに回転させるほどではない家庭科。

 緊張感の絶えなかった英語や、意外に手ごたえの無かった国語に比べれば、それは心身ともに気楽にさせてくれる存在だった。

 授業のノートとプリントを軽く見かえした後は、机上に残った消しゴムのかすを机の隅に集めたり、シャー芯を補充したり、予備の鉛筆を眺める余裕さえあった。

 それでも、自然とあいつのことが気になりはじめる。あわよくば、取り巻きに囲まれるあいつの姿を、今度こそ見定めようとしていた。しかし、視線を直に飛ばす勇気などもとからなかった。

 結局、朝のホームルームの後に行ったきりだった、トイレへと席を立つことで気を紛らわせていた。




≪つづく≫

短編小説「孤独の終わりに」 vol.3 (6話完結)

2017-07-26 20:07:13 | 短編小説

 だがしかし、その行為の果てに密かな希望をしたためていたことは、白状せねばなるまい。

 それは信次が教室に再び戻った際、自分の席に向かいながら窓際のあいつを堂々と見てしまおう、というものだった。それこそ、すけべ根性の最たるものだった。

 とはいえ、誰にその魂胆を知られているわけでもない。教室内の景色を視界に入れた際、あいつがたまたま映っていればいいだけのことだった。

 だから、罪悪感を持つ必要は何らないと思っていた。その作戦めいたものが失敗に終わった時にだけ、すけべ根性を恥じればいいと思っていたのだ。

 用を手早く足した後、青いタイル壁に固定された鏡をちらりと見やる。トイレ内にいる他の生徒にいぶかられないよう、さりげなく前髪を整えた。

 万が一、教室内で誰かと視線が合った際、冷笑されないようにと(本当のところは、あいつと目が合ったときのための、最大級の保険を掛けていたわけだが)。

 トイレから教室へ戻る間、信次はリラックスしていたつもりだった。でも、廊下で歩を進めていくうちに緊張感が増していった。

 いつもなら、すれ違う同級生をうつむきながらかわしていたのに、その時だけは自ら同級生の姿を認め、ひらりひらりとかわしていたように思う。

 信次は急いで走った後のような息の上がりかたで、開いたままの教室後部のドアから足を踏み入れていた。

 その瞬間、心のどこかで世界が真っ白になるような錯覚を期待していた。つまり、下衆な魂胆が実を結ぶことを。でも、現実の世界は色を失うことなく、そこに流れていた。

 窓際の後ろの方に取り巻きの姿はなかった。もとより、あいつの姿もなかった。あいつが席を外していたのだ。

 白木の机のたたずまいは、どことなく寂しさがあった。丁寧にそろえられた青と銀色のシャープペンシル。紙ケースのついた消しゴム。遠目にも、それらだけが机上で静止していた。

 机の横のフックにかけられている白い紙袋は、風でかすかに揺れていた。所々、地の色が出ている鉄フレーム、それを骨格にする椅子。それはまるでもう引かれることがないかのように、机の下にきっちりと収まっていた。

