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S多面体

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」のショート版

アンビバレントな映画「私はチョソンサラムです」

2021年10月27日 | 映画

江東区枝川の東京朝鮮第二幼初級学校でドキュメンタリー映画「私はチョソンサラムです」(キム・チョルミン監督 2020年 94分)をみた。チョソンサラムは朝鮮人という意味だ。
これまで在日の生活や社会を描いた映画は、朝鮮学校が舞台の「ウルボ――泣き虫ボクシング部(李一河監督 2015)、「蒼のシンフォニー(朴英二監督 2016)など、ヤン・ヨンヒ監督の「ディア・ピョンヤン(2005)、「かぞくのくに(2012)、ドラマの「月はどっちに出ている(崔洋一監督 1993)、「パッチギ(井筒和幸監督 2004)などを観たし、演劇も鄭義信の三部作「焼肉ドラゴン(2008年)、「たとえば野に咲く花のように――アンドロマケ」(2007年)、「パーマ屋スミレ(2012年)などいろいろ観た。ところがこの映画は、それらとはかなり異質で、批評するのが難しい。

映画は、2009年12月4日に始まった在特会在日特権を許さない市民の会などの京都朝鮮第一初級学校(当時)への襲撃シーンから始まる。大きな襲撃は翌年4月まで3度あった。自身が卒業生でもある母親は、はじめは恐怖、次に憤怒の感情がわきあがったという。小学3年の子が鉛筆を「ピンピン」に尖らせ、もし在特が攻めてきたら「これで戦うねん」といったそうだ。
次に2002年金剛山で行われた交流イベントに移る。キム監督が日本からきた「在日」に初めて出会い、親しくなったが、このとき初めて在日という存在に気づいたという。キム監督は1978年生まれなので、まだ24歳のころだ。
次に、1920-30年生まれで、親に連れられ日本に来た80代の「1世」のインタビューや長く初級学校の校長を務めた女性のエピソードが挟まれる。
次に「在日同胞留学生スパイ団事件」の被害者たちのインタビューに移る。韓国のソウル大学や高麗大学留学中の1975年11月中央情報部に突然連行され、なかには死刑判決を受けた人もいた(その後2015年再審無罪確定、19年文在寅大統領より謝罪の言葉を受ける)。
韓国の大学に留学というのだから民団系の家系の人かと思われる。総連の家庭の人が隣の国韓国に旅行することは、欧米や北朝鮮に行くよりはるかに難しいと聞いたことがあったからだ。それが冤罪というか、でっちあげ事件で死刑囚にされる。こんな事件が1970年代にあったとは・・・。登場した人は水責めなどの拷問は受けなかったそうだが、なかには自殺したり、発狂した人もいたそうだ。それはそうだろう。
18歳のとき光復節記念在日韓国人中央大会に参加し、祖国の将来を熱く語る姿に感激し在日韓国青年同盟の活動に参加し、いまは祖国統一のため在日韓国民主統一連合(韓統連)事務局として活躍する方へのインタビュー、そして高校無償化を求め、大阪府庁前や東京・文科省前で抗議活動をする学生たちの姿が映し出された。「声よ集まれ、歌となれ」の歌声も聞こえた。
いままで見た映画や演劇には出てこなかった問題に触れられていた。
在日の方の大きな団体として、2つの団体、在日本朝鮮人総聯合会総連)と在日本大韓民国民団民団)があること、そして総連は共和国寄り、民団は韓国寄りということは知っていた。ただし総連のメンバーといっても、在日の内訳は地理的には南出身の人が98%、慶尚北道・慶尚南道・最南部の済州島出身の人だけで89%(1964年)とのこと。2団体はおそらく仲がよくはないと思うが、いったいどのような関係なのか、わたしにはわからない
手元の「在日コリアンの歴史(在日本大韓民国民団中央民族教育委員会 明石書店 2006)をみてみたが、戦後各地で自然発生的に組織がつくられ朝連(のちの朝鮮総連)に結集し、46年10月民団が結成され、民族学校のほとんどは総連に糾合され、民団系の民族学校は現在4校ということくらいしか書かれていない。

