座間味・渡嘉敷の両村史にも「県史」「鉄の暴風」にも隊長命令があったとする証言で書かれており、裁判もメディアも公式なものはみな「あった」と言う立場です。
つまり、「あったとする証言」はさんざん報じられているからネットに載せる必要も少ない が「無かったとする証言」は、公式には一切表明してくれず、ネットでしか伝えられないのです。だから、「無かった」とするものはネットで見て頂くことにして、あったとする面を考察してみます。
☆ 村民は知っていたハズ、「隊長は命令していない」ことを
渡嘉敷では防衛隊員(兵士不足を、訓練もせず軍服と銃を与えて、家庭と部隊を行き来できる地元民で補充した者)たちが「玉砕命令が出た」と呼びかけ、かってに兵器庫から盗んだ手りゅう弾を配ったりもしたから、隊長命令による自決と思ったかもしれないが、
渡嘉敷では・・・・大勢で機関銃で殺してもらいに行ったが、逆に自決を嘆かれた。
座間味では・・・・忠魂碑前に集まった80人ほどの前で、村長が「隊長に断られたから解散する」と言って解散させたのだから、
住民らは軍が関与していなかったことは知っていたハズです。
一方、村長らが音頭を取って自決しているから、役場としては苦しい立場になります。そんな折(昭和25年)、「鉄の暴風」によって隊長命令で行われたとする風説が広まってゆきます。
馬鹿正直に言えば、両村は「いや違う、隊長は命令していない」と、異議を申したてるべきだったが、
隊長命令にすることによって
役場の責任を回避できるし、
家族や他人を殺した人をかばえる、から
そんな安易な方に走ります。
役場がそういう方向をとり、それに村民が抵抗せずに村全体がそれに染まると、もう隊長命令はなかったとは言えなくなります。だから、村史も県史も安心して「隊長命令による自決」にしてしまえたのです。
しかも、後日「隊長命令による自決」を援護金をもらう条件に利用したから、もうウソを押し通すしかなく、本当のことを言うと「援護金をもらえなくなったら、どうしてくれるんだ」などと非県民呼ばわりに非難・差別されました。このように、
☆ “隊長命令による自決”と言うウソを後押しさせたのは「鉄の暴風」でした
大江健三郎の「沖縄ノート」や家永三郎の「太平洋戦争」をはじめとして、
隊長命令による集団自決の発信源をたどってゆくと、少しは宮城初枝さんの「家の光」や村史・県史や現地取材もあるだろうが、
ほぼすべてが孫引き・引用を経て「鉄の暴風」に至り、「鉄の暴風」が隊長命令説の発信源になります。従って「鉄の暴風」の検証が必要です。
☆ 「差別抜き本土並み」の精神的復帰願望があったのではないか
•1429年 、琉球王国が成立。1522年には与那国島を征服し支配下に置く。
•1609年 薩摩藩による侵攻。奄美群島は琉球王朝の支配から切り離され薩摩の直轄地へ。
•1872年(明治5年) 琉球処分により琉球王国が琉球藩に再編され、その後、沖縄県に。
これには清朝が抗議。(「沖縄は中国の領土」との主張は甘く見れない)
•1945年(昭和20年) 戦後、アメリカがペテンを用いて国連の信託統治権を得て、アメリカの信託統治下へ。
信託統治とは、
読み書きできずに、住民の意思が選挙で集約できない地域で、それができるまで行う国連の便法。沖縄は全員読み書きできたのにアメリカは…
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•1972年(昭和47年)日本に復帰する(沖縄返還)
こういう歴史をアメリカは本土との分断策に利用したのだが、先述の太田知事の言のように沖縄人は差別を感じるとともに、後述の金鵄勲章の東間氏が言ったように劣等感があって、日本人になりきりたいという願望もあったようです。
戦前には「朝鮮人と琉球心はおことわり」と言う張り紙もあったのですから…。
そんな願望のせいか、渡嘉敷での集団自決は、古波蔵こわぐら村長の訓示と「天皇陛下万歳」の音頭のように、臣民方式で行っています。
☆ 「鉄の暴風」は講談師が書いたのか
「鉄の暴風」
(集団自決を軍命によるとした大噓の元の本)は現地取材もせず信用できないことは、36頁の次のくだりでよく分かります。【取材されない重要証人、副官知念少尉の証言】から部分引用すると・・・
≪…地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭(どうこく)し、軍籍にある身を痛嘆した・・・・》と、同本にあるが…