 それらを認めたとたん、信次の心に小さな安堵と落胆が襲ってきた。

 
 いなくて良かった。

 でも、いてほしかった。

 どっちなんだ。

 
 クラスメートが、立ち止まる信次をいぶかるようにして避けていく。おそらくその瞬間、信次ばかりが、このクラスのどの生徒よりもあいつを意識していたのだろう。

 もはや、すけべ根性を恥じるどころではなかった。あまりの情けなさ、格好悪さに、自分で自分をあざけることしかできなかった。


 ああ、とりあえず席に着かねば。


 信次は邪心を振り払うように、小さく首を横に降った。そして、歩を進めたその直後だった。

 ふっと、腰元を何かに押されたような感覚を受けていた。ただの物というよりは動体。それが、意図的な接触というよりは不意の接触で、背後を通過したような気配がしたのだ。

 こくん、と揺れた上体を下半身で吸収して止める際、鈍い重力を感じたような気がしていた。

 反射的に後ろを顧みる。あいつだった。並びゆく背の低いロッカーの前で、なぜか申し訳なさそうに頭を下げ、信次の背後を行くところだった。

 視線が合っていたわけではない。あっ、と思う間もなかった。あいつは物静かなまま、自分の椅子を引いて席に着いていた。

 信次の身に何が起こっていたのかを理解するまで、数秒の時間を要したのは言うまでもない。

 ほどなくして、いつか見た景色のように取り巻きたちがあいつを囲んだ。そして、硬い表情の試験監督が教室に入ってきて休憩は終わった。

 信次はいつの間にか自分の椅子に座っていて、それまでよりも多く、大胆に、あいつを盗み見ていた。その際、小さな安堵と落胆は、とうに吹き飛んでいたように思う。




 惨敗だった三時限目。ノートにもプリントにも記されていなかったような内容が、問題用紙上にあふれていた。

 解答用紙が前に送られ、回収されている間もずっと、きりきりするような前頭部の痛みを抱えていた。

 ミシン縫いの順序、方法なんて意識したこともない。それはメーカーの機械によってまちまちであり、取り扱い説明書に従うべきである―――。そう、本気で解答しようと思っていた。

 でも良心がとがめ、できなかった。

 唯一、ストレスなく解答できたのは、カロリー計算の問題くらいだったと思う。あれは完全な数学の領域だったから。

 とにかく、完全な油断、対象への見くびりが失敗を招いていた。その日、三つの試験科目の中で、信次への攻撃性が一番高かったのは家庭科であった。

 信次が放心しながら筆記用具をペンケースにしまいだした頃、気だるい解放感が教室内に充満していた。悲喜こもごもの感想が飛び交い、誰もが半日の重しを取りはらおうとしていた。


 あいつはどうだっただろう。


 信次は半(なか)ばやけくそに、その方向を見やった。目が合いませんように、合ったとしてもごまかせますように。卑怯にも、そう祈っていた。

 立ち動く人間たちがうごめく中で、あいつの横顔は途切れながらも見えていた。信次の視界がきれいに開いた時、前の席の女子と言葉を交わしているあいつが鮮明に映った。

 もはやあいつの周囲には、熱心な取り巻きの姿はない。あいつは、ただまっすぐ目の前の女子を見つめていた。

 多少の笑みを浮かべながら、首を傾げたり、口に手を当てたり。ぎくしゃくしながらも、あいつなりの人づきあいの作法を開示していた。

 その雰囲気は、信次が思いこんでいたものよりも柔軟で、身軽な感じがしていた。


 同じ匂いがしたなんて、都合のよい願望だったのかな。


 反省にも似た一念が、信次の心をゆっくりと横断していった。緊張の初日、身構えてしまう取り巻き、急ぎ足の時間の流れ。そんなものが、あいつを一人ぼっちに仕立て上げていただけなのかな。

 だとしても、信次であれば年中そんなものを背負って、それを自覚しながら一人ぼっちになっている。どれ一つとも対峙できずに。

 自分の心配を棚に上げ、他人の心配をする。分かってはいたけれど、その滑稽さが浮き彫りとなっていた。あいつを見ながら、実は自分で自分を見下ろしていたのだということに、気づきかけていた。

 その時、ごつん、という鈍い衝撃が信次の体を揺らした。前の席の男子が、自分の机と椅子のかたまりを無言で信次の机にぶつけてきたのだ。男子の力強い目には、早くしろ、という意思が感じ取られた。

 誰の合図があったわけでもない。だが、どの列からも全ての机と椅子を押し下げる動きが始まっていた。

 掃除の時間だった。帰りのホームルームがない分、直接その時間になるのだった。それと同時に、信次自身も教室の掃除当番の一人であることを急に思い出していた。

 無音の圧力をかける男子に、あいつを注視していたことを悟られていたのかもしれない。信次はそんな焦りもあいまって、一目散に自分の机を下げた。

 例の男子は、自分の机を持ちあげるようにして下げると、信次を一瞥することなく、鞄を手に教室を出ていった。しばらくの間、男子の心中を推測しようと躍起になる己がいたのは言うまでもない。

 そんな中、あいつは律儀にも自分の椅子を机上にかぶせ、ロッカー付近まで後退していた。あいつと言葉を交わしていた前の席の女子の姿は、いつの間にか消えていた。

 あいつはしきりに周囲を気にしていた。帰宅への準備は手早く済ませていたようだったのに。単純に、どうしていいかとまどっているようだった。


 帰っていいと思うよ。


 なぜか信次は、心であいつにささやいてしまっていた。数人のクラスメートも、不思議そうにあいつの様子をうかがっていた。だが誰も、あいつを包囲するようにして接近する、取り巻きほどの行動力は持っていなかったらしい。

