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常識や空気に反して

学校やマスコミは本当のことを伝えないことが多すぎます

沖縄集団自決① 集団自決は米軍にとってまたとない好都合事件

2016-09-05 12:27:11 | 沖縄集団自決

 

「隊長命令や軍命で自決した」…あなたはその根拠を調べましたか。

「学校で習ったから…、常識だから…」・・・

 では、学校でも常識でも原発は安全でしたよね。

 インターネットで誰でも調べられる時代。どうか調べて下さい。

 以下、「隊長の自決命令があったかどうか」を調べますから、ご一緒にどうぞ。

 

 アメリカは沖縄を本土と分離し、沖縄を軍政の下に置いて半永久的基地にする計画でした。そのため、前もって沖縄について綿密な調査研究をします。できたのが…、

☆ 本土と沖縄の対立を意図的に作る作戦です。

 即ち、沖縄人と日本人は違う民族であり、沖縄人は明治期以降武力で日本の植民地とされた被支配民族としてPRに努める、と言う本土からの軍隊と住民との分離策です。それに最も好都合だったのが「軍が関与して行ったとしてしまう集団自決」でした。つまり、日本軍を悪逆非道の悪者に信じ込ませると言う後述⑦のWGIP洗脳作戦でした。

  このアメリカの意識的な本土・沖縄分断策は見事に成功し、今も一部のグループに受け継がれています。例えば、大田昌秀前沖縄県知事の著書「沖縄の決断」朝日新聞社刊の紹介文に、以下のように凝縮されています。

≪…まぎれもなく、沖縄はかつて日本国の植民地であった。古くは薩摩の過酷な搾取に支配され、太平洋戦争で沖縄県民は軍務に活用され、やがて切り捨てられ、そして卑劣にも虐待された歴史がある。

 その意味では、沖縄戦のあとに上陸してきたアメリカ軍は沖縄にとって解放軍のはずだった。≫

  県知事をして、植民地だったとか、虐待されたとか本土からの被害を強調させ得たのは、アメリカの情報操作が功を奏した結果だろう。即ち、国民を犠牲にした日本軍が悪いのだ、悪いのは軍国主義であり国民はだまされたんだ、としての軍民分離策であり、アメリカにとっては、日本軍が悪ければ悪いほど好都合で、そんなネタ探しに努めるのは当然で、ウソであろうがなかろうが「軍の命令による集団自決」であったなら、米軍にとっては願ってもない事件のはずでした。 

詳しくはここだが

http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/838b0d19fad4c3e509184e0cb66c7b56 ここでの「日本兵による自決指導」とある日本兵とは後述の「防衛隊員」と思われ、軍命による自決とは言えない。

 

 沖縄戦は1945年3月26日から始まったとされているが、アメリカは直接沖縄本島に上陸すると見ていた日本軍は、本島から約40㎞の慶良間諸島に特攻艇(軍用語で〝マルレ″と言う、爆雷を積んだボートで敵船に自爆する高速ベニヤ艇)の秘密基地を作り、米艦艇を背後から攻撃する計画でした。

 ところが米軍は、まず最初に慶良間諸島を陥落させる作戦で、23日には空襲、24日には艦砲射撃され、村落は破壊され、座間味島に隠してあった特攻艇は全艇を破壊されます。

 その座間味島で26日、隣りの渡嘉敷島で28日に住民が集団自決をしています。それが軍の命令によるものかどうかは色んな説があって、その真相は分からなかったが、・・・・・勿論、アメリカにとっては軍命によるのが望ましいに決まっているが…                   (②に続く)

 

 

 

 (この写真は米軍砲撃の死者だが、太田昌秀氏が集団自決写真として流用していて、その後も広く自決写真として報じられています。

 知事までした高名な学者だからこそ、WDIP被洗脳優秀者なので、流用までして「日本軍おとしめ」用に使っているが、間違っていようがいまいが、高名な学者が言うのだからと信じてそれを引用するから、誤りが拡大再生産されて、誤った常識になってゆきます。写真だけならまだしも、軍命説も同様な過程を経て誤った常識になっています)


沖縄集団自決② 座間味と渡嘉敷での自決の概要

2016-09-05 12:07:47 | 沖縄集団自決

 (画像をクリックすると、拡大されます)

  集団自決の原因は決まっていなかったが、高校の教科書に軍が命令をしてなされたと記述されました。

 それ以前に(1985年・昭60年)神戸新聞は隊長の命令はなかったとする証言を見つけて報道していたのに、教科書にまで隊長命令と記述されてはいよいよ日本軍は悪者にされる、と座間味の梅沢元隊長と渡嘉敷の故赤松元隊長の遺族が2005年・平成17年裁判に訴えました、「新しい歴史教科書をつくる会」が支援して…。

 調べれば軍命なしと判るからか、文科省は2007年に「命令したかどうかは明らかと言えない」と、検定指針を示したことから、沖縄の人を中心に歴史を歪曲するなと猛烈な抗議が上がり、抗議集会に11万人が集まったと沖縄の2紙が大きな写真付きでセンセーショナルに報じ、11万に驚いた内閣は検定審議会を開いて、いつもはしない分野まで審議しました。

  軍が命令をしたと言うことを広く知らしめたのは沖縄タイムスが出版した「鉄の暴風」なので、その著者と新聞社を訴えればいいのに、「鉄の暴風」を基にして書いた「沖縄ノート」(今も販売中)を出版した大江健三郎と岩波書店を訴える、的違い提訴でした。

 しかも、日本の裁判は被害がないと訴えられないから、命令したとされた座間味・渡嘉敷の隊長とその遺族が名誉を傷つけられたとして訴えたのです。

 つまり、裁判所は軍命の有無を裁定しなくてもよかったわけで、その結果、判決は「軍命があったとは断定されないが、…、名誉棄損にはならない」と、裁判までの40数年間に出てきた「軍命はなかったとする新証拠」に難癖を付け、軍命はあった、と勘違いしやすい裁定で、隊長らを敗訴させました。

