歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の伊達政宗像を訪ねて(その4-①)

2019-08-01 12:58:25 | 私の伊達政宗像を訪ねて
題 : 『私の伊達政宗像を訪ねて(その4-①)』

【秀吉と政宗】

天下への野望を抱き、幾たびか天下人秀吉と対決して巧みに危機を逃れ、生まれてくるのが10年遅かったと 述懐したといわれる戦国乱世の英雄:伊達政宗だが、二人の関係は、本当のところはどうだったのだろうか。

①小田原陣の対面

秀吉と政宗、と聞くと、秀吉の惣無事令を無視して会津蘆名氏を滅ぼした上、秀吉の上洛命令に容易に従おうとしなかった政宗が、小田原陣に遅参して秀吉の前にひれ伏した、あの有名な対面シーンが浮かんでくる。
大正11年に新富座が初演した歌舞伎「小田原陣」で、七代目松本幸四郎演じる秀吉が、二代目市川左團次演じる政宗に語る有名なセリフが「綺堂戯曲集」にあった。
『政宗。さてさて其方は運の強い奴だ。もうすこし遅く来るか、但しは返答の致方が悪ければ、こゝが繋がれぬところであったぞよ。(薙刀の柄にて政宗の首を軽く叩く。)はゝゝゝゝゝゝ。』

元禄年間に編纂された伊達家の正史「伊達治家記録」は、小田原対面シーンについて、天正18年6月の条に、
「九日己卯、関白殿御陣所普請場ニ於テ、公(政宗)御目見アリ、時ニ 関白殿曲縁ニ御腰ヲ掛ラレ、大神君(家康)モ御側ニ伺候シ玉ヒ、加賀中将利家朝臣其外諸大名伺候セラル。公御目見畢テ退出シ玉ハントセラル所ニ、関白殿御杖ヲ以テ地ヲ指図シ玉ヒ、是ヘト仰セラレ、御側へ召サセラル。(中略)関白殿御杖ヲ以テ小田原城ノ方ヲ指シ玉ヒテ、其構ノ様子又御攻アルヘキ術等悉ク仰聞ラル。公モ思召シノ通リ、憚リ玉ハス仰上ケラル。御懇ノ事共ナリ。公水引ヲ以テ御髪ヲ一束ニ結ハセラレ、異風ニ見エ玉フ。」と記している。

小田原対面前後の政宗の心情を知る書状が、元仙台市博物館長佐藤憲一氏著書「伊達政宗の手紙」にあった。
一通は、小田原参陣の決断に苦悩する政宗が、側近の茂庭綱元に書き送った手紙(亘理家文書)である。
「関白とのことさえうまくいけば、ほかにはもう何も心配は無いのだが。もし、関白と行き違いがあれば、切腹はまぬがれまい。勿論、関白に対し討ち死、切腹は本望である。只々、明けても暮れても、このことで頭が一杯だ」(佐藤憲一氏意訳)
その文面には、小手森城攻めで千人近くを撫で斬りにさせたとは思えない弱気で誠実な政宗の姿が見えてくる。

もう一通は、秀吉との対面直後に、会津黒川城で待つ家臣伊達成実に宛てた手紙(宮城県図書館所蔵)である。
「今日九日、関白様のもとへ伺候したが、事が全てうまく運んで何も言うことはない。関白様直々の御懇意、言葉には言い表せない程である。とてもこれほどまで懇切なもてなしを受けようとは、そなたも想像できなかったであろう。よって、明日十日に茶の湯に招待され、明々後日は黒川へ帰国を許されることになった。奥州五四郡の仕置も、大方こちらの希望通りに調いそうである。皆もきっと満足するであろう。このほか色々親切なもてなしを受けたが書面には書ききれない」(佐藤憲一氏意訳)
自分の決断が遅れたため、小田原陣に遅参して家臣たちを不安にさせてしまった申し訳なさと、最悪の事態に備えて、軍備を整え政宗からの連絡を待っている成実に、秀吉との対面がうまくいったことを一刻も早く知らせたいという政宗の率直で心優しい心根が窺えてくる。
そして秀吉の意外な手厚い接待対応に、政宗の驚きと安堵感そして秀吉に寄せる親愛の情さえ見えてくる。
政宗の小田原遅参の理由について、東征してくる秀吉に敵対して、同盟する北条氏の小田原籠城戦の推移を窺っていたため、決断が遅れたと一般には云われている。
政宗は、小田原北条と同盟して、本気で秀吉と一戦を交えようとしていたのだろうか。

政宗は、秀吉に惣無事令違反と会津蘆名討伐の弁明の使者と書状を送りながら、一方で小田原北条と連携して常陸佐竹を北と南から挟撃していた。
小田原北条との同盟は、東征してくる対秀吉というより、対佐竹のための戦略だったようである。
常陸佐竹は、小田原北条と長年敵対関係にあり、会津の蘆名を支援して、五年前の「人取橋の戦い」で、政宗が佐竹蘆名連合軍に屈辱的大敗を喫した宿敵である。
佐竹義重は、次男義広を蘆名氏の養嗣子に入れ、蘆名との同盟強化を図っていたが、その蘆名義広を「摺上原の戦い」で撃ち破り会津蘆名氏を滅ぼした政宗は、南奥州諸侯の佐竹離れに乗じて、佐竹を支援する秀吉が箱根を越えて小田原北条を征伐するまでの間に、小田原北条と同盟して宿敵佐竹を攻略、関東への進出の足掛かりを作ろうと南下策戦を展開していたのである。
そんな政宗にとって、秀吉が20万の大軍を率いて小田原城を包囲する東征が予想以上に早過ぎた、というのが実情だったにちがいない。
24才の若さで奥羽の覇者となり、天下人相手に駆け引きする小生意気な政宗に憤激しながら、遅参して悪びることなく懐に飛び込んできた政宗に、親子のような年の差の秀吉は「ういやつよ」と好感を抱いたのだろう。
無謀な野心と策に溺れる若き政宗との確執はその後も続くが、秀吉は軽くあしらうように大人の対応で政宗を受け容れていったようである。

