常識や空気に反して

学校やマスコミは本当のことを伝えないことが多すぎます

沖縄集団自決② 座間味と渡嘉敷での自決の概要

2016-09-05 12:07:47 | 沖縄集団自決

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  集団自決の原因は決まっていなかったが、高校の教科書に軍が命令をしてなされたと記述されました。

 それ以前に(1985年・昭60年)神戸新聞は隊長の命令はなかったとする証言を見つけて報道していたのに、教科書にまで隊長命令と記述されてはいよいよ日本軍は悪者にされる、と座間味の梅沢元隊長と渡嘉敷の故赤松元隊長の遺族が2005年・平成17年裁判に訴えました、「新しい歴史教科書をつくる会」が支援して…。

 調べれば軍命なしと判るからか、文科省は2007年に「命令したかどうかは明らかと言えない」と、検定指針を示したことから、沖縄の人を中心に歴史を歪曲するなと猛烈な抗議が上がり、抗議集会に11万人が集まったと沖縄の2紙が大きな写真付きでセンセーショナルに報じ、11万に驚いた内閣は検定審議会を開いて、いつもはしない分野まで審議しました。

  軍が命令をしたと言うことを広く知らしめたのは沖縄タイムスが出版した「鉄の暴風」なので、その著者と新聞社を訴えればいいのに、「鉄の暴風」を基にして書いた「沖縄ノート」(今も販売中)を出版した大江健三郎と岩波書店を訴える、的違い提訴でした。

 しかも、日本の裁判は被害がないと訴えられないから、命令したとされた座間味・渡嘉敷の隊長とその遺族が名誉を傷つけられたとして訴えたのです。

 つまり、裁判所は軍命の有無を裁定しなくてもよかったわけで、その結果、判決は「軍命があったとは断定されないが、…、名誉棄損にはならない」と、裁判までの40数年間に出てきた「軍命はなかったとする新証拠」に難癖を付け、軍命はあった、と勘違いしやすい裁定で、隊長らを敗訴させました。

 裁判はあくまで「名誉棄損ではない」としただけで、軍命があったとは認めてないのに、世間では「訴えた原告が敗訴したから、軍命はあったのだ」との勘違いのままです。

  ☆ 座間味と渡嘉敷でのいきさつと概要 

 米軍は沖縄本島に直接上陸すると見ていた軍は、慶良間諸島の座間味・渡嘉敷・阿嘉の三島に、米軍を背後から特攻艇“マルレ”で攻撃する基地を作りました。

 ところが艦隊をびっしり埋め尽くした米軍は、3月23日より空襲で三島の村落を破壊し、24日には艦砲射撃で雨あられの「鉄の暴風」を撃ち込みます。

○ 座間味の場合

 隠しておいた特攻艇を破壊尽くされた梅沢隊長は25日の夜、明日からどうやって戦おうかと思案していると、村の村長・助役・収入役・ら5人が訪ねてきます。  

隊長はいさめた 軍強制説否定する新証言】によると…

≪…宮里助役(職場に3・8銃を備えた兵事主任)は「明日はいよいよ米軍が上陸する。鬼畜米英にけだもののように扱われるより、日本軍の手によって死んだ方がいい」「すでに、住民は自決するため、忠魂碑前に集まっている」などと言って、梅沢少佐に自決用の弾薬や手榴弾、毒薬などの提供を求めました。             

 これに対し、梅沢隊長は「そんなものは渡せない。われわれの役目はあなた方を守ることだ。なぜ自決させなければならないのか。ただちに、集まった住民を解散させ、避難させよ」と命じます。

 村側はなお懇願し、30分くらい押し問答が続いたが、梅沢少佐が弾薬類の提供を強く拒否したし、迫撃砲も炸裂したため、村の幹部らはあきらめ、忠魂碑前に帰ってゆきました。(このやり取りを見ていた伝令役の宮下秀幸少年は助役らの後を追って、今度は村民への村長の説明を聞いたと、秀幸さんは言うが、村長の説明を聞いたのは怪しく、後日の伝聞を脚色したと思われます)

  村長は、忠魂碑前に集まった約80人の住民に対し、「部隊長に自決用の弾薬類をもらいに行ったが、もらえなかった。みなさん、自決のために集まってもらったが、ここでは死ねないので、解散する」と通告しました。このため、住民たちはそれぞれの家族の(防空)壕に引き返したといいます。

