女子高生達一団の笑い、サングラスをかけてガムをかむ若い女性の態度。たった十数分の間に二度も思いがけず心をかき乱された私は、一体どんな表情でファッションビル一階のティーショップへ吸いこまれたのだろうか。エスプレッソやドーナツの揚げ物のにおいが混在する店内に入ったとたん、生気を取りもどさねばならないような錯覚におちいる。
現実最優先、過去はとりあえずどうでもいい。私はパンプスの中のつま先をすぼめ、何度も髪に手ぐしを通した。
店内には丸いガラステーブルとそれを囲むオレンジ系の二人がけソファのセットが規則正しく点在している。それぞれ若い女性客ばかりが陣取り、ほぼ満席だった。それらからは言葉として聞き取れない言語が、気圧されるほどではない熱気をともない、天井へ立ち上っているようだった。ありもしない刺されるような視線を感じながら店内を見渡す。飲食物を注文するより先に、まずは志乃を探さねば。
「のぞみぃ、ここよ。ここ」
明るく軽快な声。難なくレジにほど近い場所の席から両手をふっている志乃を発見できた。笑顔の志乃だ。私は手をふりかえすと、矢のごとく彼女のもとへ急いだ。
「おはよう。ごめーん。待ったじゃろう」
「おはよう。ぜんぜん待っとらんよ。さっき着いたばっかりじゃし。あ、席ここでよかった?」
「ああ、ええよ。今日も人が多いね。いやあ、元気かね」
「なんねえ、オジサンみたいに」
くすっと笑う志乃の対面に腰を下ろすと、自分が自分じゃないみたいに勝手ににやけてしまうから不思議だ。今日の志乃はレイヤードの紺のチェックの長袖シャツに、真っ白のティアードのスカートといういでたちだった。地味に見えて実はかわいい。女の子の体のラインが出ていて正直にいいなと思う。
「そのシャツの襟先、丸くてかわいいねえ。うちもそういうの欲しい」
「ありがとう、でもね。この襟のデザインって時代性じゃと思うよ。姉のお古じゃもん」
「ええ、そうなん? いやっ、見えんよう。お姉さんっていくつ上じゃったっけ?」
「五つ上」
「じゃあ、今は二十二歳よね? へえ、物持ちええんじゃね。あーあ、姉妹で服を共有できるなんてええわ。あこがれるわ」
「そりゃあないものねだりっていうんよ! 実際はあれが気に入らんじゃここがダサいじゃ、お互いの持ち服にケチつけるだけじゃけえね。かと思えば、着るもんが無いってわめき散らしといて、相手の服ちゃっかり借りたりしてね。ほんま嵐のようよ」
「じゃあ聞いてくれる? うちなんか母さんと共有よ? ひどいときなんかうちの下着用のブラトップをカーディガンの下に着て出かけよるんよ。それ下着用じゃってようるのに、聞かんのんよ。誰も悩殺されんのに」
「かわいいじゃーん、希美のお母さん。素敵よ、そっちんが。長い世代を超えて同じものを身につけられるんよ? その点うちの母さんはふくよかじゃけえね。最初から無理じゃもん」
志乃は浮き輪を腰の周りで回すようにしながら言うと、自分で大ウケしている。志乃のお母さんの体型を真似てみたのだろう。私もつられて笑い、「一人っ子じゃもん、姉妹愛には興味がつきんもん」とかえすと、お腹の前に抱えていた不可視の浮き輪を私の頭上からすっぽりかぶせてくれた。
「それあげるっ。注文してくるわ。いつもんでええよね?」
「うん、お願い」
席を立った彼女の後姿はスカートが若干めくれ上がり、くっきりとした白いひざ裏が唐突に見えるどきりとするものだった。私はスカート……、と密やかな声を出して彼女に知らせようと考えたが、すんでのところで彼女を辱しめるのではないかと、さらには自分をも辱しめるのではないかと心配になり、やめた。
今もこうして心の葛藤というやつが私の体にざっくりと刻まれていく。
通常であればしばらくの間、全身にはびこりつづけてしまう。テレビで青い舌を持つ爬虫類を見て、それを脅威に感じたことは無理やりその場で忘れ去ることができるのに、こればかりは瞬時にぬぐいされない。決まって葛藤のなかに踏みこんでいってしまうのだ。
とはいえ、志乃に対してはこのうろたえているような自分を見せて、聞かせているつもりだ。その結果、希美ってさぁと冷やかされ、そんな、そんなんじゃないよウチは、と反論しながらもその瞬間を楽しむ自分がいるというのも事実だ。って、こんなこと何回も確認しよるんよね、最近。
