関が原の合戦で家康が戦死し、影武者が本人に入れ替わった。現在の群馬県世良田出身の世良田二郎三郎がその人だという。
世に言う徳川家康という人物は世良田の二郎三郎である。世良田は、現在の群馬県にあり、駅名にもなっていて、徳川という地の世良田の庄だ。徳川出身の子供が、乞食坊主に連れられて、物乞いの流浪者として三河まで流れて行った。
史疑 徳川家康事蹟(村岡 素一郎著)など、いろいろ資料を集めて書いたのだろうから、そこまでは、矢切止夫の本と大筋は同じだろう。
矢切説は、三河の松平元康と徳川家康とは全くの別人で、出身の世良田二郎三郎=
徳川家康。三河の松平元康の死に際しての内紛に乗じて、元康の妻子(築山殿と信康)を含めて、松平家を乗っ取った。当初は松平元康を名乗っていたが、1567年頃から、(もう、いいだろうと)元の徳川家康に戻った人物。※この辺の事情を信長は知っていたらしい。
これに対して、隆慶一郎説によると、関が原合戦で戦死した主人に成り替わり、影武者の世良田二郎三郎が、以後の徳川家康になったというもの。録画した『影武者世良田二郎三郎』を私は未だ見ていないが、テレビを見た人には、この内容を説明する必要はない。
さて、(上にコピーした)私の昨日のブログ訪問者数を見てもらいたい。
リンク→徳川家の謎 一 --家光は家康の素性の秘密を知っていた
このページを45人読んでくれた(訪問者数45)。なお、同じ人が、ついでに他の頁も読むとすれば、それは閲覧になる。昨日一日の訪問者数は235で、閲覧数は497
ということになる。『徳川家の謎--』だけが急騰したのは、昨日のテレビの影響であろう。
『影武者世良田二郎三郎』を観た人が、この頁を訪れたと推測される。
この記事は2007-08-14に発表したものだが、もう少し補足したい。
◎家康について
①幼い頃、今川義元の人質になった---これは松平元康のこと。
②信長の命により、妻子を殺害した---自分の妻子ではなく、元康の妻子だったから、
それほど抵抗はなかった。
③松平姓の安売り---もともと自分の姓ではないから、手柄を立てた武将には勲章代りに
幾らでも与えた。
④明智光秀の家臣の娘「お福」→稲葉正成の妻。これを正成から取り上げ、側室にする。
家康は処女よりも、子供を生んだ実績のある女が好みのようで、「取り上げ」の話は
これだけではないようだ。
ところが、稲葉一族は、幕府のなかで重用されるが、本能寺の変で、明智光秀に恩
義を感じているふしがある。日光にある明智平などは、関係あるのだろうか?
子供ができると、秀忠に預け、表向きには、お福を竹千代の乳母ということにしたが、
後に「将軍の母」ということで、春日局は権力を思うままにする。
◎秀忠と家光の(母親と父親)
①秀忠;父は家康、母は西郷局。正室は、お江与。(子供に)国千代→忠長
②家光;父は家康、母は春日局。正室は、鷹司孝子。(幼名)竹千代
◎家光の不可解な行動→上記の関係で納得できる
①墓所を、増上寺ではなく、(寛永寺→)日光にした。
②(秀忠夫妻に預けられた幼少期)母親とされる江与の仕打ちに自殺を試みる。
③増上寺にある(江与)崇源院の墓を知らなかった→「目障りじゃ、壊してしまえ」
と命じて破壊させた。
④(乳母とされる)春日局の病床には、心配して度々見舞いに行った。
⑤家光の守り袋の中身→「にせこんけん」(二世権現)、「にせしょうくん」(二世将軍)。
上野寛永寺執事長『浦井正明著「もうひとつの徳川物語」将軍家霊廟の謎』
のP.45にも「東照大権現、慈眼大師、征夷大将軍源朝臣家光公」が載っている。
つまり、家光の胸中には(父とされる)秀忠を飛ばして、「家康→家光」、自分は二代
権現、二代将軍だという信念しかなかったようだ。天海と家光の関係は只ならぬもの
なのだろう。
天海=光秀説もあるが、まさか、天海と春日局の子ではあるまい。
⑥秀忠が建てた東照宮を、20年も経たぬうちに家光が建て替えてしまった。
⑦自分が将軍になると、(血を分けた弟ではないので)ライバルの忠長を高崎に幽閉し
て毒殺。
※以上の他にも、沢山あるが、今日はここまで。