 その後、村長ら村三役や国民学校長らとその家族は産業組合の壕やそれぞれの壕で自決したが、多くの住民は自決を思いとどまり、翌26日に上陸してきた米軍に捕らえられるなどします。(宮平さんの家族が家族壕に帰る途中、帯刀した軍服姿の山城安次郎教頭先生に会い「なんで今頃うろうろしてる。自決できない意気地なしめが、刺し殺してやる!」と迫ったが、「自決するとか解散とか、今度はまた…、いったい誰が自決せよと言っているのですか」などと反論した…≫と言いうが、反論は脚色ではないのか。

(【座間味島集団自決のタブーか】【「宮平証言」は真実か ~ 座間味島】もどうぞ)

  さらに、【「沖縄戦の真実」封印】では、≪…梅澤氏は昭和34年以来、沖縄への慰霊の旅を続けてきた。その度に住民らは氏をあたたかく迎えた。そして昭和62年の慰霊のとき、一人の女性が訪ねてきて言った。「梅澤さん、本当のことを話します。昭和32年、座間味で行われた厚生省の調査で、隊長に集団自決を命じられたかと問われ、『はい』と答えました。そう言わなければならなかったために、そう言いました。けれど、それは真実ではありません」

 梅澤氏はなぜ、この女性がそんなことを知っているのかと一瞬考えた。すると女性は言った。「あの夜、5人が隊長に会いに行きました。4人は亡くなりました。私はたった1人の生き残りです。5人の中に女性が1人、女子青年団長がいましたでしょう。それが私です」

 彼女は宮城初枝氏であり、初枝さんはこの後、「国の補償金がとまったら、弁償しろ」などの非難を浴びた。が、彼女が再び発言を変えることは、もはやなかった。幾人かの住民も真実を語り始め、自決命令は宮里助役が下したと判明した≫

http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/26433192.html の【「沖縄戦の真実」を封印・検定…】の週刊新潮の'07年1月4日号「日本ルネッサンス」も参照のこと。

 

 初枝さんは真実を語れない雰囲気の中で、一冊のノートを娘の晴美さんに託し、晴美さんは「母が残したもの」を出版し、ニュアンスは違うが、隊長は命令していなかったことを記しています。

 しかし、集団自決裁判の時はそれを翻して、大江・岩波側の軍命があったことを証言をしています。

 初枝さんも晴美さんも周りからの圧力で、軍命があったことにせざるを得なかったことを理解して下さい。    

                    (軍命によるとする映画だが感情に訴えていて誤解を生み易い↗)  

○  渡嘉敷の場合

  【渡嘉敷島の集団自決を考える】には、「鉄の暴風」による間違った通説と対比させながら、常識の間違いが記してあるのでご覧ください。部分的に引用すると…

 ≪…26日の夜、村の安里あざと巡査(警察官)が、赤松隊長のところにやってきます。「敵はいつ上陸するのか、どこへ逃げればいいのか」とたずねられた赤松隊長は、「上陸は明日(27日)だろう。部隊は西山に移動して陣地を築くから、住民も近くに移ったらどうか」≫と答えます。

  27日には、部隊は陣地作り(たこつぼ堀り)住民は移動に追われるが、夜は大雨になり、夜を徹して歩き通して着いた家族もありました。

≪…米軍は、激しい艦砲射撃と空爆のあと、渡嘉敷島上陸を開始。「防衛隊員の一部が、手榴弾で家族とともに自殺した」という最初の報告。午後2時、谷に避難していた住民が、陣地内になだれ込む。異様な叫び声。これが米軍に気付かれ、迫撃砲が打ち込まれる。防衛隊員が住民を静かにさせる。夜、小雨の中、谷から叫び声が聞こえる…(その叫び声が、集団自決・この世の地獄のうめきだった)

○ 古波蔵こわぐら村長の証言古波蔵こわぐら村長の証言。

・・・「そこへ集合したらもう防衛隊がどんどん手榴弾を持ってくるでしょう」

 「それから敵に殺されるよりは、住民のほうはですね、玉砕という言葉はなかったんですけど、そこで自決したほうがいいというような指令が来て、こっちだけが聞いたんじゃなくて住民もそう聞いたし、防衛隊も手榴弾を二つ三つ配られて…安里巡査も現場に来てますよ」「その後に敵が上がって来たわけです。迫撃砲がばんばん来る。逃げ場がないわけです…安里(巡査)さんは赤松さんに報告する任務を負わされているから、といって15メートルほど離れて谷底にかくれていましたよ…」「そういう状況ですからね、お互いに笑って死にましょう、と」「決行しようはないですね。敵が上陸したことが、まあいけないということですね。何にしてももう決行しようということになって」