この心の葛藤というか、ためらい? みたいなものは二十歳を越えて成人になって、結婚して子供を産んで、想像もしたくないけどおばあちゃんになって、それでも持ちつづけてしまうのだろうか。いつかいっぱいいっぱいになって自分が破裂するのではないか。今からそんな心配ばかりしてしまう。いつものことだけれど。どうしようね、志乃。
「うつろな目じゃね」
やわらかいトーンの幼い声がにわかに聞こえた。ピッツバーグドーナツとメンフィスエスプレッソが満載されたベージュのトレーがガラス机の上に滑りこむ。うつろじゃないよ、と言いかけたら目前にいたのは志乃ではなかった。
年のころ、恐らく十四、五歳の少女だろうか、肩までの黒髪をゆらしながらこちらを見つめ、断りもなくソファにこしかけてきた。インナーに銀のドクロのプリントが入った白のタンクトップを着て、上から水色のニットシャツをはおり、デニムのスカートは裾が所々ほつれているのが目についた。あ然としてしまった私は、しばらく事態がのみこめなかった。
「あの、どちらさま? 席間違えてない?」
「志乃姉ちゃんに先に席で待っててって言われて」
「え、志乃と知りあいなの?」
「まあ」
「あ、そうなんだ。あの、初めまして。私は木村希美といいます。失礼だけどお名前は? 年はいくつ?」
「福地絵梨。中二」
「あ、そう。そうなんだ」
うなずいてはみたものの何か納得できない。中二っていえば、何歳よ? 十四か。というか、質問に直接的に答えてないってどういうこと?
志乃と知り合いというのだからこちらからの警戒は幾分消していいのだろうけれど、十分なあいさつをしないまま合席し、コミュニケーションもいいかげんに済ます少女をとりあえず受け入れることなんてできっこない。部活動で初めて口をきく下級生と二人きりになったときみたいだ。互いを探りあうきりもみ状態の空間。そう、まさにあれ。
聞くことなんて考えればいくらでもあるのだけれど、このぶしつけな少女を前にしているとどんな想像力もすぐにしぼんでしまう。高圧的な態度にやられてしまう。志乃はどこにいったんじゃろう。今ここでの一秒は三秒に、一分は三分にも感じるというのに、志乃が戻ってこなければ時間は元の速さで進まない。ああ、ほんのさっきまで志乃の後姿を見ていたのに見失うなんて。
志乃がいないか店内を見渡すとそわそわし、いいにおいが鼻をつくドーナツを見つめれば、唾液がちょっとずつ口の中で広がる。何よりエリって子を凝視するのだけは相当な勇気がいる。当の福地絵梨はこちらの落ち着かない様子を気にもとめず、ドーナツには目もくれず、下を向きながら堂々と携帯電話をいじりはじめていた。私はそれをいい印象とは受けとられなかった。
携帯がないと生きていられんのんじゃろう。ウチと話すことなんてないんじゃろうし、メル友とのやりとりの方が何においても優先事なんじゃろう。それで、今の状況なんかも何かと脚色してメル友に送信しとったりして。とと、そんな推測どうでもええんじゃった。だいたい、ちゃんとあいさつをしてくれんかったしょっぱなの態度からすでに問題なんよ。いまどきの子ってカンジじゃ。自分が世界の中心みたいじゃ。
私はポーチから意味もなくハンカチを取りだし、膝の上に置いてにぎりしめた。福地絵梨の携帯電話のボタンを押すカチカチという音がひたすらに鳴りつづけていく。いけん。もうだめ、息がつまりそう。トイレがちかくなる。ああ志乃、はよう、はよう帰ってきて。なんかもうだめじゃ。ウチ、こういうのほんとっにだめなんじゃ。
「誕生日おめでとー」
突然、背後から志乃の大きい声がしたので私はぎゃあと声をあげてしまった。志乃は目を輝かせ、直径十二センチほどの白いケーキがのった皿を机に置くと、私の横にどすんと座ってきた。
「なんねなんねなんね? ウチは今日誕生日じゃないよ」
「そんなん知っとるよ。今日は絵梨ちゃんの誕生日。一緒に祝ってあげようや、ね」
「はあ? 聞いとらんよ。というか、どういうことなん? さっきからわけわからんのんよこっちは」
「ま、ええじゃん。おいおい話すけえ。先にお祝いせんにゃあね。はい、ろうそく立てて」
「おいおいって、おい!」
「つまんない」
頭の中が完全に天然パーマになっている私に向かって、福地絵梨が意地悪い笑みを浮かべて言い放ってきた。この子、私に言うとるん? つまんない? 何が?
