体育館の用具倉庫の丸めて立ててあった体操マットに、逆立ちして死亡した一年生は、日頃からイジメられていたから、これも押し込められたとみて、警察は事件としてすぐに生徒らを訊問しました。しかし、当時の主任検事が11年後に「みっともない捜査処理だった」と吐き捨てた、ずさん不十分な捜査で有罪にされています。
ずさんな捜査で有罪にされた例は多いので、ここではそんな例を・・・
《 冤罪で人生を狂わせられた人々 》
「自白じゃなくて、誘導。こっちがアリバイを主張しても、認めてくれない。警察が考えた筋書きに合わせて、こうじゃないか、ああじゃないかと追及され、オロオロするばかり。三日三晩、一睡もできず、外の空気を吸ったのはほんの何秒か。自分が自分じゃなくなっていた」 死刑を再審して無罪になった免田さんの言葉です。
被疑者は疑う取調官にアリバイなど事実で対抗します。アリバイを認めて捜査のやり直しを行えば冤罪は起こり得ないが、認めず聞き入れず続行し、肉体的・精神的に追い詰めて、ウソの警察筋書きを認めざるを得ないように追い込むのが強要自白です。
◎ そうやって作った死刑が再審で無罪になった主なものには
・34年間の服役した免田さんの「免田事件」
・34年間服役の谷口繁義さんの「財田川事件」
・34年ぶりに無罪が確定した赤堀さんの「島田事件」
・29年ぶりに冤罪が晴れた斎藤 幸夫さんの「松山事件」
◎ そうやって作った「無期懲役」が無罪になった主なものは
・29年服役させられた桜井昌司さんと杉山卓男さんの「布川事件」
・17年間の服役の菅谷さんの「足利事件」
・15年目に無罪放免されたネパール人マイナリさんの「東電OL殺害事件」
などだが、
◎ 冤罪のまま処刑した「飯塚事件」
を総括反省したとは言えないから、殺してもやむおえないとして、自分たちの何かを守って、今後も冤罪を築くのでしょう。
2008年10月17日、足利事件の冤罪を晴らすためにDNA再鑑定が報道されます。「飯塚事件」も「足利事件」も誤審冤罪の決め手になったのは、導入初期で信頼性が不確定な「DNA鑑定」だが、両事件はほぼ同時期に起こり、同じ科学警察研究所で鑑定し、同じ技官も鑑定に加わっていました。
だから、「足利事件」でのDNA鑑定が間違っていて再審を決定したのなら、「飯塚事件」もDNA鑑定の見直し→再鑑定→再審へと進むはずです。
しかし、報道された1週間後の10月24日、森英介法務大臣(当時)が久間元死刑囚の死刑を執行させました。大臣は「飯塚事件」も再審へ進むとみて、死刑執行を命じたに違いない、と思います。何におびえたのでしょうか。
この「飯塚事件」について「思索の日記」さんの記事を以下のように引用します。
なぜ当時の麻生首相と森英介法務大臣は、死刑確定後わずか2年の久間三千年さんを処刑したのでしょうか?