もうひとつ、在日同胞留学生スパイ団事件のことはまったく知らなかったただ考えると、2011年1月に「国際法の暴力を超えて」というシンポジウムで発言された徐勝(ソ・スン)さん(立命館大学)はこの事件の被害者の1人だったし、弟の徐俊植さんは府立桂高校出身で救援活動が行われたことは知っていた。だが深くは知らない
また韓統連についても、ここ10年ほどほぼ毎年3・1朝鮮独立運動の集会に参加しており韓統連の方が何度かスピーチされたので、存在は知っていたが詳細は知らない
なぜ在日の人は統一を求めるのか。かつて戦後の分断国家だったドイツやベトナムは統一を果たした。しかし朝鮮半島はいまも休戦が長く続いているだけで戦争中という「異常」な状態にある。現在、分断国家になっている大きな原因として、大日本帝国の朝鮮侵略と35年の植民地支配の歴史があり、いま日本の植民地支配責任が問われていることはわかる。戦争を終わらせ「平和協定」が結ばれることを隣国日本の市民としても望むが、いまはまだ見通しがたたない。
かつては2世、3世が話題の中心だったが、いまは4世、5世の時代だそうだ。普通に日本で暮らしていると言葉も音楽など民族文化歴史もわからないまま育ってしまう。だから朝鮮人としてのアイデンティティが大事であり、「祖国統一」が重視されることがよくわかる。
「人種差別問題」「人権問題」なら少しは感想を述べられるが、わたしには知識が足りずそれ以上のコメントを加えることは難しい。
「在日」という生き方そのものが、日本と朝鮮、朝鮮のなかの北と南という相反した存在、アンビバレントな存在であることを感じさせる映画だった。
キム監督は、韓国生まれの韓国育ち、22歳で「在日」の存在を知り関心をもったそうだ。わたしは、小学生のときから学校に在日の生徒がいたこともあり知っていたが、強く関心をもったのは2010年4月の朝鮮高校無償化除外のときからだ。朝鮮高校の無償化運動でも、韓国の「ウリハッキョと子どもたちを守る市民の会」が力強い行動を続けてくれたことは知っている。
当該である「在日」の人、日本人で支援する人、韓国で支援する人、それぞれ立場や視点が異なる。それがこの映画にも反映しているのかもしれない。
ZOOMでソウルのキム監督と会場をつないだインタビュー
ドキュメンタリー作品としてみると、「希望を踊る樹々」の歌や緑の林の映像を前後にうまく使い、構成も十分考えられたもので、質が高いと思った。
ペクチャさんの主題歌のなかの
側にいる樹々たちと共に 力強い根を信じ一緒に耐えてきたんだ
風が吹けば吹くほど もっと強くなびくのさ 蒼々とした樹になり 希望を踊るんだ
という歌詞も象徴的だった。
ただ、わたしには上で述べたように知らないことがいくつも出てきたのと、脈絡がよくわからないところがあったので、機会があればもう一度見てみたいと思う。
上映後、ソウルのキム監督と会場をZOOMでつなぎ、インタビューがおこなわれた。監督は「コロナ感染が明けたら、枝川のこの学校を訪問したい。統一のための活動を今後も続けたい」と語った。この映画はいまは自主上映だけだが、12月9日から韓国で劇場公開されるそうだ。
☆この日の会場、東京朝鮮第二幼初級学校でかつて「60万回のトライ」、「ウルボ――泣き虫ボクシング部」を見た。
この学校の玄関にモニュメント「心の故郷」があり、「枝川の子」の絵、過去2代の校舎写真、献金団体・個人の名、学校の歴史が書かれていた。創設は1946年1月、64年に新校舎が建ったが、2003年東京都との間で立ち退き問題の裁判があり、市民の「枝川裁判支援連絡会」の応援もあり07年和解で決着した。そして2011年に現在の校舎が新築された。
2019年にみた生徒の作品
また公開授業をみにきたこともあった。残念ながらわたしには言葉がわからないので、授業の中身までわかったのは日本語の授業だけだったが。1学年3-7人の小学級で、若手の先生が1人1台のタブレットも活用し、かつ生徒の席との間を何度も行き来して生徒のノートを見ながらきめ細かに授業をしていた。
放課後、木琴、踊り、歌などの公演(日本の学芸会のようなもの)を保護者の前でやってくれた。2019年9月のことで、じつはその一週間ほどあとに「アイたちの学校」の上映会が予定されていた。しかし台風襲来で延期、半年ほどあとの上映会も新型コロナで中止と、不運が重なったが、作品は異なるがやっと実現した。