これに対し知念氏は笑いながら「渡嘉敷島に、将校会議を開く地下壕(ごう)は存在しませんでしたね。作り話ですよ。沖縄タイムスは嘘(うそ)ばかり書くから、私は読んでいませんよ。それに比べて曽野先生は偉かったな。もんぺ姿で渡嘉敷島で何日間も取材をされたのですから」「私が赤松隊でただ一人の沖縄出身者ということで、きっと同情心から、想像して書いたのでしょうね」と証言・・・・≫。
ついでにもう一つ【狼魔人日記、『鉄の暴風』のいかがわしさ2007-11-01】をもとにすると…、
≪…初版本には(座間味隊長の)≪…梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきものと二人で不明死を遂げたことが判明した…≫と書かれています。
しかし、実情は負傷した森井少尉が壕移動の際、拒否して居残り慰安婦のえい子と心中したのが誤解伝聞されたものであり、梅澤隊長は生きており戦後も何度も島に慰霊に来ています。
こんな人権侵害になることを確認もせずに書く神経をどう思いますか。
ついでに、 【沖縄言論界からの言論封殺の実態】によると、(聞き取れず間違っている名前だろうが)小沼寿一と言う関西から帰沖したいかがわしい文筆家が座間味に行った時、不明死の話を聞き、西宮にいた梅沢氏を探し出し面会します。「もういいじゃないか…」と言う彼を差し置いて「沖縄タイムス」に乗り込んで脅迫し、今なら500万相当をふんだくった。その直後にその項目はこっそり削除された、という。(と聞き取れました)
取材しないで知念副官の心の内まで書くのは、「証言集」と言うより小説と言った方がよく、「隊長命令による」と決めつけたのも小説、即ち創作でした。
ただ、まるきりの小説ではなく、沖縄タイムスが古波蔵村長に証言させ、それを「鉄の暴風」に書かせた後、隊長命令が「あった」との証言を大きく紙面に掲載し、「なかった」とする証言は封殺して、「あった」を補完・援護するから、県民は「あった」と誤解して信じてしまったわけで、
「隊長命令による集団自決」とは、「タイムス・筆者・古波蔵村長らの二人三脚」で作り上げた小説、と言う方が的を得ていることは、先述の狼魔人日記から分かると思います。ちなみに、那覇の市立図書館では狼魔人日記は削除して見せないようにしてありました。
☆ 「鉄の暴風」は、米軍政当局のプロパガンダの下請け本
昭和25年に、沖縄タイムス社で発行された「鉄の暴風」は、沖縄タイムス記者太田良博・牧港篤三共著だが、実は、日本の軍隊が自国民にいかに悪行を重ねたかを知らせたいアメリカが作らせたといってよく、「講談師、見てきたようなウソ」で国民に広く誤解を浸透させた大元の本、即ちWGIPによるプロパガンダで作られた本であり、集団自決は特に米軍に好都合に書かれていたが、【狼魔人日記、『鉄の暴風』のいかがわしさ2007-11-01】を元にすると…、
その初版の前文には・・・
≪…なお、この動乱を通じて、われわれ沖縄人として、おそらく終生わすれることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えたかれらの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更正第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい≫…とあります。
この前文はその後の重版では削除されています。なぜ、削除する必要があったのか、考えなくともわかるでしょう。
また、同じサイトでの「正論」2008/2号の勝岡寛次氏の記事を引用すると・・・
≪…“鉄の暴風”の初版は、おかしなことに東京の朝日新聞社から出ている。沖縄タイムスの専務が昭和25年3月前後に上京していろいろと交渉しているのである。交渉相手である朝日は(これは記録が残っているが)最初はつっぱねた。こんなものは今時出せない、出しても売れないと。
ところが、一週間経ったら、朝日の態度が豹変した。“是非出そう”ということになり、沖縄タイムスと朝日で1万冊ずつ分担して出した。その時にこの沖縄タイムスの専務は、マッカーサーにも会っている。マッカーサーという人は、突然上京して会えるような人ではない≫
