S多面体

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」のショート版

新春の築地周辺 江戸から明治を思い浮かべつつ

2022年01月07日 | 日記

新型コロナ感染者再急増へ向かいつつある新年、近所の波除稲荷神社と鉄砲洲稲荷神社へ初詣に行った。とはいっても両方とも長蛇の行列だったので、心のなかで「よい年になりますよう」と念じ、行列を眺めて帰宅しただけなのだが・・・。

波除神社は1659(萬治2)年創建、旧・築地市場海幸橋入口脇にある。場外市場のいちばん外れである。
境内には活魚塚、海老塚、鮟鱇(あんこう)塚、すし塚、玉子塚、昆布塚などの石碑が並ぶ。変わったものでは吉野家碑がある。戦災復興後1号店を場内市場で開店したからだそうだ。
夏祭りは6月の土日で、3年に1度本祭、残り2年が陰祭で本祭には黒い天井大獅子(雄 幅3.3m)、朱色のお歯黒獅子(雌 幅2.5m)1対の獅子が登場するが、陰祭はどちらか1基のみという違いがある。本殿に向かって左右対称の獅子殿(雄)と弁財天社(雌)に1基ずつ展示されている。

鉄砲洲稲荷神社の創建は1624(寛永元)年、江戸初期である。湊1丁目の南高橋の近くにある。前身は別の場所にあったようだが、埋立が進み、この場所に遷座したとのことだ。諸国から米・塩・酒・薪・炭などが鉄砲洲や新川に荷揚げされた。湊も新川2丁目も氏子のエリアだ。本殿北の奥に富士山の溶岩で築いた高さ5mもの富士塚がある。富士信仰の場として有名だったそうだ。
中央区には新富座こども歌舞伎という団体があり、例年5月の子どもの日と11月3日に白浪五人男や寿式三番叟などの公演をこの神社の神楽殿で行っている。

昨年12月築地居留地研究会の報告会で菅原健二さん(東京都市史研究家、司書)の「居留地があった街をたどる」という講演を聞いた。
江戸時代初期にはこのあたりは全部海だった。家康が家臣とともに入城した1590(天正18)年、江戸の人口はわずか1万人程度だった。家臣の家族、参勤交代による諸国大名の江戸屋敷在住者、70年に及ぶ城下町建設の労働者、全国から集まった商人と職人などで1650年代には30万都市、文化文政期(1803-1830)には130-140万人へと急速に人口が増大していった。そこで海岸側への埋立てと当時の物流は舟運が主流だったので堀や運河づくり、さらに全国から物資を輸送し商品を取り扱う河岸づくりといった都市の基盤整備が、急務かつ重要になった。昨年、東京海洋大学の「船が育んだ江戸」展を紹介した記事で、関西や上州からの物資運送に触れたが、受け手である江戸も舟運の基盤整備が必要だったのだ。
まさに築地や八丁堀はそういう河岸地域だった。
明暦の大火(1657 振袖火事)で浅草(現在の横山町)にあった本願寺が、海を埋立て築地に再建されたのが1679年、そのとき築地一帯も造成された。築地周辺は大名や旗本の下屋敷が圧倒的に多く、町人が住む地域は1割程度に過ぎない。下屋敷といっても、国元各地の特産品を船で運び、出入りの専門問屋に売り捌かせるところだった。武家地では河岸とは呼ばず物揚場だったが機能や形態はほぼ同じだった。

かつて新川周辺には酒問屋が多かった(永代橋から下流を望む)
一方、諸国の廻船を相手に商売し、乗組員に水や野菜、小間物を供給する場でもあった。河岸は、荷揚場兼市場だったので、多様な業種の問屋が集まる賑わいある街として発展した。ちなみに河岸は海岸だけでなく飯田橋から神田までの神田川沿い、江戸城に近い外濠川沿い、日本橋から湊への日本橋川沿いにもたくさんあった。また幕末の沿岸防備用砲台というと品川のお台場が有名だが、浜離宮の南東や明石町にも構築されたそうだ。