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葛谷舞子が撮った親子の笑顔「life」

2021年09月29日 | 展覧会・コンサート

自閉症やダウン症など障がいのある子を持つ親29組の写真展「life――笑顔のカケラ」が9月17-23日に富士フォトギャラリー銀座で開催され、見にいった。

フラダンスの親子、空手の道着を着た娘と母、キーボードを前にした息子と母、どの写真もサブタイトルのとおり「笑顔」があふれている。
29組の親子の笑顔の写真がメインなのは当然だが、子どもの障がいの種類と年齢、1)これからの夢、2)障害がわかった時の気持ち、3)今の気持ちの3項目のアンケートが、作品1点ごとに掲示されていた。障がいの種類では、やはりダウン症、自閉症が多いが、知的発達障害、最重度知的障害の自閉症、重度知的障害、脳性麻痺、未熟児網膜症の子やヌーナン症候群などわたしがはじめて聞く病名もあった。年齢は5―32歳(一人だけ43歳の方がいた)。

1)「夢」は、親の回答、子どもの回答で大いに違う。数は親の回答が圧倒的に多く「世界のいろいろなものを見せたい」「家族で世界中のいろいろなところへ旅行したい」「映画・舞台を一緒に見に行きたい」など、子どもの体験、子どもの世界を広げたいという希望、「自分らしい人生を謳歌するように」「自信や誇りを持ち暮らしていけるよう」と幸福を願うもの、「親亡き後も安心して生きていけるコミュニティを作りたい」「障がい者の仕事の場を作りたい」「障害者と高齢者が共存できるシェアハウスを作りたい」といった、今後子どもが安心して暮らせることを祈る現実的・具体的なプランもあった。
2)は深刻だ「わたしの人生は終わった」「ショックな気持ち」「頭が真っ白」などなど障がいがあることを知ったときの衝撃の大きさがよくわかる。
3)は人それぞれで、「生まれてきてくれてありがとう」「チャームポイントの笑顔を忘れずに」「一緒にいると楽しい。いまがとても幸せ」「いつまでも一緒にいたい」など、感動的なコメントがいくつも並んでいた。どう解釈するかは、なかなか難しい。
(いわゆる)健常児と異なることからさまざまに苦心し、親子ともに太く強い人生を紡いできたことを推測させるコメントが並んでいた。写真の大半は母と子どものカップルで、父と子は5組だけだった。撮影はおそらく日中なので平日に父が同行することは難しいという事情もあろう。しかし日ごろ母親にかかる負担と喜びの大きさもしのばれる。1枚1枚の写真の奥に、それぞれのドラマがあることを感じさせた。

何年か前に、障がい者調査の手伝いで、訪問調査員をしたことがあった。相手は30代から70代の知的障害の方6人、本人同席だったのは3人のみ、うち二人は「あんたはしゃべらなくていいから」と親に厳しくいわれ、ほとんど本人とは話ができなかった。話ができた人は、職場の雰囲気や人間関係などでガマンしながら働いていることを切々と訴えられ、涙を流していた。こちらはまったくの門外漢なので、素人考えで無責任に励ましてよいものかどうなのか、悩んでしまった。
ということでほとんど親や親族の方にお聞きしたが、自分の死後、この子はどうなるのか、財産や住居をどう手当てすれば子どもが安全に暮らしていけるか、が最大の関心事だった。また企業や作業所で働いている人もいたので、受入れ環境の整備もいろいろ問題があるようだった。そのときは、精神障害の方の面談もしたが、障がい者にとって「仕事」の問題は深刻であることを実感した。

