普通科に通う自分にとって、大学受験はいまだに遠い未来の話だと思っている。受験は一年後のことだし、大体それで人生の大半が決まってしまうかのような最近の周囲の煽りにはへきえきしてしまう。
私のまわりでは夢や目標を捉えて大学に行こうなんて同級生は少数で、大半がとりあえずとか、流れにのってとかそんな感じだと思う。つまり、生きていくための確かな動機を持っていない高校生が多くいるということなのだ。私もその中の一人なのだ。
このことについて大概の教師は一緒のことしか言わない。「目標がないって言うのは現実逃避っていうの。なんにも考えたくないだけでしょう? 考えている人は何らかのアクションを起こしているというのに。今を真剣に生きないで幸せな未来はやってこないということを受けいれられないなんて嘆かわしい」、
なんて苦言を呈してくる。親も、私の場合は父親だけど、やはり同様のことを言ってくるし。
たとえそれらが真理を唱えているとしても、私たちの個を見つめてくれないままで語るのは一般論をかざしている風にしかみえない。まだ街で通りすがりの見ず知らずの大人に同じことを言われた方が私は耳を傾けると思う。赤の他人の方が私をよく知っとる! って劇的な錯覚を起こしたいからなのだろうけど。
そこまで考えると机につっぷして目を閉じた。ああ、自分って素直じゃない、かわいくない。きっと心にうるおいが足りんのんよね。わかっとる。わかっとるんよ……。
自分で自分がいやになる瞬間がまた今日もやってきてしまった。
どうしてか自虐的になってしまい、なにもかも投げだしたいと思ってしまう。でもそうする勇気すらないのも自分で知っている。ね、こうやってまた振り出しに戻るの。
どうすればいいんじゃろう。結局、目先の目標を見つけられないのならば、今を淡々と生きるしかないんかなって強引に結論づけるんじゃけど。
こめかみの辺が窮屈そうに脈打つのを感じていると、部屋の外でパタパタと足音がするのがきこえてきた。母が買い物から帰ってきたのかもしれない。スヌーピーの絵柄が入った白い壁かけ時計をうかがうともういい時間だった。
「亜佐美、バイトに行くんじゃないん? もう四時半になりよるよ」
上体を起こして振りかえると、うす緑のビロード地の上下ジャージを着た母が部屋のドアを開けて入ってきたところだった。私は「もう行くところ」、と言いながらもその瞬間から出かける準備をせわしく始めていた。
通学用の鞄からタオルと携帯電話と身だしなみセットを取りだして、ベッドの上にほうり投げていた茶のメッセンジャーバックの中に移しかえる。それから母の目を気にしつつ素早く制服を脱ぎ、母が着ているのよりずっと上品なアディダスのジャージとジーンズに着替えていく。
その間、母は私の行動を微笑しながらじっと見つめていた。母親とはいえ、着替えを見つめられるのは少し恥ずかしいものがある。
「なーに?」
「下着、Tシャツに透けとるよ」
母は自分の胸のあたりをぽんぽんとたたきながら、表情を変えずにいる。私は上着のジャージの下に着ていた白いTシャツの胸元を、首を垂れて見てみてた。なるほど、黒い下着のラインが何となく透けているらしかった。
「恋でもしとるんね?」
私より身長が一センチほど高い母はおどけた様子で私の顔をのぞきこんでくる。左胸がくん、と優しくしめつけられる。
恋という言葉には聞くだけで気持ちをざわつかせる妖しい響きがあるのを私は感じていた。私は質問には答えず、母の顔を見やりながらジャージのジッパーを首もとまであげてみせた。
「これで見えんでしょ。だいたいねぇ、黒い下着をつけとる女子高生が皆恋に落ちとるわけないじゃろ」
「それはそうじゃけど。ね、できたん?」
「なにが?」
「だから好きな人よ」
「おらんわよ」
「あら、そうなん? まあ、おってもおらんって言うわよね」
「なにかいいことでもあったん?」
「べつにないわよ」
「なんよ、気味悪いんじゃけえ」
私はそう言うと、自然にふふっと吹きだしてしまった。メッセンジャーバッグを引きずるようにたぐりよせて右肩にかけ、勉強机の上から模試の成績表もつかみとる。