 裁判はあくまで「名誉棄損ではない」としただけで、軍命があったとは認めてないのに、世間では「訴えた原告が敗訴したから、軍命はあったのだ」との勘違いのままです。

  ☆ 座間味と渡嘉敷でのいきさつと概要 

 米軍は沖縄本島に直接上陸すると見ていた軍は、慶良間諸島の座間味・渡嘉敷・阿嘉の三島に、米軍を背後から特攻艇“マルレ”で攻撃する基地を作りました。

 ところが艦隊をびっしり埋め尽くした米軍は、3月23日より空襲で三島の村落を破壊し、24日には艦砲射撃で雨あられの「鉄の暴風」を撃ち込みます。

○ 座間味の場合

 隠しておいた特攻艇を破壊尽くされた梅沢隊長は25日の夜、明日からどうやって戦おうかと思案していると、村の村長・助役・収入役・ら5人が訪ねてきます。  

隊長はいさめた 軍強制説否定する新証言】によると…

≪…宮里助役(職場に3・8銃を備えた兵事主任)は「明日はいよいよ米軍が上陸する。鬼畜米英にけだもののように扱われるより、日本軍の手によって死んだ方がいい」「すでに、住民は自決するため、忠魂碑前に集まっている」などと言って、梅沢少佐に自決用の弾薬や手榴弾、毒薬などの提供を求めました。             

 これに対し、梅沢隊長は「そんなものは渡せない。われわれの役目はあなた方を守ることだ。なぜ自決させなければならないのか。ただちに、集まった住民を解散させ、避難させよ」と命じます。

 村側はなお懇願し、30分くらい押し問答が続いたが、梅沢少佐が弾薬類の提供を強く拒否したし、迫撃砲も炸裂したため、村の幹部らはあきらめ、忠魂碑前に帰ってゆきました。(このやり取りを見ていた伝令役の宮下秀幸少年は助役らの後を追って、今度は村民への村長の説明を聞いたと、秀幸さんは言うが、村長の説明を聞いたのは怪しく、後日の伝聞を脚色したと思われます)

  村長は、忠魂碑前に集まった約80人の住民に対し、「部隊長に自決用の弾薬類をもらいに行ったが、もらえなかった。みなさん、自決のために集まってもらったが、ここでは死ねないので、解散する」と通告しました。このため、住民たちはそれぞれの家族の(防空)壕に引き返したといいます。

 その後、村長ら村三役や国民学校長らとその家族は産業組合の壕やそれぞれの壕で自決したが、多くの住民は自決を思いとどまり、翌26日に上陸してきた米軍に捕らえられるなどします。(宮平さんの家族が家族壕に帰る途中、帯刀した軍服姿の山城安次郎教頭先生に会い「なんで今頃うろうろしてる。自決できない意気地なしめが、刺し殺してやる!」と迫ったが、「自決するとか解散とか、今度はまた…、いったい誰が自決せよと言っているのですか」などと反論した…≫と言いうが、反論は脚色ではないのか。

(【座間味島集団自決のタブーか】【「宮平証言」は真実か ~ 座間味島】もどうぞ)

  さらに、【「沖縄戦の真実」封印】では、≪…梅澤氏は昭和34年以来、沖縄への慰霊の旅を続けてきた。その度に住民らは氏をあたたかく迎えた。そして昭和62年の慰霊のとき、一人の女性が訪ねてきて言った。「梅澤さん、本当のことを話します。昭和32年、座間味で行われた厚生省の調査で、隊長に集団自決を命じられたかと問われ、『はい』と答えました。そう言わなければならなかったために、そう言いました。けれど、それは真実ではありません」

 梅澤氏はなぜ、この女性がそんなことを知っているのかと一瞬考えた。すると女性は言った。「あの夜、5人が隊長に会いに行きました。4人は亡くなりました。私はたった1人の生き残りです。5人の中に女性が1人、女子青年団長がいましたでしょう。それが私です」

 彼女は宮城初枝氏であり、初枝さんはこの後、「国の補償金がとまったら、弁償しろ」などの非難を浴びた。が、彼女が再び発言を変えることは、もはやなかった。幾人かの住民も真実を語り始め、自決命令は宮里助役が下したと判明した≫

http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/26433192.html の【「沖縄戦の真実」を封印・検定…】の週刊新潮の'07年1月4日号「日本ルネッサンス」も参照のこと。

 

 初枝さんは真実を語れない雰囲気の中で、一冊のノートを娘の晴美さんに託し、晴美さんは「母が残したもの」を出版し、ニュアンスは違うが、隊長は命令していなかったことを記しています。

 しかし、集団自決裁判の時はそれを翻して、大江・岩波側の軍命があったことを証言をしています。

 初枝さんも晴美さんも周りからの圧力で、軍命があったことにせざるを得なかったことを理解して下さい。    

                    (軍命によるとする映画だが感情に訴えていて誤解を生み易い↗)  

○  渡嘉敷の場合

  【渡嘉敷島の集団自決を考える】には、「鉄の暴風」による間違った通説と対比させながら、常識の間違いが記してあるのでご覧ください。部分的に引用すると…

 ≪…26日の夜、村の安里あざと巡査(警察官)が、赤松隊長のところにやってきます。「敵はいつ上陸するのか、どこへ逃げればいいのか」とたずねられた赤松隊長は、「上陸は明日(27日)だろう。部隊は西山に移動して陣地を築くから、住民も近くに移ったらどうか」≫と答えます。

  27日には、部隊は陣地作り(たこつぼ堀り)住民は移動に追われるが、夜は大雨になり、夜を徹して歩き通して着いた家族もありました。

≪…米軍は、激しい艦砲射撃と空爆のあと、渡嘉敷島上陸を開始。「防衛隊員の一部が、手榴弾で家族とともに自殺した」という最初の報告。午後2時、谷に避難していた住民が、陣地内になだれ込む。異様な叫び声。これが米軍に気付かれ、迫撃砲が打ち込まれる。防衛隊員が住民を静かにさせる。夜、小雨の中、谷から叫び声が聞こえる…(その叫び声が、集団自決・この世の地獄のうめきだった)

○ 古波蔵こわぐら村長の証言古波蔵こわぐら村長の証言。

・・・「そこへ集合したらもう防衛隊がどんどん手榴弾を持ってくるでしょう」

 「それから敵に殺されるよりは、住民のほうはですね、玉砕という言葉はなかったんですけど、そこで自決したほうがいいというような指令が来て、こっちだけが聞いたんじゃなくて住民もそう聞いたし、防衛隊も手榴弾を二つ三つ配られて…安里巡査も現場に来てますよ」「その後に敵が上がって来たわけです。迫撃砲がばんばん来る。逃げ場がないわけです…安里(巡査)さんは赤松さんに報告する任務を負わされているから、といって15メートルほど離れて谷底にかくれていましたよ…」「そういう状況ですからね、お互いに笑って死にましょう、と」「決行しようはないですね。敵が上陸したことが、まあいけないということですね。何にしてももう決行しようということになって」

 「一発が発火すると、その周りに14、5人おるですから、破片が当たって苦しんでいるのも出てくるわけです。その苦しい状況が、もうこんなに苦しいなら殺してくれ、というようなことになったんです」

 このあと村長ら多くは、怪我人を楽にするため機関銃を借りようと赤松隊の陣地に走ったが、逆に赤松隊に1週間拘束されたと証言します。しかし、陣地で拘束されている村長の姿を見たという兵士の証言は一つもありません。村長は1週間、どこにいたのか?