東京初のホテル、築地ホテル館があった場所(勝どき橋から下流を望む)
幕末になると、黒船が来航し横浜、神戸などに居留地を開設することになったが、江戸は一番最後、1968(明治元)年に築地居留地(明石町)が開設された。貿易では繁栄しなかったが、教会、公使館、ミッション系の学校がたくさんできた。また外国人宿泊者のため、1868年築地ホテル館が開業したが、1872年火災で焼失した。
ホテルのあった場所は、元は幕府の御米蔵があったが、汐風で米がふけ、あまりよい場所ではないので浅草に移転し、幕末の1857年には幕府の軍艦操練所となった。ホテル閉鎖後、築地市場の閉鎖時点では立体駐車場として使われていた。その南隣にあるのが波除神社である。

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半田滋の証人尋問「安保法制は天下の悪法」

2021年12月15日 | 裁判

12月10日(金)11時から東京高裁101号法廷で、安保法制国賠訴訟控訴審第5回口頭弁論・半田滋さん(元・東京新聞論説委員)の証人尋問があった。
じつは半田さんの尋問は4月26日に一度行われたが、当時の白石史子裁判長が8月末に札幌高裁長官に転任し、その他1人転勤もあり、渡部勇次裁判長(前・水戸地裁所長)に直接聞いてほしいと、規定に基づき再度の尋問を要請し認められたものだった。
法廷内なので、もちろん録音はできず、わずかな自分のメモのみに頼っているので、アウトラインの紹介にとどめる。時間は45分程度だったが、「スタンド・アウト」「第一列島線」「オリエントシールド21」など「業界」用語が多くわたしには苦手のジャンルなので、「用語」をメモするだけで手一杯になってしまった。帰宅してからネット検索し、意味合いを辿ることになった。幸い、報告集会の動画があるのを知り、それらをもとにアウトラインを書いてみた。はじめから言い訳になるが、いろいろ間違いがあるかもしれない。

●安保法制前後で何が変わったか
自衛隊の実力行使は、相手方からのわが国に対する武力攻撃を受けて開始される受動的なもの、つまり専守防衛が原則だった。
ところが、2015年9月の安保法制制定で集団的自衛権行使が認められ、これまでの専守防衛という方針が一変した。その1年前2014年7月閣議決定で集団的自衛権の容認、これを受け15年4月の日米安全保障協議委員会(2+2)で、日本以外の国に対する武力攻撃も「日本と密接な関係にある他国」なら自衛隊の実力行使(武力攻撃)ができる新ガイドラインを結び、9月に安保法制制定を強行した。
これまでは外国で武力行使はできないことになっていたが、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ」る(存立危機事態)なら自衛隊が武力行使できる(武力行使の新3要件)ことになった。日本への侵略と無関係に戦争に巻き込まれ、ガイドライン改訂で米軍を守るため自衛隊が世界のどこででも武力行使することになった。そして日本だけ離脱することはできなくなった
また後方支援といっても、戦闘現場以外なら他国軍の戦闘機への洋上や空中での給油や武器・弾薬の輸送もできることになった。

●安保法制成立で自衛隊の装備がどう変わったのか
装備における変化もあった。これまでは専守防衛なので、ICBM(大陸間弾道弾)、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母を日本が持つことはできないとされていた。1988年瓦力防衛庁長官(当時)が国会でそう答弁した。
しかし防衛省は2018年度防衛予算で高速滑空弾スタンドオフミサイルの研究を開始した。射程400㎞というが射程は日本の技術力なら容易に伸ばせる。昨年12月には1000キロまで伸ばすことになった。また空母化した護衛艦「いずも」「かが」に垂直離着陸するステルス戦闘機「F35B」を搭載できるよう改修している。2020年に日本はアメリカからF35を105機も大量購入することを決定し5年後には日本に届く。それまでは米海兵隊のF35Bで訓練するが、今年10月岩国基地のF35B2機が「いずも」で着艦訓練を実施した。

●安保法制成立で、自衛隊の訓練がどう変わったのか
運用面でも、いままでは日本だけを守ればよかったが、「自由で開かれたインド太平洋」実現(安倍晋三・元首相)のために、インド洋や南シナ海で海上自衛隊の護衛艦が米軍と共同訓練をするようになった。中国軍の海南島潜水艦基地を想定するかのように、潜水艦「くろしお」「しょうりゅう」を南シナ海に送り込み訓練している。「地域の平和と安全を守る」というとき「地域」とはインド洋や南シナ海のことである。

