☆ 軍命自決説はどこから生まれたのか
考えられるのは…、
① 証言から
しかし、ネットに残されている証言ビデオは自決状況証言はあったものの、軍命がなかったと言うものばかりで、軍命があったと言うものは、信用しにくい証言が少しあるだけです。
・まず、宮平春子さん(とその親族)。
【日本軍の強制による集団自決はあった!・証言2.3.4】で、
映画「ぬちがふう」でも語っている宮平春子さんが、座間味村の助役だった兄の宮里盛秀さんが「軍から命令が出たから、一緒に死にましょうね」と言って自決した「まさか一個人で、死になさいと言うことはない、と思います」と語っています。(監督が誤解を与える恐れを感じたのか、誤解していたのか、「完結編」が出せない、誤解を与える「軍命説」の映画↑)
・ 同じ動画の中で、渡嘉敷の金城重明氏が「軍からの強制」と言っているが、彼は沖縄キリスト教短期大学学長でもあったし、多数の著書と講演で若い人に軍命説を信じ込ませており、拡大再生産させました。その悪影響は計り知れません。
・次に宮城初枝さん。雑誌「家の光」で軍命説を全国に知らせています。
・娘の宮城晴美さんは体験者ではないが、集団自決裁判で被告の大江氏側の“軍命があった”とする側の証言をしています。
しかし、初枝さんも晴美さんも拙い私の文章では伝えられない過酷な事情があるので、【宮城晴美さん講演】で、彼女らの心境を察して下さい。
・また、古波蔵元渡嘉敷村長は強烈に隊長命令を主張しているが、本人が音頭を取って行わしめたのだから、隊長命令にさせたいだけで証言にはなりません。
・他に映画「ぬちがふー」の中に、当時15歳だった中村武次郎さんが「戦隊長から直接、玉砕訓示を聞いた」とあるが、彼の記事がネットになく、未確認。恐らく、日頃の訓示のことだろうが、訓示だろうが放言だろうが、実力有る者が言うと、庶民は「命令」として受け取ることを、軍自身が注意しなかったことが、軍国主義社会を盛り上げる大きな要因になり、軍命説錯覚の元になったのでしょう。
例えば、「畏れ多くも、“キオツケェ!”、天皇陛下におかれましては、“なおれぇ !”…」と続いて訓示して、吾輩の訓示は天皇陛下のご意向である、と言うような言い方をし、それを無視したり批判したら、連行されぶち込まれたのですから、訓示を命令と受け取るのも仕方ありません。
だからと言って、訓示したとしても命令していない現地部隊長のせいにするのは度がすぎるし、生死に関わる重大事を、訓示を命令として実行するのも度が過ぎ、自決訓示が自決命令とは言えません。
ネットの【産業組合の壕】には、沖縄タイムスが伝える座間味の自決状況が詳しく記されています。読めばきっと宮平春子さんの証言通り「軍命で起きた」と思うでしょう。タイムスは、そう思うような記事の書き方となっているから、沖縄県人が軍命説に染まってしまうのは当然でしょう。
しかし、あくまでも、盛秀助役が家族に話していたと言う伝聞証言で、誰が軍命を出したのか分からず、沖縄時間ののんびりさを急かせようと軍と言った、或いは防衛隊員が言ったのか、または同じ軍服姿で闊歩していた参謀長と言われた山城教頭が言ったのかもしれず、真実は伝えきれません。お兄さんをかばいたい気持ちは痛いほど分かるが、軍命説を成立させ得まません。
金城重明さんは母親や兄弟だけではなく、周りの人も殺しており、それがもとで島から逃避したと言っておりながら、父親に手をかけたことは隠していました。
先に述べた【ドキュメント 集団自決を追って】にあったように、
≪…その人(金城氏)は大きな棒を拾って、『まだ生きているか』と確かめながら…≫殴り殺していたのだから、軍命説願望はしかたないが、それでも1970年3月27日付沖縄タイムスの記事には、インタビュー記者が執拗に自決命令者を聞き出そうとする質問に、「直接命令を下したかどうかはっきりしない…」「…村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら…ということがいわれていたし、…」と明言を避けていたのに、現在では裁判の証言や講演で堂々と軍命があったと言い変えています。なぐり殺して回ったことを陶酔感のせいにする人が、軍命のせいにしていることを【殺人者の陶酔】より知ってください。
証言の次に、軍命による自決を認知・周知・流布させたものに、
② メディア・マスコミ・出版物があり、現地取材や「家の光」「村史」「県史」の影響もあるだろうがその最右翼は、
・何と言っても「鉄の暴風」とそのラジオ放送をおいてほかにありません。