晩年の政宗が小姓に語った言行録「木村宇右衛門覚書」に、小田原対面の際の秀吉との逸話がある。
対面直後の茶席で、秀吉が政宗の刀の拵えを見せて欲しいと言ってきた。政宗が刀を渡すことに躊躇すると、秀吉は尤も尤もと頷き、自分の腰の物を政宗に手渡し、政宗はそれには及ばずと、側の障子に立て掛けたという。
刺し違え覚悟で小田原に駆けつけた政宗にとって、まさに緊迫した瞬間である。その政宗に対して、胸襟を開いて打ち解けてみせる秀吉の態度に、相手の出方を探りながら天下人の威厳を隠さない秀吉の恐ろしさと度量の大きさに、政宗は圧倒されたのではないだろうか。
 源氏と藤原氏という名門の出自を自負する政宗は、秀吉を足軽からの成り上がり者と見くびっていたにちがいない。そして、小田原陣での初対面で、政宗は秀吉の人懐っこい人柄に魅了され、畏敬の念をさえ抱き、二人の間に不思議な心の通いが生まれたのかもしれない。

②大崎葛西一揆煽動の疑惑

天正18年7月11日に小田原城を開城させて北条氏を滅ぼした秀吉の戦後処理は、厳しい奥羽仕置だった。
政宗は、秀吉に惣無事令違反と小田原陣遅参を問われ、会津蘆名氏から奪った会津・岩瀬・安積郡を没収されて72万石に減封、取り上げられた会津領42万石は、伊勢松坂から移封されてきた蒲生氏郷に引き継がれた。
氏郷は、信長に後継者を嘱望されて娘婿に迎えられた若きエース、氏郷の会津移封は、奥州政宗の抑えとされているが、秀吉が主君信長筋を払拭すべく、信長の愛弟子を京から遠ざけたい思いがあったのかもしれない。

秀吉の奥州仕置で、秀吉に恭順して小田原に参陣した常陸の佐竹義宣と陸奥国北部の南部信直は、所領を安堵されたが、陸奥国中部の葛西晴信と大崎義隆は、小田原不参陣を理由に改易となり、その所領30万石は、秀吉側近の木村吉清に与えられた。
奥州仕置が一段落して豊臣軍団が引き揚げると、改易処分となった旧臣による奥州仕置への反発と、検地の強行による兵農分離に対する未分化な奥州地侍の抵抗が、各地で暴動化、大規模な一揆に発展した。
出羽の仙北郡の一揆、田川郡の藤島一揆、陸奥の大崎・葛西一揆、和賀・稗貫の一揆、九戸政実の反抗、その中で、大崎・葛西一揆は、新領主となった木村吉清・清久父子の失政と家臣の横暴に、大崎・葛西両氏の旧臣と大百姓が結託して居城を奪取、一揆は領内全土に拡大した。
秀吉は、政宗と氏郷に一揆の鎮圧を命じたが、秀吉が政宗から取り上げた会津に進駐していた氏郷は、政宗が奥州仕置で改易された葛西・大崎氏の旧臣に一揆を教唆・煽動して新領主の失政を理由に葛西・大崎氏の旧領を横領せん、あわよくば氏郷をも討たんとした、と政宗の不穏な動きを秀吉に訴え出たのである。政宗は本当に奥州仕置で奪われた奥羽の復権を画策したのだろうか。

天正19年2月、政宗は一揆煽動の疑惑弁明のために京に上った。政宗の初上洛である。
死装束姿で馬に乗り、行列の先頭に金箔の磔柱を押し立て、京の街中を行進、そして、秀吉の御前で、一揆勢に与えたとされる証拠の檄文を前に、筆跡は似ているが、花押のセキレイに眼穴がなく贋物だと開き直ったという話は有名である。
この政宗の伸るか反るかの大芝居(金箔の磔柱と花押の針穴の話は治家記録になく後世の創話か)に、政宗の弁明を信じたのか、その勇気と器量に免じたのか、政宗の一命は許されたが、更に厳しい減封差配が下った。
伊達氏発祥の地で始祖朝宗以来400年所領だった伊達・信夫など福島県北部と政宗生誕の地である山形県米沢の計44万石が召上げられて氏郷に加増され、代わりに木村父子から没収した葛西・大崎の30万石が政宗に与えられ、72万石から58万石に減封されたのである。
9月23日に米沢城から旧大崎領の岩出山城に移った政宗はこの時25歳、先祖伝来の土地まで失ってしまった無念さは、如何ばかりだったろう。

一方で秀吉は一揆煽動疑惑の弁明で上洛した政宗を左京大夫に進め侍従に任じ、従四位下に叙して羽柴の姓を許し、聚楽に屋敷を与え懐柔した。まさに飴と鞭である。
政宗の秀吉への心情が知れる書状がある。翌20年2月、朝鮮出兵のため二度目の上洛を果たした政宗が、郷里に居る母に宛てた書状に「今回も蒲生殿から私への中傷を太閤様は本気で取り上げようとせず、私が主張しようと思っていたことを全て代弁してくれて、まるで昔の性山様(父輝宗の法名)かと思われる程の御贔屓で私も心強いです」(佐藤憲一氏意訳)と書き送っている。
蒲生殿とは、葛西大崎一揆を扇動したと中傷して政宗を米沢から岩出山に追いやった犬猿の仲の氏郷である。氏郷は5年後に病死するが、毒殺の噂あり、犯人は秀吉か政宗か。政宗の書状は、氏郷の讒言を聞き流して自分を贔屓する秀吉を、父上のような存在だと語っていた。

政宗の秀吉への特別な思いを窺わせる逸話がある。
秀吉の遺品として贈られた鎬藤四郎の名刀を、徳川二代将軍秀忠に献上するように幕閣に薦められた際、たとえ徳川の世であっても、今は滅びた秀吉から受けた恩義を売って追従に献上するわけにはいかないと断り、元旦の祝儀に帯刀して生涯の嘉例にしたという。
因みに鎬藤四郎の来歴は、細川家から信長、信孝、北条氏直、黒田如水、豊臣秀次、秀吉、政宗、忠宗、家光、家綱に引き継がれ、明暦の大火で江戸城と共に焼失した。

