RIKAの日常風景

日常のちょっとしたこと、想いなどを、エッセイ風に綴っていく。
今日も、一日お疲れさま。

連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.19後半

2008-12-20 19:00:05 | 連載小説

 
  藤の湯は、ちょうど十日前、高村くんの部屋に初めて入れてもらった日以来、久しぶりだった。なんだか、あれからずいぶん経った気がする。

 でも私は、自分の中で、もう高村くんとの時間を封印したつもりでいた。実際私の気持ちは、松崎に急速なスピードで戻っている。
 いつもは一人で歩く寂しい藤の湯までの道のりが、松崎と歩くと、まるで違ったように感じられる。クリスマス間近で、道沿いの家のベランダや庭木には、色々な趣向のイルミネーションが、キラキラ光って賑やかだ。あの、先走って一番乗りに点灯を始めた家の前を通り過ぎた時、連休明けに、高村くんとバッタリ会って、すみれ荘までついて行った自分を、一瞬思い出してしまった。

 松崎は銭湯に入るのが、なんと生まれて初めてだと言う。
 靴箱を見て、

「居酒屋みたいだね」

 と、見慣れない所に来た時の、好奇心いっぱいの小学生の目をして言う。

 受付の人は、今日は運よくいつもはあまりいない、杖をついたちょっとボケの入ったおじいちゃんだった。松崎はスッと千円札を出す。当然のように私の分も払ってくれた。
 
  時計を見て、
「じゃあ、まだ時間早いからゆっくり十時まで入ろう。ロビーでね」

 そう言って、別々の暖簾を潜る。

 今日はいくぶん空いていた。ロッカーもちょうど手が届きやすく着替えもしやすい、下から三段目の端が空いていて、内心にっこりする。番号も27、私の大好きな数字だ。

 私は、なぜか数字への感度が高い。三で割り切れる数っていうのが好きで、特に12と27が好きだ。 「ロト6」って言う宝くじを、秘かにたまーに思い付いたように買って、好きな数字を塗る。六つの数字のうち、12と27を外したことはない。私にとってのラッキーナンバーだと信じているのだ。

 そんなことを考えながらいつのまにか裸になり、シャンプーやボディーソープのセットを持って、お風呂場のガラス戸を開ける。

 中には全部で7~8人いた。時間が早いからか、お母さんと来ている小学生高学年らしい女の子もいる。

 『本日の湯』は、高村くんと出会った日と同じ『コーヒー風呂』だった。
 体が冷えきっていたので、温かいシャワーを頭からかけて、前髪をかきあげ、しばらく流しっぱなしにする。それから頭を洗い、化粧を落とし、体を洗って、髪を一つに束ねて、湯船に浸かった。

 ここはリニューアル後、モザイクの富士山の絵がなくなってしまった。

 泡のぼこぼこという音に身を委ね、ゆっくりと目を閉じる。

 無意識に頭に浮かんだのは、高村くんにファミレスで初めて出会った日、ここのロビーでバッタリ再会したシーンだった。その後は、次々と思い出が甦った。ギンザ商店街でまたまた偶然会った時の高村くんの笑顔。コーヒーの缶をスルッとゴミ箱に投げ入れた瞬間のこと。りんごの入った袋を手渡した時の高村くんの喜んだ顔。深夜の神秘的な公園デート。そして…つい十日前、高村くんの部屋に初めて入った、あの得も言われぬような時間…。

 封印するにはあまりにも刺激的な思い出ばかりだった。でも、終わったんだ。もう、すべては終わったんだ。そう自分で決めたんだから。私の中には不思議と惜しいという気持ちはなかった。高村くんとの凝縮した一か月半よりも、何十倍も長い松崎との時間、培ってきた絆へのいとおしさの方が今は勝っていた。

 15分は優に入っていただろう。周りのメンバーは大方入れ替わっていた。一旦浴槽から出て、ぬるめの水シャワーを浴びる。

 その後、今度はコーヒー風呂に浸かった。

 また目を閉じる。

  『カフェ傅』でのオシャレな大人っぽいデートが鮮やかに頭に浮かんだ。あの初雪の一粒一粒さえも手に取るように…。

 …もう終わったんだ。

 久しぶりに顔のマッサージをしてみた。あごのライン、まゆの間、鼻の周り、口の周りなど、ゆっくりと指圧する、落ち着く。

 そんなことをしているうちにあっという間に10時10分前になっていた。

(やばっ)

 急いで上がり、タオルをきつめにしぼって体を拭き、さっと着替えて、暖簾を潜りロビーへ行く。

 十時を少し過ぎてしまった。松崎は、借りてきた猫のように、TVニュースを見ていた。

 もしかして、と少し心配した高村くんの姿がなかったのですごくホッとして、

「トントン」

 と松崎の肩を優しく叩く。

「おまたせ」

 その後、私は90円で瓶のコーヒー牛乳を買って、松崎の隣に座って一緒に飲んだ。

 特に会話という会話はしなかったけれど、ちょうど10時のニュースが始まったばかりだったから、しばらく見ていた。

 それが間違いだった。

「そろそろ行こうか」

 10分ぐらいして私は立ち上がり帰ろうとした。コーヒー牛乳の瓶をコンテナにストンと戻して、靴箱の木の鍵を取り出し、出口へ向かおうとしたその時だ。玄関をガラッと開けて入って来た男の子はまさしく高村くんだった。