「シャレじゃろ、今の。つまらんよ」
福地絵梨が携帯で私のほうを指す。なんて挑発的で傲慢な態度だろう。私は言葉が出せずにすがる思いで志乃を見ると、志乃はさほどというより、まったく動じていなかった。
「絵梨ちゃん、態度がすぎるよ。目上の人に向かって失礼じゃろ」
「思ったこと言うたまでじゃもん」
「じゃあ、絵梨ちゃんが逆の立場じゃったらどう? むかっとくるじゃろう?」
「ほうかね。エリ、あんまりテンパったことないけえわからんわ」
「とにかく、失礼なんよ。わかった?」
「わかった」
福地絵梨は志乃にやさしく諭されると、いっちょうまえに髪をかきあげ、ちらりと私を視認した。きれいに整えられた眉が見え、それが妙に大人っぽくて悔しかった。本当にわかってんのあんた。私は心の奥底でどなってやった。
志乃から受けとった数本の水色のろうそくを憎しみの念とともにケーキに突き刺していく。だいたいろうそくなんてもったいないんよ。仏壇に供える線香で充分じゃいね。なんでこの子のために祝ってやらんにゃいけんのんよ。志乃はぜったいやせがまんしとる。知りあいってどんな間柄なんか知りたくもないけど、世の中にはね、許されるべきこととそうでないことが歴然としてあるんよ。
志乃が私の腰をつつき、「希美、それひとりごとなんね?」と心配そうに小声で聞いてきたので、「そうよ、ひとりごとよ」と返すと、福地絵梨がぱちんと強い音を立てて携帯を折りたたみ、ずばっと立ち上がった。私はどきんとして、目を限りなく見開いて彼女を見上げた。沈黙のまま福地絵梨とのにらみ合いが始まるかと思いきや、彼女は意外にもにこやかで、人差し指でケーキの生クリームをすくうとそれをぺろっとなめた。
「おいしいこれ。志乃姉ちゃんありがと。ごちそうさま」
福地絵梨は人差し指を何度も口の中に運ぶと、店の入り口の方へ向かっていった。帰るの? あんたのための宴がこれから始まるんよ。待ちんさいよ。信じられん。福地絵梨は志乃やあっけにとられた私を忘れ去るように、陽炎浮き立つ屋外へ駆けだしていった。彼女を見送るように上半身を反転させていた志乃は、激しい虚脱感に襲われていく私に無言で微笑みかけてくれた。
「志乃。ウチね、全てが信じられん。あんな子となんで付きあっとん? どういう事情?」
「とりあえず、ケーキ食べようか。食べんとバチあたるしね」
「志乃……」
「うんうん、ちゃんと話すけえ。ごめんね、希美」
ケーキをカットし始めた志乃の目は心なしか潤み、ナイフにそえた右手は、その指の先まで努めて明るく振舞っているようだった。ショックなんだと思う。意味があるから目的があるから、福地絵梨をここに呼んだのだろうから。志乃が取り分けてくれたケーキの表面は雪のようにふわふわしていて、見るだけで美味しそうだった。でもそれをすぐに手をつけようなんて思えない。ドーナツの色は冷めきったように明度が落ち、エスプレッソからの甘い香りはよくわからなかった。
≪つづく≫
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現実最優先、過去はとりあえずどうでもいい。私はパンプスの中のつま先をすぼめ、何度も髪に手ぐしを通した。
店内には丸いガラステーブルとそれを囲むオレンジ系の二人がけソファのセットが規則正しく点在している。それぞれ若い女性客ばかりが陣取り、ほぼ満席だった。それらからは言葉として聞き取れない言語が、気圧されるほどではない熱気をともない、天井へ立ち上っているようだった。ありもしない刺されるような視線を感じながら店内を見渡す。飲食物を注文するより先に、まずは志乃を探さねば。
「のぞみぃ、ここよ。ここ」
明るく軽快な声。難なくレジにほど近い場所の席から両手をふっている志乃を発見できた。笑顔の志乃だ。私は手をふりかえすと、矢のごとく彼女のもとへ急いだ。
