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短編小説「甘い蜥蜴(とかげ)」vol.1(2話完結)

2011-06-27 00:30:31 | 短編小説
 女子高生達一団の笑い、サングラスをかけてガムをかむ若い女性の態度。たった十数分の間に二度も思いがけず心をかき乱された私は、一体どんな表情でファッションビル一階のティーショップへ吸いこまれたのだろうか。エスプレッソやドーナツの揚げ物のにおいが混在する店内に入ったとたん、生気を取りもどさねばならないような錯覚におちいる。

 現実最優先、過去はとりあえずどうでもいい。私はパンプスの中のつま先をすぼめ、何度も髪に手ぐしを通した。
 
 店内には丸いガラステーブルとそれを囲むオレンジ系の二人がけソファのセットが規則正しく点在している。それぞれ若い女性客ばかりが陣取り、ほぼ満席だった。それらからは言葉として聞き取れない言語が、気圧されるほどではない熱気をともない、天井へ立ち上っているようだった。ありもしない刺されるような視線を感じながら店内を見渡す。飲食物を注文するより先に、まずは志乃を探さねば。

「のぞみぃ、ここよ。ここ」
 明るく軽快な声。難なくレジにほど近い場所の席から両手をふっている志乃を発見できた。笑顔の志乃だ。私は手をふりかえすと、矢のごとく彼女のもとへ急いだ。

「おはよう。ごめーん。待ったじゃろう」
「おはよう。ぜんぜん待っとらんよ。さっき着いたばっかりじゃし。あ、席ここでよかった?」
「ああ、ええよ。今日も人が多いね。いやあ、元気かね」
「なんねえ、オジサンみたいに」
 くすっと笑う志乃の対面に腰を下ろすと、自分が自分じゃないみたいに勝手ににやけてしまうから不思議だ。今日の志乃はレイヤードの紺のチェックの長袖シャツに、真っ白のティアードのスカートといういでたちだった。地味に見えて実はかわいい。女の子の体のラインが出ていて正直にいいなと思う。

「そのシャツの襟先、丸くてかわいいねえ。うちもそういうの欲しい」
「ありがとう、でもね。この襟のデザインって時代性じゃと思うよ。姉のお古じゃもん」
「ええ、そうなん? いやっ、見えんよう。お姉さんっていくつ上じゃったっけ?」
「五つ上」
「じゃあ、今は二十二歳よね? へえ、物持ちええんじゃね。あーあ、姉妹で服を共有できるなんてええわ。あこがれるわ」

「そりゃあないものねだりっていうんよ! 実際はあれが気に入らんじゃここがダサいじゃ、お互いの持ち服にケチつけるだけじゃけえね。かと思えば、着るもんが無いってわめき散らしといて、相手の服ちゃっかり借りたりしてね。ほんま嵐のようよ」

「じゃあ聞いてくれる? うちなんか母さんと共有よ? ひどいときなんかうちの下着用のブラトップをカーディガンの下に着て出かけよるんよ。それ下着用じゃってようるのに、聞かんのんよ。誰も悩殺されんのに」
「かわいいじゃーん、希美のお母さん。素敵よ、そっちんが。長い世代を超えて同じものを身につけられるんよ? その点うちの母さんはふくよかじゃけえね。最初から無理じゃもん」

 志乃は浮き輪を腰の周りで回すようにしながら言うと、自分で大ウケしている。志乃のお母さんの体型を真似てみたのだろう。私もつられて笑い、「一人っ子じゃもん、姉妹愛には興味がつきんもん」とかえすと、お腹の前に抱えていた不可視の浮き輪を私の頭上からすっぽりかぶせてくれた。

「それあげるっ。注文してくるわ。いつもんでええよね?」
「うん、お願い」
 席を立った彼女の後姿はスカートが若干めくれ上がり、くっきりとした白いひざ裏が唐突に見えるどきりとするものだった。私はスカート……、と密やかな声を出して彼女に知らせようと考えたが、すんでのところで彼女を辱しめるのではないかと、さらには自分をも辱しめるのではないかと心配になり、やめた。

