気が付くと酸素マスクと鼻から管が装着されていました。多分、側に看護師が居て「***さん、大丈夫ですか。・・・・・・・?」と呼び掛けられたように思いますが、幻想の世界から抜けきっていない私には、その事に気が付くのに可成りの時間が必要でした。時と共に、病衣に着替えている事や繋がっている管が多い事、周りに医療機器が置かれている事などで、今どのような立場にあるのか、ある程度理解できました。しかし、頭の中は相変わらず混乱していました。鼻の管が取れると酸素マスクが口から鼻マスクに変わり、口は自由になりましたが、たまに管を挿入して痰など何かを吸い出していました。また、声が出ないので話は出来ません。意思疎通の手段として顔と口は多少動かせましたので、ひらがなと数字・記号が表記されているボードに口に加えた棒みたいなもので一字一字指し示し、「はい」と「いいえ」は一マスだったような・・・あれ、幼稚園で見たような気がする。看護師が質問する事柄に対して巧みに動かしてくれるボードで痛みなどの症状、何を行なって欲しいかを指し示し、喉が乾きましたかと聞かれると「はい」を選び、「み」「ず」を加えましたが、当然駄目ですと言われました。なら、初めから聞かないで欲しかった。それでも水に浸した脱脂綿を口に含ませてくれました(優しいな~?)。
治療は、主に血小板輸血、胆汁の排泄、体調の正常化、人工透析などですが順調に進んだ訳では有りません。心肺機能の異常があり、約3週間ICU病室に居ることになりました。付け加えるとすれば、私が暴れて透析が出来ない事(記憶に無い)、人工透析機器の故障もあったりして、血液の浄化がスムーズに出来ず通常病棟へ移ってから本格的な人工透析が行われる事、後に重要な役目を果たす事になる大変痛い首からの中心静脈カテーテル留置です。でも、腎臓が壊れなくて良かったことを後日しみじみと感じました。
病室での生活は、24時間体制で看護してもらいましたが、小窓は付いているのですが、今は昼なのか夜なのか区別が付かなくなっていていました。
ナースコールのスイッチを握らされ、たえず次の様な理由で押していたような気がします。オシッコの方は尿管をしているので問題は無いのですが、特に大の方が頻繁に出てしまい紙おむつ交換で呼ぶ、高熱で呼ぶことが主でした。でも、最初は普通のパンツでしたが汚す回数が多くて・・・仕方なく紙おむつにしました。女性の看護師に体拭き、おむつ交換をしてもらうのが後半になると気恥ずかしくなり、何処の病院から来られたのか制服の違う男性看護師に変わりました、古いけどサンダーバードの制服に似ていてビックリ!。治療以外のICUの生活は、歯磨き、顔拭き、髭剃り、体拭き等すべて通常の生活と同じでした。この時期だったと思うけど、薬を飲むために水150ml/日迄なら飲水する事が出来るようになり気持ち的には一息ついた感じでしたが、体のほうは動かせないので目を大きく見開き、耳で様子を伺う様子に変わっていました。この様な状態が長く続いたのですから外科病棟の看護師サポートが無ければ無理だったと思います。ICUのスタッフにも外科スタッフにも感謝の気持しかありません。
ICUから通常病棟に移る日がK主治医から2、3日後に決まり、受持看護師はHさんですと言われました。その待っている時間が非常に長く感じ、救急外来に来る救急車や関係のないパトカーのサイレンの音が非常に気になったり、きっとICUから転出するのを邪魔する奴がいるとか、またピエロが見えてきたり、眠剤を使用しても眠ることが出来ないなどで錯乱状態に陥りました。
退室する日も持ち込んだ荷物のチェックシートとICUにある物が一致しているかを確認して、台車に乗せる作業時間も長く感じられ、同じ日に後からICUに来た人も退室するので大変でした。外科・麻酔科・ICUの医師集団が先に来ていて、受持看護師とサポート看護師数人のストレッチャーが迎えに来るまで一時間位待たされたと思いますが、やっと脱出できました。外科病棟に戻って来たのです、何処からか看護師だと思うのですが「帰ってきた」と声が聞こえて来ました。
忘れていました、この時、リハビリテーション治療についての同意書をT理学療法士(PT)の説明を受けサインしていたことを・・・。