「おはよう。ごめーん。待ったじゃろう」
「おはよう。ぜんぜん待っとらんよ。さっき着いたばっかりじゃし。あ、席ここでよかった?」
「ああ、ええよ。今日も人が多いね。いやあ、元気かね」
「なんねえ、オジサンみたいに」
くすっと笑う志乃の対面に腰を下ろすと、自分が自分じゃないみたいに勝手ににやけてしまうから不思議だ。今日の志乃はレイヤードの紺のチェックの長袖シャツに、真っ白のティアードのスカートといういでたちだった。地味に見えて実はかわいい。女の子の体のラインが出ていて正直にいいなと思う。
「そのシャツの襟先、丸くてかわいいねえ。うちもそういうの欲しい」
「ありがとう、でもね。この襟のデザインって時代性じゃと思うよ。姉のお古じゃもん」
「ええ、そうなん? いやっ、見えんよう。お姉さんっていくつ上じゃったっけ?」
「五つ上」
「じゃあ、今は二十二歳よね? へえ、物持ちええんじゃね。あーあ、姉妹で服を共有できるなんてええわ。あこがれるわ」
「そりゃあないものねだりっていうんよ! 実際はあれが気に入らんじゃここがダサいじゃ、お互いの持ち服にケチつけるだけじゃけえね。かと思えば、着るもんが無いってわめき散らしといて、相手の服ちゃっかり借りたりしてね。ほんま嵐のようよ」
「じゃあ聞いてくれる? うちなんか母さんと共有よ? ひどいときなんかうちの下着用のブラトップをカーディガンの下に着て出かけよるんよ。それ下着用じゃってようるのに、聞かんのんよ。誰も悩殺されんのに」
「かわいいじゃーん、希美のお母さん。素敵よ、そっちんが。長い世代を超えて同じものを身につけられるんよ? その点うちの母さんはふくよかじゃけえね。最初から無理じゃもん」
志乃は浮き輪を腰の周りで回すようにしながら言うと、自分で大ウケしている。志乃のお母さんの体型を真似てみたのだろう。私もつられて笑い、「一人っ子じゃもん、姉妹愛には興味がつきんもん」とかえすと、お腹の前に抱えていた不可視の浮き輪を私の頭上からすっぽりかぶせてくれた。
「それあげるっ。注文してくるわ。いつもんでええよね?」
「うん、お願い」
席を立った彼女の後姿はスカートが若干めくれ上がり、くっきりとした白いひざ裏が唐突に見えるどきりとするものだった。私はスカート……、と密やかな声を出して彼女に知らせようと考えたが、すんでのところで彼女を辱しめるのではないかと、さらには自分をも辱しめるのではないかと心配になり、やめた。
今もこうして心の葛藤というやつが私の体にざっくりと刻まれていく。
通常であればしばらくの間、全身にはびこりつづけてしまう。テレビで青い舌を持つ爬虫類を見て、それを脅威に感じたことは無理やりその場で忘れ去ることができるのに、こればかりは瞬時にぬぐいされない。決まって葛藤のなかに踏みこんでいってしまうのだ。
とはいえ、志乃に対してはこのうろたえているような自分を見せて、聞かせているつもりだ。その結果、希美ってさぁと冷やかされ、そんな、そんなんじゃないよウチは、と反論しながらもその瞬間を楽しむ自分がいるというのも事実だ。って、こんなこと何回も確認しよるんよね、最近。
この心の葛藤というか、ためらい? みたいなものは二十歳を越えて成人になって、結婚して子供を産んで、想像もしたくないけどおばあちゃんになって、それでも持ちつづけてしまうのだろうか。いつかいっぱいいっぱいになって自分が破裂するのではないか。今からそんな心配ばかりしてしまう。いつものことだけれど。どうしようね、志乃。
「うつろな目じゃね」
やわらかいトーンの幼い声がにわかに聞こえた。ピッツバーグドーナツとメンフィスエスプレッソが満載されたベージュのトレーがガラス机の上に滑りこむ。うつろじゃないよ、と言いかけたら目前にいたのは志乃ではなかった。