 今もこうして心の葛藤というやつが私の体にざっくりと刻まれていく。
通常であればしばらくの間、全身にはびこりつづけてしまう。テレビで青い舌を持つ爬虫類を見て、それを脅威に感じたことは無理やりその場で忘れ去ることができるのに、こればかりは瞬時にぬぐいされない。決まって葛藤のなかに踏みこんでいってしまうのだ。

 とはいえ、志乃に対してはこのうろたえているような自分を見せて、聞かせているつもりだ。その結果、希美ってさぁと冷やかされ、そんな、そんなんじゃないよウチは、と反論しながらもその瞬間を楽しむ自分がいるというのも事実だ。って、こんなこと何回も確認しよるんよね、最近。

 この心の葛藤というか、ためらい? みたいなものは二十歳を越えて成人になって、結婚して子供を産んで、想像もしたくないけどおばあちゃんになって、それでも持ちつづけてしまうのだろうか。いつかいっぱいいっぱいになって自分が破裂するのではないか。今からそんな心配ばかりしてしまう。いつものことだけれど。どうしようね、志乃。

「うつろな目じゃね」
 やわらかいトーンの幼い声がにわかに聞こえた。ピッツバーグドーナツとメンフィスエスプレッソが満載されたベージュのトレーがガラス机の上に滑りこむ。うつろじゃないよ、と言いかけたら目前にいたのは志乃ではなかった。

 年のころ、恐らく十四、五歳の少女だろうか、肩までの黒髪をゆらしながらこちらを見つめ、断りもなくソファにこしかけてきた。インナーに銀のドクロのプリントが入った白のタンクトップを着て、上から水色のニットシャツをはおり、デニムのスカートは裾が所々ほつれているのが目についた。あ然としてしまった私は、しばらく事態がのみこめなかった。

「あの、どちらさま? 席間違えてない?」
「志乃姉ちゃんに先に席で待っててって言われて」
「え、志乃と知りあいなの?」
「まあ」
「あ、そうなんだ。あの、初めまして。私は木村希美といいます。失礼だけどお名前は? 年はいくつ?」
「福地絵梨。中二」
「あ、そう。そうなんだ」
 うなずいてはみたものの何か納得できない。中二っていえば、何歳よ? 十四か。というか、質問に直接的に答えてないってどういうこと? 

 志乃と知り合いというのだからこちらからの警戒は幾分消していいのだろうけれど、十分なあいさつをしないまま合席し、コミュニケーションもいいかげんに済ます少女をとりあえず受け入れることなんてできっこない。部活動で初めて口をきく下級生と二人きりになったときみたいだ。互いを探りあうきりもみ状態の空間。そう、まさにあれ。

 聞くことなんて考えればいくらでもあるのだけれど、このぶしつけな少女を前にしているとどんな想像力もすぐにしぼんでしまう。高圧的な態度にやられてしまう。志乃はどこにいったんじゃろう。今ここでの一秒は三秒に、一分は三分にも感じるというのに、志乃が戻ってこなければ時間は元の速さで進まない。ああ、ほんのさっきまで志乃の後姿を見ていたのに見失うなんて。

 志乃がいないか店内を見渡すとそわそわし、いいにおいが鼻をつくドーナツを見つめれば、唾液がちょっとずつ口の中で広がる。何よりエリって子を凝視するのだけは相当な勇気がいる。当の福地絵梨はこちらの落ち着かない様子を気にもとめず、ドーナツには目もくれず、下を向きながら堂々と携帯電話をいじりはじめていた。私はそれをいい印象とは受けとられなかった。

 携帯がないと生きていられんのんじゃろう。ウチと話すことなんてないんじゃろうし、メル友とのやりとりの方が何においても優先事なんじゃろう。それで、今の状況なんかも何かと脚色してメル友に送信しとったりして。とと、そんな推測どうでもええんじゃった。だいたい、ちゃんとあいさつをしてくれんかったしょっぱなの態度からすでに問題なんよ。いまどきの子ってカンジじゃ。自分が世界の中心みたいじゃ。

 私はポーチから意味もなくハンカチを取りだし、膝の上に置いてにぎりしめた。福地絵梨の携帯電話のボタンを押すカチカチという音がひたすらに鳴りつづけていく。いけん。もうだめ、息がつまりそう。トイレがちかくなる。ああ志乃、はよう、はよう帰ってきて。なんかもうだめじゃ。ウチ、こういうのほんとっにだめなんじゃ。

