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~病に負けないで頑張っておられる方々、私の雑記帳を見てやって下さい~

【上を向いて - I LOOK UP】

私の大腸癌考察(6)

2012年06月01日 | 自分記事

 

私の大腸癌考察(6)               

気が付くと酸素マスクと鼻から管が装着されていました。多分、側に看護師が居て「***さん、大丈夫ですか。・・・・・・・?」と呼び掛けられたように思いますが、幻想の世界から抜けきっていない私には、その事に気が付くのに可成りの時間が必要でした。時と共に、病衣に着替えている事や繋がっている管が多い事、周りに医療機器が置かれている事などで、今どのような立場にあるのか、ある程度理解できました。しかし、頭の中は相変わらず混乱していました。鼻の管が取れると酸素マスクが口から鼻マスクに変わり、口は自由になりましたが、たまに管を挿入して痰など何かを吸い出していました。また、声が出ないので話は出来ません。意思疎通の手段として顔と口は多少動かせましたので、ひらがなと数字・記号が表記されているボードに口に加えた棒みたいなもので一字一字指し示し、「はい」と「いいえ」は一マスだったような・・・あれ、幼稚園で見たような気がする。看護師が質問する事柄に対して巧みに動かしてくれるボードで痛みなどの症状、何を行なって欲しいかを指し示し、喉が乾きましたかと聞かれると「はい」を選び、「み」「ず」を加えましたが、当然駄目ですと言われました。なら、初めから聞かないで欲しかった。それでも水に浸した脱脂綿を口に含ませてくれました(優しいな~?)。

 治療は、主に血小板輸血、胆汁の排泄、体調の正常化、人工透析などですが順調に進んだ訳では有りません。心肺機能の異常があり、約3週間ICU病室に居ることになりました。付け加えるとすれば、私が暴れて透析が出来ない事(記憶に無い)、人工透析機器の故障もあったりして、血液の浄化がスムーズに出来ず通常病棟へ移ってから本格的な人工透析が行われる事、後に重要な役目を果たす事になる大変痛い首からの中心静脈カテーテル留置です。でも、腎臓が壊れなくて良かったことを後日しみじみと感じました。

病室での生活は、24時間体制で看護してもらいましたが、小窓は付いているのですが、今は昼なのか夜なのか区別が付かなくなっていていました。

ナースコールのスイッチを握らされ、たえず次の様な理由で押していたような気がします。オシッコの方は尿管をしているので問題は無いのですが、特に大の方が頻繁に出てしまい紙おむつ交換で呼ぶ、高熱で呼ぶことが主でした。でも、最初は普通のパンツでしたが汚す回数が多くて・・・仕方なく紙おむつにしました。女性の看護師に体拭き、おむつ交換をしてもらうのが後半になると気恥ずかしくなり、何処の病院から来られたのか制服の違う男性看護師に変わりました、古いけどサンダーバードの制服に似ていてビックリ!。治療以外のICUの生活は、歯磨き、顔拭き、髭剃り、体拭き等すべて通常の生活と同じでした。この時期だったと思うけど、薬を飲むために水150ml/日迄なら飲水する事が出来るようになり気持ち的には一息ついた感じでしたが、体のほうは動かせないので目を大きく見開き、耳で様子を伺う様子に変わっていました。この様な状態が長く続いたのですから外科病棟の看護師サポートが無ければ無理だったと思います。ICUのスタッフにも外科スタッフにも感謝の気持しかありません。 

ICUから通常病棟に移る日がK主治医から2、3日後に決まり、受持看護師はHさんですと言われました。その待っている時間が非常に長く感じ、救急外来に来る救急車や関係のないパトカーのサイレンの音が非常に気になったり、きっとICUから転出するのを邪魔する奴がいるとか、またピエロが見えてきたり、眠剤を使用しても眠ることが出来ないなどで錯乱状態に陥りました。

退室する日も持ち込んだ荷物のチェックシートとICUにある物が一致しているかを確認して、台車に乗せる作業時間も長く感じられ、同じ日に後からICUに来た人も退室するので大変でした。外科・麻酔科・ICUの医師集団が先に来ていて、受持看護師とサポート看護師数人のストレッチャーが迎えに来るまで一時間位待たされたと思いますが、やっと脱出できました。外科病棟に戻って来たのです、何処からか看護師だと思うのですが「帰ってきた」と声が聞こえて来ました。

忘れていました、この時、リハビリテーション治療についての同意書をT理学療法士(PT)の説明を受けサインしていたことを・・・。


私の大腸癌考察(5)

2012年05月22日 | 自分記事

私の大腸癌考察(5)          

 