「ああ、夏木さん、こんばんは」

「あっ高村くん…」

 松崎の方をちらっと見る。松崎はその会話を見逃してはいなかった。高村くんをまっすぐ見ていた。目が点になっていた。

 靴箱の鍵を持つ手はかすかにふるえていた。

「それでは、おやすみなさい」

「おやすみ…」

 高村くんは状況を察知して、でもやはり丁寧に明るく挨拶をして、中に入って行った。

 高村くんが去った後、平然を装って私はこんなことを口走っていた。

「あのね、早苗のかけもちしてるサークルの後輩の子でね、前にカフェテリアで偶然早苗のサークルと隣になった時に、さっきの子もいて。顔知ってたんだけど、一か月前くらいにここで偶然会って。近所みたいなんだよね」

 自分でもよくこんなしらばっくれたうそが言えたと思う。けれども松崎は明らかに何かを感じたらしかった。帰り道、松崎はひとっ言もしゃべらなかった。私が、なんとか話題を変えようとして、

「初めての銭湯、どうだった?」

 と聞いても、よかったとも悪かったとも言わずうわの空でただ、

「ああ…」

 とだけ言った。とても気まずい沈黙のまま、アパートへの一本道を歩く。たった二分ぐらいなのにものすごく長い時間に感じられた。

 やっとアパートの目の前まできて、松崎はぼそっと、

「そんな話、一度もしたことなかったよね」

 と言った。いたたまれない気持ちだった。私はきわめて明るくこう言った。

「うん、このへん学生多いし、特に珍しいことでもないしさ、わざわざ報告することもないかなと思って。それにあの子に銭湯で会ったのはつい一か月前くらいで、最近大ちゃん研究忙しかったからあんまり会ってなかったじゃん。それに…」

「もういいよ」

 松崎にしては珍しくややきつい言い方で私の『弁解』を遮った。

 アパートの鍵が、ガチャリ、と開いて、真っ暗な部屋に入る。

 松崎は黙って靴を脱ぎ、お風呂セットを黙って私に渡し、リビングに入る。ソファに背中を凭れずに座り、TVもつけずに、ずーっと俯いて、貝のようにしっかりと口を閉じている。私はその様子を気にしていないフリをして、

「大ちゃん、緑茶と紅茶どっちがいい?」

 とさりげなく聞いた。返事がない。

「…じゃあ緑茶にするね」

 私は声だけ明るく、心はどんより沈みながら、茶つぼを開けティーポットの網にトントンと力なく入れる。

 松崎はお茶が入る前に、

「ちょっと具合悪いから、上行ってる」

 と言って、歯も磨かず、服も着替えずに、ロフトに行ってしまった。

「大ちゃん大丈夫?うん、休んでて」

 本当に気持ち悪いのかもしれない。松崎はもともと結構弱くてすぐ風邪を引くから。でも…。

 高村くんのことを疑われてしまったに違いない。頭がいっぱいになる。本当のことを話した方がいいかな。どうせもう終わったことなのだし。

 でも…奈歩が島根行きのバスで言ってくれた言葉が頭をよぎる。

(…松崎を傷つけるくらいなら、少しの間嘘をついてあげて。そのくらい松崎は理美のことを…)

 体の関係もない、キスさえもない。でも、この一か月半の『心の浮気』はまぎれもない事実なのだ。もしこのことを松崎に話したら、いくら温和な松崎だって、許してはくれないだろう。最悪、別れを切り出されるかもしれない。

 私は高村くんのことを一切言うのはやめた。

 二人分用意した湯飲み茶わんを一つしまい、ティーポットにお湯を注ぎ、リビングに持っていって机に置き、静かにソファに座った。

 松崎の実家に泊めてもらった、あのヴォカリーズを聴いた夜に、高村くんとはもう会わない、メールもしない、とあれほどまで決意した。なのにこんなことになってしまうなんて。

 上はシンと静まり返っている。でも松崎は、たぶんまだ寝ていないに違いない。きっと何か、私の言葉を待っているはずだ。

 でも、今は何を言っても逆効果になるような気がしたので、とにかく松崎はただ気持ちが悪いだけだと思い込むようにして、そっとしておいた。

 そう言えば明日は、マネージャーが手分けして、選手のお弁当を作って行く事になっていた。私はご飯釜が小さいということで、おにぎりは自分と松崎の分だけで、代わりにおかずを二品ぐらい作って行くことになっていた。

 戸棚を開け、朝食の分も考え、釜に米をカップ四杯入れる。

 時刻は10時40分になろうとしていた。無意識にお風呂を沸そうとお風呂場へ行く。ふとお風呂はもう入ったことを思い出す。洗面所で洗面台に両手を付いて、ボーッと自分の顔を見た。カエルみたいな情けない目をした自分がそこにはいて、思わず顔を両手でぐいぐいマッサージする。歯を磨き、電気を消してロフトへの梯子を静かに上る。

 その夜松崎は壁側を向いたまま、一度も私の方を向くことはなかった。天窓からは月も見えず、風も強く、寒々しい長い夜だった。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