「誕生日おめでとー」
 突然、背後から志乃の大きい声がしたので私はぎゃあと声をあげてしまった。志乃は目を輝かせ、直径十二センチほどの白いケーキがのった皿を机に置くと、私の横にどすんと座ってきた。

「なんねなんねなんね? ウチは今日誕生日じゃないよ」
「そんなん知っとるよ。今日は絵梨ちゃんの誕生日。一緒に祝ってあげようや、ね」
「はあ? 聞いとらんよ。というか、どういうことなん? さっきからわけわからんのんよこっちは」
「ま、ええじゃん。おいおい話すけえ。先にお祝いせんにゃあね。はい、ろうそく立てて」
「おいおいって、おい!」
「つまんない」

 頭の中が完全に天然パーマになっている私に向かって、福地絵梨が意地悪い笑みを浮かべて言い放ってきた。この子、私に言うとるん? つまんない? 何が?

「シャレじゃろ、今の。つまらんよ」
 福地絵梨が携帯で私のほうを指す。なんて挑発的で傲慢な態度だろう。私は言葉が出せずにすがる思いで志乃を見ると、志乃はさほどというより、まったく動じていなかった。

「絵梨ちゃん、態度がすぎるよ。目上の人に向かって失礼じゃろ」
「思ったこと言うたまでじゃもん」
「じゃあ、絵梨ちゃんが逆の立場じゃったらどう? むかっとくるじゃろう?」
「ほうかね。エリ、あんまりテンパったことないけえわからんわ」
「とにかく、失礼なんよ。わかった?」
「わかった」
 福地絵梨は志乃にやさしく諭されると、いっちょうまえに髪をかきあげ、ちらりと私を視認した。きれいに整えられた眉が見え、それが妙に大人っぽくて悔しかった。本当にわかってんのあんた。私は心の奥底でどなってやった。

 志乃から受けとった数本の水色のろうそくを憎しみの念とともにケーキに突き刺していく。だいたいろうそくなんてもったいないんよ。仏壇に供える線香で充分じゃいね。なんでこの子のために祝ってやらんにゃいけんのんよ。志乃はぜったいやせがまんしとる。知りあいってどんな間柄なんか知りたくもないけど、世の中にはね、許されるべきこととそうでないことが歴然としてあるんよ。

 志乃が私の腰をつつき、「希美、それひとりごとなんね?」と心配そうに小声で聞いてきたので、「そうよ、ひとりごとよ」と返すと、福地絵梨がぱちんと強い音を立てて携帯を折りたたみ、ずばっと立ち上がった。私はどきんとして、目を限りなく見開いて彼女を見上げた。沈黙のまま福地絵梨とのにらみ合いが始まるかと思いきや、彼女は意外にもにこやかで、人差し指でケーキの生クリームをすくうとそれをぺろっとなめた。

「おいしいこれ。志乃姉ちゃんありがと。ごちそうさま」
 福地絵梨は人差し指を何度も口の中に運ぶと、店の入り口の方へ向かっていった。帰るの? あんたのための宴がこれから始まるんよ。待ちんさいよ。信じられん。福地絵梨は志乃やあっけにとられた私を忘れ去るように、陽炎浮き立つ屋外へ駆けだしていった。彼女を見送るように上半身を反転させていた志乃は、激しい虚脱感に襲われていく私に無言で微笑みかけてくれた。

「志乃。ウチね、全てが信じられん。あんな子となんで付きあっとん? どういう事情?」
「とりあえず、ケーキ食べようか。食べんとバチあたるしね」
「志乃……」
「うんうん、ちゃんと話すけえ。ごめんね、希美」
 ケーキをカットし始めた志乃の目は心なしか潤み、ナイフにそえた右手は、その指の先まで努めて明るく振舞っているようだった。ショックなんだと思う。意味があるから目的があるから、福地絵梨をここに呼んだのだろうから。志乃が取り分けてくれたケーキの表面は雪のようにふわふわしていて、見るだけで美味しそうだった。でもそれをすぐに手をつけようなんて思えない。ドーナツの色は冷めきったように明度が落ち、エスプレッソからの甘い香りはよくわからなかった。


≪つづく≫


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短編小説「甘い蜥蜴(とかげ)」vol.2(2話完結)