外科病棟からICU病棟に入り自分自が気が付くまでの間の事は、どの様に入院したか治療されたか記憶が殆ど無く、家族などから聞いた話が主なものになります。あやふやながらハッキリ記憶として残り始めたのはICUから出てからになります。これから書くことは事実と一部異なっている部分も有ると思います。 

最初に病室へどのようにして入ったのか覚えておりません。救急外来から外科病棟へ移され、自分でコンビニからミネラルウォーターを購入し冷蔵庫へ片付け、病衣に着替え、入院の手続きを行ったと思われます。外科のM医師に診察を受け、イレウス(腸閉塞)と診断され様子を数日見る事になりました。この日から絶飲食になり、妹が冷蔵庫にある水を全て捨てたそうです。私は水を購入したことも覚えていないのです。翌日から高熱が続き、どの様な治療を施しても下は38度以下には下がらず上は40度前後まで上昇したのです。20日に、このまま死なせるには可哀想すぎるとICUへ移り、緊急手術を行うことになりました。

病名は敗血症性ショックで、永久的か一時的か人工肛門を施術する必要がある場合、または大腸壊死の場合も考えられるので術中所見で決めると家族に説明したそうです。

家族が署名した書類は、1:「集中治療センター入室中の処置に関する同意書」、2:「病気・検査・処置についての説明書」、3:「特定生物由来製品(血漿分画製剤)使用に関する同意書」、4:「輸血療法に関する説明書」、5:「麻酔同意書」、6:「中心静脈カテーテル留置についての同意書」でしたが他にも有るのかも分かりません。でも19日に私自身が「身体抑制及びこれに準じる行為に対する同意願書」へ震える字体で署名した事は覚えています。覚えていませんが、驚くことにICUに自ら歩いて病棟に入った事です。

一番重要な同意書は、1:「集中治療センター入室中の処置に関する同意書」で、命預けますと同義語のような感じ。

1.気管内挿管、気管切開術、人工呼吸

2.動脈圧測定用カテーテル、中心静脈カテーテル、血液浄化用カテーテル、肺動脈圧測定用カテーテル、硬膜外カテーテルなどの留置

3.IABP、PCPSなどの機械的循環補助装置の装着

4.血液透析、血液濾過、血漿交換、血液吸着などの血液浄化療法(一般的に言われている人工透析類)

5.胸腔または腹腔穿刺およびドレーン装入

6.輸血療法および血漿分画製剤の投与、私の場合は血小板輸血

7.造影剤を用いた画像診断(CTスキャン、血管撮影など)

8.各種内視鏡検査

9.鎮静薬の投与、身体抑制、必要に応じて識別着衣の着用

10.急変時の除細動および肺蘇生術

11.その他 

上記に関する処置を全て行った訳では有りませんが、術中死もあり得ると言われた緊急手術が行われました。開腹してみると多少胆汁などが漏れ出ている程度で処置としては、腹の中を洗浄する、胆汁漏が起きないように挿入していた管を正規の位置に入れ直したくらいです。しかし、血小板輸血をしても血小板が消えて無くなってしまうのです。原因は今もって解明されていません。その内、時と共に顔色が青ざめていったのです。この時、執刀医(主治医)と麻酔医が「もう、駄目かも」と話していたそうです。家族には「今日が山場です」と説明していました。当然、家族は葬儀等の準備について話をしていたそうです。どの程度、時間が経過したのか分かりません。妹が、親戚に連絡したいと申し出たら主治医が「少し待ってください、顔色に赤みが出てきているので待ってください」と言われたそうです。私の方は、全く記憶が無いのですが、この様な夢を見ていました。きっと幻想でしょうね、何故かサーカスなどで出てくる道化役のピエロが現れ「あんたが手術をした場所を見たいかい?着いて来な!」と言うのです。

ピエロは赤鼻を付け、白地に7色で星模様柄の服を着て、先が上に向いた尖った赤い靴を履き、虹色と白の長いトンガリ帽子の先に白いぼんぼりがついたものをかぶり、オランダ国旗のような雰囲気で七色の横方向にかなり長く三つに先が切れ込んだマントを付け、左を向いて顔だけが私の方を見ているピエロが呼ぶのです。でもピエロの背景は暗闇?黒画用紙?奥行きのある真っ黒な部屋?だったので躊躇していると、外科病棟看護師がサポートに来ていて聞き慣れた声が聞こえたので振り返ると突然ピエロが消え、私の目に飛び込んできたのはICUの天井でした。普通は、蓮の花とか花畑とか見ると言いますが私は・・・不思議です。

死にかけた私が、この世に戻ってきた瞬間でもありました。後日談ですが、主治医に診察を受けている時、「あれが生死を分ける手術だったのだな~」とシミジミ言われました。余程の覚悟が無ければ執刀しないでしょうし、私はこの世に存在していないかも分かりません。感謝の気持しか有りません。 

