新型コロナ感染者再急増へ向かいつつある新年、近所の波除稲荷神社と鉄砲洲稲荷神社へ初詣に行った。とはいっても両方とも長蛇の行列だったので、心のなかで「よい年になりますよう」と念じ、行列を眺めて帰宅しただけなのだが・・・。
波除神社は1659(萬治2)年創建、旧・築地市場海幸橋入口脇にある。場外市場のいちばん外れである。
境内には活魚塚、海老塚、鮟鱇(あんこう)塚、すし塚、玉子塚、昆布塚などの石碑が並ぶ。変わったものでは吉野家碑がある。戦災復興後1号店を場内市場で開店したからだそうだ。
夏祭りは6月の土日で、3年に1度本祭、残り2年が陰祭で本祭には黒い天井大獅子(雄 幅3.3m)、朱色のお歯黒獅子(雌 幅2.5m)1対の獅子が登場するが、陰祭はどちらか1基のみという違いがある。本殿に向かって左右対称の獅子殿(雄)と弁財天社(雌)に1基ずつ展示されている。
鉄砲洲稲荷神社の創建は1624(寛永元)年、江戸初期である。湊1丁目の南高橋の近くにある。前身は別の場所にあったようだが、埋立が進み、この場所に遷座したとのことだ。諸国から米・塩・酒・薪・炭などが鉄砲洲や新川に荷揚げされた。湊も新川2丁目も氏子のエリアだ。本殿北の奥に富士山の溶岩で築いた高さ5mもの富士塚がある。富士信仰の場として有名だったそうだ。
中央区には新富座こども歌舞伎という団体があり、例年5月の子どもの日と11月3日に白浪五人男や寿式三番叟などの公演をこの神社の神楽殿で行っている。
昨年12月築地居留地研究会の報告会で菅原健二さん(東京都市史研究家、司書)の「居留地があった街をたどる」という講演を聞いた。
江戸時代初期にはこのあたりは全部海だった。家康が家臣とともに入城した1590(天正18)年、江戸の人口はわずか1万人程度だった。家臣の家族、参勤交代による諸国大名の江戸屋敷在住者、70年に及ぶ城下町建設の労働者、全国から集まった商人と職人などで1650年代には30万都市、文化文政期(1803-1830)には130-140万人へと急速に人口が増大していった。そこで海岸側への埋立てと当時の物流は舟運が主流だったので堀や運河づくり、さらに全国から物資を輸送し商品を取り扱う河岸づくりといった都市の基盤整備が、急務かつ重要になった。昨年、東京海洋大学の「船が育んだ江戸」展を紹介した記事で、関西や上州からの物資運送に触れたが、受け手である江戸も舟運の基盤整備が必要だったのだ。
まさに築地や八丁堀はそういう河岸地域だった。
明暦の大火(1657 振袖火事)で浅草(現在の横山町)にあった本願寺が、海を埋立て築地に再建されたのが1679年、そのとき築地一帯も造成された。築地周辺は大名や旗本の下屋敷が圧倒的に多く、町人が住む地域は1割程度に過ぎない。下屋敷といっても、国元各地の特産品を船で運び、出入りの専門問屋に売り捌かせるところだった。武家地では河岸とは呼ばず物揚場だったが機能や形態はほぼ同じだった。
かつて新川周辺には酒問屋が多かった(永代橋から下流を望む)
一方、諸国の廻船を相手に商売し、乗組員に水や野菜、小間物を供給する場でもあった。河岸は、荷揚場兼市場だったので、多様な業種の問屋が集まる賑わいある街として発展した。ちなみに河岸は海岸だけでなく飯田橋から神田までの神田川沿い、江戸城に近い外濠川沿い、日本橋から湊への日本橋川沿いにもたくさんあった。また幕末の沿岸防備用砲台というと品川のお台場が有名だが、浜離宮の南東や明石町にも構築されたそうだ。
東京初のホテル、築地ホテル館があった場所(勝どき橋から下流を望む)
幕末になると、黒船が来航し横浜、神戸などに居留地を開設することになったが、江戸は一番最後、1968(明治元)年に築地居留地(明石町)が開設された。貿易では繁栄しなかったが、教会、公使館、ミッション系の学校がたくさんできた。また外国人宿泊者のため、1868年築地ホテル館が開業したが、1872年火災で焼失した。
ホテルのあった場所は、元は幕府の御米蔵があったが、汐風で米がふけ、あまりよい場所ではないので浅草に移転し、幕末の1857年には幕府の軍艦操練所となった。ホテル閉鎖後、築地市場の閉鎖時点では立体駐車場として使われていた。その南隣にあるのが波除神社である。
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