2011-06-26 00:39:49 | 短編小説
 志乃が福地絵梨と初めて出会ったのは二ヶ月ほど前のことだった。志乃が定時制高校の授業を終えた夕時、いつものように市電のホームに向かっていたところ、交差点の赤信号で足を止めると自分より幾分若い女の子が隣によってきて、やたらこちらを窺っている気配を感じた。そのアピールめいたものにとうとう抗することができず、若い女の子を恐る恐る見やると、ばっちりと目が合ってしまったのだ。
 
 その女の子は十四、五歳くらいで中学校のものと思われる制服を着て、肩までの黒髪をしきりに触りながら厚みのない学校指定鞄をたすきがけしていた。世間は夏休みに入ったばかりだけれど、この時間帯に帰宅というのなら部活帰りだろうか。だとして、この子って肌があんまり焼けていないなあ。運動部ではなく文化系の部活をやっているものと考えられる。とはいえ、スカートの丈が中学生にしては短いような気もするし、紺のハイソックスも奇抜なメーカーのワンポイントの刺繍が堂々と入っているものだし。あ、夏期講習。塾帰りというのもある。

 交差点を通過する長く重い車の群れ、それらがまきあげる熱風を全身に受けながらいろいろ考えている間も、女の子とは視線が重なったままだった。歩行者信号が青に変わり、とりあえず歩きだしても女の子はぴったりと横についてくる。いよいよ気味が悪くなり、小走りで駆け出しても彼女はかまわずついてきた。

 志乃は身の危険を感じて駅とは反対方向になる通りに急ぎ足で入りこみ、人ごみの中で相手をまこうとした。しかし、大きな足音をアスファルトにたたきつけながらも女の子は追いすがってきたのだった。そのままではらちがあかないので、志乃は意を決してジャンクフード店の入り口付近で立ち止まり、女の子と正面を切って見つめあったという。店に出入りする客がけげんな目で見てきたが、万が一の際にはそれらの人々の存在が保険になると考えていた。

「あんた、なんなんね。私に用があるんね?」
 志乃は意識的にすごみ、女の子をにらみつけた。本当は恐怖で足がすくみそうだったのに、拳をにぎりしめて何とか踏ん張ってみせたのだ。それでも女の子はおののかずに、どちらかというと笑顔のままだった。そして、肩でやわらかく息をしながら次のように口を開いたという。

「お姉ちゃん、お金めぐんでくれん? 返す約束ができんけえ、貸しじゃなくて」
「えっ、お金?」
「うん。今週のご飯代と電車賃がもうないんよ。あと携帯代もやばいんじゃ。じゃけえ、めぐんでくれん?」
「え、ちょっと、ちょっと待って。お家の人からお金もらっとらんの?」
「もうずっともらってない」

 志乃は気が動転しそうになるのを確かに感じていた。どう考えても尋常じゃない。かつあげか、新手の詐欺だ。きっとバックに悪くて黒い大人がいて、こんな従順な子を利用して組織ぐるみでお金を巻き上げているのだ。でも私はだまされない。私はどんなに巧妙に同情を誘われてもだまされんよ。この子のためだ。警察に一緒についていってあげよう。それで、話をきいてもらって更生の道をたどっていって。志乃はテレビで見たドキュメンタリー番組のような大がかりな想像図を素早くふくらませていた。

「事情はよく分からんけど、お金をあげることはできんよ。ね、交番に行かん? そこで冷静になってお話を聞いてもらおうよ。そしたらいい方向に状況が向くと思うんよ」
 志乃はきっぱりと強い口調で女の子に説いた。仮にこっちの一方的な思い過ごしでもいい。この子は間違った道に踏み入れようとしている。いや、もう踏み入れてしまっているのかもしれない。だとしても、今ならまだ良識ある中学生とやらに戻る時間は十分あると思う。

「警察はええわ。勝手に大げさにせんでや。お金めぐんでくれんのんじゃね。じゃあええわ」
 案の定、女の子は執拗にねばらず、あっさりと避けてきた。だが志乃は彼女への追及の手綱を緩めなかった。志乃から背を向けかけた女の子の腕をつかむと、こちらに向きなおさせた。