見せないつもりだったけれど、この状況では黙っていても母の目には止まってしまうだろう。私は母の鼻を指でつまんだ。
「あら、だに? 模試の結果か出だん?」
「サザエでございまぁす、って言ってみて」
「ササヘてこたいまぁす」
母は私がひらひらさせている成績表をつかもうとしながら、おばかな真似を披露してくれた。いつも、母はフレンドリー。最近はあんまりきつく怒られた記憶がない。
怒っても最後はほとんど笑顔で終わるようにしてくれる。私が二日ぐらい無視されてもいいような愚かな素行(門限を平気で無視するようになったり、なにかと言い訳をしたり、人の陰口を公然としゃべったり、など)を犯しても、母は一言、二言お灸をすえるだけで、それ以上何も言わないでくれる。
全てが救われる瞬間がそこにはあって、私は意味もなくそれを求めることがある。だから私は年中、母に甘えている気さえする。
私は肩を震わせて笑っていたが、いい加減に赤くなってきた母の鼻に気づき、潔くそこから手をはなした。
「もう、慢性鼻炎なのに。ひどいことするんじゃね」
「ごめんね。でもそっちもノッたけえよ」
私は首を斜めにかたむけておどけてみせた。母に模試の結果を見せても怒られないとわかっていた。でもその内容は自慢できるものではないので、無意識にご機嫌とりをしていたのだ。
これは学業の力を本格的に試されるようになった小学校の時分からの卑怯な癖だと自覚している。母は鼻の頭をなで、頬に小さなえくぼを作りながら私の指先から成績表を取り去ると、目をときおり細めながらそれに見入っていった。
「ふつうじゃろ、可もなく不可もなく」
私は母が言いそうな感想を先回りして答える。母はしばらく黙っていたが、「そうねえ」とだけ答えてくれた。母の顔にはあきらめをふくんだような笑みだけがある。
しょうがない子ねえ、って言いたいのだとは思うが、私が大学受験に向けて積極的でないことを母は知っている。
「来年受けるつもりなんね? こういう大学」
「適当に挙げてみただけよ。二者面談で先生と話を合わさんといけんもん」
「……疲れるじゃろう。そういうの」
母はぽつりとそう言うと、しばらく私を見つめてから成績表を私の手の中に返してきた。おそらく今、私はまた母の甘えの中にいる。
居心地のいい、それでいて常に申し訳なさが身体全体についてまわる感覚。私は力なく成績表をつかんで、なんとはなしにゴシック体の文字群をながめた。
母は私の考え方に同調するでもなく、反対するでもない。それでいて指摘したいことは山のようにあるのだと思う。でも、それらは私自身が悟るべきことであるとしてあえて語らないのだろう。
私という人間全般を尊重しているというよりも、大人として扱ってくれているという方が正しいのかもしれない。だけどね、お母さん。私にはこの先、何の希望も夢も抱けとらんの。そんなだからあわよくばお母さんにその行く先を聞きだしたいとさえ考えとるんよ。知っとった? 私は心の中から母にそう投げかけて顔を上げた。
「お父さんにもちゃんと見せんさいね」
「ええっ……」
「ただでさえお父さんと顔を合わそうとせんのんじゃろう。やることはやっとるっていうところを示さんとだめようね」
「お母さんが見せといてよ。お父さん、がみがみねちねち言ってくるんじゃもん」
「あんたのことを思って言うてくれとるんよ。それにね、あんたが普段から可愛げにしておけばこそこそする必要なんかないんよ」
ここまでくると、私はただのだだをこねる少女と変わらない。母の視線はやわらかながらも重く、もう何を主張しても受けつけない構えだ。観念した私は、「わかったわよう」と力なく答えると成績表を勉強机の上に置いた。
無論、父にこの成績表を見せる気など毛頭なかったが、このことですら母はすでに見破っているだろう。私は髪をゴムで束ねると息をついた。
「もう行くけえね」
「ご飯は?」
「食べて帰るようだったら早めにメール入れるわ」
「了解。じゃあ気をつけて行ってきんさいね」
「うん」
母はにこやかな顔を見せると、背をむけて奥の寝室へ消えていく。母と接した後の私の気持ちはいつものようにおだやかになっていたが、むなしさも同居していた。