 「一週間たって軍陣地から恩納河原へ帰った時は、状況は安定していました。その頃からもう、衛生兵が来ましてね。いろいろ治療をしてくれました」

  赤松隊の衛生兵だった若松軍曹も、「赤松隊長と軍医の意向を受けて、負傷した住民の治療を行った」と証言しています。死に切れなかった住民の治療を命じた赤松隊長が、他方で住民に自決を命じたというのか?

太田正一候補生(赤松隊長の側近)の証言。

 「もし、本当に玉砕命令を出していたのなら、生き残って再び集った人を、そのまま見逃しはしないでしょうね。命令は命令ですから。いったん出した命令は、遂行しなければならない。また、そうできる状態にあったと思うんです」…≫

 「鳥飼行博研究室」【沖縄戦での住民集団死(集団自決)・捕虜処刑 ◇渡嘉敷島・座間味島】では、ある体験者は、

≪… 僕らは、手榴弾なんか持ってなかったけれど、隣りに座っていた人たちや他の人たちは持っている人もいた。親戚同志で集まり座っていた。僕らは、夜明け前に着いたが、夜が明けてから村の人たちが、どんどん避難してきた。どこから命令があったのか知らないけど、みんな集まって来るから、僕は、そこが安全な避難場所だとばかり思っていた。 

 誰が音頭をとったか知らないが、“天皇陛下バンザイ”と三唱をやった事を覚えている。しばらくして、母が、振子のような“カッチ、カッチ”と、いう音を聞いて同時に、あっちこっちで爆発しはじめ、僕らは、びっくりしてうつぶせになった。やがて、静かになったと思って顔をあげると、周りは、血だらけで倒れている人、死んでいる人でいっぱいだった。僕らの家族、おばの家族と母の兄弟の子どもたち7名全員無事だった…≫と言う。

 (集まった住民の中から“天皇陛下バンザイ”と三唱をやっており、軍は関係なく住民が音頭を取っており、強制されていないことが分るが…)

 手りゅう弾で即死した人は、ある意味でまだましでした。負傷したり死にきれなかったり、手りゅう弾を持たなかった人たちの地獄がはじまります。カミソリ・かま・石などで喉・頭などを切り・叩き、タオル手ぬぐい・ひも・縄・ツルで首を絞め、父が愛する妻子に手をかけ、おじい・おばあを殺し、家族が家族を地獄経由の死へ追いやったのです。

 そんな中で家族以外の生きている他人を殺して回ったの人が、当時17歳だった金城重明氏。彼もまた軍命にしなければ安住できなかったのか、40年ほど前には明言していなかったのに、その後は軍命派のシンボルのようになっていて、軍命説では有名人です。【陶酔が集団自決をもたらした、金城重明氏の証言】をご覧ください。

 なお、【15年戦争資料 @wiki 赤松氏デビュー1968.4.6週刊新潮】には、渡嘉敷の赤松隊長が生前、当時の経緯を説明した記事が、日本軍悪行説を流布させた「鉄の暴風」の記事と対比してあり、両説の違いが分りやすいのでぜひご覧ください。

 

 また、西南諸島安全保障研究所副理事長の奥茂治氏は丹念に調査した結果、住民の音頭を取って“万歳三唱”で集団自決に誘導したのは古蔵波村長自身だったことを突き止めています。彼もまた、自分の立場を守るため、軍命があったとしなければならず、赤松隊長の証言を否定する様は次の章で盗人猛々しいくらい隊長を攻撃しています。


沖縄集団自決③ 隊長が命令したと決めつけた渡嘉敷村長

2016-09-05 07:54:18 | 沖縄集団自決

☆ 両者を対比させながら「命令あった側」で報道する

 「鉄の暴風」や古波蔵村長が共著した「渡嘉敷島における戦争の様相」や金城重明氏の証言によって、沖縄の住民たちは隊内事情が分からぬまま、赤松隊長を悪鬼にしました。そうされた隊長の言い分は、聞くに値します、ぜひご覧ください。http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/990.html 【15年戦争資料 @wiki 赤松氏デビュー1968.4.6週刊新潮】の中にあります。

 と同時に、この週刊新潮を読んだ琉球新報は、急遽4月8日に『渡嘉敷島の集団自決 "悪夢の惨事"二つの真相?』と題するフォローアップ記事を特集します。

 それは、「渡嘉敷島における戦争の様相」という、赤松大尉は住民を圧迫した張本人であり出撃しなかったひきょう者とする記録綴りを、当時の防衛隊長であった屋比久孟祥役場職員と二人で書いた当時の古波蔵惟好村長とのインタビューと、赤松隊長インタビューを対比する怒りの記事でした。

 かって、集団自決での死に損ないを楽に死なせるために、機関銃を借りに行った(のではなく、こんなに苦しんで死ねないので、殺してもらいに行った)村長と、「なんで早まったことをしたのだ…」と嘆いて断った隊長との対決記事です。

 また、http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/991.html の【史料発掘:40年前の赤松大尉の復権デビュー 琉球新報】もご覧ください。

 この琉球新報での古波蔵元村長に対する記事は…、

 ≪…赤松元隊長の意外な発言は、眠りかけた胸のうずきをゆすぶられたというか、にくしみがむらむらとわいてきたようである。

 戦争当時、渡嘉敷村長の職にあって軍隊と住民の板ばさみになって苦悩した米田(旧姓古波蔵)惟好さん(57)(那覇市 )(なぜ略したの?)琉球通運搬船共済会副会長は、週刊新潮の記事を読んで「でたらめもはなはだしい」と怒りをぶちまけた。

「赤松氏の戦闘報告はすっかり事実を曲げてなされている。戦後20余年をひっそりとして音さたもないので、謹慎して反省しているのだろうと思い、いまさら彼一人を責めることはよそう、と思っていたのに、このソラを切った態度は常識では考えられない。これでは自決をしいられてなくなった人たちの霊も浮かぶまい」と声をふるわせた。

  米田さんの話によると、赤松氏が戦闘報告で行った弁明は、住民を一ヶ所に集めたとき「西山の陣地に集合せよ、といったのではなく西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ、といった」ということ以外は全部まっ赤なウソで、集団自決を命令したことも、戦わずして生き延びようとしたこともすべて真実だという。