たまたま作者の葛谷舞子さんご自身が会場にいらっしゃって、少しお話を伺うことができた。ここからは、朝日新聞2021年9月10日横浜版21面や東京新聞の6回連載記事2021年8月29日1・22面)、31-9月4日22面)も参考にした。
葛谷さんは学生のころ「出生前診断で中絶する親が多い」という新聞記事に疑問をもち、障がい児問題に関心をもった。就職、独立を経て、職業としては料理や建物の撮影をメインにしているそうだ。そのかたわら自宅兼用の写真スタジオを運営しポートレートを撮る。
ただ「ライフワーク」は障がい児問題のほうで、今回の展示作品は足かけ4年撮りためたものとのこと。5歳未満の子どもの写真がないのは、たまたまこの2年コロナで、スタジオに来るのが難しいという事情もあったからだそうだ。

☆会場の富士フォトギャラリー銀座は、プロ写真家や写真愛好家の写真の現像、プリント、額装・パネル加工などを行う富士フイルムの関連事業部門クリエイトが運営するギャラリーだ。六本木の富士フイルムフォトサロンには行ったことがあるが、ここは初めてだ
たまたま隣の部屋(会場)でハッセルブラッドフォトクラブジャパン第28回フォトコンテスト作品展を開催していた。ハッセルブラッドは6×6サイズの高級カメラということは知っていたが、スウェーデンの会社(ただウィキペディアによれば2017年に中国の企業に買収された、とある)ということは知らなかった。さすがハッセルで、色濃く鮮やかな作品が並んでいた。
画廊同様、見るのは無料なので今後、興味あるテーマの作品展のときには立ち寄ってみたい。
富士フォトギャラリー銀座
住所 東京都中央区銀座1丁目2-4 サクセス銀座ファーストビル4F
電話:03-3538-9822
営業時間 平日10時30分~19時 土・日・祝日11時~17時
開館日: 展示スケジュールを参照

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風通しがよくなった官邸前「原発いらない金曜行動」

2021年09月22日 | 集会

9月17日(金)夕刻、首相官邸前の「原発いらない金曜行動」に参加した。台風14号の影響で夕方から雨という天気予報だったが、スタッフの行いがよかったのか(笑)、雨に降られず、そのうえ暑くもなく寒くもなく1年のなかでベストな気候の夜だった。

この金曜行動は6月に始まったが、6月はわたくしは知らず、7月・8月はオリンピック反対デモなど他の活動とバッティングしたので、3カ月遅れでやっと参加できた。首相官邸前抗議は毎週金曜だったが、こちらは月1度開催である。
みかけは本年3月末まで丸9年続いた首相官邸前抗議と同じだが、主催団体が異なる。3月までは首都圏反原発連合、いまは「原発いらない金曜行動」実行委員会である。
スタッフの顔をみると、毎年3月11日ごろやっている全国集会のメンバー、そしてやはり3.11のころ東電前で抗議集会を開催しているたんぽぽ舎関係の人が多く、反原連が平均年齢40代とすると、こちらは70代くらいにみえた。また参加者もどちらかというと高齢者が多いように思える(もっとも参加者は、わたしと同じく、同じ人が両者に参加している可能性が高いのだが)。
集会の雰囲気は、反原連は硬くマジメ、こちらはもうすこし自由かつプリミティブ(?)な感じがした。わたしには、こちらのほうがなじめた。
出し物も、反原連はコールが中心だったような気がする。金曜行動はショート・スピーチがメインで、合い間にコールをはさむような感じだった。そういう意味では同じ反原連が国会正門前でやっていたミニ集会に近いかもしれない。もっとも1回出ただけで、それも第2部のなかほどまでだったので、違っている可能性もあるのだが・・・。