晴れない心を置き去りにするように、だだだっと階段を下りて玄関でスニーカーをつっかけると、居間から走ってきたガロの体をごろごろなでて家をでた。
《おわり》
私のまわりでは夢や目標を捉えて大学に行こうなんて同級生は少数で、大半がとりあえずとか、流れにのってとかそんな感じだと思う。つまり、生きていくための確かな動機を持っていない高校生が多くいるということなのだ。私もその中の一人なのだ。
このことについて大概の教師は一緒のことしか言わない。「目標がないって言うのは現実逃避っていうの。なんにも考えたくないだけでしょう? 考えている人は何らかのアクションを起こしているというのに。今を真剣に生きないで幸せな未来はやってこないということを受けいれられないなんて嘆かわしい」、
なんて苦言を呈してくる。親も、私の場合は父親だけど、やはり同様のことを言ってくるし。
たとえそれらが真理を唱えているとしても、私たちの個を見つめてくれないままで語るのは一般論をかざしている風にしかみえない。まだ街で通りすがりの見ず知らずの大人に同じことを言われた方が私は耳を傾けると思う。赤の他人の方が私をよく知っとる! って劇的な錯覚を起こしたいからなのだろうけど。
そこまで考えると机につっぷして目を閉じた。ああ、自分って素直じゃない、かわいくない。きっと心にうるおいが足りんのんよね。わかっとる。わかっとるんよ……。
自分で自分がいやになる瞬間がまた今日もやってきてしまった。
どうしてか自虐的になってしまい、なにもかも投げだしたいと思ってしまう。でもそうする勇気すらないのも自分で知っている。ね、こうやってまた振り出しに戻るの。
どうすればいいんじゃろう。結局、目先の目標を見つけられないのならば、今を淡々と生きるしかないんかなって強引に結論づけるんじゃけど。
こめかみの辺が窮屈そうに脈打つのを感じていると、部屋の外でパタパタと足音がするのがきこえてきた。母が買い物から帰ってきたのかもしれない。スヌーピーの絵柄が入った白い壁かけ時計をうかがうともういい時間だった。
「亜佐美、バイトに行くんじゃないん? もう四時半になりよるよ」
上体を起こして振りかえると、うす緑のビロード地の上下ジャージを着た母が部屋のドアを開けて入ってきたところだった。私は「もう行くところ」、と言いながらもその瞬間から出かける準備をせわしく始めていた。
通学用の鞄からタオルと携帯電話と身だしなみセットを取りだして、ベッドの上にほうり投げていた茶のメッセンジャーバックの中に移しかえる。それから母の目を気にしつつ素早く制服を脱ぎ、母が着ているのよりずっと上品なアディダスのジャージとジーンズに着替えていく。
その間、母は私の行動を微笑しながらじっと見つめていた。母親とはいえ、着替えを見つめられるのは少し恥ずかしいものがある。
「なーに?」
「下着、Tシャツに透けとるよ」
母は自分の胸のあたりをぽんぽんとたたきながら、表情を変えずにいる。私は上着のジャージの下に着ていた白いTシャツの胸元を、首を垂れて見てみてた。なるほど、黒い下着のラインが何となく透けているらしかった。
「恋でもしとるんね?」
私より身長が一センチほど高い母はおどけた様子で私の顔をのぞきこんでくる。左胸がくん、と優しくしめつけられる。
恋という言葉には聞くだけで気持ちをざわつかせる妖しい響きがあるのを私は感じていた。私は質問には答えず、母の顔を見やりながらジャージのジッパーを首もとまであげてみせた。
「これで見えんでしょ。だいたいねぇ、黒い下着をつけとる女子高生が皆恋に落ちとるわけないじゃろ」
「それはそうじゃけど。ね、できたん?」
「なにが?」
「だから好きな人よ」
「おらんわよ」
「あら、そうなん? まあ、おってもおらんって言うわよね」
「なにかいいことでもあったん?」
「べつにないわよ」
「なんよ、気味悪いんじゃけえ」
私はそう言うと、自然にふふっと吹きだしてしまった。メッセンジャーバッグを引きずるようにたぐりよせて右肩にかけ、勉強机の上から模試の成績表もつかみとる。
見せないつもりだったけれど、この状況では黙っていても母の目には止まってしまうだろう。私は母の鼻を指でつまんだ。
「あら、だに? 模試の結果か出だん?」