  「彼は島民を斬ったことは軍紀だ、とうそぶいているようだが、20余年も過ぎているので忘れている、とでも思ったのだろうか。住民が陣地に押しかけては攻撃のまとになるとして、わずかに離れた盆地に追いやって集団自決の命令を出したのは赤松大尉でなくてだれだったのか」と声を荒立てる。

  あの混乱の中の地獄絵が、まざまざと脳裏によみがえってきたらしく、悲痛な表情で語りつづける。「それにわたし個人としてどうしても許せないのは、"村長がきて機関銃を貸してくれ足手まといの島民を打ち殺したいと申し入れてきた"といっていることです。どうしてわたしに村民が殺せるのですか。ことの真相はこうです。盆地に追いやられたわたしたち住民は、敵軍と友軍の間に置かれ敵軍からの砲撃も激しいので、このままでは皆殺しにされると思い、わたしが友軍のもとへ行って、"軍民で総攻撃したいからわれわれにも機関銃を貸してほしい"といったのです。

  結局、銃は借りられず逆に足手まといになるとして自決を強いられたわけだが、同氏の報告では「敵に銃を向けるということが住民に向けるとすりかえられている」と事実を明らかにした。…≫と、琉球新報は報じています。

 両者が真っ向から対立した様子を琉球新報は報じながら「自決を強いられたわけだが」「事実を明らかにした」と、「隊長命令あった側」に立って隊長命令を信じやすいように報じています。

 ただ、古波蔵村長は集団自生き残りの最重要証人だから、証言の裏付けを取らないと間違いでも確定させてしまいます。隊長命令と決めつける証言なのに、裏付けもなく「彼の立場に立った記事」をかくから、 沖縄の人が隊長命令によると洗脳されるわけだが、 以下の動画で裏付けを確認できるかどうか、ご覧ください。どっちが本当やら?

https://youtu.be/qGksarCNvrI【訃報・集団自決の真実・知念朝睦氏】 の知念副官の証言は信用できませんか?

https://www.youtube.com/watch?v=1MPJTtVTJN8【渡嘉敷島の集団自決はウソ】の金城武徳さんの証言は信用できませんか? 次の二つも?

https://youtu.be/6ECQNgyJ6JA 「渡嘉敷島『集団自決』の真実」3-1(H18.6.15)

https://youtu.be/KZkENPDdGKw 「渡嘉敷島『集団自決』の真実」3-2(H18.6.15)

  

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid317.html 「ぼやきくっきり」さんの【集団自決 真実を語れない沖縄の特殊性】の3分の1付近に記述してある17歳で戦隊本部付きの伝令宮平敏勝さんの証言もどうぞ。(座間味のことですが…)

 また、http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/767.html には「潮」の「特別企画」があり、赤松隊長の【《私記》私は自決を命令していない】 と題する記事があり、その冒頭に

≪「何しにノコノコ出てきたんだ! 今ごろになって!」「おまえは三百人以上の沖縄県民を殺したんだぞ! 土下座してあやまれ!」

 耳をふさぎたくなるほどのすさまじい怒号が、飛行機のタラップから降り、空港エプロンに向かった私を急襲した。エブロンには数多くの、抗議団と称する人々が集まっていて、口々に「人殺しを沖縄に入れるな!」「赤松帰れ!」のシュプレヒコールを私にあびせかけてきた≫  で始まる赤松隊長の釈明が記されています。

 この状況は「渡嘉敷島渡航阻止抗議行動」として報道されたが、この阻止騒動がもとで曽野綾子氏の集団自決現地調査を呼び起こし、隊長命令説を覆す「ある神話の背景」を出版させ、大江氏に「沖縄ノート」での最終章でさらにひどい罵声を元隊長にあびせさ、(後述の)照屋昇雄さんの胸をひっかく結果を招いています。(隊長が非難されるたびに胸はち切れた照屋さん→)

 歴史の歪曲を是正するきっかけです、ぜひhttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/767.html をご覧ください、古波蔵村長だけに言わせるのは片手落ちですから…。

 
☆  重要証言者を無視するマスコミ

 隊長付の副官は真相を知る重要な証人です。金城武徳さんは渡嘉敷集団自決で機関銃で殺してもらいに行った生き残りで、真相を知る重要な証人です。

 しかし、彼らは隊長は命令していなかったと証言するから、沖縄の二紙はもちろん、マスコミは報じません。しかも【沈黙の謎 証言を阻む南の島の呪縛】で分かるように、座間味の真相を知り得る最重要生き残りは取材せず、彼は沈黙を守って墓場入りしたのだから、隊長が命令しなかったことを伝える証言者は宮城初枝さんしかいなくなります。

 従って、結局、命令があったと言うのはマスコミから多くの人に伝わり、なかったと言うのはネットから少数の人にしか伝わりません。その結果、あったが常識となり、なかったことは意図的に取材しないマスコミによってあったことに歪曲されています。 

 

 (以上、主に村長の言い分を記しており、その反論はリン先の記事と動画になっているから、どうぞリンク先もご覧ください)

 

 


沖縄集団自決④ 「鉄の暴風」は米軍のプロパガンダの下請け本 2の1

2016-09-05 07:01:34 | 沖縄集団自決

  座間味・渡嘉敷の両村史にも「県史」「鉄の暴風」にも隊長命令があったとする証言で書かれており、裁判もメディアも公式なものはみな「あった」と言う立場です。 

 つまり、「あったとする証言」はさんざん報じられているからネットに載せる必要も少ない が「無かったとする証言」は、公式には一切表明してくれず、ネットでしか伝えられないのです。だから、「無かった」とするものはネットで見て頂くことにして、あったとする面を考察してみます。

☆ 村民は知っていたハズ、「隊長は命令していない」ことを

 渡嘉敷では防衛隊員(兵士不足を、訓練もせず軍服と銃を与えて、家庭と部隊を行き来できる地元民で補充した者)たちが「玉砕命令が出た」と呼びかけ、かってに兵器庫から盗んだ手りゅう弾を配ったりもしたから、隊長命令による自決と思ったかもしれないが、

  渡嘉敷では・・・・大勢で機関銃で殺してもらいに行ったが、逆に自決を嘆かれた。

  座間味では・・・・忠魂碑前に集まった80人ほどの前で、村長が「隊長に断られたから解散する」と言って解散させたのだから、

 住民らは軍が関与していなかったことは知っていたハズです。

  一方、村長らが音頭を取って自決しているから、役場としては苦しい立場になります。そんな折(昭和25年)、「鉄の暴風」によって隊長命令で行われたとする風説が広まってゆきます。