③朝鮮の役と政宗

天正15年の九州征伐、18年の小田原征伐の次なる秀吉の夢は、明国征服だった。前哨戦となった朝鮮出兵は、文禄元年と慶長2年の二度あったが、政宗は最初の文禄の役に出兵した。
文禄元年(天正20年:1592年)正月5日、政宗は兵千五百(三千の説あり)を率いて岩出山を出立、2月13日に京都に入った。3月17日、肥前名護屋へ向けた出陣式で、一番前田隊、二番家康隊に続く三番伊達隊の華美な行軍衣装が、京の巷を席巻した。
「伊達成實記」に「紺地に金丸の幟三〇本、衣装は無量の襦袢に具足は黒の後前に金の星、長さ三尺程の尖笠、三〇騎共に黒母衣に金の半月の出し、馬に虎豹の革鎧、孔雀の尾を飾り(中略)見物衆声不出候、京中の者殊の外褒美申候」とあり、この出で立ちが人目をひく派手な男「伊達者」の語源になったといわれている。
朝鮮遠征軍は、西国大名を中心に編成され、文禄元年四月に、第一軍(小西行長)第二軍(加藤清正)が渡海して釜山に上陸、半月で慶州・漢城(首都)を占領した。
続いて第三(黒田長政)第四(毛利吉成)第五(福島正則)第六(小早川隆景)の総勢十五万が上陸、六月には第一軍と第三軍が平壌、第二軍が北朝鮮奥の咸鏡道に侵攻、朝鮮半島のほぼ全土を制圧した。

翌2年1月に明国四万の大軍が参戦、朝鮮官軍と義民の反撃もあって形勢は逆転した。遠征軍は、平壌を放棄して漢城に後退、四月に小西行長が講和を合意して漢城を放棄して釜山に後退、朝鮮南部確保のため拠点築城が進められ、戦線は膠着状態となった。
秀吉は遠征軍を帰国させるため、東国大名を中心に編成した予備軍を投入、四月に政宗と浅野幸長の第一陣が渡海したが、二陣の前田利家と蒲生氏郷、三陣の徳川家康は、結局渡海しなかった。政宗は釜山に上陸して、蔚山と晋州の攻撃に参加したが、朝鮮南部の拠点築城が主任務となった。

勇んで渡海した政宗に、朝鮮軍相手の華々しい戦さはなく、城の普請に従事するだけの毎日で、食糧難と風土病に病死人が続出、先の見えない厭戦気分に、若き戦国武将政宗の心情はいかばかりだったろう。政宗は国元の家臣に「惣別当国にて腫気患ひ候もの、十人に九人は相果つることに候、是非なく候」と書き送っている。
譜代重臣桑折政長が七月に釜山で病死、同じく重臣の原田宗時が、釜山で発病して帰国途上の対馬で死没した。宗時は京の出陣式で、刀脇差に一間半の木太刀を拵えた政宗の二つ上、まさに死線を共にした股肱の臣である。
原田宗時に嗣子がなく、政宗は桑折政長の末弟宗資に家督を相続させたが、その子宗輔が、後に伊達騒動(寛文事件)で逆臣といわれた原田甲斐である。

文禄2年9月、朝鮮との講和が成立すると、東国大名が優先的に帰国させられたが、西国大名は残留、釜山近郊の城普請を命ぜられた。
政宗は一番に帰朝となり、11日に釜山を出船、18日に名護屋に帰着、9月18日頃に京に帰り、25日に伏見城で秀吉に謁見、伏見城下に屋敷を賜わった。
朝鮮から帰国を知らせる母への手紙がある。「日本一の国遠の我等にて候間、いかでかと存じくらし申し候。此の時ばかり、在所あづまのはてが幸せと罷り成り候」陸奥国が東国の果てだったことがこんなに嬉しいとは、と日本に帰れる喜びと本音を母に綴っていた。

秀吉の無謀な朝鮮出兵の意図は何だったのだろうか。天正18年11月の朝鮮国王あて秀吉の返書に「予願無他 只顕佳名於三国而已」とあり、「予の願は他に無い。只だ、三国(日本と朝鮮と明国)にその名を顕し遺したいのみ」と云っている。56才の老いらくの英傑秀吉の大義なき自己顕示欲だったのだろうか。
晩年の政宗の言行録「木村宇右衛門覚書」に、後の慶長遣欧使節派遣について「私は昔、黒船を作らせ南蛮へ渡した。南蛮国の宝物を求めたわけでなく、異国へ名を轟かせるためである」と語っていたが、奇しくも、秀吉の朝鮮出兵の理由と同じではないか。
奥羽の米沢という山奥育ちで海を知らない政宗が、博多から大海原を渡って朝鮮の地を踏んだ時、朝鮮と明の征服に賭けた秀吉の夢を、いつか己の手で成し遂げたいと、20年後の慶長遣欧使節派遣に繋がる遠大な海外への夢を、この時に育んでいたのかもしれない。

④関白秀次謀反事件の嫌疑

朝鮮出兵から帰国した政宗は、文禄3年正月を京都聚楽亭の屋敷で迎え、2月27日に秀吉の吉野の花見に招かれ、29日の和歌会に列し、五首を詠じて高い評価を受けた。まさに、東国の田舎大名と見くびられていた政宗が、天下の諸侯の前で、武人だけでなく文人としてその存在感を披瀝した面目躍如の瞬間である。
6月に長女五郎八姫が誕生、翌4年の夏、秀吉に暇を賜わり、3年半ぶりに陸奥岩出山城に帰国した。

ところが同年7月、関白秀次が秀吉への謀反の嫌疑で、高野山で自害するという事件が起きた。
政宗が帰国する際に、秀次に暇乞いをして、鞍十口、御帷二〇を餞に賜っていたことなどから、秀吉に秀次寄りを疑われた政宗は、帰国したばかりの岩出山から急遽京に引き返した。
天正19年に忠臣の弟秀長と嫡男鶴松を相次いで亡くした秀吉は、養嗣子にしていた姉の子の秀次を後継者として関白職を譲り、太閤となっていたが、2年後の文禄2年8月、側室淀君に秀頼が生まれると状況は一変した。
秀頼の誕生で秀吉が秀次の排除を考えたのか、淀君の側近が画策したのか、秀次の考え過ぎだったのか、真相は不明だが、秀次が切腹、係累の根絶を図るべく妻妾34人と子4人を洛中引廻した上、三条河原で斬殺、この秀次謀反事件に政宗関与の嫌疑がかけられたのである。