「サザエでございまぁす、って言ってみて」
「ササヘてこたいまぁす」
母は私がひらひらさせている成績表をつかもうとしながら、おばかな真似を披露してくれた。いつも、母はフレンドリー。最近はあんまりきつく怒られた記憶がない。
怒っても最後はほとんど笑顔で終わるようにしてくれる。私が二日ぐらい無視されてもいいような愚かな素行(門限を平気で無視するようになったり、なにかと言い訳をしたり、人の陰口を公然としゃべったり、など)を犯しても、母は一言、二言お灸をすえるだけで、それ以上何も言わないでくれる。
全てが救われる瞬間がそこにはあって、私は意味もなくそれを求めることがある。だから私は年中、母に甘えている気さえする。
私は肩を震わせて笑っていたが、いい加減に赤くなってきた母の鼻に気づき、潔くそこから手をはなした。
「もう、慢性鼻炎なのに。ひどいことするんじゃね」
「ごめんね。でもそっちもノッたけえよ」
私は首を斜めにかたむけておどけてみせた。母に模試の結果を見せても怒られないとわかっていた。でもその内容は自慢できるものではないので、無意識にご機嫌とりをしていたのだ。
これは学業の力を本格的に試されるようになった小学校の時分からの卑怯な癖だと自覚している。母は鼻の頭をなで、頬に小さなえくぼを作りながら私の指先から成績表を取り去ると、目をときおり細めながらそれに見入っていった。
「ふつうじゃろ、可もなく不可もなく」
私は母が言いそうな感想を先回りして答える。母はしばらく黙っていたが、「そうねえ」とだけ答えてくれた。母の顔にはあきらめをふくんだような笑みだけがある。
しょうがない子ねえ、って言いたいのだとは思うが、私が大学受験に向けて積極的でないことを母は知っている。
「来年受けるつもりなんね? こういう大学」
「適当に挙げてみただけよ。二者面談で先生と話を合わさんといけんもん」
「……疲れるじゃろう。そういうの」
母はぽつりとそう言うと、しばらく私を見つめてから成績表を私の手の中に返してきた。おそらく今、私はまた母の甘えの中にいる。
居心地のいい、それでいて常に申し訳なさが身体全体についてまわる感覚。私は力なく成績表をつかんで、なんとはなしにゴシック体の文字群をながめた。
母は私の考え方に同調するでもなく、反対するでもない。それでいて指摘したいことは山のようにあるのだと思う。でも、それらは私自身が悟るべきことであるとしてあえて語らないのだろう。
私という人間全般を尊重しているというよりも、大人として扱ってくれているという方が正しいのかもしれない。だけどね、お母さん。私にはこの先、何の希望も夢も抱けとらんの。そんなだからあわよくばお母さんにその行く先を聞きだしたいとさえ考えとるんよ。知っとった? 私は心の中から母にそう投げかけて顔を上げた。
「お父さんにもちゃんと見せんさいね」
「ええっ……」
「ただでさえお父さんと顔を合わそうとせんのんじゃろう。やることはやっとるっていうところを示さんとだめようね」
「お母さんが見せといてよ。お父さん、がみがみねちねち言ってくるんじゃもん」
「あんたのことを思って言うてくれとるんよ。それにね、あんたが普段から可愛げにしておけばこそこそする必要なんかないんよ」
ここまでくると、私はただのだだをこねる少女と変わらない。母の視線はやわらかながらも重く、もう何を主張しても受けつけない構えだ。観念した私は、「わかったわよう」と力なく答えると成績表を勉強机の上に置いた。
無論、父にこの成績表を見せる気など毛頭なかったが、このことですら母はすでに見破っているだろう。私は髪をゴムで束ねると息をついた。
「もう行くけえね」
「ご飯は?」
「食べて帰るようだったら早めにメール入れるわ」
「了解。じゃあ気をつけて行ってきんさいね」
「うん」
母はにこやかな顔を見せると、背をむけて奥の寝室へ消えていく。母と接した後の私の気持ちはいつものようにおだやかになっていたが、むなしさも同居していた。
晴れない心を置き去りにするように、だだだっと階段を下りて玄関でスニーカーをつっかけると、居間から走ってきたガロの体をごろごろなでて家をでた。
《おわり》