集会は「原発やめろ!」「海に流すな!」「子どもを守れ!」「再処理やめろ!」「核ゴミ出すな!」といった聞きなれた(あるいは言いなれた)コールから始まった。
そしてたんぽぽ舎の山崎久隆さんなどもともと予定されていた方のスピーチが続いた。ここから先、残念ながらICレコーダで録音していないので、いろいろ間違っているところが多い可能性がある。申し訳ない。
山崎さんは「東電福島で汚染水を浄化処理するALPSの汚泥タンクのフィルターが、25基中なんと24基に穴が開いていた。つまり放射性物質が空気中に漂っている。しかもなぜ破損したか東電は原因すらわからない。さすがに規制委員会も怒っている。こういう会社が汚染水を海中放水するのはとんでもない。汚染水は海底を1キロほどピット(海底トンネル)を通して輸送し、沖合で放水するという図面が発表された。これは再処理工場でやっているのと同じやり方だ。そしてサンプリングすらしない。海洋放出を許さない!いっしょにがんばろう!」
ゲストの方4人のショート・メッセージがあった。「終わりじゃないよ」と反原連の官邸前抗議の感想文集をつくった商社9条の会の方、川内(せんだい)原発に反対する鹿児島反原連の方、青森・大間のあさこハウス支援の方、93歳でがんばる埼玉の女性などだった。
20代の大学院生のスピーチが印象に残った。
大学は「稼げる大学」として軍事研究に力を入れているそうだ。そして日本で原発を続けているのも核兵器開発が目的なので、原発と軍事研究は深く結びついており、けして「他人事(ひとごと)ではない」とのことだった。

歌もあった。日本音楽協議会(日音協)の7人がギターとリコーダーの伴奏付きで「海を汚すなよ、わたしは恥ずかしい」という歌詞の「水に流すな」と「魚が泳ぎ鳥が飛ぶ、そんなあたりまえの地球、いつまで残せるだろう。原発許すな」の「あたりまえの地球」を披露した。
官邸前抗議では、隊列の相当後ろのほう、財務省上の交差点に近いところでアコーディオン伴奏で歌っていたが、この集会ではメインイベントのひとつになっていた。
日本山妙法寺の僧侶も定位置でお経を唱えていた。ただ多摩川太鼓は、悪天候の予報だったので残念ながらこの日は欠席、次の機会に音を聞きたい。鎌田慧さんもこの日は体調不良で欠席とのことだった。

この日会場でもらったチラシは、10.23さようなら原発オンライン集会(「さようなら原発」一千万署名市民の会)、福島第一原発事故刑事裁判控訴審、子ども脱被ばく裁判控訴審(仙台)の告知チラシ、「幻想の新型原子炉」(後藤政志)講演案内、など原発関連が多いのは当然だが、もんじゅ西村裁判、関西生コンの映画「棘2」上映会、阿佐ヶ谷市民講座「この国の外国人政策」などもあった。官邸前抗議のときは原発関連チラシすら配布は難しかった。
いろんな意味で風通しがよくなったように思える。
すべての原発を廃炉にするにはもう少し時間がかかりそうだ。わたくしも息長く金曜行動への参加を続けたい。


災害を招いた2020東京オリパラ

2021年09月15日 | 日記

2020東京オリ・パラがやっと終わった。オリ・パラ開催については、早くから反対運動があった。新国立競技場建設の余波で住み家を追い出された野宿者や有志たちの団体は、2018年3月14日JSC(日本スポーツ振興センター)と国、東京都を相手取り提訴した。思えば2012年のロンドン大会のころから開催都市でのオリンピック反対運動は始まっていた。

7月16日のオリンピック反対デモ
今回のオリンピック災害の最大のものは新型コロナ感染者の激増だった。7月半ばに1000人超えへと増加に転じ、7月23日開会式の日の東京の新型コロナの新規感染者数は1359人だったが、8日の閉会日には4066人、その間5日には5042人と急増した(ピークは8月13日の5773人)。たしかに無観客オリンピックと東京の新規感染者数激増との因果関係は証明されていないが、世間一般では驚き「それみたことか」と思うと同時に、恐怖を味合わされた
オリンピック運営者周辺では、世間一般よりも感染防止を徹底していたはずだ。選手は「バブル方式」でしか移動しないと説明されていた。しかし現実には、オリンピックの選手、関係者(マスメディア、組織委員会職員、委託業者、ボランティアなど)の合計で547人もの人が感染した(パラリンピックでは316人)。
感染者激増により、中等症でも入院できず自宅療養を余儀なくされたり救急車に乗っても搬送先病院がみつからないという事態まで生まれ、人知れず自宅で死亡する事例も出現した。まさに医療が崩壊してしまった。それも東京など首都圏だけでなく、全国で同じ状況が生まれたことに注目すべきである。