麻生太郎首相と森英介法務大臣と法務省高官は、「足利事件」の菅家さんの「再審請求」が受理され再審裁判の中で当時のDNA鑑定の信頼性が否定されて菅谷さんが「再審無罪」になることを確信していたと思われます。
もしも久間三千年さんが死刑囚として「再審請求」を出せば菅家さんに続いて「再審無罪」が出て、しかも菅谷さんの「無期懲役」よりもはるかに重い「死刑判決」が誤りだったことが白日のもとに暴かれることが分かっていたのです。
麻生政権にとって足利事件に続いて「飯塚事件」でも、警察・検察・裁判所のでたらめさが暴露され世論の批判にさらされれば政権運営に重大な支障が生じ、警察・検察・裁判所全体に対す国民の信頼が失墜する重大な危機があったのです。
死刑確定後2年という異例の速さで、無罪を訴え「再審請求」を準備していた久間三千年さんを死刑にしたのは、「再審請求」を阻止して「再審無罪」を出させないための「明確な口封じ」であり、麻生政権による「政治権力」と「司法権力」が一体となった犯した「国家犯罪」そのものだと思います。
また、佐藤博さんは以下のように批判しています。
村井敏邦・龍谷大法科大学院教授(刑事法)は「死刑執行の段階で、事件当時の鑑定法に問題があることは常識。科警研の研究結果も法務省は熟知していたはずだ。強硬に死刑執行した、国の責任は重い」と強調する。
久間元死刑囚は一貫して無実を訴え、再審請求を願っていた。死刑確定後2年という短期間の執行は、再審請求の機会を奪う非人道的な行為で断じて許せない。物的証拠の信頼性も脆弱そのもので、冤罪の可能性極めて高い。
疑わしきは罰せず。疑わしきは被告人の利益に。これは、人類が手にした刑事裁判の基本原則だ。刑事裁判は検察が挙証責任を負うが、被告人が不利な内容について被告人が合理的な疑いを提示できた場合は、被告人に有利に(検察に不利に)事実認定をする。刑事訴訟法336条は「被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない」と定めている。と佐藤博さんでした。
冤罪や冤罪の可能性のあるものをまとめたものが「多すぎないか?日本の死刑冤罪」と言うサイトにあるから見ていただくと、いかに「自白」を冤罪の基にしているかが分かると思います、ぜひご覧ください。
《 日本の警察や裁判は信用できないのはアメリカだけか 》
ちなみに、安保の地位協定で治外法権並みに日本に裁判権がないのは、協定自身がおかしいのだが、
そんな協定にさせる口実は、
・取調べに弁護士を立ち合わせない。
・物証軽視。
・自白中心主義だが、精神的肉体的に追い詰めて認めたがらない警察が書かせる自白を強要する。
・代用監獄と言われる所内の留置所に拘禁し、例えば弁護士は面会しない日祭日を狙うなど警察の都合のいい時いつでも好きなだけ取り調べるなど、被疑者の人権を重んじて取り調べにはいちいち監獄から連れ出し、そのために裁判所の許可が要るアメリカ方式と異なる日本の人権無視訊問。
などを口実にしています。つまり、日本は警察も裁判も信用できない と言うのです。
証拠がなくても自白だけで有罪にするのが日本の警察や裁判。いや、自分から告白する自白ではなく、シナリオ(思い込みや先入観などでの警察の捜査方針)に合わせた事実に反するウソの自白を強要して有罪にするのが日本の司法。だから被疑者はアリバイなどで反発・抵抗します。
アリバイが成立すれば捜査方針を見直せばいいのに、メンツのせい或いは捜査方針の稚拙を公にしたくないせいでしょうか、方針を見直す良心が働かず、アリバイ崩しに熱中するから、無視どころか時にはアリバイ崩しの、ウソの自白に合うように証言を目撃証人に強要したりもして、でっち上げ捜査をしばしばします。松川事件では、以前警察の世話になって弱みのある者へウソの供述をさせ、犯人に仕立てあげて死刑にもしたし、不利な物証は隠していました。
ウソの自白に合わせた証拠をでっち上げることもしばしばなことや山のように多い冤罪 は、さきの「多すぎないか?日本の死刑冤罪」と言うサイトを見れば分かります。
「氷見警察署の冤罪隠し」では「ウソの自白強要」どころか、冤罪と知っていながら刑務所に送り込んだり、冤罪を隠そうとしたことなど、今までの述べたようなことが見れるし、【最重要・えん罪】富山氷見冤罪事件、警察の「犯人作り」の恐怖を証言、第22回口頭弁論では被疑者を操り人形にしており、被疑者は刑事のなすがままにされており、逆に被疑者の弱さを示しており、取り調べ室では自分が自分でなくなる様子がうかがえます、ぜひ最後の方までご覧ください。
