「敬愛なるベートーヴェン」の原題は「Copying Beethoven」で,ベートーヴェンとその写譜師(コピスト)で弟子の女性アンナとの物語です。写譜師とは,作曲家が書いた譜面を,出版のために清書する職業です。中学校や高校の音楽教室に,音楽家たちの肖像画が飾られていたことを覚えている人も多いでしょう。バッハは苦虫を噛みつぶしたような顔をしていました。ハイドンは人の良さそうなおじさんでした。モーツァルトはいかにも優雅な天才という顔でした。ベートーヴェンはというと,ざんばらの長髪で,こちらを見据えてきりっと口を結んでいました。エド=ハリスは,いかにもアメリカ人画家というポロックを演じたときは地のままだったように思いますが,ヨーロッパの音楽,いやヨーロッパの文化そのものを体現したようなベートーヴェンを演じる今回は,薄い頭髪を長髪にし,スリムな体を下腹の出た体に作り変えています。物語は,ベートーヴェンが有名な第九交響曲,いわゆる「第九」を作曲した時期に設定されており,架空の若い女性の写譜師を,「トロイ」で絶世の美女ヘレンを演じ,「ナショナル・トレジャー」ではニコラス=ケイジと共演したダイアン=クルーガーが演じています。彼女の名前はアンナ=ホルツとなっていますが,実在の写譜師にカール=ホルツという人がおり,さらにベートーヴェンと親しかったアンナという女性がいたので,その2人からとられた名前のようです。この映画では,第九の初演を難聴のベートーヴェンのために,アンナがオーケストラの中に隠れて,数メートルの距離を置きながら指揮の指示を送るのですが,このときの二人はまるで抱擁し合うようで,アンナの表情も恍惚としています。第九は日本ではご存じの通りとても人気があり,年末には各地で演奏されます。1918年ドイツ軍の捕虜が徳島県鳴門市の収容所で演奏したのが,日本での第九の初演だそうで,このエピソードは「バルトの楽園」という映画になりました。また,CDの規格が74分なのは,この第九が収まるように決められたそうです。ヨーロッパでは,オーケストラに独唱者・合唱者も必要とするこの曲は日本ほど演奏されないそうですが,1985年にEC(現在EU)の歌に,この第九の第4楽章の有名な「歓喜」のテーマが定められています。第九は当時としてはきわめて斬新な作品です。ベートーヴェンの生きた時代は18世紀末から19世紀初め,ちょうどヨーロッパの社会が大きく変わる時期でした。フランス革命が起こり,イギリスでは産業革命が起こりました。音楽家は,それまで王侯貴族の保護を受け,かれらの注文で演奏したり作曲していたため,どうしても注文主のご機嫌をとらなくてはいけませんでした。時代は変わり,もちろんベートーヴェンにもひいきの貴族はいましたが,その生活基盤は,この映画でも出てくる自作の出版にあったため,それ以前の音楽家と比べてずっと自由な創作活動ができたのです。ところでこの映画,言葉が英語なのです。ウィーンの街角で馬車を捕まえるのに「Driver!」は,やっぱり少しヘンですね。