狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沈黙の謎 証言を阻む南の島の呪縛

2008-05-26 06:46:47 | ★集団自決

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最も大きな障害は体験者の沈黙である■

沖縄戦、それも、特に「集団自決」の体験者の証言の聞き取り調査では、ある程度の話はしても肝心のポイントになると「多くを語らない」とか、場合によっては始めから沈黙を守る、とはよく聞く話である。

大城将保(嶋 津余志)元県立沖縄史料編集所主任編集員は、

その豊富な聞き取り調査の経験から、(真相解明の)「最も大きな障害は体験者の沈黙である」と断言する。

そして体験者のかたくな沈黙の理由をその著書『沖縄戦を考える』(ひるぎ社)の中で次のように分類している。

①あまりに残酷な目にあったために思い出すだに精神の苦痛に耐えられないという場合。 

②自分が真相を語れば関係者の誰かにめいわくが及ぶだろうと配慮している場合。 この場合共同体のタブーになっている場合が多い。

③遺族年金などとの関係で、すでに公式化された記録とくいちがう真相を語ると自分に不都合になる場合。

特定の思想信条の立場から、戦争の悲惨な側面を強調するのは好ましくないと考えている場合。

 

沖縄の新聞に登場する沖縄戦体験者の、

「多くを語りたがらなかった」といったフレーズは、

上記①の理由の「想いだすのも残酷だから」といった印象があるが、

真相に触れる重要なポイントでは、むしろ②と③が複雑に絡んで真相解明の障壁になっている。

これは、「軍命あり派」の大城氏も認めていることである。

「多くを語らなかった」どころか、事件当時村のリーダーであり、また島のリーダーの中の唯一の生存者でありながら、

自分の体験談を一切か語らなかった山城安次郎氏の言動は今でも謎に満ちて不可解だ。

山城氏の記録はネット上には、渡嘉敷島の「鬼の赤松」に関する伝聞証言のみで他には一切無い。

沖縄では普通のオジーオバーが長寿の記念等で「自伝」を出すひとも多く、「集団自決」関係者にも自決を指導したとされる座間味村助役宮里盛秀氏の父も自伝を出している。

ちなみに筆者の友人の母親も普通のオバーだが長寿のお祝いに自伝を出して親族一同に配ったという。(執筆・編集は長男があたった)

そんな沖縄の風潮の中で戦後沖縄のマスコミ業界を歩み、沖縄テレビの社長を務めたほどの著名人が「自伝」はおろか一冊の著書・共著も無く沈黙を守ったままなくなったのは不自然な話だ。

山城氏が沖縄テレビ社長に在任中に同社で勤務経験のある友人に同氏の印象を聞いてみた。

だが社長と一平社員では会話する機会もほとんど無く、唯一回だけ入社試験で社長自ら面接を行ったときの会話だけしか記憶に無いという。

その時は、「ロマンスグレーの温厚な紳士」といった印象だけで、勿論「参謀長」と呼ばれた男の面影は微塵も無かったという。

 

自由主義史観研究会機関紙『歴史と教育』(5月号)に掲載の拙文を下記に引用するが時間のある方は下記エントリーに目を通してから読んでいただくと幸いです。

「証言集」に見る新たな謎★教科書執筆者と体験者が初対面

「参謀長」と呼ばれた民間人★座間味で何があったのか

続・参謀長と呼ばれた民間人★座間味で何があったのか

「眼前の敵」 座間味で何があったか

悲劇を呼ぶ濃密な人間関係

                     ◆

証言を阻む南の島の呪縛(『歴史と教育』6月号掲載記事)

狼魔人(沖縄在住ブロガー)
「狼魔人日記」

◆取材記者と取材対象者

ある事件の取材に奔走する新聞記者を、その事件の体験者が記事にしてくれと訪問してきた。記者にとってタナボタ式のこんなオイシイ話は滅多にないはずだ。しかも社を挙げてこの事件を単行本にするという。場合によっては、その体験者を中心にした特集を企画しても良いはずだ。ところがその体験者は、自分の体験は語らず類似の別の事件の伝聞情報のみ語った。結局出版された本には、この体験者の体験記は一行も記されることはなかった。

『鉄の暴風』取材中の沖縄タイムス大田記者と彼を訪問した当時の座間味村助役山城安次郎氏のことである。座間味島の集団自決が起きた当時、山城氏は座間味村の国民学校教頭をしており、校長や村の三役と並んで島のリーダーだった。当時の島のリーダーは山城氏を除いて全て集団自決で亡くなっていたので、その時山城氏は、集団自決前後の村の状況を最も知る人間だった。だが実際は『鉄の暴風』には山城氏の証言や彼に関する記述は一行も掲載されていない。折角の実体験者の訪問を受けて大田記者は「座間味の出来事」を何も取材しなかったのだろうか。獲物には貪欲なはずの新聞記者が、ネギを背負った鴨を前に、座間味での集団自決を取材しなかったというのはいかにも不自然だ。  