文雅の道を好む秀次が、豊かな詩才を持つ政宗と詩歌の席で親密となり、また戦場経験のない秀次が、武勇談の多い政宗を鷹狩によく誘っていたといわれる。
また秀次が九戸政美反乱討伐で奥州に下向した折、立ち寄った山形城で見初めて、側室にした最上義光の娘駒姫が、政宗の従妹だったことも疑惑を招いたらしい。
そして秀次の家老粟野木工介が、政宗の弟小次郎の傳役で保春院の指示で政宗毒殺に加担して伊達家を出奔した旧家臣だったため、秀次が二人の仲を取りなそうとしただけでなく、木工介も旧縁を利用して、秀頼の誕生で孤立する主君秀次の与党作りのため政宗に接近していたともいわれ、秀次謀反の黒幕に政宗が疑われたという。

国許から召喚された政宗は、聚楽第の屋敷を閉ざしてひたすら謹慎したが、かつて朝鮮出兵時の煌びやかな兵装行進に伊達者と賞賛した京の巷では、政宗を断罪すれば在京家臣が洛中に火を放ち、在国の伊達の荒武者もまた蜂起するだろう、先祖伝来の土地を召上げられて秀吉に不満を持つ政宗ならさもありなん、と不穏な噂が流れ、家財道具まで持ち運ぶものさえでたという。
 
秀吉から政宗の隠居と伊予への国替えを命ぜられたが、在京重臣19人の連署誓約書の提出などで辛うじて切り抜けた。その裏に家康の取りなしがあったといわれ、再度の朝鮮出兵(慶長の役)を控えていた秀吉も、それ以上の追及を断念、政宗は三度目で最大の危機を脱した。
この秀次謀反事件で嫌疑を掛けられた政宗や最上義光、細川忠興、浅野幸長が家康の取りなしで救われ、秀次に次ぐ豊臣家継承権者と見られていた小早川秀秋も事件に連座して丹羽亀山10万石を没収され、片や秀吉に秀次謀反を讒言した石田三成は、佐和山19万石に加増されており、この秀次事件の顛末が、五年後の関ヶ原の戦いで、政宗・義光・忠興・幸長・秀秋が、西軍三成に敵対、東軍家康に組みした遠因の一つになったのかもしれない。
伊達治家記録の解説に、秀吉は、政宗の冤罪を知りながらわざと事を荒立てて、秀次に傾倒していた政宗の忠心を秀頼に転換させるために恩を売った、秀吉の芝居だったかもと書いている。秀吉と政宗なら有りそうな話だ。

【京都の政宗】

①秀吉と家康の伏見城

天正13年(1585年)7月、関白宣下を受けた秀吉は、同15年に平安京大内裏跡に、政庁兼邸宅として聚楽第を完成させて、九州征伐を終えると、大坂から京の聚楽第に移り政務をとった。
同19年に嫡男鶴松を亡くした失意の秀吉は、姉の子の秀次を家督相続の養子にして関白職を譲り、文禄元年(1592年)平安の時代から月見の名所で知られる伏見の指月丘に、茶会や宴会を催す隠居屋敷として指月屋敷を造営させ、聚楽第は秀次に譲り、伏見に移った。
同2年に側室淀殿に秀頼が生まれると、秀吉は同3年に指月屋敷を本格的な城郭の指月伏見城に造り替え、母子と共に移り住み、同4年7月に秀次謀反事件で関白秀次を切腹させ聚楽第を破却、政宗ら諸侯は、伏見に屋敷を拝領して、9月に聚楽第から伏見に移り住んだ。
伏見は、聚楽第の南に約10キロ、京の東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南に巨椋池が広がり、水運によって大坂と京都とを結ぶ水陸交通の要衝地で、秀吉政治の新たな中心となった。

指月城は、最近の発掘調査で金箔瓦が多数出土しており、煌びやかな装飾を誇る豪華な城だったようである。
慶長元年(1596年)の慶長大地震で、指月伏見城が倒壊、秀吉は翌2年に、指月から北東に1.2キロの木幡山に木幡伏見城を築城、城の西側に全国六〇余州の大名と商工業者を集めて城下町を形成させた。
秀吉は、晩年をこの再建した木幡伏見城で過ごし、翌3年8月に秀吉が伏見城で死去すると、五大老五奉行体制が実質崩壊、筆頭大老家康が伏見城で政務を取り、翌4年9月に家康が大坂城に移り実権を掌握した。

翌5年6月に会津上杉氏征伐のため家康が東進すると、石田三成が上方で反家康軍を挙兵、同年七月に関ヶ原の前哨戦で、宇喜多秀家率いる西軍が、家康家臣鳥居元忠が立て篭もる伏見城を猛攻、伏見城は落城焼失した。
同年9月15日に関ヶ原で石田三成率いる西軍を破った家康が、伏見城を近畿における本拠とすべく再建、慶長八年に伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、同十年四月には秀忠が伏見城で将軍宣下を受け、将軍の徳川家世襲を天下に示す舞台となった。

元和元年(1615年)の大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、伏見城は城郭としての役割を終え、同9年に伏見城で家光の将軍宣下のあと、一国一城令により廃城となり、五層の天守閣は二条城へ、主要な建造物は京都の社寺などに寄贈され、城郭は徹底的に取り払われた。
廃城となった木幡山には、後に伏見の人たちによって桃の木が植えられ、元禄時代に桃の名所となったことから、桃山時代・桃山文化の語源になったのだという。
伏見城下町は、城郭が破壊された後も、大坂と京都とを結ぶ水陸交通の要衝地として発展したという。上洛した政宗の京生活は、この伏見の伊達屋敷が中心だった。

②政宗上洛の軌跡

天正18年、小田原の陣に遅参した政宗は、奥州仕置で会津領を召上げられ黒川城から米沢城に戻され、妻子の京都在住が命ぜられた。翌19年2月、葛西大崎一揆煽動嫌疑の弁明のために初上洛、金の十字架を担いで京の町を行進したかどうかはともかく、奥州再仕置の交渉に奔走するなか、政宗は京の聚楽第に屋敷を構えた。
5月に米沢に戻った政宗は、奥州の葛西大崎一揆を鎮圧したが、奥州再仕置で仙道(福島県中通り)諸郡を召上げられ、代わりに葛西大崎氏の旧領を受領9月に生まれ育った米沢城から宮城県北部の岩出山城に移った。