 「一発が発火すると、その周りに14、5人おるですから、破片が当たって苦しんでいるのも出てくるわけです。その苦しい状況が、もうこんなに苦しいなら殺してくれ、というようなことになったんです」

 このあと村長ら多くは、怪我人を楽にするため機関銃を借りようと赤松隊の陣地に走ったが、逆に赤松隊に1週間拘束されたと証言します。しかし、陣地で拘束されている村長の姿を見たという兵士の証言は一つもありません。村長は1週間、どこにいたのか?

 「一週間たって軍陣地から恩納河原へ帰った時は、状況は安定していました。その頃からもう、衛生兵が来ましてね。いろいろ治療をしてくれました」

  赤松隊の衛生兵だった若松軍曹も、「赤松隊長と軍医の意向を受けて、負傷した住民の治療を行った」と証言しています。死に切れなかった住民の治療を命じた赤松隊長が、他方で住民に自決を命じたというのか?

太田正一候補生(赤松隊長の側近)の証言。

 「もし、本当に玉砕命令を出していたのなら、生き残って再び集った人を、そのまま見逃しはしないでしょうね。命令は命令ですから。いったん出した命令は、遂行しなければならない。また、そうできる状態にあったと思うんです」…≫

 「鳥飼行博研究室」【沖縄戦での住民集団死(集団自決)・捕虜処刑 ◇渡嘉敷島・座間味島】では、ある体験者は、

≪… 僕らは、手榴弾なんか持ってなかったけれど、隣りに座っていた人たちや他の人たちは持っている人もいた。親戚同志で集まり座っていた。僕らは、夜明け前に着いたが、夜が明けてから村の人たちが、どんどん避難してきた。どこから命令があったのか知らないけど、みんな集まって来るから、僕は、そこが安全な避難場所だとばかり思っていた。 

 誰が音頭をとったか知らないが、“天皇陛下バンザイ”と三唱をやった事を覚えている。しばらくして、母が、振子のような“カッチ、カッチ”と、いう音を聞いて同時に、あっちこっちで爆発しはじめ、僕らは、びっくりしてうつぶせになった。やがて、静かになったと思って顔をあげると、周りは、血だらけで倒れている人、死んでいる人でいっぱいだった。僕らの家族、おばの家族と母の兄弟の子どもたち7名全員無事だった…≫と言う。

 (集まった住民の中から“天皇陛下バンザイ”と三唱をやっており、軍は関係なく住民が音頭を取っており、強制されていないことが分るが…)

 手りゅう弾で即死した人は、ある意味でまだましでした。負傷したり死にきれなかったり、手りゅう弾を持たなかった人たちの地獄がはじまります。カミソリ・かま・石などで喉・頭などを切り・叩き、タオル手ぬぐい・ひも・縄・ツルで首を絞め、父が愛する妻子に手をかけ、おじい・おばあを殺し、家族が家族を地獄経由の死へ追いやったのです。

 そんな中で家族以外の生きている他人を殺して回ったの人が、当時17歳だった金城重明氏。彼もまた軍命にしなければ安住できなかったのか、40年ほど前には明言していなかったのに、その後は軍命派のシンボルのようになっていて、軍命説では有名人です。【陶酔が集団自決をもたらした、金城重明氏の証言】をご覧ください。

 なお、【15年戦争資料 @wiki 赤松氏デビュー1968.4.6週刊新潮】には、渡嘉敷の赤松隊長が生前、当時の経緯を説明した記事が、日本軍悪行説を流布させた「鉄の暴風」の記事と対比してあり、両説の違いが分りやすいのでぜひご覧ください。

 

 また、西南諸島安全保障研究所副理事長の奥茂治氏は丹念に調査した結果、住民の音頭を取って“万歳三唱”で集団自決に誘導したのは古蔵波村長自身だったことを突き止めています。彼もまた、自分の立場を守るため、軍命があったとしなければならず、赤松隊長の証言を否定する様は次の章で盗人猛々しいくらい隊長を攻撃しています。


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