取材を避けているのならともかく、自ら事件告発のため新聞社を訪問した山城氏が、自分の体験を一言も話さなかったのも、同じく不自然な話だ。とすると大田氏は記者魂を発揮して取材し、山城氏は体験談を詳しく話したと考えるのが自然だろう。

では何故大田記者は、山城氏の体験談を記事にしなかったのか。二人が既に亡くなった今となっては、推測に頼る以外に術はない。  


◆「軍の命令」という思惑  

沖縄を占領していた米軍は、沖縄を日本から分断して、永久占領を目論んでいた。そのため沖縄人宣撫のために発刊されたのが『鉄の暴風』であり、同書は米軍のプロパガンダの役目を担っていた。『鉄の暴風』に山城氏の体験談が記載されなかったのは、太田氏と山城氏の夫々の思惑が合致したからではないか。その思惑は、更に次の三つの思惑に分けられる。    

〈米軍の思惑〉  
米軍にとって、山城氏の体験談を記載することは、「残虐な日本軍」の印象を県民に植え付けるのが目的の『鉄の暴風』の主旨にそぐわなかった。  

〈島の思惑〉  
戦後、村の助役として戦後補償に奔走したとされる山城氏は、「援護法」を集団自決の犠牲者全てに適用させたかったが、実際は軍命令ではなく村のリーダーのパニックによる誘導が原因だった。
 
〈加害者と被害者の思惑〉
集団自決といっても、座間味島の場合、手榴弾による自決者は暴発による犠牲者が数名だけで、他は農具等による殺し合いが主であり、自決を「手伝った人」も多くいた。そして生存者の中には、自らが被害者であり、また、加害者の立場に立たされた人が多くいた。  

この三つの思惑を見事に一致させる唯一のキーワードが「軍の命令」である。「軍の命令」さえあれば、自決の「手伝い」をした生存者は、贖罪意識のいくらかは救われる。そして現実的な問題として、「援護法」を自決した住民へ適用させるという思惑と、米軍の『鉄の暴風』発刊への強力な思惑が一致して、山城氏の体験証言は、以後、永久に闇に葬られることになる。  

山城氏はその後、島を出て、新聞社編集長を経て、テレビ会社に入社し、マスコミ業界を歩みつづけ、沖縄テレビの社長にまで上り詰めるが、大田記者とどのような約束があったのか、彼は一切自分の体験を語ることはなかった。  

ここに「残虐非道な日本軍の命令による集団自決」という神話が誕生する。「軍の命令」さえあれば、八方丸く納まったのだ。  


◆死亡広告は血縁社会の象徴

沖縄では沖縄タイムス、琉球新報の両紙が読者を二分している。地元紙の極端な偏向記事をブログネタにさせてもらっているが、地元の読者から次のようなコメントを何度か頂いた。

「死亡広告さえなければ、偏向した地元紙の購読は即刻やめるのだが…」

新聞の死亡広告は、沖縄県民の人間付き合いには、不可欠のもので、これだけは毎朝欠かさず目を通すという人もいる。沖縄の地元新聞を初めて見る他県人は、一面または、日によっては、二面にまたがる死亡広告欄に度肝を抜かれる。

常識に従うなら、死亡広告とは、故人がその地方で社会的に知名度が高く、特に交際範囲が広いという場合に、新聞に掲載するもの。ところが沖縄の死亡広告は、本土のそれとは趣を異にする。

沖縄では、ごく一般の県民の死亡広告が、連日紙面を大きく占拠する。しかも本土紙の「訃報」記事とは異なり、故人の生前の業績等には一切触れず、故人の親戚縁者の名前を孫から曾孫、従弟、従妹そして義兄弟に至るまで詳細に記載する。親戚縁者は沖縄に留まらず千葉在、ハワイ在と世界中に在住する縁者の名前にも及ぶ。死亡広告に記される親類縁者の名前が、百人に及んでも、沖縄ではけっして珍しいことではない。死亡広告は、沖縄の濃密な血縁社会と人間の絆を示す象徴である。

濃密な人間の絆は、祖先を大事にする沖縄独特の風習であり、それに基づく相互扶助の精神は、「結いまーる」といった形で現在も残っている。

だが濃密な血縁社会の絆も、大事件に遭遇すると人々の判断を大きく狂わす場合がある。周辺を海で囲まれた沖縄の県民性は、現在では一見陽気な印象を受けるが、古い世代の県民性は、逆に内向的とされており、特に外部の人には閉鎖的になることが多かった。沖縄の離島の村落では更にその傾向が強く、血縁・地縁・職縁が渾然一体となり、島全体に閉塞的な空気を作り出す。  