翌20年(文禄元年)朝鮮出兵の命に、兵千五百(三千の説あり)を率いて二度目の上洛、2月に聚楽屋敷に着いた。3月に京を発ち、派手な軍装で京の町を行進、4月に九州・名護屋に着陣、翌文禄2年4月に朝鮮に渡海、晋州城攻撃に参加9九月に帰国、聚楽屋敷に戻った。
翌3年2月に秀吉の吉野花見に随行して歌会に列席、6月に聚楽屋敷で長女五郎八姫誕生、翌4年4月に京を発ち、3年振りで領国の岩出山に帰るが、7月に秀次謀反事件が勃発、秀次は自刃、聚楽第は破却された。

政宗は、秀次謀反連座の嫌疑で呼び戻され、8月に三度目の上洛、謀反の嫌疑が晴れると、伏見に家中屋敷を拝領、9月に国元から一家・一族・家老の妻子を伏見へ呼び寄せ、在府させられたという。
翌5年(慶長元年)正月を伏見屋敷で迎えた。この年、政宗30歳である。7月の慶長大地震で前年に完成したばかりの指月伏見城が倒壊、木幡山に伏見城再建が始まり、政宗もその修築賦役を命ぜられ、翌慶長2年に完成した伏見城に秀吉は秀頼と共に移った。政宗は朝鮮再出兵(慶長の役)を免ぜられ、右近衛権少将に任ぜられた。

慶長3年3月に秀吉の醍醐の花見、8月18日に秀吉が伏見城で薨去、秀頼は遺言で大坂城に移り、翌4年3月に五大老の前田利家が病死すると、七将による三成襲撃事件が起き、石田三成を佐和山城へ追放した家康が、留守居役として伏見城に入り主導権を握った。
翌5年(1600年)5月に家康が上杉景勝の討伐令を発し、政宗は6月に大坂屋敷を発ち、伏見に立ち寄り、中山道を下向、上野国高崎より下野国常陸、磐城相馬経由で7月に名取北目城に到着、7月下旬に景勝領の白石城を攻略した。上方で8月に西軍が伏見城を落城させ、9九月15日に関ヶ原で家康の東軍が三成の西軍を破った。

同年12月に政宗は仙台城造営に着手、翌6年4月に岩出山城から仙台城に移る。9月に仙台を発ち、伏見城で家康に拝謁、翌7年10月に伏見を発ち、江戸に入り、翌8年正月に正室愛姫と五郎八姫と嗣子虎菊丸(忠宗)が伏見伊達屋敷から江戸屋敷に移った。
慶長10年の秀忠将軍宣下で上洛、慶長19年10月に大坂冬の陣で仙台を出立して京都から大坂へ、休戦で一旦江戸に戻るが、大坂夏の陣で再び京都から大坂へ、豊臣氏の滅亡で仙台に帰着する。その後元和3年・5年・9年に将軍上洛に供奉、伏見伊達屋敷を利用した。

政宗が秀吉の時代に三度上洛する中、京都に住んだのは、朝鮮出兵から帰国した文禄2年9月から、一旦岩出山に帰るが秀次謀反事件で秀吉にすぐに呼び戻され慶長5年6月の上杉討伐で帰郷するまでの約7年間である。
当初の2年を聚楽第の屋敷、文禄4年からの5年間を伏見の伊達屋敷で過ごしたが、当時の京都は、桃山文化最盛期である。慶長5年に京から仙台に戻った政宗の新しい城造りと治政・文化の原点は、まさに政宗が肌で感じた7年間の京の桃山時代にあった。京都に行く機会があればぜひ政宗の京都での足跡を辿ってみたい。

③京都に政宗の足跡を訪ねて

昨年(平成30年)11月、京都の尺八全国コンクール参加の際、政宗の足跡を訪ねるべく京都に連泊した。
小田原陣での秀吉との謁見で、東北の一大名から全国区大名としての名声を得た政宗が、京を舞台に為政者たる秀吉と渡り合いながら、豪華絢爛な桃山文化を吸収して戦国武将から文化教養人に変貌、仙台の地に新たな理想郷を建設する夢と力量を育んでいく、そんな京での政宗の生き様に、少しでも触れることができればと、京の大半を過ごした伏見まで足を延ばしてみた。

初日の探訪は、政宗が約5年間過ごした伏見城下の町並みと伊達屋敷跡に建つ海宝寺、そして桃山文化の狩野派襖絵が展示されている聖護院と謀反の嫌疑で処刑された豊臣秀次とその妻妾子39人を弔う三条河原の瑞泉寺を巡り、翌日は、伊達家菩提寺の松島瑞巌寺の総本山である妙心寺と瑞厳寺の中興の祖雲居禅師の出た幡桃院を訪ねるハードなスケジュールを組んだ。

(1)伏見伊達上屋敷跡の海宝寺
京都駅前ホテルを午前10時に出立、晩秋の京都はさすがに肌寒い。地下鉄烏丸線から近鉄京都線直通で伏見駅に下車、車の交通量多い国道24号を東へ向かった。
伏見は、幕末の戊辰戦争で、鳥羽伏見の戦いの舞台となり町半分は焼失したが、船宿や古い土蔵造りなどの古い町並みが残り、文禄・慶長年間の大名屋敷跡には、毛利町や治部町や伊達町など、大名ゆかりの町名が付いて、秀吉の桃山時代の栄華が偲ばれるという。
普通の街並みだが、秀吉と政宗が住んでいた伏見の町かと思うだけで、胸が高鳴る。遥か前方の標高90mの山頂に、天守閣が見えてきた。模擬天守とは承知していたが、ときめきは止まらない。足早になっていた。 
南にカーブする二四号線の交差点を東に左折、住宅街の町名板に桃山町最上町とあった。この先の伊達屋敷跡に建つ海宝寺の町名は桃山町正宗、戦国時代に奥羽の隣国同士ながら犬猿の仲だった伊達政宗と最上義光が、秀吉の伏見城下で屋敷を隣り合わせて住んでいたとは、偶然なのだろうか、秀吉の悪ふざけなのだろうか。
 