この時点では、ただ生き返っただけで、その後の養生期間が重要で、治療もリハビリも大変なものでした。

 


私の大腸癌考察(4)

2012年05月15日 | 自分記事

 

私の大腸癌考察(4)       

 

あくまで私見ですが、高カロリー輸液の過剰投与約一週間が入院の長期化のきっかけに関わっていると思っています。何故、高カロリー輸液の過剰投与が悪いのかは、血糖値上昇による腎臓、肝臓、心臓などに悪影響を及ぼすからです。熱は点滴注射の解熱・鎮痛剤及び抗生剤を使用しても、上がったり、下がったりの繰り返しで、唇はヒビ割れ、喉はカラカラ、全身汗まみれで酷いものでした。

唇はリップクリームをぬり、適時シーツ交換、パジャマは日に3回程度着替えを行うこと10日間、大変でしたが耐え抜くことができました。もし中心静脈カテーテル留置を行なっていなければ、もっと苦しい時間が増えたと思います。

点滴注射の種類は覚えているだけで、生理食塩水、高カロリー輸液、解熱・鎮痛剤、抗生剤、睡眠導入剤等々でした。術後30日前後に水分をとっても良いことになり、大いに喜んだのですが許可された1日の水摂取量は300mlでした。このころは経口薬もあり、水50mlで朝・昼・晩に摂取すると残り150mlが自由に飲める水分量です。計量カップで計りながら飲水する情けなさに我ながら感心します。

とにかく退院する日が来て入院治療費を支払い、診療明細書を見てみると食費が6日分しか請求されていませんでした。退院日は8月10日で、これが1回目の入院です。

退院後の治療は外来で行われる「IRIS」と呼ばれる化学療法で、カンプト(点滴注射)+TS-1(経口薬)を使用する治療です。3週毎に1度行いますが、ただしTS-1は2週間飲用し1週間休みです。副作用は、下痢、食欲不振、脱毛、白血球減少、血小板減少、貧血が主たるもので人にもよりますが私の場合は比較的軽い症状でした。

しかし、平成22年10月14日の夕食を済ませた午後9時頃、転げまわるほど下腹部に激痛が走りました。直ぐにタクシーを呼びK病院へ行き、当直医に診察を受け、痛みが激しいのでボルタレンサポ(疼痛発熱座薬)を使用し、クラビット錠(経口薬抗生剤)を処方してもらい痛みも和らいだので帰宅することにしました。帰りついたのは日も代わり午前1時頃でしたが、また3時間後に前にも増して激痛が起こったのです。また、タクシーを呼び救急外来を受診しました。今度は痛み止めの点滴注射を受け、気がついたら場所は分かりませんがベッドで寝ていました(たぶん救急外来)。そのまま、外科病棟に入院しました。

主治医の診察はイレウス(腸閉塞)という病名でしたが3日後位に敗血症性ショックを発症し、「今日がヤマ場です」と主治医が言うまでになる事態になるとは・・・。


私の大腸癌考察(3)

2012年05月14日 | 自分記事

  

私の大腸癌考察(3)         

外科病棟の入院書類等をナース・ステーションへ届け、看護師が病室まで案内して来てくれました、もちろん車椅子付きで・・・。最初にパジャマのLLサイズを持って来たので着替えを済ませ入院用に揃えた洗面道具、タオル、スリッパ等を整理しました。しばらくして受持看護師が来て入院診療計画書を持って来て入院生活に必要な事と結腸手術を受ける為の注意点、スケジュール等を説明し書類に名前を記入しました。看護師が出ていった後にトイレに行きたくなり立って歩いて行くとズボンが長すぎるのか足が短いのか、「殿、殿中でござる」になってしまい裾を引きずるのは危険なのでLサイズに変えてもらいました。

入院日の治療は、輸血2パックでしたが常食は夕方が最後でした。手術日は平成22年7月8日午前8:45分一番目の手術になりました。

翌日は、もしもの事が有るといけないのでICU用に持って来た物、全てに名前を書き込みました。ICG試験と言われる肝臓の機能を調べる検査、主治医、看護師の話しと心の準備が主だった様な気がします。この日から食事も特別食に変わり、7日の手術前三食(200ml飲用栄養補助食)が不味いのには参りました。 

手術日前日は、麻酔科受診、鎖骨の下から中心静脈カテーテル留置、水の下剤200ml飲む、夕食後に座薬の下剤を挿入でした。中心静脈カテーテルの目的とは、1:経口摂取が不十分な場合、または治療上制限される場合の水分・栄養補給、2:手足の末梢血管が穿刺(せんし/組織や患部に針をさす事)困難な場合の静脈注射、点滴、3:薬剤を安定した速度で確実に血管内に投与する必要がある場合が挙げられますが、後に全てが当てはまってしまったのです。当然、手術に関する同意書すべてに署名しました。手術に関する事柄は前にも記載しているので、ここでは省きますが術後の話を中心に書くことにします。 