 後ろ髪をひかれるような感じで、一人、一人、とその場を後にしていった。

 信次はあいつの存在を全身のどこかで感じながらも、とりあえず掃除に取りかかることにした。

 廊下側の一番後ろにある、背の高いロッカーの扉を開ける。モップ型のほうきを手に取ろうとしたが、すでに出払っていた。

 振り向けば、時間割の表記が消えかかっている黒板の前で、あるいは蛍光灯が映りこむ床板の上で、真面目に勤しむ女子班員の姿があった。

 信次は仕方なく、他の男子班員と同様、人気のない雑巾がけへまわることにした。

 教室の外にある鉄製の雑巾干しから乾ききった雑巾を手に取り、手洗い場で雑巾を絞り、室内に戻る。すると、黙っていても目についてしまうものがあった。

 窓際の後ろで、掃除するクラスメートを見つめているあいつだ。

 掃除当番の班員たちは、特にあいつを無視していたとか、あいつに気づいていなかったというわけではなかった。

 ただ、あいつがあいつの意志なる下で、そこにいることを尊重していたというのが正しかったと思う。

 それこそ、あいつからなにかしらの言動があることを待っていたようなふしもあった。だからなのか、信次は身勝手にもあいつに同情していた。

 あいつがそこで一人にいることになってしまった、その成り行きに。何度もそんな事態に陥った自身の過去を、あいつに重ね合わせてしまっていたのだ。

 信次は心苦しさを感じながらも、目を伏せていた。そして、それとなく男子班員の持ち場を確認し、それこそ空気を呼んで、雑巾で拭くものを探した。

 比較的楽な窓ふきも、次第に面倒くさくなってくるクラスメートの机拭きも空きがなかった。残るは体力がものを言う、床の水拭きしか残っていなかった。

 身じろぎ一つしていないあいつ。命ある静物だからこそ、その立ちつくす姿は目立ってしまう。声をかけた方がいいのだろうと思いつつ、ただ腰をかがめるしかなかった。

 あいつのことを考えまいと、掃除に没頭(本当のところは現実逃避)する自分がいた。

 女子班員の動きから、掃き終えた範囲を推測。控えめに床と壁面の境の汚れを確認。そして、クレームが入りそうにないことを察知すれば、あとは一気に床面を滑っていく。


 線上の傷が、細いものから太いものまで走る床面。それらの一々を、誰がもたらしたものかなんて気にすることはしない。だけれど、ふと真新しかった床面の状態はどんなだったろうと想像する。

 そういえば、試験週間の掃除当番って不公平ではないか。早く帰れたら、その分、遊べた、いや、試験勉強に没頭できたのに―――。


 だめだった。


 むりやりに雑念を湧き起こすことほど、不自然なことはなかった。ぎこちなくても自然体に戻ろう。そう決意して信次が顔を上げた、まさにその矢先だった。


 あいつが動いたのは。


 あいつは、女子班員の一人が床に投げだしていた塵取(ちりと)りを手にし、モップ型のほうきをくねらせるその班員の前で、 膝をついたのだった。

 女子班員は驚いた表情で手を止めていた。だが、あいつの思いをすぐにくみ取り、固めて溜めておいた少量のゴミを、あいつのかまえる塵取りの中へ入れていた。


「ありがとう。あ、ゴミはね、あの赤色の蓋のダストボックスに直接入れちゃっていいから」


 女子班員が優しく言うと、あいつは照れくさそうにうなずき、教壇の横に移動されていたダストボックスの中にゴミを流しこんでいた。

 そして、そのまま女子班員たちにくっつき、適当な間合いでゴミを回収することをくりかえしていた。




≪つづく≫


短編小説「孤独の終わりに」 vol.4 (6話完結)

2017-07-25 22:45:45 | 短編小説
 あいつを見守るような女子班員たちの顔は、どれもやわらかなものだった。クラスに溶け込もうとして起こしたあいつのアクションに触れられて、嬉しかったのかもしれない。