住宅街の緩やかな坂道の突き当たりに「海宝寺」が見えてきた。仙台市が立てた案内板に「この海宝寺境内を含む桃山町正宗は、政宗の伏見上屋敷があったところで、文禄四年に秀吉からこの伏見に屋敷地を与えられ、多くの重臣やその妻子などを住まわせ、その数は常時千人以上に及び、屋敷一体は伊達町とも称された」とあった。
政宗は、上杉征伐で帰郷する慶長五年まで五年間をここで暮らしていた。正室愛姫と長女五郎八姫と睦まじい時を過ごしながら、伏見城の秀吉と蜜月な関係を通じて京の雅な文化を身に付けていったにちがいない。
 下図「豊公伏見城ノ図」(吉田地図株式会社作成)をみると、伊達上屋敷は、伏見城の北西角に隣接、その規模は、伏見城の南の向島に位置する家康は別格として、他の大名屋敷に比して破格の広さである。



1キロ余り北に、深草西伊達町と東伊達町の地名があり、伊達家下屋敷跡だという。常時千人以上住まわせたというが、文禄四年の秀次謀反嫌疑を問われた際、潔白の証しに、国元から一家・一族・家老の妻子を伏見へ呼び寄せ、人質のように在府させられたのだろうか。

海宝寺の石段を登り山門を潜ると、境内に木斛(モッコク)の老木が、臥竜の如くうねって居た。傍らに立つ案内板に「天下無二の木斛、古より木斛なきを庭園と云い難し、寛永三年仙臺太守中納言伊達政宗公此地に住居手植せる桃山時代唯一の名木也」とあった。
樹齢400年の太い幹は、仮死寸前だが、枝先に繁茂する青々した葉に、このとき政宗六〇歳、老いてなお壮健だった政宗の気概が伝わってきそうである。
政宗が木斛を手植えしたという寛永3年は、京都御所護持のため創建された比叡山延暦寺に倣って、天海僧正が、徳川幕府護持のため上野に創建した東叡山寛永寺に、後水尾天皇に入内した秀忠の娘和子の皇子を迎える交渉のため、秀忠・家光父子と共に上洛した年である。
そして、政宗が最終の従三位権中納言に昇叙され、また細川越中守忠利から高値で伽羅「柴舟」を譲り受けた年でもある。還暦を迎えてなお、伏見の地で政治家であり文化人である政宗の面目躍如の姿が浮かんでくる。

庫裡の勝手口で、宮城県出身者ですが政宗を訪ねて参りましたと告げると、住職の母様が快く迎えてくれた。
海宝寺は、中国風精進料理の普茶料理で有名だが、江戸中期の享保年間に、伏見伊達屋敷跡に黄檗宗萬福寺12代杲堂元昶禅師が創建、13代竺庵浄印禅師の隠居所として開かれ、竺庵が中国から持ち込んだ織物や器物を商わせて大儲けさせたのが、伏見呉服商の大文字屋下村彦右衛門、現在の大丸百貨店の初代で、海宝寺と大丸の関係は、現在も続き、檀家は大丸関係者だけらしい。
 
海宝寺の方丈は、下村家の屋敷を移築したもので、15畳の襖に晩年の伊藤若冲が長さ10mに及ぶ水墨障壁画「群鶏図」を描いたが、その後、筆を執らなかったことから「若冲筆投げの間」と呼ばれるという。現物は京都国立博物館に所蔵されているが、薄暗く広い部屋に一部複製された群鶏図の説明を聞きながら、研ぎ澄まされた闘鶏のような姿に、しばし若冲の世界に没入した。
方丈の障子を開けると、裏庭は政宗当時の庭園のままで、庭の手洗石は「秀吉が御蔵山に鷹野に赴き此の石に座して昼食を摂りし時、記念のため利休に命じて持ち帰り、その後、白書院の手洗いに用いしと云う」とあった。
利休は天正19年2月に秀吉の逆鱗に触れて切腹させられたが、政宗初上洛の年である。政宗は小田原陣に遅参した折、利休の茶を所望して秀吉の快心を得たといわれる。初上洛した政宗は、利休に再会できただろうか。懐刀といわれた利休を突然切り捨てた秀吉の恐ろしさを思い知らされたにちがいない。
住職の母様が、庭先のヤマモモの木に、木斛が宿り木となって葉の色が違うでしょ、と説明してくれた。500年も経つが、今でも小さな赤い実がなるのだという。このヤマモモが破却された伏見城跡の木幡山一面に植えられ、桃山の名称が生まれた由縁であろうか。

方丈を退出、本堂の裏口から中に案内されると、薄暗い本堂内に、立派な祭壇が据えられており、母様が両手で抱えるように、政宗の位牌を持って来てくれた。
高さ80㎝はあろう立派な黒檀の位牌で、表に「當山前地主仙臺太守瑞鳳寺殿故中納言貞山禅利大居士神位」裏に「寛永十三年五月二四日逝去号正宗公也」とあり、位牌の上部に、竹に雀の家紋が描かれていた。
政宗の正式な法名は「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」だが、この位牌には瑞巌寺でなく瑞鳳寺とあった。瑞鳳寺は、仙台藩二代忠宗が、政宗廟の瑞鳳殿に隣接して、仏前に香や花を供える香華寺として創建した寺で、平泉の毛越寺から遷した釈迦三尊像が本尊である。位牌に當山前地主とあるから、海宝寺住職が法名を授けたのであろう。
海宝寺は伊達家の菩提寺ではなく政宗の香華寺なのだろう。祭壇に据えられた政宗の位牌に、厳粛な心地で合掌、この伏見屋敷を舞台に天下人秀吉と家康を相手に繰り広げた政宗の生き様に思いを巡らせながら、あなたを訪ねて伏見までやって来ました、と安寧を祈った。

(2)伏見城と伏見城下町を歩く
昼食前の忙しい時間に応対いただいた住職母様のご好意に謝辞して退出、地図を片手に海宝寺の外周を一回りしてみた。豊公伏見城ノ図(前掲)を見ると、伊達家上屋敷は、海宝寺の4倍はありそうだ。標高差20mの眼下に伏見の町並みが広がり、この高台に屋敷を構えた政宗の昂揚感が伝わってくる。
最近の発掘調査で、金箔が残る鳥文軒丸瓦と竹の葉文軒平瓦の破片が出土したが、組み合わせると、竹に雀の伊達家紋瓦になるらしい。仙台城本丸跡や江戸屋敷跡から出土した瓦紋は、九曜紋と三引両紋だけで、竹に雀の紋はないという。
政宗の叔父実元が越後上杉定実の養子に入る約束で引き出物に上杉家から譲り受けた家紋だが、軍神上杉謙信を信奉する政宗が、伏見屋敷の瓦に使わせたのは、京の巷の人気を気にする伊達男政宗の見栄なのだろうか。