機動隊車両で閉鎖された246号青山通り
コロナ感染者や住み家をなくした野宿者ほどではないが、交通規制による被害もある。6時~22時の首都高料金1000円上乗せ、開会式・閉会式・パラマラソン時の道路閉鎖はよく知られているが、環2の新大橋通から有明アリーナの一般車両通行止めは6月23日から9月12日まで、3カ月近くに及んだ。この区間は豊洲市場から都心へのルートを含み、登録ずみのトラックは、帰りだけ通行できたようだが、これだけの長期間、業務に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。
もう少し小さいが、わたくしが気づいたことをひとつ。オリンピック開会式は欧米のテレビ優先で、20時スタートで聖火台点火が23時過ぎになった。宮城・福島・岩手の小中学生6人が大坂なおみに聖火を渡したり、郡山高校と豊島岡女子学園高校の生徒20人の「オリンピック賛歌合唱も23時過ぎだった。緊急事態宣言下、18歳以下の青少年をこんな深夜に仕事をさせてよいのかと思う。郡山高校の生徒たちはもちろん近くのホテルに宿泊したのだろうが、豊島岡の生徒でもし都内の自宅に帰宅する生徒がいたのなら、かなり危ない。

8月24日夜の外苑前パラリンピック開催抗議行動
被害とは性格を異にするが、いったい何のためにオリパラを開催するのか、という根本的な意義がまったくわからなくなったのが2020東京オリだった。IOC総会での安倍の「アンダーコントロール」の大ウソで大会招致に成功した2013年ころは「東日本大震災からの復興を世界に発信」と「復興五輪」をキャッチフレーズにしていた。
1年延期を発表した20年3月には「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証し」としてのオリパラと表明していた。どちらも達成できず、菅総理がパラリンピック閉会2日前の9月3日に辞任表明し「コロナに打ち倒された」大会になったのが2020東京オリパラだった。

車両基地をスタートするオリパラ専用車
それだけでなく、7項目から成る「オリンピズムの根本原則」との関係でも問題がある。「オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである」「オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指す」とあるが、「生き方」の基礎や「人間の尊厳」の前提に生命維持があるのは当然だ。緊急事態宣言発令中の都市で開催してよいものか。まして小中高校生を動員してよいものなのかどうか。都教委の発表では、パラに都内の120校9568人の生徒が参加した。また「偉大なスポーツの祭典、オリンピック競技大会に世界中の選手を集めるとき、頂点に達する。そのシンボルは5つの結び合う輪である」で、たしかに選手は集まったが、観客なし、もちろん海外からの観客もなしという状況では、前提条件が壊れているのではないか。
また今後、この大会の決算問題が出てくるはずだ。カネの面で国民と都民に莫大な「負のレガシー」だけ残した大会にならないとよいのだが・・・。
わたくしは57年前の1964東京オリのときは地方の小学生だった。オリンピックを自分の目で見られるのは一度だけだろうと、内心少し楽しみにしていた。またオリはともかく障がい者のパラは開催の意義があるのではないかとも思っていた。テレビで観戦していて、車いすラグビー、バスケット、テニスなどで(従来のパラ以上に)ヒーロー、ヒロインがうまれた。
しかし4年に1度の国際的大イベントをなぜ続けるのか、立ち止まって考える時期にきていると思う。まさかIOCのためのIOCによるIOCのイベントではないはずだ。今回の大会でいえば、電通による電通のための電通とIOCの一大イベントであった感が強い。

 