●台湾有事の可能性、自衛隊に何が起こっているか
米軍と中国軍が台湾をめぐって戦争をするのではないか、いわゆる台湾有事が大問題になっている。
アメリカは1979年の台湾関係法で台湾との軍事的関係は持ち続けるが、側面支援だけで防衛義務はないことにしていた。ところがトランプ大統領が台湾への武器の大量売却を始め、バイデンは人的交流まで始めた。中国には不満がたまり、今年10月1日の国慶節から中国軍用機が連続4日、台湾の防空識別圏に侵入しその数、合計149機に及び、強烈な軍事的圧力を加えるまでになった。
アメリカでは台湾有事が6年以内に起きるだろうといわれる。言い始めたのはインド太平洋軍のフィリップ・デービッドソン司令官(当時)の今年3月の議会証言だった。中国軍が接近阻止(武器の現代化)を達成するのが2027年、一方習近平主席の3期目任期終了が2027年ということで軍事的・政治的ピークが6年、その6年目あたりが一番危ないということだ。
アメリカは1987年のINF全廃条約でこの地域に中距離核ミサイルを持たないが、中国は1250発を保有し地政的に有利だ。それでアメリカは中国の第一列島線にある基地を活用しようとする。しかしフィリピンには置けず、韓国は中朝との問題があり、台湾は当事国なので、日本の沖縄・奄美・宮古など南西諸島を重視する。
今年6月の米陸軍との実動訓練「オリエントシールド21」で米陸軍ペトリオット部隊が奄美大島で初展開した。11月には統合幕僚長とインド太平洋軍ジョン・アキリーノ司令官が那覇基地や与那国駐屯地、奄美駐屯地などを視察した。
台湾は日本からみると国ではなく一地域なので「日本と密接な関係にある他国」にはなりえない。ところがアメリカが絡むと話が変わる。米中で軍事衝突が起こり、米軍に死傷者が出たり戦闘機が撃墜され、米軍の抑止力が弱まれば日本の「存立危機事態」となる。
バイデンは10月に、台湾を守る義務はないが台湾を守るとテレビで明言した。台湾有事になれば米軍が参戦し、日本の「存立危機事態」として自衛隊を送り込み米軍とともに中国と戦うことになる。そうなると中国にとって日本は敵対国となり、中国が保有する1250発の中距離ミサイルが降り注ぐ。そうなると台湾有事がシームレスに日本有事になってしまう。ひとつの法律ができたことで、わたしたちの生活や安全が破壊されてしまう

●防衛省・自衛隊取材30年
防衛省・自衛隊取材を続けて30年になる。そしてわかったのは、自衛隊の幹部はきわめて順法精神が強い人たちだということだ。安保法制ができて、訓練の範囲が拡大した。アメリカの戦争にまきこまれ隊員が命を落とすことにもなりかねない、本来、日本人を守りたいと思っていたはずなのに、たった一つの法律が制定・施行されたため不本意な結果をもたらすことになる。
安保法制は天下の悪法というしかない

裁判所正門。白い布の部分に、右写真のような「裁判所」のプレートがあるが、なぜかこの日は隠されていた
証言が終わると、傍聴席から拍手がおこった。普通、裁判官は制止するがこのときは何もしなかった。3人の裁判官も聞き入っているようにみえた。
11月30日(火)午後、安保法制違憲差止め訴訟控訴審で宮崎礼壹・元法制局長官の証人尋問を聴いた。宮崎さんはPKO法、周辺事態法、2003-04年の有事法制、イラク特措法などで憲法適合性など法令審査に携わった人物だ。安保法制について、他国防衛のための武力行使は9条違憲だし、従来政府自身が防衛予算の国会審議のつど「集団的自衛権は違憲」と述べてきた、と明言された。

次回は2月4日(金)14時、裁判は90分だが、80分の枠で最終弁論が行われる。

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侵略に耐えたアイヌの歌や踊り

2021年12月01日 | 展覧会・コンサート

 

11月27日(土)午後、有楽町マリオンでアイヌ文化フェスティバル2021(主催:公益財団法人アイヌ民族文化財団をみた。
アイヌは北海道の先住民族で、固有の文化を発展させた。この日の演目は、口承文芸、紙芝居、舞踊、音楽の4つだった。内容が芸能なので、写真や動画で紹介するのが最適だが、残念ながら場内撮影はいっさい禁止だった。録音禁止は著作権の関係もあり仕方ないが、撮影はフラッシュを焚かなければよいのではないかとも思うが仕方ない。下記の出演者の写真はすべてプログラムからであることをお断りする。