海宝寺の西縁から伏見城下を真南に走る道路は、さほど広くないが、車の交通量多く、伊達街道と呼ばれている。伊達街道の両側に、木幡山の麓の傾斜を利用して階段状に大名屋敷が配されており、伊達上屋敷は、北の京から伏見城下に入る入口に当たる交通要衝の地ではないか。秀吉がここに政宗を配した信頼の大きさが知れる。
伊達街道を南に、JR奈良線の踏切を渡ると、街道の左手東側の町名が、桃山町永井久太郎から桃山町島津そして桃山町三河と続き、常陸笠間藩の永井直勝と越後福嶋藩の堀久太郎秀治、佐土原藩の島津以久、三河の徳川家康の名に由来するという。
伊達街道の右手西側の町名は、桃山長岡越中から桃山福島太夫南町と続き、細川(長岡)越中守忠興と福島左衛門大夫正則の名に由来しており、有名な戦国大名の屋敷が建ち並ぶ街並みは、まさに伏見城下の銀座通りである。しばし歴史ロマンの世界にタイムスリップした。

桃山町三河と桃山福島太夫南町が伊達街道を挟んで向かい合っていた。会津上杉討伐で北上した諸将が、石田三成の反家康挙兵の報に、その去就を決めあぐねていた小山評定で、正則が家康に味方すると発言して諸侯を一気に家康方に靡かせてしまった場面が浮かんできた。
朝鮮の役で正則が三成と確執があったからといわれるが、伏見城下で屋敷がお向かい同士の正則と家康が、日頃より昵懇だったからの発言だったのかもしれない。
桃山町三河の東隣に、家康の四男松平忠吉の桃山町下野、その東隣に桃山町治部少丸、なんとあの石田三成ではないか。犬猿の仲の二人がこんな近くに隣り合っていたとは、驚きだった。秀吉の死後、二人の対立を懸念した前田利家が、家康を伏見城の南側を流れる宇治川対岸の向島に移らせたというのも頷ける。
それにしても、ほとんどの町名が大名の苗字なのに、伊達屋敷跡だけが下の名前の正宗とは、京の人たちの政宗ビイキ、と思うのは、宮城県人の考えすぎだろうか。
桃山町永井久太郎と島津の間の道を東へ左折して勾配ある車道を伏見城に向かった。途中に桓武天皇柏原陵があり参拝した。桓武は壮大な平安京を築いた天皇である。

桓武天皇は、672年の壬申の乱で天武天皇に敗れた天智天皇系の子孫で、天武系皇族を根絶やしにして皇位を奪還、近江大津に遷都した曽祖父天智の夢を果たすかのように、平城京から長岡京に、そして七八四年に平安京に遷都、これまで都のあった奈良を、南に睥睨できるこの高地を、己の永遠の棲み家に選び、平安京の悠久な繁栄を見守ろうとしたのであろうか。
桓武は伏見の深草山を埋葬地に希望していたというが、皇太子(平城天皇)が平城京にならって都の北側の宇多野に陵墓を築こうとしたところ、賀茂神社を祀る賀茂氏など先住氏族の勢力圏に近く彼らの反発を招き、生母が百済系渡来人である桓武を支えた渡来人系氏族秦氏の地盤の伏見深草に陵墓を造営したといわれる。
柏原陵の北1キロの藤森神社に、桓武が即位するに当たり異母弟皇太子他戸親王と共に幽閉して死なせた井上内親王、桓武即位の翌年に藤原種継暗殺の容疑で幽閉して自害させた同母弟早良親王、平城天皇即位の翌年に謀反嫌疑で自殺させた異母弟伊予親王など、政争に敗れた皇族の怨霊を鎮めるため祭神として合祀されている。
桓武は平安遷都時に「よき都 平安楽土 春とこしえ」と詠っていたが、桓武の心は平穏ではなかったのだろう。

秀吉はその桓武天皇陵を破却、その上に伏見城を築いたが、飽くなき権力志向だった桓武を凌駕して、京の天皇と大坂の石山本願寺という既成権威を眼下に睥睨せんとしたのであろうか。そんな秀吉を見てきた政宗もまた、桓武と秀吉に倣い、新たに建設する城下を眼下に、遥かに太平洋を望む青葉山に仙台城を築いたのかもしれない。

伊達家上屋敷跡の海宝寺から南東に1キロ、ようやく伏見桃山城運動公園に着いた。だだっ広い駐車場から白壁とエンジ色の荘重な大手門を潜ると、三層の小天守と連立した色彩艶やかな五層の天守閣が聳えていた。
近鉄グループが開園した遊園地伏見桃山城キャッスルランドの施設として昭和三九年に建設された模擬天守で、洛中洛外図屏風(岡山藩池田家旧蔵)の描写を参考に建築され、映画やドラマの撮影に利用されているという。
遊園地が閉園され、耐震問題もあり天守閣に入れないというが、模擬とはいえ五層の天守閣が建っているだけで、京都の貴重な観光資源である。ここは元々伏見城内のお花畑で、秀吉の天守閣は、南東に500mの伏見桃山陵(明治天皇陵)のある木幡山山頂にあったらしい。
標高100mの山頂に建つ高さ50mの天守閣からの360度の眺望はさぞ壮観だったろう。北の京都、西の大坂、南の奈良を眼下に、天下を睥睨した得意満面の秀吉の猿顔が浮かんでくる。
伏見城ランドから丹波橋駅に向かう途中、福島太夫西町の町名があった。最近の発掘調査で佐竹氏家紋の瓦が出土したという。慶長4年3月に、加藤清正・福島正則ら秀吉恩顧の武断派七将が、石田三成を襲撃した際、かねて三成と昵懇だった佐竹義宣が大坂から伏見の自邸に三成を匿ったといわれるが、ここがその佐竹屋敷であろうか。関ヶ原前夜の喧騒にしばし思いを馳せた。
その時、政宗はどんな行動を取ったのだろうか。治家記録に、大神君より政宗へ御内意等仰下され、政宗は家康側近今井宗薫に同心する旨の書状を送ったとあった。