幻のチケット(左・オリンピック、右パラリンピック)
☆新型コロナについて一言。国内累計死者はすでに1万6909人に及び(9月14日現在)、東日本大震災の死者1万5900人、行方不明者2525人を上回るのは時間の問題だろう。震災では災害関連死が3774人(21年3月末)だが、コロナ関連死はいったい何人になるのか考えるのも恐ろしい。大災害であることは間違いない。
幸い9月15日現在新規感染者数は減少を続けている。しかし感染症なので、今後も何度も波が襲うことが考えられる。20世紀初頭のスペイン風邪のときは日本では1918年8月から3波に分かれ収束したのは2年半後の21年3月だった。わたしは100年間の医学・薬学の発達があるので、それよりは早く収束するだろうと考えていた。しかし、いま問題になっているデルタ株が収束したとしても、ラムダやミューもあるらしいのでいつまで続くか見通せない
そうすると、やはり医療体制整備が問題になる。いまは社会全体の推移を予測するためのPCR検査実施体制にはなっていないし、主として結核、インフルエンザなどの感染症を念頭にした保健所の体制はコロナには適合していないのではないかと考えられる。また発症者が激増したときの医療関係者確保や施設の体制もできていない。
やや飛躍するが、与党の「安全保障」というとミサイルや艦船、航空機ばかり配慮されているが、病気や自然災害(地震・津波、気候変動による台風、洪水、異常気象など)、水道・道路・トンネルなどインフラ老朽化など生命と生活を守る安全保障への対策にもっと真剣に取り組むべきではないだろうか。

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室内合唱団日唱の「音で巡る世界旅行」

2021年08月13日 | 展覧会・コンサート

8月6日(金)夜、室内合唱団日唱33回定期演奏会「音で巡る世界旅行豊洲シビックセンターホールで聴いた。
日唱は、1963年に発足した日本合唱協会(通称 室内合唱団日唱)の意思を継承し2014年に設立されたプロの合唱団だ。この日の演奏は指揮・山崎滋、ピアノ・松元博志、出演したのは男声6人、女声9人だった。

2020東京オリの閉会式2日前ということで、プログラムは1964東京オリのファンファーレとオリンピック讃歌から始まった。オリンピック讃歌はわたしも好きな曲だが、日本語で歌われた。「大空と大地に精気あふれて、不滅の栄光に輝く高貴と真実と・・・」という訳詞があることは知らなかった。
またこのコンサートには、4人のトランぺッターが2度登場した。最初がファンファーレだった。紺、銀、黄、赤のコスチュームを装う若い女性たちだった。

コンサートは「世界の名曲から」と「首藤健太郎編曲アルバム」の二部編成だった。
「世界の名曲から」は、オリンピック旗の象徴である5大陸の歌、すなわち南北アメリカの「コンドルは飛んでいく」、アジアの「茉莉花」、オセアニアの「ワルチング・マチルダ」、アフリカの「南アフリカ共和国国歌」、ヨーロッパの「フィンランディア」の5曲だった。茉莉花はジャスミンの花のことで、中国民謡だそうだ。曲名は知らなかったが、メロディは聞き覚えがあった。プッチーニのオペラ「トゥーランドット」やアテネオリンピック閉会式で少女が歌って注目され、いまは日本の小学校の音楽教科書にも出ているそうだ。ソプラノが美しい曲だが、本国ほどキンキンした声でなく、日本向け(?)にマイルドな声質で歌われた。
南アフリカ共和国国歌はまったく知らなかった。アパルトヘイト後の1994年に大統領に就任したネルソン・マンデラが97年に制定した曲だそうで、30年足らずの若い勇壮な曲だった。南アフリカには公用語が11あり、うちコサ語・ズールー語・ソト語・アフリカーンス語・英語の5つの歌詞があるとのこと。この日何語で歌っていたのかはわからなかった。
訳は「神よ、アフリカを祝福してください その栄光を高く掲げて我らの祈りを聞いてください・・・」という意味だそうだ。
フィンランディアは、もちろんシベリウスのオーケストラ曲のほうはよく知っているが、シベリウス自身が合唱用に編曲した曲もあるとは知らなかった。コスケンニエミが「おお、スオミ あなたの夜は明け行く・・・」と歌詞を付けた。最後の和音の響きがきれいだった。

間奏として、トランペット4本による歌劇「アイーダ」の凱旋行進曲が入った。アイーダトランペットはつかわれなかったが、4本のバランスがよく音楽として十分な演奏だった。