 他の男子班員も手を動かしながら、その光景を長く見届けていた。彼らの胸にも、同様の感情が去来していたのだろう。信次は膝をついたまま、完全に手を止めていた。

 信次が幾度となく起こそうとして躊躇しつづけてきたアクション=行動。あいつは勇気を振り絞る形で、見事にそれを発露させていた。

 信次はあいつのその瞬発力に、そのいさぎよさに魅せられる思いだった。信次にもあんな瞬間はいくつもあったはずなのに、見送りつづけていた。


 勇気を持ち、それを使う覚悟はあるのか。


 そんな直言を今一度、突きつけられたような思いだった。

 少なくとも、あいつはお手本のようなスタートを切っていた。同じ匂いがしたなんて、信次のただの思いすごしでしかなかった。そうはっきりと、確信していた。


「ねー、信次君。そこ、まだ掃いてなかったんだけどなあ……。もしかして拭いちゃった?」


 動きを止めていた信次は完全に面食っていた。あいつと一緒にいた女子班員が、困った顔で聞いてきたからだ。

 信次は一瞬、何のことだか分からず、あいつに定めていた視線を女子班員の方へ慌ててずらしたほどだった。

 信次はその時初めて、不自然な輝きを発する床の表面に気づいていた。とある範囲だけ、ほこりが拭きとられた跡が異様に残っていたのだ。

 すぐさま雑巾を裏面に返した。その異様な黒さに凝視せざるを得なかった。

 あいつは遠慮がちに信次を見ていた。焦ったが、もはや過去に戻れるわけでもない。信次はばつの悪さを感じ、観念して謝っていた。


「ごめん。拭いちゃってた……」


 机を拭いていた一人の男子班員が、ぷっと吹いていた。その男子班員の反応に目を丸くしていたのはあいつ。それは驚きからだったのか、単なる物珍しさからのものだったのか。

 いずれにせよ、いつものこと、というような感じで信次に相対してくる冷静な班員たちの様子は、新入りには異様に映るのかもしれなかった。


「ちゃんと確認してね」

「分かった。気をつける……」


 女子班員は苦笑いしながら、再びモップ型のほうきを動かしはじめていた。あいつは目を泳がせながら、不器用な感じで信次から目線をそらしていった。その瞬間、不可知なことなのに、あいつの心の中を覗いた気分だった。

 それはこんな感じだ。


 信次と呼ばれた男子は変なやつで、事あるごとにどじを踏む存在なんだ。分かりやすすぎるくらいだったけれど、覚えておこう――。


 いや、最後の「覚えておこう」なんて感情は、あいつにはなかっただろう。それは信次自身の身勝手な願望の現れでしかなかった。

 あいつにはいい印象を持っておいてもらいたかったという、嘆願にも似たものだ。

 あいつの目前で恥をかくのは必然だったのかもしれない。あいつを尊重することもなく、早々に同類とみなし、どこか相手を見下したような態度でいたこと。

 それを神様か誰かに見透かされたのだと、信次は邪推していた。

 こそこそと他人を盗み見ながら、実効性も無い、実現もしない指南を妄想し続けていたのだ。信次本体から醸し出された「妨害電波」みたいなものが、遠隔操作によって遠巻きにあいつを傷つけようとしていた。

 それを相手が知らなくても、信次に罪の意識がなければ、その報いは当事者と相対する形で不意にやってくるものだ。罪深さを思い知らされるために。

 となれば、そこでの己の見苦しさ、いやしさからは逃れられない。後悔して、自責の念を覚え、相手への怒りをちらつかせながら、自分への怒りを抱えつづける。信次はまた同じことをくりかえしていた。