年のころ、恐らく十四、五歳の少女だろうか、肩までの黒髪をゆらしながらこちらを見つめ、断りもなくソファにこしかけてきた。インナーに銀のドクロのプリントが入った白のタンクトップを着て、上から水色のニットシャツをはおり、デニムのスカートは裾が所々ほつれているのが目についた。あ然としてしまった私は、しばらく事態がのみこめなかった。
「あの、どちらさま? 席間違えてない?」
「志乃姉ちゃんに先に席で待っててって言われて」
「え、志乃と知りあいなの?」
「まあ」
「あ、そうなんだ。あの、初めまして。私は木村希美といいます。失礼だけどお名前は? 年はいくつ?」
「福地絵梨。中二」
「あ、そう。そうなんだ」
うなずいてはみたものの何か納得できない。中二っていえば、何歳よ? 十四か。というか、質問に直接的に答えてないってどういうこと?
志乃と知り合いというのだからこちらからの警戒は幾分消していいのだろうけれど、十分なあいさつをしないまま合席し、コミュニケーションもいいかげんに済ます少女をとりあえず受け入れることなんてできっこない。部活動で初めて口をきく下級生と二人きりになったときみたいだ。互いを探りあうきりもみ状態の空間。そう、まさにあれ。
聞くことなんて考えればいくらでもあるのだけれど、このぶしつけな少女を前にしているとどんな想像力もすぐにしぼんでしまう。高圧的な態度にやられてしまう。志乃はどこにいったんじゃろう。今ここでの一秒は三秒に、一分は三分にも感じるというのに、志乃が戻ってこなければ時間は元の速さで進まない。ああ、ほんのさっきまで志乃の後姿を見ていたのに見失うなんて。
志乃がいないか店内を見渡すとそわそわし、いいにおいが鼻をつくドーナツを見つめれば、唾液がちょっとずつ口の中で広がる。何よりエリって子を凝視するのだけは相当な勇気がいる。当の福地絵梨はこちらの落ち着かない様子を気にもとめず、ドーナツには目もくれず、下を向きながら堂々と携帯電話をいじりはじめていた。私はそれをいい印象とは受けとられなかった。
携帯がないと生きていられんのんじゃろう。ウチと話すことなんてないんじゃろうし、メル友とのやりとりの方が何においても優先事なんじゃろう。それで、今の状況なんかも何かと脚色してメル友に送信しとったりして。とと、そんな推測どうでもええんじゃった。だいたい、ちゃんとあいさつをしてくれんかったしょっぱなの態度からすでに問題なんよ。いまどきの子ってカンジじゃ。自分が世界の中心みたいじゃ。
私はポーチから意味もなくハンカチを取りだし、膝の上に置いてにぎりしめた。福地絵梨の携帯電話のボタンを押すカチカチという音がひたすらに鳴りつづけていく。いけん。もうだめ、息がつまりそう。トイレがちかくなる。ああ志乃、はよう、はよう帰ってきて。なんかもうだめじゃ。ウチ、こういうのほんとっにだめなんじゃ。
「誕生日おめでとー」
突然、背後から志乃の大きい声がしたので私はぎゃあと声をあげてしまった。志乃は目を輝かせ、直径十二センチほどの白いケーキがのった皿を机に置くと、私の横にどすんと座ってきた。
「なんねなんねなんね? ウチは今日誕生日じゃないよ」
「そんなん知っとるよ。今日は絵梨ちゃんの誕生日。一緒に祝ってあげようや、ね」
「はあ? 聞いとらんよ。というか、どういうことなん? さっきからわけわからんのんよこっちは」
「ま、ええじゃん。おいおい話すけえ。先にお祝いせんにゃあね。はい、ろうそく立てて」
「おいおいって、おい!」
「つまんない」
頭の中が完全に天然パーマになっている私に向かって、福地絵梨が意地悪い笑みを浮かべて言い放ってきた。この子、私に言うとるん? つまんない? 何が?