山田良子さんは曾祖母がアイヌで、千歳市在住。千歳アイヌ文化伝承保存会に所属。口承文芸というものの、わたしには歌に聞こえた。「良子のヤイサマ(即興歌)」と「新冠イヨンノッカ(子守唄)」「千歳のイヨンノッカ」など4つの子守唄だったからだ。楽譜がなく、口移し、言い伝えで伝承するということなのかも。オホルルルル、トゥルルルルなど巻き舌を使って声をふるわせる発声が独特だ。

三橋とら紙芝居は「サランポ」(アイヌのエコバッグ)と「武四郎物語り」。サランポは魚、山菜、弁当などを入れるカゴで、シナやオヒョウの木の樹皮を剥ぎ取り、洗い、晒し、干し、ほぐして糸にし、直径10-30センチに編み上げたもの。北海道の名付け親・松浦武四郎(1818-1888)は三重県松阪の生まれ、16歳から旅を始め、1844年から蝦夷地探検をスタートする。1869(明治2)年北海道と名付け、アイヌ文化の紹介も行った。
演者の三橋さんは、東京都荒川区出身、どうもアイヌとの関わりはないようだ。母も紙芝居師で跡を継いだという。

アイヌルトムテは、釧路市出身者とその家族のグループで、名前は道を照らすという意味だそうだ。この日舞台に上ったのは8人、うち男性が1人だった。古式舞踊となっていたが、踊りだけでなく歌も歌えば、ムックリ(口琴)も演奏していた。他との違いは、(1、2人でなく)グループで演じている点だった。
舞踊なので、立って踊るのがメインだが座り歌や輪になって踊るものもあった。
アイヌはあらゆるものに魂が宿ると考え、動物や水・風など自然になりきる踊り、たとえばツル、キツネ、クジラ、バッタ、トドマツ、ハンノキなどを表現したり、狩猟を描写したり、豊穣を祈る踊りなどがある。

カピウ&アパッポは姉・床絵美と妹・郷右近富貴子の阿寒湖の姉妹デュオで、アイヌ語でカピウはカモメ、アパッポは花の意味だそうだ。口琴ムックリと撥弦楽器トンコリの演奏も交え歌を歌った。トンコリは琴をタテにしたような楽器だが、フレームはなく弦をただはじくだけのようなので、5弦であれば音は5音しかないらしい。したがってシンプルな音楽だったが、音はとてもクリアーだった
「眠くなる音楽」との解説があったが、シンプルなのでたしかにそのとおりだった。
最後に、演奏者全員が登場し、輪踊りや歌を歌ってフィナーレとなった。2時間半弱(休憩20分含む)のステージだった。
「ヘイホー」「ヤッセー、アッセイ」など日本の民謡の掛け声に似た歌詞、こぶしを回すような歌い方、朗々とした声など日本の民謡大会を聞くような気がした。そういえば盆踊りに似た手の振りもみられた。これなら民族音楽や民謡を聞く芸能コンサートとそう変わらない。