 信次は雑巾の汚れを落とすために(本当はその場から逃げるために)、誰を見ることなく立ちあがっていた。

 信次が教室前方のドアの方へ向かうと、なぜか朝見たきりだった担任が顔を覗かせていた。そこにいつからいたのか、見当もつかなかった。

 担任が一連の事の顛末を目撃していたのだとしたら、信次は恥の上塗りをしていたことになる。

 担任は意気消沈する信次には目もくれず、ひび割れた声であいつの名を呼んでいた。あいつからの返事はなかった。


「あのな、掃除は当番が決まっているから今日はやらなくていいぞ。その気持ちだけでも十分、十分。でな、悪いんだけど帰りに職員室へ寄ってくれるか?」


 担任はもちろんのこと、信次すら、あいつから何らかの返答があるものと思って待っていた。だけど、あいつからの返答は何もなかった。

 担任は怪訝(けげん)そうな表情すら見せず、うん、とうなずくだけで、早々に背中を見せていた。

 信次は少なからず驚き、振りかえってあいつの方を見やった。あいつはいつの間にか自分の席に戻り、鞄やら紙袋やらを手中にたぐりよせていた。


 自分の名前を呼ばれても、用件を頼まれても声を発しない、特異な習性―――。


 あきらめの悪い信次が復活。あいつとの同類項をまた探しだそうとしていた。しかし実際は、直前の己の失敗をどうにかして帳消しにしようともがいていただけだった。

 都合の悪い自意識は急にどこかへ飛んでいったりしない。溶けはじめた氷の融解を止められないのと一緒だ。信次はやるせない思いで教室を出ていた。

 洗い場で雑巾をゆすいでいると、背後でたったったっ、という小走りの足音が聞こえ、遠くに離れていった。大荷物を抱えたようなあいつの、廊下を走っている姿が見えた。

 信次はそれをうらめしそうに目で追いかけていた。あいつが角を曲がっていなくなるまで、ずっと。短かった半日が、長く感じられた瞬間だった。


 これから交流する機会はいくらでもあるだろう。

 今の情けない信次を取りつくろう機会だって訪れるかもしれない。

 でも、まちがっても気の置けない存在になるわけでもない。

 勝手にしやがれ。


 信次は憤慨する相手を見誤ったまま、蛇口を全開にしていた。





 雨を落としそうな鉛色の雲。

 あの日の昼過ぎ、それが空一面に渡っていた。それは忘れようもない。信次は校門を出ながら、大気がそれ以上不安定にならないことを望んでいた。

 陽炎が踊らない市街地の渋滞。それを横目に行く頃も、天気は変わっていなかった。

 道中、信次が考えていたことは、翌日の試験科目、それぞれの不安要素について。そして、帰宅後のひまつぶしについて。

 でも、結局それらの思考は長つづきせず、ふがいない午前中の自分と得体の知れないあいつのことを思い返していた。

 信次は白い運動靴の底を滑らせながら、歩道の車道側を歩いていた。それなのに、信次の左側(つまり、さらに車道側)を何台もの自転車がすり抜けていった。

 危ないなあ、と感じながらもようやく気づいていた。信次が歩道上の自転車レーンを歩いていたことを。注意が働かないほど、信次はぼんやりしていたのだ。

 無かったことにできない自らの立ち振る舞い。普段よりも時間があるからこそ、その後悔を引きずることになる。

 気持ちを切り替えることができないまま、翌日に突入することが何よりも怖かった。でも、後悔の振り切りかたを知らなかった。初めての体験ではないのに、悩みもだえていた。


「よう」


 突如、右肩に鈍い圧力を受けた。見れば、信次よりも数センチ背の高い男子が横にいた。掃除が始まる前、机を早く下げろとうながしていたあのクラスメートだった。


 早々に帰宅したはず。
 
 なぜ今ここにいる。

 いつから信次の後をつけてきたのだ。


 信次の頭の中ではいくつかの疑問が錯綜した。だが、それを男子にぶつけることはできなかった。


「ああ、よう」


 信次はぎこちない返事を返しただけだった。それでも、男子はそれに不満を感じている様子はなかった。

 しばらく無言で並び歩いた二人。なぜか意気揚々としていたのは男子。彼とは普段でもあまり話したことがなかった。息がつまりそうになっていたのは、信次だけだっただろう。


「明日、数学と社会と、あと何だったっけ?」