 馬鹿正直に言えば、両村は「いや違う、隊長は命令していない」と、異議を申したてるべきだったが、

  隊長命令にすることによって

役場の責任を回避できるし、  

家族や他人を殺した人をかばえる、から

そんな安易な方に走ります。

 役場がそういう方向をとり、それに村民が抵抗せずに村全体がそれに染まると、もう隊長命令はなかったとは言えなくなります。だから、村史も県史も安心して「隊長命令による自決」にしてしまえたのです。

 しかも、後日「隊長命令による自決」を援護金をもらう条件に利用したから、もうウソを押し通すしかなく、本当のことを言うと「援護金をもらえなくなったら、どうしてくれるんだ」などと非県民呼ばわりに非難・差別されました。このように、

 ☆ “隊長命令による自決”と言うウソを後押しさせたのは「鉄の暴風」でした

 大江健三郎の「沖縄ノート」や家永三郎の「太平洋戦争」をはじめとして、

隊長命令による集団自決の発信源をたどってゆくと、少しは宮城初枝さんの「家の光」や村史・県史や現地取材もあるだろうが、

 ほぼすべてが孫引き・引用を経て「鉄の暴風」に至り、「鉄の暴風」が隊長命令説の発信源になります。従って「鉄の暴風」の検証が必要です。

 ☆ 「差別抜き本土並み」の精神的復帰願望があったのではないか

•1429年 、琉球王国が成立。1522年には与那国島を征服し支配下に置く。

•1609年 薩摩藩による侵攻。奄美群島は琉球王朝の支配から切り離され薩摩の直轄地へ。

•1872年(明治5年) 琉球処分により琉球王国が琉球藩に再編され、その後、沖縄県に。

これには清朝が抗議。(「沖縄は中国の領土」との主張は甘く見れない)

•1945年(昭和20年) 戦後、アメリカがペテンを用いて国連の信託統治権を得て、アメリカの信託統治下へ。

    信託統治とは、

読み書きできずに、住民の意思が選挙で集約できない地域で、それができるまで行う国連の便法。沖縄は全員読み書きできたのにアメリカは…

•1972年(昭和47年)日本に復帰する(沖縄返還)

 こういう歴史をアメリカは本土との分断策に利用したのだが、先述の太田知事の言のように沖縄人は差別を感じるとともに、後述の金鵄勲章の東間氏が言ったように劣等感があって、日本人になりきりたいという願望もあったようです。

 戦前には「朝鮮人と琉球心はおことわり」と言う張り紙もあったのですから…。

  そんな願望のせいか、渡嘉敷での集団自決は、古波蔵こわぐら村長の訓示と「天皇陛下万歳」の音頭のように、臣民方式で行っています。

 

☆ 「鉄の暴風」は講談師が書いたのか

 「鉄の暴風」(集団自決を軍命によるとした大噓の元の本)は現地取材もせず信用できないことは、36頁の次のくだりでよく分かります。【取材されない重要証人、副官知念少尉の証言】から部分引用すると・・・

 ≪…地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭(どうこく)し、軍籍にある身を痛嘆した・・・・》と、同本にあるが…    

 これに対し知念氏は笑いながら「渡嘉敷島に、将校会議を開く地下壕(ごう)は存在しませんでしたね。作り話ですよ。沖縄タイムスは嘘(うそ)ばかり書くから、私は読んでいませんよ。それに比べて曽野先生は偉かったな。もんぺ姿で渡嘉敷島で何日間も取材をされたのですから」「私が赤松隊でただ一人の沖縄出身者ということで、きっと同情心から、想像して書いたのでしょうね」と証言・・・・≫。

 ついでにもう一つ【狼魔人日記、『鉄の暴風』のいかがわしさ2007-11-01】をもとにすると…、

≪…初版本には(座間味隊長の)≪…梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきものと二人で不明死を遂げたことが判明した…≫と書かれています。

 しかし、実情は負傷した森井少尉が壕移動の際、拒否して居残り慰安婦のえい子と心中したのが誤解伝聞されたものであり、梅澤隊長は生きており戦後も何度も島に慰霊に来ています。

 こんな人権侵害になることを確認もせずに書く神経をどう思いますか。

 ついでに、 【沖縄言論界からの言論封殺の実態】によると、(聞き取れず間違っている名前だろうが)小沼寿一と言う関西から帰沖したいかがわしい文筆家が座間味に行った時、不明死の話を聞き、西宮にいた梅沢氏を探し出し面会します。「もういいじゃないか…」と言う彼を差し置いて「沖縄タイムス」に乗り込んで脅迫し、今なら500万相当をふんだくった。その直後にその項目はこっそり削除された、という。(と聞き取れました)

 取材しないで知念副官の心の内まで書くのは、「証言集」と言うより小説と言った方がよく、「隊長命令による」と決めつけたのも小説、即ち創作でした。

 ただ、まるきりの小説ではなく、沖縄タイムスが古波蔵村長に証言させ、それを「鉄の暴風」に書かせた後、隊長命令が「あった」との証言を大きく紙面に掲載し、「なかった」とする証言は封殺して、「あった」を補完・援護するから、県民は「あった」と誤解して信じてしまったわけで、 

「隊長命令による集団自決」とは、「タイムス・筆者・古波蔵村長らの二人三脚」で作り上げた小説、と言う方が的を得ていることは、先述の狼魔人日記から分かると思います。ちなみに、那覇の市立図書館では狼魔人日記は削除して見せないようにしてありました。


 ☆  「鉄の暴風」は、米軍政当局のプロパガンダの下請け本 

 昭和25年に、沖縄タイムス社で発行された「鉄の暴風」は、沖縄タイムス記者太田良博・牧港篤三共著だが、実は、日本の軍隊が自国民にいかに悪行を重ねたかを知らせたいアメリカが作らせたといってよく、「講談師、見てきたようなウソ」で国民に広く誤解を浸透させた大元の本、即ちWGIPによるプロパガンダで作られた本であり、集団自決は特に米軍に好都合に書かれていたが、【狼魔人日記、『鉄の暴風』のいかがわしさ2007-11-01】を元にすると…、

 その初版の前文には・・・ 

≪…なお、この動乱を通じて、われわれ沖縄人として、おそらく終生わすれることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えたかれらの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更正第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい≫…とあります。                     