病棟へ戻ると、ふくらはぎの血栓を防止するために指圧マシン?で数分おきに圧迫し、最初だけ酸素マスクを取り付けられ、緩和麻酔(痛み止めですが、入れ物が玉子型なので皆「たまご」と呼ぶ)を背中腰上部中心に常時注入、抗生剤、生理食塩水、栄養補給水などを点滴注入しました。ベッドで気がつくと周りに家族が居て色々話したそうですが全て記憶がありません。翌日、私に言ってくれて「へ~~~」の状態です。書き忘れましたが通常前日に気がついたら直ぐに歩行訓練を始めるのですが具合が悪かったので翌日になってしまいました。それでも、看護師につかまりながら往復30~40m歩きヨレヨレ状態でしたが、とにかく歩けました。

それから3日後位から主治医が一週間の出張があり、この辺りから病状が悪化し始めたのです。臨床研修指定病院なので若い医師や慣れからくる油断する中堅医師も少なからずおり、判断・治療の遅れが有ると考えています。異常高熱、胆汁漏、縫合不全疑い等で約40日間弱の闘病生活を送るはめになり、20日間以上の絶飲食を伴う非常に厳しいものでした。


私の大腸癌考察(2)

2012年04月26日 | 自分記事

私の大腸癌考察(2)          

K病院へ着き、受付にその旨を伝え紹介状を手渡しました。どうして良いのか判らず受付の前に立っていると、何と看護師が車椅子を押してきて乗って下さいと言うので、その通りにしました。連れて行かれた場所は循環器内科待合でした。いすに座って待っていると5分ぐらいで診察室に呼ばれました。ここでも、こんなに酷くなる前に何故病院へ来なかったのかと聞かれ、検査数値の説明を受け、2~3分後に即刻入院と言われたので、家に戻って入院支度をしても宜しいですかと聞くと、「ダメです、直ぐに入院しなさい」でした。また看護師が車椅子で迎えに来て私を乗せ内科病棟の緊急用個室に入りました。取りあえず家に連絡を取り、入院書類を記入し保証人になってくれる叔父に連絡を入れ、看護師に昼食を食べていないことを告げると良いとのことなので、一階のローソン(コンビニ)に歩いて買いに行きました。K病院は売店ではなくコンビニが入っている病院なのです。当然、病院で必要なものも売っています。気持ちも落ち着いてきたところで、7階の病室から歩いてローソン迄往復できるのに、何で車椅子が必要だったのか不思議に思えてきました。

何もする事無くベットでボーとしていた時に両親と妹が入院に取りあえず必要な物を持って来てくれました。午後3時くらいと記憶しています。3人は病室を出て行き医師の説明を聞きに行きました。その後、I医師が大まかな治療方法と輸血療法に関する危険性の説明および同意書を書きました。

危険性の内容は、輸血後肝炎、エイズ、溶血反応、アレルギー、蕁麻疹、細菌感染などです。 実際の治療が始まったのが午後5時ごろから赤血球製剤2パックの輸血が始まりました。輸血は1日あたり2パックと決まっていて、1パック2時間ぐらいかかります。

もし、輸血しなければ「赤血球は肺から酸素を取り入れ体の隅々まで運ぶ役割をします。赤血球が不足すると貧血になって、脳や心臓などが十分働けなくなり、生命に危険をおよぼすことがあります。」なんて今更何だと思っていたのが翌日から「貧血による入院」が「癌の疑い」に変更になったのです。 

22日以降は輸血と平行して大腸内視鏡(A法)、注射バリウムなどの検査を行いました。一番面倒くさい検査が24時間クレアチニンクリアランス(22~24日)でしたが、これまた突発事故の原因になるとは考えもしませんでした。

看護師がそれまで蓄尿していた機器をひっくり返し、病室に撒き散らしてしまったのです。仕方が無いのでトイレへ行きたいときは内科病棟のトイレを利用するのですが掃除をしている看護師の後ろを通り抜けるときに、滑って鯉のぼり状態で頭から床に転んでしまったのです。

直ぐに頭部CTスキャンを行うことになりましたが異常は有りませんでした。これが、ケチの付き始めかもしれません。 

肺にも水が溜まっており、太い注射器で5本抜きました。何だかんだで25日まで輸血が続き、6月30日にMRI検査を受けることになり、26日に一時退院をすることになり再入院は7月5日外科に決まりました。