 出しぬけに男子が聞いてきた。相手の質問に何かの作為があるようには思えなかった。だが、信次は警戒を解くことができず、慎重に、慎重に答えをたぐりよせていた。


「たしか、たしか、保健体育だったと思う。ちがっていたらごめん」

「そうか。じゃあ一応、自分でも確認しとく」


 男子はそう言うと、右肩にかついでいた鞄を左肩にかつぎ直していた。いきおい、鞄は信次の右上腕に当たった。それは明らかに意図的だったように思う。


「じゃあな」


 男子はそう言うと、片側二車線の道路に架かる、歩道橋の階段を上っていった。信次が男子の尻のあたりを見上げている間、相手は一度も振りかえることがなかった。

 信次は不思議な気持ちに包まれたまま、階段の脇を歩きはじめることしかできなかった。


 ここで道路を渡るってことは、意外と近所に住んでいるのかな。
 
 それにしても、なぜ声をかけてきたのだろう。

 からかうことでも企んでいたのかな。


 今しがたの男子の様子を思い返すにつれ、信次の謎は深まるばかりだった。ただ、うまく対応できずにしくじった、という、おなじみの自責の念はなかった。

 それよりも、しだいに心の奥底でざわついていったものがある。それはかすかな清涼感、と言うべきもの。相手方を、そして今しがたの自分を何度も再現したい。そんな願望にとらわれていった。

 信次はマンホールの蓋を踏みながら、高揚感を隠しきれなかった。何かが控えめに始まりそうで、心が震えそうだった。

 相手が信次にもたらしたものを、何でもいい、感じたかったのだと思う。下り側の階段の前に出たら、歩道橋上にいる男子の姿を見てやろうと心に誓っていたほどだ。

 急く気持ちを落ち着かせることはできなかった。歩道橋を支える白い円柱を、急ぎ足で追い越していた。

 しだいに、水色の階段の側面が角度をつけて下ってくる。階段の底部を支える、かさ上げされたコンクリートの段が、日陰の中でも膨張して見えた。信次は固唾をのんでその時を待った。

 薄いえんじ色に塗られたアスファルトが途切れた瞬間、ななめ左上を仰ぎ見た。横に伸びる水色の鉄板、その上に並ぶ格子状の手すり。

 手すりから上には、水平移動する男子の後頭部が見えているはずだった。

 でも、見えていたのは湾曲して垂れる電線や、ビルの谷間の曇り空だけだった。視界を狭める窮屈な角度から脱しようと、足もとをあまり見ずに距離を稼いだ。そして何度も仰ぎ見た。

 それでも、男子の姿は見えなかった。

 歩道橋を駆け渡り、駆け下りた後だったのか。道路の反対側を見ても、渋滞の車列の隙間を覗いても、それらしい人間はいなかった。信次は放心状態のまま、後ずさりするように歩道上を移動していた。




≪つづく≫

短編小説「孤独の終わりに」 vol.5 (6話完結)

2017-07-24 23:17:32 | 短編小説
 ほどなくして、信次の背中に細い棒状のものが食いこむように衝突してきた。あまりの衝撃の大きさに我に返り、後ろ向きの歩行をやめた。

 前に向き直って認めたものは、バス停の黄色いポールと、そのポール越しにバスを待っていた、あいつだった。

 一瞬何が起こったのか分からなかった。確かなことは、歩道上の屋根の無いバス停留所に、バスを待つあいつがいたということだけ。

 あいつは朝、教室に入ってきた時と同じ格好、同じ姿勢で直立していた。驚いた顔で、信次を見つめてもいた。


 なぜここにいるんだ。 
 
 しかもバスに乗ろうとしているのか。

 どこへ行こうとしている。


 事態をうまく飲み込めなかった。他人から見れば、奇行とも取れる信次の後進。それを目撃されていたことは、ひとまず考えないようにした。

 掃除の時間に嫌というほどみじめな思いをしていたし、放っておいてもじきにいつもの心模様になると思ったからだ。

 それよりも何よりも、信次の胸中にうずまく疑念の方を払拭したかった。

 停留所の行き先の表示は、最寄りのJRの駅名を示していた。信次の通う中学校の生徒は皆、徒歩通学。むろん、定められた学区内に住む家がなければ通学できない決まりだった。

 聞きたいことが山のようにあふれ、でも何一つ口にすることができなかった。中途半端に相手を見知っていればこそ、ぎくしゃくした雰囲気が生まれるもの。信次はその空間にはまっていた。