しかしプログラムとともに配布された「アイヌ民族――歴史と文化(2021.3 A5判 40p  公益財団法人アイヌ民族文化財団 以下ページ数はこのパンフのもの)を読んで考えさせられることが大きかった。
アイヌの祖先は擦文人オホーツク(文化の)人だが、アイヌ文化の成立は12-13世紀といわれる。史料のうえで確認できるのは15世紀なので、日本中央の室町時代、それほど遠い昔ではない(p4)。15世紀のコシャマインの戦い、17世紀のシャクシャインの戦いなどで和人に反抗したが、和睦の際のだまし討ちで支配下に置かれ漁場労働を担うことになる。支配体制は、徳川幕府直接統治の時期と松前藩統治の時期が交互にあった。
アイヌはもとは昆布、干サケ、ニシンを収穫し、本州からの鉄製品、漆器、酒などと交換する交易者でもあった。しかし松前藩が支配すると、和人の商人に商場を運営させ手数料を取る場所請負制に入れ替わった。アイヌは交易者の地位を奪われ、商人がアイヌに低賃金で過酷な漁場労働をさせるようになった。幕府はロシアへの対抗もあり、髪形、着衣、名前などを本州風に改めることを強要し、耳飾り、入れ墨、クマの霊送りなど伝統的な風俗・習慣を禁じようとし強い反感をかった(p7)
維新後の1869(明治2)年、新政府は蝦夷地を北海道と呼び改め一方的に日本の一部にし、アイヌを「平民」とする戸籍を作成した。開拓使はアイヌ民族の言語や生活習慣を事実上禁じ、和風化を強制した。またアイヌの土地や資源を取り上げ、サケ漁やシカ猟を禁止した。開拓優先の政策でアイヌの人は食べるものにも困るようになった。また1875(明治8)年の千島・樺太交換条約で、サハリン(樺太)や千島に住んでいたアイヌの人たちを北海道や色丹島に強制移住させた(p8)
1899(明治32)年、アイヌの生活困窮が極まると政府は北海道旧土人保護法を制定した。これは農業のための土地を「下付」し、日本語や和人風の習慣による教育でアイヌ民族を和人に同化するものだった。しかしアイヌ民族への土地下付の上限が1万5000坪だったのに対し和人へは150万坪を限度に開墾した土地を無償で払い下げるもの(1897年の北海道国有未開地処分法 1872年の北海道土地売貸規則では和人1人に10万坪)だったので、明らかな民族差別だった。また学校も和人児童とは別学が原則で、アイヌ語など独自文化を否定し、教育内容にも格差が設けられた(p8-9)
このあたりまで読むと大日本帝国の朝鮮への植民地支配の歴史や敗戦後の朝鮮学校への仕打ちとほとんど同じであることに気づく。土地を取り上げ移住させ、名前や文化を奪い日本人風にする。職まで奪ったことは知らなかったが、生活に困窮したため朝鮮から日本本土に移住し、日本人があまりやりたがらない鉱山、道路工事、ダム建設、炭鉱労働に就かざるをえなかったことは、同じかもしれない。植民地経営は、明治後期に始まったわけでなく、明治初期あるいは江戸時代に北海道で練習した「成果」だったわけである。
おそらく島津の琉球征伐や1879年の沖縄県設置もアイヌ支配と類似していると考えられる。

こうした歴史を背負った芸能・文化だと思って、思い返すと違う光景が見えてくる。 
また舞台で、紙芝居師の三橋とらさんが「自分が何民族か、考えたほうがよい。しかし答えはまだ出ない」と語っていた。たしかに自分の国籍はわかるが、民族というとなにかピンとこない。「民族」という言葉からは、ナチスの「ゲルマン民族(アーリア人)、映画「民族の祭典(1838)が思い浮かぶ程度だ。
わたしはアイヌのことをほとんど知らない。思い返しても、学生のころ北海道旅行に行き、阿寒湖の観光施設で舞踊や芸能をみたこと、1年半くらい前に東京駅近くのアイヌ文化交流センターをみに行ったことくらいの知識しかない。
今後、アイヌ差別を、沖縄や朝鮮、台湾、中国東北部、その他アジアへの日本の「侵略」の歴史と並行してながめ、考えるようにしたい。 

☆上記のパンフのほかに、もう1冊「人権の擁護(2021.8 A5判 64p 法務省人権擁護局)が入っていた。12月4-10日が人権週間ということもあるのだろう。主な人権課題として、女性、子ども、高齢者、障害のある人のほか、アイヌの人びと、差別、感染者等(HIV・肝炎)、ホームレス、北朝鮮当局によって拉致された被害者等、17の課題が列挙されている。
「アイヌの人びと」の項には、「近世以降のいわゆる同化政策等により、今日では、その文化の十分な保存・伝承が図られているとは言い難い状況」とあり、「アイヌの人びとに対する理解を深め、偏見や差別をなくすことが必要です」と訴えている。
しかし17のなかに在日朝鮮人の項がない。「外国人」はあるが、内容をみると欧米、ブラジル、中国、東南アジア、中近東、アフリカなど一般的な外国人差別のようにみえる。「ヘイトスピーチを許さない」にはもちろん賛成だ。しかし特別永住者を含め75万人(2020末)もいるのに1ジャンルとして在日朝鮮人がないのはどうも変だ。
考えてみると、自公政権が率先して高校無償化除外など差別政策を行っているのだから、法務省で扱うことがそもそもムリなのかもしれない。