 この前文はその後の重版では削除されています。なぜ、削除する必要があったのか、考えなくともわかるでしょう。         

 また、同じサイトでの「正論」2008/2号の勝岡寛次氏の記事を引用すると・・・

≪…“鉄の暴風”の初版は、おかしなことに東京の朝日新聞社から出ている。沖縄タイムスの専務が昭和25年3月前後に上京していろいろと交渉しているのである。交渉相手である朝日は(これは記録が残っているが)最初はつっぱねた。こんなものは今時出せない、出しても売れないと。

 ところが、一週間経ったら、朝日の態度が豹変した。“是非出そう”ということになり、沖縄タイムスと朝日で1万冊ずつ分担して出した。その時にこの沖縄タイムスの専務は、マッカーサーにも会っている。マッカーサーという人は、突然上京して会えるような人ではない≫

  一週間後の朝日の豹変がマッカーサーによったことは、容易に推察できるが、専務とは、1949年、昭和24年7月に発生した巨大台風グロリアでの大被害を好機として、米軍政部情報局部長ハルトン大尉と個人的に強力なコネクションを持つようになっていた同社創立者の一人、座安盛徳氏です。(取材当時は、まだバスも通っていなかった沖縄↓)

            

  著者の一人の太田氏は、曽野綾子氏に取材された時、証言相手をよく覚えていないと答えたが、後日「鉄の暴風」の取材期間が「三ヶ月、まったく突貫工事である」(から)との言い訳をしています。  

 さらに、突貫工事のような取材なら、証言の検証・裏付けは取れず、体験ではなく伝聞も多いのではないか、との曽野氏の疑問に対し、太田氏は沖縄タイムス昭和60年4月10日付で「座安氏の活躍」について明言しており、後にこれをまとめて出版した「戦争への反省」の中で、

≪…「直接体験者でもないものが、あんなにくわしく事実を知っているはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどデタラメではなかった。」…≫(225頁)と、

裏付け不要との“ハズ論”で、デタラメぶりを見せつけています。

 新聞記者が体験者をうのみにしたら、読者は間違った証言でもみな正しいと勘違いするのは当然だが、河野談話の元となった14人のいわゆる従軍慰安婦の体験談を国際基督教大学の西岡力教授が検証したら、信用できるものは皆無だったことが分かりました。

 ついでに申せば、ナチに対するレジスタンスの功労でフランス政府から勲章をもらい、自らが入れられていた強制収容所にガス室存在の噂も聞かなかったラッシニエは、ガス室

          

での体験者と言う人が現れるたびに、ヨーロッパ中を駆けずり回ったが、みな伝聞や創作で、信用できるものは一件も無かったと述べています。それが堂々とガス室でのホロコーストの歴史的〝事実〟にされているのです。  (死体焼却炉はあっても、殺すためのガス室はなかった)↑

  それはさておき、「鉄の暴風」が書かれた戦後5年目の沖縄は、バスさえ未だ無く、電話だって録音機だって普及していない時代。証言者を見つけ、連絡を取りあい証言を聞くまでの時間と苦労は現在とは比較にならないほどの苦労であることを思うと、記者二人とは言え、四百字詰め原稿用紙で750枚前後に相当する本の証言を聞くのに3カ月で可能だったのかと疑問にさえ思われます。(執筆にさらに3か月かかり、取り組んで半年で脱稿)

 そこで、座安氏の活躍となるわけだが、昭和25年、国際通りの映画館界隈の奥まった一角に在った浮島ホテルと思われる某旅館に、証言者と称する人たちを集め、取材の準備万端を整えた(もちろん、米軍の協力がなければ迅速には集められないだろう)のが座安氏でした。

 しかし、国民、特に沖縄人は被害者だ、悪いのは日本軍だとするその源流が「鉄の暴風」であるし、おぜん立てをしたのがウソ偽り駆使の情報操作で騙す専門家の情報将校と強いコネを持つ座安氏であったことを考えると、この本はWGIPに基づき、且つ国民と日本軍、本土と沖縄、の分断をもくろむアメリカの沖縄軍政府の代理本、WGIP政策の下請け本と言っていいと思います。

 

 だからこそ、すべての書籍を検閲し、本土からの書物の流入さえ禁止する厳しい言論統制中に出版でき、朝日を豹変させたほどマッカーサーが気に入ったのだと思います。

 その気に入った「鉄の暴風」翻訳本を持ち込んだ座安氏に対する元帥の態度を、彼は「雑感記事」として元帥との面談を昭和25年5月6日の沖縄タイムスに「あたかも遠方の不遇な息子の安否を気づかう慈父のような態度」と書いています。

 だから、座安氏が米軍の意向に沿った証言者を選び、米軍が通信・交通手段の劣悪な事情を補ってくれたからであろうことは、想像に難くありません。第一、米軍の意向を忖度しない書物など発行できず、検閲の暴風が荒れ狂っていた時代でしたから。

(写真は↓座安氏かどうかは分かりません)(李承晩でした) 

             

 かくして、日本軍を悪し様に罵って沖縄住民と日本、国民と軍隊、との分断をはかろうとする「鉄の暴風」は、座間味・渡嘉敷の現地で取材することなく「隊長命令集団自決」を花形役者として発行されます、風の暴風グロリアの成果でした。

 ■沖縄タイムス出生の秘密■もご覧ください。

 また、【「軍命令」はなかった! 沖縄・「集団自決」をめぐる顛末2 of 3】から推測すると、「隊長命令による自決」を誰が言い出したかと言うと、座安盛徳が作って古波蔵村長が証言して「鉄の暴風」が完成させ広めた、となるかと思います。

 


沖縄集団自決⑤ 「鉄の暴風」は、米軍プロパガンダ下請け本 2の2 

2016-09-05 06:27:32 | 沖縄集団自決

  以上のように、日本軍を悪し様に罵って沖縄住民と日本、国民と軍隊、との分断をはかろうとする「鉄の暴風」は、座間味・渡嘉敷の現地で取材することなく「隊長命令集団自決」を花形役者として発行されます、風の暴風グロリアの成果でした。

  また、「隊長命令による自決」を誰が言い出したかと言うと、座安盛徳専務が作って古波蔵村長が証言して「鉄の暴風」が完成させ広めた、となるかと思います。【「軍命令」はなかった! 沖縄・「集団自決」をめぐる顛末2 of 3】(https://www.youtube.com/watch?v=VSXh_zYy2X8&feature=youtu.be を参照)    

 

☆ 隊長命令にしたい人たちが書いた「鉄の暴風」

 なお、太田氏は曽野氏に誰から聞いて取材したかと聞かれたとき、 ≪・・・私は、はっきり覚えてないと答えたが、ただ、はっきり覚えていることは、宮平栄治氏と山城安次郎氏が沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は「赤松事件」を知ったのである。…私は二人を単なる情報提供者と見ていたのだから、二人から証言を取ろうなどとは考えなかったし、・・・≫ と、後日述べています。