しかし、同本の内容を疑わずに引用・孫引きしたり、「鉄の暴風」の目線で見るし、学者・歴史学会などの専門家が現地に行って調べなかったから、教科書にまで「軍に強制された」などと、歴史を歪曲して広め、裏付けのない隊長命令説が拡大再生産されるわけで、歴史学会の責任は重大です。
・そして、沖縄を二分する「沖縄タイムス」「琉球新報」の二紙が、「鉄の暴風」を擁護して、軍命死守の態度で報じるから、「軍命はなかった」とは言えない沖縄の空気をかた作り、その悪影響は計り知れません。
・しかも、「隊長命令が無かった」と知っている宮城初枝さんには村の圧力が加わり、「無かった」とは言えず、雑誌「家の光」にまで「あった」と、事実に反することを記載し、史実歪曲を広めてしまいました。
・だから、悩んだ後、梅沢元隊長に告白し謝るのだが、それだけではなく没する半年前(1989年)に一冊のノートを娘の晴美さんに残し、「隊長命令はなく、隊長に追い返された」ことなど、生前書いた諸本のうち8カ所を訂正・削除するように依頼しています。「関係者が存命中には公表してはならないが、いつか必ず公表して…」と頼んで…。(権力者の意に反する事実を公表する難しさを察して下さい)
・2000年12月晴美さんは、お母さんからのノートをもとに、「母が遺したもの」
として刊行し、お母さんの遺志を実現させ、隊長命令は無かった」=「隊長命令不在説」を広く知らしめました。こんなことは沖縄では考えられないことなのに、どうしたことか「沖縄タイムス出版文化賞」までもっています。
・宮平秀幸さんは民宿を経営していて、村民に白い目で見られてもお客さんには「隊長命令不在説」を盛んに話していたが、影響力のある読売テレビの1990年4月の取材に「村長の解散宣言」をしゃべったら、村から叱責を受け、以来マスコミには口を閉ざしていました。
しかし、「母の遺したもの」が出版され、賞までもらって隊長命令が否定されるきっかけが出ると、気を強くしてか2001年6月に毎日新聞紙上で、梅澤隊長が自決用の弾薬提供を断っていた伝聞を、あたかも自分で聞いたような話に脚色して証言します。こんなこともあって「隊長命令なかった説」が知れわたった……かに見えました。
ところが案の定、これらに危機感をもった「軍命説派」は両氏に圧力をかけ、
・晴美さんは抵抗できなくなり、圧力通りに「軍命があった」に転向してしまい、
・秀幸さんは圧力に抵抗して「無かったことの証言」を続けました。
お母さんの遺志を果たさせない周りの空気と彼女の無念さを、下記サイトで推し量って下さい。 (座間味の真実が伝わらず、二人が翻弄された経緯が分かる【「集団自決」 宮城晴美氏が新版で「後出しジャンケン」】で)つまり…
・晴美さんはお母さんの遺志を「母が遺したもの」の出版でいったんは実現させたが、それが

もとですごく非難され、結局、正反対のことを言わざるを得ませんでした。
(「新版」としただけで表紙も同じだが↑、帯には「軍の命令・関与」をうたった改訂版)
最も重要な「隊長命令はなかった」ことを削除し、正反対の事を書いて新版とは、新版が聞いてあきれるが、お母さんの遺志を潰しながらも、なんとか遺志を伝えようと「隊長命令はなかった」との断定は避けています。彼女はどうして事実とは逆のことを主張するようになったのか、を考えると、…
☆ 立場を優先し「事実」を曲げたり隠したりする現代社会 に至ります。
真実を隠す場合、ウソも方便と相手を思うこともあるが、たいていは保身や組織防衛など自分たちの“利”のために行います。
♠ たとえば、 84名が死亡した大川小学校では、

(カーブした校舎から校庭に避難した時、一部の生徒は1分もかからぬ山道の登り口に駈け出したが、先生に呼び戻された。校庭待機中は「早く逃げないと津波が来るよ」などと、子どもらはすぐそばの山に逃げたがっていた。こんなことを調べるのはタブーになっていたきらいがあるようだ)
先生たちは、山に逃げたがる子どもらを制止し、結果として49分間も校庭で津波が来るのを待たせてしまいました。だから、
遺族たちは49分間の究明を求めるが、市教委と(文科省の息がかかった)第三者検証委員会の二者は49分間の実情を調べようとはしませんでした。
そこで遺族らが、生き残った生徒らの証言などから調べると、『先生方は命より自分たちの「立場」に囚われ、つるつる滑る山道で怪我させた時の責任などのセーフティミスを恐れ、逃げようと強く主張できないままあれこれ相談していた』、のではないかと分析しました。
49分間の実態を二者が調べなかったのは、こういう可能性が判れば「教育・学校を指導する自分たちの立場」が無くなるからであり、“生活のため”“保身のため”“組織のため”と言う自分たちの“利のため”に、