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キラリと光る香川のスモール・ミュージアム

2021年11月19日 | 旅行

新型コロナ流行の間隙を縫い四国4県で、唯一観光旅行に行っていない香川県へ旅をした。観光旅行なので、高松は栗林公園や屋島、そして村山壽子(かずこ)の足跡(こちらを参照)、琴平はこんぴら詣、観音寺は今は亡き大林宣彦監督の「青春デンデケデケデケ(1992)ロケ現場巡りくらいしか頭になかった。
香川は「うどん県」として知られ、たしかに麺はうまかったが、旅から戻り思い返すと、キラリと光る(少しオーバーかも)スモール・ミュージアムがたくさんあったことに気づいた。キラリと光るというのは、予想をはるかに上回る充実したコレクションを保有するという意味だ。ミニでなく「スモール」と表現したのは、床面積がかなり広く(東京によくある)ミニ・ミュージアムとはいえない規模だったからだ。こうした観点から、たまたま訪れたいくつかのミュージアムを紹介する。ただ博物館見学を目的に行ったものではなく、通りすがりに見かけたという程度なので、残念ながら詳しく紹介することはできない。また記憶違いも含まれているかもしれない。

●高松の菊池寛記念館

記念館入口。内部は残念ながらほとんどのスポットが撮影禁止だった
中央図書館と同じ建物にある。わたしは「郷土ゆかりの作家コーナー」の村山籌子のパートをみるのが目的で、他はついでにみるだけのつもりだった。菊池寛の生い立ちと生涯、生原稿、数々の写真があるのは当然だが、芥川賞直木賞菊池寛賞の受賞作品、作家肖像写真、サイン本などが回数順に並んでいる。
1950年代は安部公房、堀田善衛、遠藤周作、大江健三郎などいまや日本文学史クラスの作家・作品が並び、70年代は古井由吉、村上龍、高橋三千綱などわたしがいちばん熱心に小説を読んでいたころの作品、2000年代になると、いちおう読みはしたもののそう面白く感じなかった作品の時代になる。菊池寛賞は芥川賞・直木賞に比べると地味だが、文芸だけでなく映画、評論、新聞記事、文化活動団体など受賞対象の幅が広く、社会的意義が大きいと思った。
全作品展示されているのかどうかまでは確認していないが、かなりの作品がカバーされているようだった。時代の変遷を体感できる貴重なコレクションである。

●栗林公園商工奨励館

ジョージ・ナカシマのテーブルと椅子
かつての香川県博物館を改築したかなり大きいスペース(延床面積1262平方m)の建物。「讃岐うどん」の歴史や発展を紹介するコーナーは充実していた。香川のうどん店は、製麺所、セルフ、一般店の3タイプがありセルフが54%だそうだ。入ってみてわかったが、社員食堂のように早くて安くたしかに合理的システムなので、日本中に普及すればよいと思った。
それ以上に、わたしが注目したものが2つあった。
ひとつは香川漆器の展示だった。たまたま高松高校の近くを通りかかり、無料というので入った香川県漆芸研究所の実習作品展のコーナーで香川の3技法(蒟醤(きんま)、存清(ぞんせい)、彫漆(ちょうしつ)を知ったばかりだったせいもある。いままで金沢が中心の北陸の漆芸は知っていたが、香川でも地域に漆芸が根付いているようだった。きっと県立ミュージアム市美術館にも名品が収納されているのだろう。
もうひとつは風通しのよい2階でみたジョージ・ナカシマのテーブルや椅子だった。ナカシマはアメリカ生まれの日系2世、彫刻家・流政之に誘われて1964年高松の工房を訪ね、讃岐民具連の活動に賛同しメンバーに加わる。68年ミングレン(民具連)シリーズの家具を発表した。レベルの高い家具が置かれていた。
高松市牟礼町にジョージナカシマ記念館があるそうだ。

●琴平の「金陵の郷

金刀比羅宮への参道を歩き始めてすぐ右側に大きな門があり、奥に白壁の酒蔵が見える。西野金陵のミュージアムだ。歴史館には江戸時代の酒造りの作業工程や道具を展示し、文化館では徳利や盃のコレクションが並んでいるのだが、コレクションが半端な数ではない。よほど熱心な方が担当し集められたのだろう。
金刀比羅宮・表書院の6つの間に飾られた円山応挙の障壁画も見事だった。鶴之間の遊鶴図や虎之間の遊虎図が有名だが、七賢、山水、瀑布も見事だった。応挙の55-62歳の最晩年の作が多く、円熟の域に達している。ほかに頓田(むらた)丹陵の富士や頼朝一行が鹿を追う図があった。いくつかあった庭のながめもよく、気に入った。