沖縄人は、他県人に比べて、年寄りを大事にするといわれるが、戦前の沖縄では、年寄りは、地域社会の長老として大きな発言権を持ち、重要な決定事項には長老の意見が大きく反映された。  

リーダーの意思決定に異を唱えるものや遵守しない者に対しては、本人や肉親、更に関わった者まで異端視される。集団自決は、そんな沖縄の、渡嘉敷と座間味の両島で起きた悲劇である。そして村長を筆頭に村のリーダーが、集団自決の意思決定に大きく関わった。  

野生動物でも人間でも、大事件に遭遇しパニックになった集団のリーダーは、往々にして判断を誤る。座間味、渡嘉敷島の集団自決では、周囲を敵艦船に包囲され袋のネズミ状態に直面した村のリーダーの意思決定がとんでもない方向に向かった。そして誰もこれに逆らうことが出来なかった。


◆宮城初枝氏の口を塞ぐ島の呪縛

座間味島の集団自決の生き残りである宮城初枝氏は、証人として「援護法」の調査に来た厚生省の役人の調査に臨む前に、村の長老から脅迫的圧力を受け、「軍の命令」を証言する。  

その証言と自分の書いた「軍の命令」の手記が、梅澤隊長の運命を狂わしたことを知り、血縁社会の呪縛と真実の狭間で初枝氏は悩み葛藤する。『家の光』に虚偽の手記を書いてから数十年後の昭和55年、初枝氏は梅澤氏への贖罪意識から梅澤氏に面会し、「あなたが命令したのではありません」と真実を告白した。


◆更なる悲劇の登場

初枝氏は梅澤氏への真実の告白に留まらず、改めて事実を記した手記を出版することで、流布する「梅澤命令説」を覆そうとした。村の長老の脅迫的とも言える地域社会の呪縛を直に経験した初枝氏は、戦後生まれで村のしがらみにはとらわれないと思われた娘晴美に、真実を書き綴った一冊のノートを託す。  

晴美氏は、母の死後『母の遺したもの』を出版することになるが、それにより新たな悲劇が晴美氏を襲うことになる。戦後も〈当事者〉の親族に絡みついてくる悲劇の島の呪縛である。  

「軍の命令による自決」という虚構が、軍への協力という名目で戦後の村を潤していた。軍の命令を聞き分けられないと判断される6歳未満から零歳児の戦没者まで、「軍の命令」による死亡として「準軍属」とみなされ、年金の対象とされていたのだ。  

当然のごとく晴美氏は、島の関係者から猛烈なバッシングを受けた。血縁社会の島では、〈当事者〉遺族が年金の恩恵を受けており、そのしがらみは、「偽証言」に関わった初枝氏や村の長老に留まらず、村の年金担当課長にまで及んでいた。  

島ぐるみで守ってきた「島の秘密」を、『母の遺したもの』で暴露され、晴美氏へのバッシングは激しさを増し、年金が差し止められたら晴美氏が補償してくれるかとの声もあったと聞く。


◆左翼勢力の呪縛

晴美氏の悲劇は、母から引き継いだ呪縛だけではなかった。日本復帰後、急速に台頭してきた沖縄左翼勢力の呪縛である。戦後生まれの晴美氏は、地元の大学に進み左翼学者安仁屋政昭教授の薫陶を受け、地元の「プロ市民」になっていた。  
自著が大阪地裁の原告側証拠として提出されるや、被告側証人となった恩師との板ばさみという苦境に立たされることになる。晴美氏は母の遺言に反して被告側の証言台に立つことになるが、証言直後に『母の遺したもの』を書き変えるという恥ずべき行為に及ぶ。  

母は戦中戦後と島の呪縛に悩んだが、これを引き継いだ娘は新たな左翼勢力の呪縛に巻き込まれることになる。集団自決が親子二代に渡って引き起こした悲劇である。


◆二人の体験者の戦後

渡嘉敷島の生存者金城重明氏は、親兄弟のみならず、他人の自決にも「手を貸した」。島を出た金城氏は「軍の命令」と現在も叫び続けているが、そうしなければ戦後生きてはいけなかった。一方、座間味島の生存者山城安次郎氏は、自分の体験を黙して語らないまま、真実を墓場まで持ち込んだ。
 
集団自決の生存者は、単に死にきれなかった人たちだけではなく、金城氏や山城氏のように、他人の自決を「手助け」したり、自決に誘導した人が大勢いる。  

集団自決の真相は、これら生存者の証言に絡みつく濃密な共同体の呪縛と、死んだ人への贖罪意識を抜きにしては解明できない。

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