「シャレじゃろ、今の。つまらんよ」
福地絵梨が携帯で私のほうを指す。なんて挑発的で傲慢な態度だろう。私は言葉が出せずにすがる思いで志乃を見ると、志乃はさほどというより、まったく動じていなかった。
「絵梨ちゃん、態度がすぎるよ。目上の人に向かって失礼じゃろ」
「思ったこと言うたまでじゃもん」
「じゃあ、絵梨ちゃんが逆の立場じゃったらどう? むかっとくるじゃろう?」
「ほうかね。エリ、あんまりテンパったことないけえわからんわ」
「とにかく、失礼なんよ。わかった?」
「わかった」
福地絵梨は志乃にやさしく諭されると、いっちょうまえに髪をかきあげ、ちらりと私を視認した。きれいに整えられた眉が見え、それが妙に大人っぽくて悔しかった。本当にわかってんのあんた。私は心の奥底でどなってやった。
志乃から受けとった数本の水色のろうそくを憎しみの念とともにケーキに突き刺していく。だいたいろうそくなんてもったいないんよ。仏壇に供える線香で充分じゃいね。なんでこの子のために祝ってやらんにゃいけんのんよ。志乃はぜったいやせがまんしとる。知りあいってどんな間柄なんか知りたくもないけど、世の中にはね、許されるべきこととそうでないことが歴然としてあるんよ。
志乃が私の腰をつつき、「希美、それひとりごとなんね?」と心配そうに小声で聞いてきたので、「そうよ、ひとりごとよ」と返すと、福地絵梨がぱちんと強い音を立てて携帯を折りたたみ、ずばっと立ち上がった。私はどきんとして、目を限りなく見開いて彼女を見上げた。沈黙のまま福地絵梨とのにらみ合いが始まるかと思いきや、彼女は意外にもにこやかで、人差し指でケーキの生クリームをすくうとそれをぺろっとなめた。
「おいしいこれ。志乃姉ちゃんありがと。ごちそうさま」
福地絵梨は人差し指を何度も口の中に運ぶと、店の入り口の方へ向かっていった。帰るの? あんたのための宴がこれから始まるんよ。待ちんさいよ。信じられん。福地絵梨は志乃やあっけにとられた私を忘れ去るように、陽炎浮き立つ屋外へ駆けだしていった。彼女を見送るように上半身を反転させていた志乃は、激しい虚脱感に襲われていく私に無言で微笑みかけてくれた。
「志乃。ウチね、全てが信じられん。あんな子となんで付きあっとん? どういう事情?」
「とりあえず、ケーキ食べようか。食べんとバチあたるしね」
「志乃……」
「うんうん、ちゃんと話すけえ。ごめんね、希美」
ケーキをカットし始めた志乃の目は心なしか潤み、ナイフにそえた右手は、その指の先まで努めて明るく振舞っているようだった。ショックなんだと思う。意味があるから目的があるから、福地絵梨をここに呼んだのだろうから。志乃が取り分けてくれたケーキの表面は雪のようにふわふわしていて、見るだけで美味しそうだった。でもそれをすぐに手をつけようなんて思えない。ドーナツの色は冷めきったように明度が落ち、エスプレッソからの甘い香りはよくわからなかった。
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