「街中で見ず知らずの人にお金をめぐんでもらおうとしとる子を放っておけるわけないじゃろう。警察に行こう、ね」
「しつこいなあ。ええってようるじゃろ」
「よくないよ。悪い大人に命令されたんじゃろう? ようないよ、このままでおるんは」
「ばっかじゃない。詐欺だとでも思ったん? チョー個人的な事情じゃいね。おかまいなく」
「ほんとにそうなんね?」

 女の子は志乃の最後の質問には答えず、電光が明るく目立つようになった街の中に歩きだしていった。志乃は降ってわいてきたような出来事に翻弄されたことでつかの間動揺したし、唇を痛いほどかみしめてもいた。しかし、このまま女の子を見逃すことはなにか許されないことだと思えたのも事実だった。正義感からでもなく、いい人ぶりたいわけでもなく、端的に自分があの子をほうっておけなかったのだ。

 志乃が彼女のあとを追いかけはじめてからも、女の子の金を乞う行為は何人かに向けられていた。相手はいずれも同性で若い学生からOLまでに及んだ。人のよさそうな者がいなかったからなのか、もちろんどれも空振りに終わっていたし、真剣に相手をしようとするものもいなかった。親切心から貸そうと思っても、最初からお金が戻ってこないことがその場で判明するのだから当然といえば当然かもしれない。慈悲を叫んで情に流されやすい年配の女性を狙わないのは、やはり警察沙汰を避けてのことなのだろうか。

 志乃はいろいろな思考を巡らして彼女のあとをつけていくと、いつの間にか日が暮れ、あまり見覚えのない路地に入りこんでしまっているのに気がついた。街灯はいくらでもあって恐怖心は薄らぐのだが、聞いたこともない地名が看板や信号の表示板に次から次へと現れてきては、やたら不安になってくる。そんな状況であの女の子は平気で歩きつづけ、獲物を探しているのだからますます黒い影を疑いたくもなった。

 とはいえ、これ以上彼女を深追いしていくと本当に家にだって帰れなくなる。女の子もあっちへぶらりこっちへぶらりという様子で退屈な様子を呈していたので、結局志乃はある地点で後ろ髪をひかれる思いで追跡をあきらめることにしたという。しかしまさにその瞬間、女の子が気づかぬ間に中年のサラリーマン風の男をつかまえて何やら会話をしていたのだった。

 中年の男性はためらっているようなそぶりも見せていたが、すぐに女の子の手をつかみ歩きだしたという。二人は何度か互いに顔を見合わせて簡単な言葉を交わしているようだった。面食らった志乃は二人がどこへ向かっているのか気が気ではなくなり、尾行を再開した。するといやらしいネオンが浮かび上がる一帯に歩を進めていき、そのうちの一軒にためらいもなく入ったというのだ。

 志乃は胸の張り裂ける思いがし、一目散に二人のあとを追いかけ、女の子だけをその建物に面した通りの方へ強引に連れ戻したのだった。女の子はただ目を丸くして信じられない、という顔で立ちすくんでいた。間髪おかずに、中年の男性もびっくりした様子で通りへ飛びだしてきたという。

「な、なんだってんだ君は」
「警察呼びましたから」
「け、けいさつ?」
「いけないことしようとしてましたよね」
 警察呼んだなんて口から出まかせで、相手をひるませるためのとっさの嘘だった。志乃は中年の男性と揉みあいになってもいいように、持っていた鞄を両手でぐっとつかんだ。男性はいい気がしなかったようで、二、三歩詰めよってきたがそれ以上は何もしてこない。結局、「余計なことしやがって」と中年男性は言いすてると、信じられない速さで向こうの方へ消えていったのだった。

 志乃は全身の力が一気に抜けきり、その場に座りこんでしまった。苦笑いしながら女の子を見上げると、女の子はいよいよ曇った顔を見せていたという。

「お姉ちゃん、ずっとつけてきよったんじゃね。信じられん。もうちょっとじゃったのに」
「なにようるんね。あんた、今大変なことをしよったんよ。何とも思わんの?」
「お姉ちゃんには関係のないことじゃん。なんで邪魔したん。お金もらえとったのに」
「あんたねえ!」
 志乃はいい加減に頭にきて、何より悲しすぎて女の子の両肩を痛いくらいにつかんで立ち上がった。女の子の黒い瞳は街灯が映りこんでいてしっかりと澄んでいた。志乃は何かを言い放つつもりだったのに、言葉になってでてくるものがなかった。どうもしようがなくて、女の子の両肩から手をかけるのをやめるのがやっとだった。