第2部との表示はないが、ここで作曲家・首藤(しゅとう)健太郎氏が登場。
首藤氏は1993年生まれ。東京藝術大学作曲科と大学院を修了、作曲家・編曲家。声楽曲では「金子みすゞの詩による歌曲集」「自然への喜びの讃歌」などがある。
プログラムはアンコールを含め首藤氏の作曲、編曲作品だった。10分ほど君が代の歴史紹介のトークがあった。君が代は最初イギリス人軍楽隊長フェントンがエディンバラ公来日に合わせ1869年に急ごしらえでつくった。その後雅楽版、ニ長調の曲、トランペット曲を経て1888年林廣守作曲で落ち着いた。なお歌詞は古今和歌集読み人知らずで、変わっていない。
まず「君が代幻想曲」の初演演奏が行われた。日唱から「オリンピック・イヤーでもありなんとか君が代をモチーフに」という委嘱で作曲したそうで、5つのシーンから成り最後は「悠久」で締められた。「日の丸・君が代」というと、個人的には複雑な思いがあるが、合唱団の名が「日唱」なのだから、まあ仕方がない。
最後の「キラキラ星で世界旅行!」はアジア、南北アメリカ、アフリカから地中海、ドナウ川流域のヨーロッパ(主として東欧・中欧)と4つの地域を1地域4-5か国で回る。それぞれの国を表すために、キラキラ星のメロディをその国(あるいはその音楽)の音階っぽい音やリズムで歌われる。たとえばドナウ川流域のヨーロッパは、ブルガリア(ブルガリアンヴォイス風 女声)、ポーランド(ポロネーズ風 女声)、ハンガリー(ハンガリー舞曲風 女声)、オーストリア(ワルツ風 混声)の4曲だった。
観衆にとっては、音楽世界旅行で、それも女声合唱あり混声あり、主題+18変奏の合計19曲、しかもメンバーによるマラカス、タンバリン、カスタネットなどの伴奏付きで、楽しめた(うち11を合唱ではないが、このサイトで聴くことができる)。
作曲家(編曲家)にとっては楽しい「遊び」のようなものかもしれない。ただ指揮者はどうまとめるか困ったのではないかと思った。たとえばフランス(メヌエット風)、スペインなど混声のヨーロッパの曲はさすがは日唱なのでうまいが、ブルガリアンヴォイス風やアメリカ(ゴスペル風)などは、それらしい曲に仕上がっているとはいえ、もっと専門的にやっている団体の演奏を知っているので、もうひとつという感じがあった。逆に遊びの音楽に徹した演奏にすれば、まさに冗談音楽になってしまう。また、歌手の方々もいろんな言語、いろんな音楽スタイルが出てくるのできっと大変だっただろうと思う。

ホールはこの建物の5階にある
アンコールは「ありがとう」(作詞:鹿目真紀)だった。当初首藤さんと大学同期のソプラノ歌手のアンコール曲として作曲され、その後、混声や女声二部などいろんなバージョンがつくられた。Nコンの課題曲になっても不思議でないようないい曲だった。
合唱団後方の幕が開き、透明ガラスを通して、豊洲の高層ビルの夜景が見えるようになっていた。1時間半ほどのコンサートだったが、なかなか楽しくいい夜だった

会場周辺の高層ビル群
豊洲シビックセンターホールは席数300。合唱団のコンサートでしばしば利用される。わたくしも、コーラス蝶ちょうという混声合唱団(もちろんアマチュア)の定期演奏会を聴いたことがある。
豊洲は、もとは関東大震災の瓦礫などで大正末から昭和初めにかけてつくられた埋立地(五号地)である。1939年IHI(石川島播磨重工業)の造船所がつくられたが、2002年閉鎖し、三井不動産などが再開発した。リバーサイドにあるので、IHI本社ビル、日本ユニシスなどのオフィス街とららぽーと豊洲などの商業施設、タワーマンション、学校、病院などが立ち並ぶ。
豊洲シビックセンター(豊洲文化センター)は、地下鉄豊洲駅のすぐ近くにある12階建ての建物だ。3階に区の出張所、4-8階がホールを含む文化センター、9-11階が図書館、12階は屋上広場(ただし一般公開していない)の複合施設になっている。
高さ70mなのでそこそこ高いが周囲の高層ビルが150-180mあるのでむしろ小さく見える。それでも9階から周囲を見るといい景色だった。
ビルの入り口に白虎のモニュメントがあった。なぜだかわからなかったが、豊洲は江東区の西方に位置するので、四神のひとつ、区の西方の守り神だそうだ。

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