威嚇し脅しののしり暴言を吐き精神的肉体的に追い込んで、なすがままにされるようにして、ウソの自白をせざるを得ないようにする技法は治安維持法による取り調べで確立されたが、同法によって冤罪にしたことを謝罪も反省もせず名誉も回復させていないから、戦後もその伝統を少なからず受け継いでいるのだと思います。
《 裁判官は檻に入れられた囚人のようなものなのか 》
瀬木比呂志氏は「絶望の裁判所」の著者で、裁判官を30年余り務め最高裁事務総局に2度勤務し、裁判所の裏の裏まで知る明治大学法科大学院教授だが、この本を紹介しているの「田中龍作ジャーナル」より以下の点線部に引用しておきます。(省略部があるので田中氏のサイトをどうぞ)
司法の実態を知り尽くした元判事は日本の裁判所を「旧ソ連の全体主義」に たとえる。「裁判官たちは収容所に閉じ込められている」と話す。収容所とは徹底したヒエラルキー(階級制)に支えられた官僚体制のことだ。瀬木氏によれば、ピラミッドの頂点にいるのは最高裁事務総局だという。
事務総局が人事を支配しているため、裁判官たちは事務総局にニラまれる判決を書かなくなる。瀬木氏はこうした裁判官をヒラメ(上ばかりを見ている)と揶揄する。
最高裁事務総局は国の政策に異論を唱えるような判決を嫌う。劣化し上ばかりを見ている「ヒラメ裁判官」は盲目的に最高裁の判例に沿った判決を出す。個別の事情を考慮することなく、だ。
「日本の裁判官の社会は目に見えないルールの支配が強固。それを破った場合の罰は厳しい」と瀬木氏。国民のためではなくひたすら身内の論理で判決が左右されているのである。まさに「絶望の裁判所」である。と「田中龍作ジャーナル」でした。
《 「裁判は権力者があらかじめ決定した結論に到達するための単なる儀式でよい」 》
これは第二代長官として最高裁に君臨した田中耕太郎の言です。彼が行った最悪の儀式が「砂川事件」の判決。最高権力者アメリカの道具となって、日米安保条約で決めたことは憲法判断はしない→憲法より条約が重要→憲法を骨抜きにした、ことです。
彼のこの言葉からは「日本の裁判は権力者の道具であればいい」と読み取れるから、裁判官は最高裁の道具であればいい、となって上ばかり見るヒラメ裁判官が育ちます。三権分立であるはずがありません。
こんな田中耕太郎が11年間も、人事権を握る最高裁事務総局の上にいたのだから、裁判所がヒラメ水族館になるのは仕方なく、裁判が権力者の道具になるはずです。
「絶望の裁判所」にある「裁判所の門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」とは、「裁判官になるには一切の希望を捨てて収容所に入れ」と言うのか、或いは「裁判に望みをかけて、強要された自白書にサインするような」と言うのでしょうか。その両方でしょう、「日本の司法はリフォームされなければいけない」と瀬木氏は言っているのですから。
高裁・最高裁の裁判官はせっかく昇進したのに・・と思うのかどうかは知らないが、人事権を握る最高裁事務総局ににらまれないよう、無難な判決をするようで、国を断罪した下級審をひっくり返しています。ここにも国のやることが正しい→国に勝訴させねばならない→戦前の国家主義が感じられます。
それはそうと、裁判の原則の「疑わしきは罰せず・・」を用いると、物証がないと有罪にできず犯罪率・再犯率が高くなるので、日本では自白だけでも有罪にできる方式になっています。(というより、戦前不断絶だから)でも、これには裁判の独立が前提だが、起訴したらほぼ有罪になるほどその前提ができていない戦前非断絶司法では、この方式には危うさがあります。
検挙や起訴を警察の成績にすると偽りの自白ででも起訴したくなり、この危うさを悪用して治安維持法式で冤罪の山を作り、今もそれを引き継いでいるからです。
犯罪・再犯率が上がっても自白中心を改めて冤罪を無くすべきか、裁判官の独立、即ち三権分立の民主主義を
確立させて自白で有罪にできるようにすべきか、検討してほしと思います。冤罪で検挙率を上げても、その裏で真犯人
が笑っているのですから・・・。