「あんた、自分のことをもっと大事にしんさいよ。お金あげるけえ、もうあんな真似やめんさいよ」
 志乃の視界はなぜかぼやけ、女の子の顔がゆがんで見えていた。目頭が心なしか熱く、のどの上あたりががきゅっとしまってもいた。自らの財布の中をのぞくと三千円しか入っておらず、女の子が満足する額ではないと思ったが二千円だけを渡した。女の子は無言のままそのお金をさっと取り、「ありがとう」とだけ小さくつぶやいたという。志乃は衝動的に自分の携帯の番号をレシートの裏に書き、それも女の子に渡した。

「もうお金はあげられんけど、なんかあったら電話して。相談くらいならのってあげられるけえ」
「ええ人すぎるよ、お姉ちゃん」
「ほうっておけんようね、あんたみたいな子」
「そう。じゃあ安心して。たぶん電話もせんし、会うこともないけえ」
「あんたの名前、名前くらい教えてくれん?」
「もう会わん言いよるじゃろう。必要ないよ」
 女の子は迷惑そうに宙で手をぶらぶらと振ると、ふっと背を向けて去っていってしまった。志乃は胸が痛くてやりきれず、追いすがっていく気力ももうなかった。ただ、女の子に言いたいことは一杯あった。もう会うことがないことも分かってはいたけど。

 志乃は女の子の小さな背中を見送りながら、汗ばんだブラウスの胸元をつまんで一番上のボタンをはずし、しばらくぼうっとしていた。
自分がいかがわしい建物のそばで、一人立っていることに気づいたのはもうしばらくしてからだったという。

「私はね、定時制の高校のクラスメートで中学生の時分で心も体も壊したという人たちを何人も知っとるんよ。私みたいに高校でそうなった人もおるけどね。で、例えばそういう人たちってその後の進路を選ぶんでも勉強せんで合格できる高校に入らざるを得んかったりしてね。当然、目標がなくなって道を閉ざしてしまって、他にも様々な状況にのまれてね。皆一様に「そんな時」があったから今がある、とウワベでは肯定的に生きとるよ。でも、後悔の念をいまだにぬぐいされていない人もまだまだ多いんよ」

「口にはせんけど、定時制に集う同類の者たちとの交流の中で苦悩の態度を見せ、傷つき傷つけあって頭を抱えとる。似たような痛みを持っとるけえって、それだけで分かりあえるわけじゃない。自分を愚かだと思うから、自分に似た相手も愚かだと思う。光の射しこまない暗黒の巣窟に大勢が放りこまれとる気分がするんよ。そんな思案が意味のないことだと頭の片隅で気づいとっても」
 
 志乃は福地絵梨との出会いの顛末を簡潔に語ってくれたあと、なぜか定時制の学校生活を通じて浮き彫りになる無視できない現状というものを切々と教えてくれた。その酷とも感じられた現状があらゆる定時制高校のありのままの姿ではないだろうと私は思ったけれど、高校へ平和に通っている自分には対等に確実に理解はできないものだった。志乃は話を通じて福地絵梨を放っておけない理由として間接的な表現で教えてくれたのだと思う。自分と同じような匂いを福地絵里に感じてしまったことを。

 私が志乃だったら、福地絵里にあれほどの執心を注げるだろうか。いや、無理だろう。その後のことが怖くなって暗鬱になり、彼女と出会った事実すら末梢したいと考えるはずだ。得体の知れない赤の他人。関わりたくもないトラブルに自ら首を突っこむようなものではないか。

 志乃が福地絵里のことを過剰にかくまう姿勢が大仰にも感じられたけれど、福地絵梨は志乃を頼りにしているということが何となく分かった。今日はそれだけでもう、十分のような気がした。

 志乃は福地絵里とその後、現在に至るまでどのように連絡を取りあっていたのかについては詳しく触れなかった。私と志乃はほとんど無言のまま、馬鹿みたいに甘いバースデーケーキを食べつづけた。


≪おわり≫

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