 

 太田氏はもともと軍命に好都合の話を書くのだから、事実などどうでもいいのだろうが、新聞記者であるから座間味での集団自決を知らないはずもなく、渡嘉敷島の「赤松事件」を書いてくれと頼まれたとはいえ、頼んだ当時の座間味村助役・山城氏に座間味の集団自決を聞かないとは、不自然を通りこして“山城氏(つまりは、隊長は命令していなかったと知る山城氏)に関すること”は書きたくない両者の意図を感じさせます。

 山城氏は例の「…自決できない意気地なしめが。刺し殺してやる」と言った教頭先生で、実際に他人に手をかけた噂を持つ、集団自決の真相を三役と共に最も知り得る立場にあった村の指導者の一人です。

 「キー坊さん」の 【教頭は参謀長】によると

≪… 山城安次郎は、戦時中「参謀長」と呼ばれ、軍服に身を固めて一般の日本兵以上に軍人的威厳を発揮していたらしい。(宮城恒彦『潮溜まりの魚たち』2004)≫と有り、≪…『週刊サンケイ』昭和32・3・31号の特集記事で、「…当時座間味村の国民学校の訓導であった山城安次郎氏は、次のように綴っている。

 瞬間血肉が四散した。重傷を負い死に切れずうめく声。飛び出した腹腸を破れた胴に無意識に詰め込む手。教え子の顔が半分になって笑っている。左の目玉は頬の上に飛び出している。そうして軽症のものはお互いに棍棒で殴り合い、ある夫は、妻の頚部を剃刀で切り開いている。痛ましきは、重傷でうごめいて祖母の頭を泣き乍ら農鍬で叩きわる孫。恩納河原の谷川の水は赤く染まった。

 全くこの世の相とは思えない地獄絵図である。古波蔵村長も家族を引き連れて……」… この『週刊サンケイ』記事は全編に渡って『鉄の暴風』を剽窃した内容で書かれていると言ってよいが、この下線部の山城の部分は、『鉄の暴風』には見られない表現である。 と、 「キー坊」さんは記しています。なお【参謀長と呼ばれた民間人★座間味で何があったのか】で彼の異常さが分かります。

  恩納河原は渡嘉敷にあります。座間味の国民学校の山城教頭が渡嘉敷に渡って28日の集団自決を見た(あり得ないが)としても、なぜ、座間味のことは語らず渡嘉敷だけを語ったのか。自分の責任ではない渡嘉敷の自決を話すことによって、村民が「山城が村の住民を多数殺害した」と見ていた座間味の件にはふれさせない陽動か、赤松隊長の暴状から隊長命令を暗示させたいのかはわからないが、その後は「さわらぬ神にたたりなし」とばかり口を閉ざし、家族にも一切話していません。

 

  集団自決に軍が関与していないとすれば、矛先は村のリーダーに向かってくるでしょう。わざわざ新聞社に出向いて軍命の傍証にするにふさわしいでっち上げの赤松事件を頼むことには、真相を隠す意図がうかがえませんか。

 真相を明かしたくない生き証人の助役と、真相はどうでもいい感じの太田氏が、架空の軍命令を作り上げる大元の「鉄の暴風」に

深くかかわっています、「鉄の暴風」は いかがわしいと言われるはずです。

             

(11万人の集会で「私たちのおじい、おばあたちが、うそをついていると言いたいのでしょうか」と訴えた高校生↖。純真な生徒にこんな勘違い発言をさせないよう、集団自決の真実を明らかにすべきです) 

 また、【鉄の暴風・発刊の黒幕】には、同書は全社をあげての創業時からのプロジェクトだったこと、太田氏の経歴や「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で同書を書いたことや、検閲前からOKもらっていたらしい、など、同本の特異性が書いてあります。

 

☆ ラジオ朗読までさせたアメリカが気に入った「鉄の暴風」 

 座安氏のような米軍と強いコネを持つ人も創業したのだから、タイムスの第一号(1948・7・1)に、米軍政部情報局のグレイク大佐とハルトン大尉が創刊の祝辞を載せたとしても、驚くことではありません。

 【「軍命令」はなかった! 沖縄・「集団自決」をめぐる顛末2 of 3】によると

 両氏はその中で「…軍民政府の命令・政策および指令の国際ちほう(?)の情報と共に報道してもらいたい…」などと述べて、プロパガンダの宣伝に使うことを表しています。

 また、【米国の「宣伝をする」ためにつくられた沖縄の新聞社】 によると

 米軍との関係の意義を同じ創刊号で社長の高峰朝光氏は、

≪・・・「吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活してゐる、この現実を正しく認識することはとりも直さずアメリカの軍政に対する誠実なる協力であり、また、これが沖縄を復興する道である」≫  と述べているが、このように軍政府に「誠実」に「協力」するのが「沖縄タイムス」の創業趣旨であり、「軍命なし」と言えるはずがないわけです。

 そして、創業第一号の一面トップに大々的に米軍将校が賛辞を述べ、その下で社長が米軍に感謝。この位置関係を如実に表すのが、≪…沖縄戦記の刊行をタイムス社が承つたことは、あるいは、最適任者を得たものではあるまいかと思う。(豊平良顕「沖縄戦記脱稿記」、『月刊タイムス』1950年1月号)≫とある部分で、≪…「承つた」といのは、軍政府より「承つた」以外に考えられない。『鉄の暴風』は、米軍への忖度なしには生まれなかったのだ。…       

 なお、『鉄の暴風』発刊(1950年8月)直後の10月1日から、毎晩決まった時間にこれをラジオで朗読し、バックにクラシック音楽を流して効果を高めていたが、こうした手法は、本土において「真相はかうだ」がベートーベンの「運命」交響曲から始まる手法と同じであることを付け加えておく。≫と、「日本会議」さんのサイトに記してあります。

  沖縄の放送局がアメリカの手に落ちているのだから、よほど「鉄の暴風」はアメリカの情報操作に都合がよかった、としか思えません。

 「君の名は」で分かる通り、ラジオは今のテレビより伝達力があります。自分たちの体験と類似したような部分も多い放送だから、県民の多くが聞いたと思われ、「鉄の暴風」のウソが浸み込んで伝わり、ラジオで「隊長命令による集団自決」が浸透したことは間違いありません。