 そんな中、意外にも先に口を開いたのは、あいつの方からだった。


「さっきはどうも」

「え?」

「教室で掃除していた時に……」

「あ、ああ。そうだね。どうも」


 スカートの前で両手を結び、そこから白い紙袋を下げ、首だけを横に向けていたあいつ。信次が頭をかきながら会釈すると、あいつは恥ずかしそうにうつむいた。

 良くも悪くも、信次はあいつに記憶されていたということだ。信次があいつのことを記憶していたのと同様に。

 でも両者で決定的に異なるのは、互いの記憶の時間の長さであろう。信次は朝からあいつを意識していた。一方のあいつは、いつから信次を意識していただろうか。

 あいつの言葉を鵜呑みにすれば、それは掃除時間の間だけ、ということになる。三時限目の前のあのニアミスなど、もとから頭になかったということだろう。

 それならば、あの短い間の中で信次という人間を知ったというのならば、それは誤解が多い。あれが信次のすべてではない。信次はあいつにそう言いたかった。

 とはいえ、信次だってあいつの何を知っていたというのだろう。盗み見ていただけのやじ馬でしかなかった。直接言葉を交わしてもいないのに、相手を知ったような気でいた。

 結局、心の中で右往左往し、いいように見られたいという願望に行き着いていく。信次はいつもの悪あがきをしているに過ぎなかった。

 あいつは特段、掃除時間の信次について言及するわけでもなく、半日の感想を述べるでもなかった。ただただ、押し黙ったままだった。

 バス停に他に人はおらず、国道の遠くを見やってもバスの来る気配はなかった。じりじりと進む車列から、アイドリングストップ機構を作動させる音だけが、勃発的に響いていた。


「あの……」


 あいつのひかえめな声がかすかに聞こえた。信次はのどに異物がひっかかったようになって返答できず、首を傾げただけで終わっていた。

 ためらうような表情をみせるあいつ。嫌な印象を与えてしまっただろうか。信次はすぐに不安に駆られた。

 でもそれは杞憂に終わっていた。

 あいつは一度、何でもないというように首を振り、そこから思い切ったように白い紙袋の中へ手を入れていた。そして、折り畳まれた一枚のプリント用紙を取りだしたのだ。

 あいつは紙袋を地面に下ろすと、信次にもよく見えるよう、青白い紙を広げた。見覚えのある名前の羅列、なじみのある数字の順番。それはクラスの出席簿のようなものだった。


「あの、名前を……」


 あいつは信次に紙を差し出すようにして言った。信次の名前がどこにあるか、指し示してほしいということだった。

 直接名前を聞くこともできただろうに、一枚の紙を介して確認しようとする姿勢。あいつなりに、恥ずかしさをふりはらって、意を決した思いが伝わってきた。何だかあいつらしい。信次はそう、勝手に思っていた。

 信次は右の人差し指で、自分の名前をなぞり、あいつに教えた。


「……かさき、信次君、あ、信次さん」

「ていねいに言わなくてもいいよ。名字でも下でも、呼び捨てでもかまわないし」

「そうですか……」


 信次の名前を丁寧に言い換えたあいつは、初めて慌てた様子を見せていた。小さな感情の現れだったが、あいつの人間らしさを垣間見た思いで少し安心した。


「わたし引っ込み思案で、最初のほうがいつも慣れなくて。ごめんなさい」

「え……? ああ、いいよ、それくらい。謝るようなことじゃないよ」


 信次は驚いていた。あいつが自分で自分の弱点を認めていたことに。それは、信次にはなかなかできないことだった。

 引っ込み思案、という表現。

 信次の場合、それが事実でも自分を貶(おとしめ)るようで言えなかったと思うのだ。一発で見抜かれるもろい部分を、わざわざ念押しすることはない。同情が働いたところで、相手が己の性格を瞬時に変えてくれるわけでもない。

 事実を認めたくないからこそ、放っておいてほしい部類のものだった。

 それなのに、あいつは堂々と人に伝えることができていた。信次と同様にやっかいなことだと俎上(そじょう)に乗せても、そこから逃れられないことを認めているようだった。

 だからなのだろう。あいつのことを裏表がない人間なのだと思ってしまったのは。その証拠に、あいつに対して、笑ったり(愛想笑いだけれど)、なんとか言葉を繰り出したりする信次がいた。