真実より「先生」「市教委委員」「検証委委員」としての「立場」や、「学校」「市教委」「検証委員会」の組織を防衛することを優先していたからだ、と、あいまい調査報告で幕引きする二者に諦めきれない遺族たちは『事実に基づかない解決は同じ過ちを繰り返えさせる』として事実究明を訴えています。(【なぜもめる大川小】や日本図書館協会選定図書で遺族の報告書もある文芸書房「避難訓練さえしていたら・・・」を参照して下さい)
そして遺族がここまで明かしているのに、メディアがそれを報道しないのも同じ構図でしょう。そしてまた、裁判官が立場に囚われずに公正に判決するとは限りません。
砂川・長沼ナイキや沖縄基地更新代理署名審などの、権力者に不都合な下級審の判決をひっくり返すのは、上級審裁判官ほど「折角ここまで‥」どの昇進欲邪念が無意識に蠢き出し、田中耕太郎意識に妥協するからなのかもしれません。
「裁判は権力者があらかじめ決定した結論に到達するための単なる儀式でよい」
これは第二代長官として最高裁に君臨した田中耕太郎↗の言です。
彼のこの言葉からは「日本の裁判は権力者の道具であればいい」と読み取れるから、
裁判官は最高裁の道具であればいい、となって上ばかり見るヒラメ裁判官が育ちます。三権分立であるはずがありません。
自給自足できずに、食べものをお金で手に入れて生活する文明社会では、お金を稼がせてくれる力のある遠慮くしゃの意向に反すると、生活が苦しくなり差別され、生活が難しくなるため、意に反しても良心を閉じ込めても腹背面従しても、強者が与えてくれている立場を考え、権力者や強者が作る秩序や常識や空気に従います。
♠ 宮城晴美さんの場合も、
市が与えてくれた那覇市歴史博物館・主査と言う立場を考えると、「軍が関与した」とする市や沖縄県民の空気に遠慮して、真逆なことでも書かざるを得なかったのではないでしょうか?
また、組織を守るためには、組織に不都合な事実は曲げたり隠したりして事実を明らかにしようとはしないが、組織は人で動くから人間関係に不都合な事実も曲げられ隠されます。
今回の教え子のために問題を漏らした明大教授司法試験問題漏洩事件から、教授と教え子との師弟関係は相当緊密で、一種の組織防衛感が働くとの推測をもとにすると…、晴美さんは平和活動家として安仁屋政昭・沖縄国際大学名誉教授の教え子だが、軍の関与で自決したとする教授の意に反してまで真実を優先させ得なかった、のかもしれません。
いずれにせよ、彼女は「隊長は命令していない」と言うお母さんの真実の訴えを、一度は娘としてかなえさせながら、自分の立場を考えすぎてお母さんの『真実の訴え』を反故にしてまで、隊長が命令したとする側の被告証人になり、せっかくの自分の名誉・名声を汚してしまいました。善悪より損得で動く現代社会のワナにはまったのでしょう。
♠ 宮平秀行さんの場合は、
今度は圧力に屈せず「隊長命令はなかった」証言を続けたが、県や裁判所判決の後押しのある晴美さんと違って、一部の民間団体の後押しだけだから、その証言も実を結ぶような所までは至っていません。
しかも、伝聞を自分の体験のようにするから、「秀幸はウソばかり」と言われても仕方なく、彼も補強しようと「隊長命令不在」寄りに勇み足になって創作するから大意は信用できても、具体性は信用できません。彼は戦後生まれの人たちが、すんなり軍命説に洗脳されるのに危機感を持ったと言うが、それなら創作せずありのまま、伝聞とことわって証言してほしかったと思います。それでも十分「隊長命令不在説」を補強できるのですから・・・。
そうはしなかたものの、沖縄の空気や圧力に抗して「隊長不在説」主張するから、差別され白眼視されウソつき呼ばわりされるなど、生活上はマイナスばかりでした。裁判官も含め、誰でも本当のことを言わないワケは、自分の利を重視するからでしょう。
いずれにせよ、強者・権力者は心は貧しくとも頭はいいから、エサや見せしめで誘惑したり脅したりして弱者を操ります。するともう、彼らの意に反することは言えず行えません。こうなるのも頭ばかり鍛え修身を無視するからだが、文明人には、損してもやる善悪判断を身につける必要があり、滅私奉公(みんなのために、私欲を滅すること)が役立ちます。

結局、集団自決の証言をたどると、伝聞や他所での自決や兵士個人の非情な言動によるものが主で、そんなバックグランドがあるから「鉄の暴風」を疑いもなく信じ、それに輪をかけて沖縄の二紙が「渡嘉敷・座間味の軍命による自決」だけを報道し、その上他のメディアや学者が「鉄の暴風」の引用・孫引きで全国民に流布させたから、広く国民が軍命説を信じ込んだ、と言えるでしょう。つまり、
両島の集団自決の常識は「鉄の暴風」が作り上げたもの。即ち、「軍命令の集団自決」と言うのは米軍政府のプロパガンダに過ぎません。