●観音寺の大平正芳記念館

観音寺の琴弾公園のなかにある。大平は三豊郡和田村(現観音寺市)で1910年に生まれた。高松高商から東京商科大学(現・一橋大学)、大蔵省へ。池田隼人の秘書官から1952年政界入り。池田とともに歩み、いま岸田首相で有名になった宏池会に所属、同じく大蔵出身の前尾繁三郎の跡を継ぎ71年宏池会会長、78年三角大福の最後に首相就任。しかし80年の衆参同日選挙の最中病気で倒れ急死した。選挙は同情票により自民が大勝した。
展示されていたのは、大平の70年の足跡は当然だが、書き残した多数の色紙、礼服、使っていたパスポートなど多様な遺品などで、よく収集・整理したものだと思った。
かつて、大臣秘書官から政治家、総理へという道があったことを再認識した。大平は池田の側近だったとよくいわれる。しかし大平はそれより先45年に坂出出身かつ大蔵省の先輩、津島壽一の秘書官を務めている。大平は津島に勧められ大蔵省に入省したので、ある意味恩人である。
記念館の下のフロアに世界のコイン館がある。わたしは日銀の貨幣博物館をみたことがあるので、チラッと一回りしただけだったが、日銀は日本の貨幣が中心なので、ここで世界の紙幣や貨幣をよくみれば何か発見があったかも、と後で思った。また隣接する総合コミュニティセンター1階に観音寺のまつり、きらびやかなちょうさの太鼓台の山車が展示されている。これも見ものだ。

財田川と琴弾橋(レンガ橋)。観音寺は川と橋がきれいな町だった
ホスピタリティという点では、道を歩く市民も、店の人も、ホテルの人も、観光協会の方も、みなとても親切だった。たとえば店で道を尋ねると「わたしにはわからないので、知っておられそうな店に案内しましょう」と20mほど先の別のお店に同行してくださる人もいた。お遍路さんをもてなす文化があるので、その「伝統」がいまも生きる地なのかもしれない。
なお、高松と観音寺で、レンタサイクルを利用したがとても効率よく移動することができた。ただし(香川には限らないが)車社会のため、道を聞くため道を歩いている人をみつけるのが大変で、たまたま車が止まっていると近くに運転している人がいないかチェックしその方にお聞きするようにしていた。また歩いているとき、結構なスピードで車が横を通過していき、少し驚かされた。そういう苦労があった。

井上の梅干し入り山菜うどん(左)と平岡のえびカツ。うどんの左は好きなだけトッピングできる天かすの丼
☆香川にいる間に、うどんを3店で食べた。県のシンボルだけのことがあり、どの店も麺にコシがありうまかった。そのなかから琴平の「うどんや井上」を紹介する。
この店はNHKの鶴瓶の「家族に乾杯」で知った。場所は表参道を抜け、川を渡り新町商店街も終わるかと思われるあたりの小さい路地を40mほど入った目立たない場所にある。「うどんや」という紺地しろぬきののれんが出ている店で、席もカウンター3席、4人がけテーブル2つだけの小さい店だ。メニューもぶっかけ、かまたまなど7種類しかない。山菜うどん(500円)を注文した。麺も山菜もうまかった。変わっているのは梅干しが入っていたことだ。この店の出汁は魚ベースで、関西育ちのわたしにはすこし薄いように思えた。それが梅干しがちょうどよい塩気を与え大変おいしかった。聞くとぶっかけにはレモンを一切れ入れているそうだ。ママさんの味のセンスがよいようだ。
帰りに井上から200mほどの平岡精肉店に立ち寄り、えびカツ(190円)をひとつ買った。エビの食感が本当にありうまかった。この店も鶴瓶が立ち寄り「そこのイスに座ってムシャムシャ食べていた。テレビで見るのとちっとも変わらない気さくな人だった。ロケのときには、中高校生が店の近くにたくさん見に来ていた」と話してくれた。お二人とも番組の話をすると、顔がほころんだ。笑顔の女性をみるのは、こちらも心が温かくなりよいものだ。 

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ショウビジネスを目の当たりにできたワハハ本舗の「王と花魁」

2021年11月09日 | 演劇

WAHAHA本舗劇団東京ヴォードヴィルショー出身の6人、喰始柴田理恵久本雅美らがつくった劇団だ。37年の歴史をもつ有名な劇団で喰始の名はしばしば耳にしていたが、わたしはまだ一度も観たことがなかった。