 近しく付き合っていけるような相手でないと、そうはならないのではないか。

 だいたい、初対面ってどういう意味だっけ。


 誰かに問いたい気分だった。警戒心が薄らいでいた。それだけは確かなようだった。
 
 話はそれ以上弾まず、どうしても間が空いてしまう。あいつは手にしていた紙の、信次の名前の付近をずっと見つめていた。今度は信次が声をかける番だと、思い切った。


「バス、乗るんだ」

「はい?」

「うちの中学でバス乗る人、珍しいから」

「あ、そうなんですか。バスは、その……」


 口ごもってしまったあいつ。聞いてほしくない質問だったことは、それで明白だった。いつものように墓穴を掘った信次。幻想の中では、うまくいく結果だけを想像していた。

 現実には結果の前に過程がある。過程をおろそかにしてしまえば、望む結果も生まれない。

 相手のことを聞く前に、自分のことをさらけ出すのが道理だった。信次は火の出る勢いの表情で謝るしかなかった。


「ごめん、いきなり変なこと聞いて。俺はもうこの辺に、すぐ近くに住んでる。ここから、ほんの十分くらいのとこ」

「え? ああ、そうなんですか……」


 ますます戸惑うあいつ。信次は欲する解答が得られないまま、自分の発言が見当ちがいであったことにようやく気づいていた。でも、取りつくろい方を知らなかった。

 にわかに渋滞の流れが速くなっていく。いらだつような排気音が、そこらじゅうで収束しつつあった。

 あいつは紙を手にしたまま、前髪を何度も整えていた。鞄を持つ右腕が棒のようになっていたのは信次。左手に持ち変えようとしたが、それすらもはばかられる空気がそこには流れていた。どうしたものか、困り果てていた。

 そんな時、あいつは一つの咳払(せきばら)いをはさんだ。そして、リュック型の鞄を揺さぶるように背負い直し、焦点を定めないようにして前へ向き直った。


「今回こそは、と思うんだけど、だめで。また、ここでも耐えられなくなるかもしれない」


 あいつは急に、一節一節を丁寧に、しかも思いを込めて話しはじめた。


「え?」

「居場所が作れないかもしれない」

「居場所?」

「どこにあるんだろうって、いつも思ってたの。でも、そんなのどこにもなかった。自分で作るしかないって分かってたけど、できなかった」


 独白のようなあいつの発言に、信次は圧倒される思いだった。同い年の女性の意志の強さを、こんなにも間近で感じたことはなかった。信次の右腕は音を上げ、鞄をアスファルトに落としていた。


「せめて、皆と同じことを一緒にやってみようって努力したの。みんなの輪の中にいれば、連帯感が生まれて、認めてもらえることができると思ったから。だけど、失敗したり、ぶざまな姿を見せるのが苦しくなって、気づいたらついていけなくなってた」


 あいつはそこまでで、本当に苦しそうに悲しそうに、気持ちを告げてくれていた。信次ならば、自分と向き合う時にだけ、吐露しているような内容だった。

 とてもじゃないが、他人に打ち明けられる種類のものではなかった。


「だから、バスに乗っているんだと思う」


 あいつは再び信次の方へ顔を向けた。

 何かに負けまいと必死に抗するまなざしで、信次を見ていた。


「答えになっていないかな?」


 それに対して、信次は力なく首を横に振っていた。


 答えになっていようがいまいが、どうでもいい。


 信次の胸は、針で何度も突き刺されたみたいに痛かった。

 保身のために毎日を生き、自分が傷つかないことを最優先にしていた己を恥じた。少なくとも、あいつは信次と同類項ではなかった。

 挑み、傷つき、また挑み。それを繰りかえしていたのだから。

 転校してきた理由だとか、時期だとか、蠅のように群がって知ることではなかったのだ。明らかになった真実めいたものに、信次は呆然とするしかなかった。自分の鞄の端を踏んでいたのにも、しばらく気づけなかったほどだ。


「でもね、掃除時間の時に」


 あいつはそう言って、もったいぶるように発言を区切った。信次は必死の思いで、二度うなずいていた。一言も聞き漏らすまい。そう感じさせるものが、あいつの発する言葉にはあったのだ。




≪つづく≫