一週間後の朝日の豹変がマッカーサーによったことは、容易に推察できるが、専務とは、1949年、昭和24年7月に発生した巨大台風グロリアでの大被害を好機として、米軍政部情報局部長ハルトン大尉と個人的に強力なコネクションを持つようになっていた同社創立者の一人、座安盛徳氏です。(取材当時は、まだバスも通っていなかった沖縄↓)

著者の一人の太田氏は、曽野綾子氏に取材された時、証言相手をよく覚えていないと答えたが、後日「鉄の暴風」の取材期間が「三ヶ月、まったく突貫工事である」(から)との言い訳をしています。
さらに、突貫工事のような取材なら、証言の検証・裏付けは取れず、体験ではなく伝聞も多いのではないか、との曽野氏の疑問に対し、太田氏は沖縄タイムス昭和60年4月10日付で「座安氏の活躍」について明言しており、後にこれをまとめて出版した「戦争への反省」の中で、
≪…「直接体験者でもないものが、あんなにくわしく事実を知っているはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどデタラメではなかった。」…≫(225頁)と、
裏付け不要との“ハズ論”で、デタラメぶりを見せつけています。
新聞記者が体験者をうのみにしたら、読者は間違った証言でもみな正しいと勘違いするのは当然だが、河野談話の元となった14人のいわゆる従軍慰安婦の体験談を国際基督教大学の西岡力教授が検証したら、信用できるものは皆無だったことが分かりました。
ついでに申せば、ナチに対するレジスタンスの功労でフランス政府から勲章をもらい、自らが入れられていた強制収容所にガス室存在の噂も聞かなかったラッシニエは、ガス室

での体験者と言う人が現れるたびに、ヨーロッパ中を駆けずり回ったが、みな伝聞や創作で、信用できるものは一件も無かったと述べています。それが堂々とガス室でのホロコーストの歴史的〝事実〟にされているのです。 (死体焼却炉はあっても、殺すためのガス室はなかった)↑
それはさておき、「鉄の暴風」が書かれた戦後5年目の沖縄は、バスさえ未だ無く、電話だって録音機だって普及していない時代。証言者を見つけ、連絡を取りあい証言を聞くまでの時間と苦労は現在とは比較にならないほどの苦労であることを思うと、記者二人とは言え、四百字詰め原稿用紙で750枚前後に相当する本の証言を聞くのに3カ月で可能だったのかと疑問にさえ思われます。(執筆にさらに3か月かかり、取り組んで半年で脱稿)
そこで、座安氏の活躍となるわけだが、昭和25年、国際通りの映画館界隈の奥まった一角に在った浮島ホテルと思われる某旅館に、証言者と称する人たちを集め、取材の準備万端を整えた(もちろん、米軍の協力がなければ迅速には集められないだろう)のが座安氏でした。
しかし、国民、特に沖縄人は被害者だ、悪いのは日本軍だとするその源流が「鉄の暴風」であるし、おぜん立てをしたのがウソ偽り駆使の情報操作で騙す専門家の情報将校と強いコネを持つ座安氏であったことを考えると、この本はWGIPに基づき、且つ国民と日本軍、本土と沖縄、の分断をもくろむアメリカの沖縄軍政府の代理本、WGIP政策の下請け本と言っていいと思います。
だからこそ、すべての書籍を検閲し、本土からの書物の流入さえ禁止する厳しい言論統制中に出版でき、朝日を豹変させたほどマッカーサーが気に入ったのだと思います。
その気に入った「鉄の暴風」翻訳本を持ち込んだ座安氏に対する元帥の態度を、彼は「雑感記事」として元帥との面談を昭和25年5月6日の沖縄タイムスに「あたかも遠方の不遇な息子の安否を気づかう慈父のような態度」と書いています。
だから、座安氏が米軍の意向に沿った証言者を選び、米軍が通信・交通手段の劣悪な事情を補ってくれたからであろうことは、想像に難くありません。第一、米軍の意向を忖度しない書物など発行できず、検閲の暴風が荒れ狂っていた時代でしたから。
(写真は↓座安氏かどうかは分かりません)(李承晩でした)

かくして、日本軍を悪し様に罵って沖縄住民と日本、国民と軍隊、との分断をはかろうとする「鉄の暴風」は、座間味・渡嘉敷の現地で取材することなく「隊長命令集団自決」を花形役者として発行されます、風の暴風グロリアの成果でした。
■沖縄タイムス出生の秘密■もご覧ください。
また、【「軍命令」はなかった! 沖縄・「集団自決」をめぐる顛末2 of 3】から推測すると、「隊長命令による自決」を誰が言い出したかと言うと、座安盛徳が作って古波蔵村長が証言して「鉄の暴風」が完成させ広めた、となるかと思います。