 ☆ 米軍御用達から反転:沖縄サヨクの牽引車となった沖縄の二紙 

 さて、沖縄で読まれる新聞は、おのおの16万部ほどを発行する沖縄タイムスと琉球新報の二紙で、本土の大手全国紙はほとんど読まれておらず、日経が最も多く約600部、朝日が約1000部、読売・産経は3ケタ台です。

 琉球新報は1893年創刊の沖縄最古の新聞だが、敗戦と同時に廃刊します。一方、終戦前の昭和20年(1945)7月、米軍の命令で「ウルマ新報」という新聞が創刊されます。創刊に関わった高良一氏は「米軍によって軍政府の情報課に引っぱられ、新聞をやれといわれた。しかし、米軍の宣伝をする新聞を創るとスパイ扱いされるからご免だと思ったが、断ると銃殺される(戦争中ですから)かもわからず、否応なかった」と語っています(辻村明・大田昌秀『沖縄の言論』)。

 このように米軍の御用新聞としてできたが、どうしたことか朝日・毎日の記者をした共産主義者の瀬長亀次郎が社長に就任すると、米軍との関係が悪化します。(カメジローが社長になったことは、共産主義者に乗っ取られたようなものだが…)

 そこで「ウルマ新報」の代わりとして、米軍が協力を約束して発行を認可したのが、昭和23(1948)年7月1日の創刊の「沖縄タイムス」でした。

 しかし、当初はガリ版刷りするしかない資金のない「沖縄タイムス」が、当時の金額で800万円もした輪転機をいったいどこから資金を得て購入したのか? 

 それは、週2回の発行が、軍からの用紙の補給が困難という理由で「本紙は軍命により週1回に変更」としているように、用紙の補給も米軍に頼っていたり、「吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活してゐる」と言う高峰社長の言を見れば、分るでしょう。何しろ、米軍が協力を約束して発行を認可したのですから…。

 こうして米軍の軍政下で、御用新聞として創刊されたのが沖縄タイムスだったし、米軍政府と傀儡の沖縄民政府の機関紙として発刊されたのが「ウルマ新報」だったわけで、二紙とも米軍の準機関紙然として作られています。

  沖縄の民意はこの二紙にかかっているのだが、共に日本軍を悪玉にして本土と分離させようとする米軍政プロパガンダに、深く協力し(させられ)て出発しています。

 その「ウルマ新報」は1951年の講和条約締結を機に最古紙の復名を目指して「琉球新報」と改名しました。

  このような生い立ちの新聞によって、あるいは沖縄戦での米軍の解放軍ぶりや800万枚の懐柔ビラ、及び二紙による集団自決偏向報道のために、沖縄住民は、実際は日本軍に協力して米軍を敵として戦ったにもかかわらず、日本軍を敵と錯覚するほどに洗脳されてしまいました。

 だから、沖縄戦で1万人ほどがレイプされたことなど、沖縄二紙はもちろん、WGIP洗脳教育で優秀な成績をおさめたエリート社員でなる大手新聞・マスコミが伝えるはずはありません。

 だから終戦時の女性の惨状はネットでしか判らず、イギリスの歴史作家・マックス・ヘイスティングス著「ネメシス 日本との戦い 1944―45年」。ネットでは【アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行】或いは【政治評論家・山本峯章のデータ・ファイル】http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html 及び、http://office-ym.seesaa.net/article/386579327.html をご覧ください。

( ついでに 日本軍の捕虜扱い規定もご覧ください )

 

 おまけに、住民宣撫のために米軍はことのほか解放軍ぶりを発揮させたし、鬼畜米英のウソの洗脳があまりのも酷かったから、住民は米軍の占領統治のための情報操作作戦に見事に引っかかりました。この時の状況をアメリカ軍政府は「民間人に対する日本軍の虐殺の影響」として以下のように記しています。http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-1221.html の【米国の「宣伝をする」ためにつくられた沖縄の新聞社】をご覧ください。それによると・・・

≪・・・沖縄県民は従順で協力的になり、殆ど福音伝道者のような熱心さで、隠れ場所から出てくるよう、他の民間人たちに勧め始めた。こうした協力は、まだ山の中に留まっている日本兵達には大きな怒りを呼び起こし、日本兵は一部の民間人に酷い暴挙を加えた。(中略)

…最終的には明らかに我々にとって有益な結果をもたらした。つまり、民間人は日本兵を敵、アメリカ人を友人とみなすようになり、従って彼等の(敗戦後の軍政府への)長期的協力が確かなものになった。・・・≫とあります。

 

 こうなるのも破綻した鬼畜米英強烈プロパガンダの裏返しのせいだが、加えて米軍は25種800万枚ものビラをまいています。この米軍ビラ

を拾えば厳罰にされるのだから、今度は日本軍の方が恐ろしくなります。

 持久戦が続くうち、米軍に収容された住民たちは食料を与えられ、殺されないと言う情報が伝わると、鬼畜米英のウソが知れわたり、今度は日本兵が怖くて、山を下りようにも下りられない、夜陰にまみれ隠れてゾロゾロ下りる状態になりました。

 

 隠れて山を下りるようになったことは、アメリカの心理作戦が奏功し、住民は日本軍を敵、米軍を味方と見なしたことを示しており、【集団自決はかくして「軍命令」にされた】http://www.seikyou.org/1912_01.htmlにはそうなる過程もあるから、どうぞご覧ください。

 

 それなのに、「ウルマ新報」に後に共産党副委員長になったほどの瀬長亀次郎が社長になったし、中国の共産化・東西冷戦化で日本を防共の防波堤にする必要に迫られ、民主化路線が反転する逆コースや地位協定による米兵犯人隠匿などで、アメリカの民主主義やヒューマニズムの化けの皮がはがれるにつれ本土復帰要望が高まり、二紙も、即ち民意も米軍政を敵視するように反転します。

  しかし、軍命による自決などの、日本軍を悪しざまにする教育は続き、しかも本土復帰を果たしても、沖縄の意思を首相がかってに決める軍用地借用更新の代理署名などで、本土政府に対する不信は高まり、二紙もそれらをあおり続けた結果、今では反軍のために「集団自決軍命説を堅持する」沖縄サヨクとも言われる者を育てています。

     

          (断食までして復帰は果たしたものの・・・)

その上、似た方向に偏った二紙しか読まれないような沖縄だから、異論を言わせぬ独特な全体主義的反政府空気なっており、言えば非県民にされるなど言いたくても言えない雰囲気になっています。たとえば、隊長命令はなかったとする沖縄人が書く「狼魔人ブログ」は、市立図書館は削除するのだし…。

 二紙が死守する「軍命による自決」のウソはなかなか見直されません。