新宿文化センターの開演時間は14時なのに開場は13時、なぜこんなに早いのかと思いながら、いつもより早めの40分前に到着するようにした。すると、すでにロビーに客がいっぱいいてマスクに絵を描き写真を撮っている。ワハハでは「マスクdeエール」という自分自身に向けエールを送ろうというプロジェクトを展開中だそうだ。
小林幸子のマスクは「早くみんなで歌いたーい!」、その他キャイーン、松村邦洋、鈴木杏樹、シェリーらのマスクも展示されていた。ビデオは芝居のエンディングで放映される可能性もあるとのことだった。

平日昼間だったせいもあるだろうが、70歳前後の高齢客が多かった。歴史があるのでなじみ客、常連客が多いようだった。しかも新型コロナ流行のせいで、この全体公演は1年半延期、前回の全体公演から4年ぶりとのことで、よけいに多く客がやってきたようでワハハ祭りの様相だった。
客が高齢だからか、ネタも昭和のなつかしネタ、たとえば「笑点」「11PM」などのテレビ番組、クレージーキャッツ、ザ・ドリフターズなどのネタが満載だった。
王と花魁」の幕開けはいきなり、宝塚の大階段のようなダンスで、ふつうの劇団ならカーテンコールの雰囲気でびっくりした。
2部構成で、いちおう第1部はジャズと男花魁、2部は東京オリンピック2020ということになっているようだ。
1部90分の出し物は、昭和のなつかしのテレビ番組「笑点」「11PM」「朝ドラなど」の3チームに分かれた対抗コント、久本・柴田2人だけの応援団、昭和のギャグ(例 「新婚さんいらっしゃい」「アジャパー」「シェー!」「ガッテン」「スチャラカチャンチャン」など)、柴田の一人芝居(宍戸梅軒の妻、秀吉、演劇ファンの男と女など)、宝塚ドリフ組の歌とダンス、裸スーツ着用男女グループのダンス。
10分休憩で2部60分は東京オリンピックのファンファーレと古関裕而作曲のオリンピックマーチで始まる。出し物はオリンピックの各競技(走り幅跳び、三段跳び、ハンマー投げ、バスケットボール、フェンシング、競歩、空手、スポーツクライミングなど)のパントマイム、実際のオリンピック開会式で披露されたピクトグラムのパントマイムと少し似ていた。久本の独り舞台「This is me(私は私)」かつて年齢を2歳サバを読んでいたこと、など一種の(自分の)恥のさらけ出し、梅ちゃん(梅垣義明)の歌謡ショー、「白波五人男」の歌舞伎ミュージカルなど。

エンディングは泉谷しげるの新曲「風の時代」で、バックに客が描いた手作りマスクが映し出された。サビの歌詞「風の時代を生きよう、新しい君とともにどこにいても生き抜く力を風の時代を(Ah-)生きる」が力強かった。
柴田と久本の二大スターを中心に展開されていることがよくわかった。
わたしはシナリオで演劇をみるタイプ(たとえば井上ひさしや平田オリザ、古くはつかこうへい)なので、こういう構成の芝居はちょっとなあ、という感じだった。しかしファンにとってはこういう盛りだくさんの学芸会風のショウは、見どころ満載で大満足なのだろう。
ただわたしも、歌、ダンス、殺陣などのレベルが高いことは十分に認める。年長の役者は60代以上だが、若手も(少なくともダンスでは)しっかり育っているようだった。
それ以上にわたしが注目したのは、照明、音響、衣装、美術などいわゆる裏方のレベルが非常に高いことだった。ヴァイオリン独奏もすごくレベルが高かった。わたしにはわからないが、三味線・尺八など邦楽器もレベルが高いのだろうと思う。
なおわたくしの席は2階席の後ろのほうだったので、役者の表情がほとんどみえず、高い場所なので声も一部聞き取りにくかった。もう少しいい席なら、役者の表情や演技がよく見えセリフもはっきり聞こえ、印象がよくなった可能性がある。

喰は5年も前の本で「「ワハハ本舗」はお笑い集団と取られていますけど実際はショウビジネスを舞台でやっているんです。ダンスあり、チャンバラあり、ほかではやらないようなことをやっている」と語っている(「赤塚不二夫生誕80年企画 バカ田大学講義録なのだ!」2016.7 文芸春秋)。きっとそういう劇団なのだと思う。
 
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