(3)三条河原の瑞泉寺に秀次と駒姫を弔う
丹波橋駅から京阪本線の神宮丸太町に下車、銘菓八ツ橋の匂い香る聖護院で狩野派の襖絵を鑑賞、時計は16時を回っていた。夕闇迫るなか6年前の平成25年3月、気温が4度に下がった冷たい雨の降り頻る河川敷を走った京都フルマラソンを思い起こしながら、鴨川に沿って川端通りを、三条大橋袂の瑞泉寺に向かった。
門前の立札に、文禄4年(1595年)8月、高野山で自害した秀次の幼児や妻妾たち39人が三条大橋西畔の河原で死刑に処され、遺骸はその場に埋葬、塚が築かれ石塔が建てられたが、その後の鴨川の氾濫で荒廃、慶長16年(1611年)角倉了以が高瀬川の開削中にこの墓石を発掘して堂宇を建立、瑞泉寺を開創した、とあった。
遅い時間の訪問だったが、宮城県出身者ですが、と訪ねると、住職が街燈を灯して墓域を案内、政宗の従妹駒姫の墓標を教えてくれた。正面に秀次の首櫃といわれる古石、左右に49柱の五輪塔が立ち並んでいた。天下人秀吉に翻弄された秀次の安寧を祈り合掌した。
暗がりに並ぶ五輪塔の中で、駒姫の前だけに白い墓標が立てられ、傍らで案内する住職が、駒姫を弔う観光客が多いんですよ、と語っていた。

駒姫は、母保春院の兄最上義光の娘で政宗の従妹、まだ十五才で東国一の美人の聞こえ高く、秀次に側室として呼び寄せられたが、秀次謀反発覚直後に京都に着いて、秀次に会うことなく遭難に遭ったという。これを伝え聞いた淀君が秀吉に助命を乞い、秀吉が処刑中止の急使を差し向けたが、間に合わなかったのだという。
従妹の駒姫が政宗謀反嫌疑の要因の一つとされたというが、政宗が秀次に駒姫を引き合わせたわけでもなく、秀次に会ってもいない従妹駒姫が、政宗謀反嫌疑の因になるはずもなく、政宗の冤罪は明らかではないか。
隣のお堂の地蔵菩薩像は、秀次一族が処刑される際に四条大雲院の貞安上人が、刑場の一隅にこの木像を運び込み、次々に打たれる子女達に引導を授け続けたという。お堂内に刑死した数の女子供の小像が奉られていた。これほど多くの女子供が斬殺されたとはあまりに痛々しい。
秀次に殉死した家臣10人の中に、粟野木工頭秀用の名があった。弟小次郎の傳役で母の政宗毒殺に加担して失踪、後に秀次に仕えて、秀吉に政宗謀反の嫌疑を抱かせた張本人だが、彼もまた主君に翻弄された悲劇の人である。

(4)臨済宗妙心寺派総本山妙心寺の大伽藍
翌朝10時、京都駅から嵯峨野線で洛西の花園駅に下車、政宗が1604年に完成させた松島瑞巌寺の総本山で、全国に3400の寺院を持つ臨西宗妙心寺に向かった。
妙心寺の僧だった虎哉宗乙が、後に伊達輝宗に嫡男政宗の師に招聘され、終生政宗と師弟関係を結んだという。
妙心寺境内全景の案内図に、46の塔頭を持つ大伽藍が描かれていたが、さすがに日本最大の禅寺である。
桃山様式の檜皮葺き勅使門から、朱塗り艶やかな二層の巨大な山門に続く入母屋造り瓦葺二層大屋根の仏殿と法堂は、禅宗の総本山に相応しい荘厳な重量感である。
奥の大方丈で、幽玄で深淵な狩野探幽の山水画の描かれた襖絵を見学、平庭の二つの盛り砂の中に佇む老松を眺めながら、静謐な禅の世界にしばし没入した。

(5)瑞巌寺中興の祖雲居禅師の幡桃院
総本山妙心寺を取り囲むように建ち並ぶ塔頭寺院の庭園を彩る紅葉を巡りながら、妙心寺方丈の北裏手に位置する政宗の菩提寺と言われる幡桃院に向かった。
幡桃院は、妙心寺塔頭46の一つで、京都所司代で後に豊臣五奉行の一人前田玄以が、慶長6年(1601年)に一宙東黙を開祖に創建したといわれ、政宗が当院の檀越となり、一宙東黙の弟子雲居希膺を、松島瑞巌寺九九世住職に迎え、雲居は瑞巌寺中興の祖といわれた。

幡桃院は、妙心寺を取り囲む塔頭寺院群の北はずれにあり、往きかう観光客をほとんど見ない。玄関口を求めて白壁を一回りしてみると、地図でみるより意外に広い。山門の格子戸は、しっかり閉じられていた。
非公開だということはネットで承知していたが、勇気を出して潜り戸を押してみると、すっと開いた。失礼しますと声を張り上げ、足を踏み入れると、観光客に俗化されていない、綺麗に手入れされた緑葉と紅葉の織り成すこじんまりした林泉庭園が迎えてくれた。

本堂横で畑仕事をしている男性に、宮城県出身者ですが政宗の菩提寺と聞いて訪ねてきました、と声かけすると、私が住職です、と腰に手を当てながら立ち上がった。
お庭を綺麗にされていますね、と言うと、半分坊主で半分植木屋ですよ、と冗談を言って笑わせてくれた。
政宗が松島瑞巌寺の開創にこちらの雲居禅師を招いたと云われていますが、と本題に入ろうとすると、雲居はクモイでなくウンゴだよ、勉強してから来てください、と手厳しい反応に赤面だったが、それから一時間ほど、畑仕事の手を休め、立ち話で興味深い話を語ってくれた。

当寺の属する妙心寺派は、室町幕府の庇護と統制下で権威に安住する南禅寺など禅宗官寺と違い、在野の寺院として法話による地方行脚で、多くの弟子を育て各所に寺院を開き、戦国武将や民衆の支持を得て、末寺3400という臨済宗最大の勢力を広げた、と熱弁されていた。
そして幡桃院開祖一宙東黙の弟子になった雲居禅師もひと所に留まらず、諸国の山野を行脚して、法話の力で多くの寺院を開創、その数173といわれ、松島瑞巌寺住職に招聘された後も、法話の旅を続けて愛子に庵(大梅寺)を結び、根白石に永安寺を開山、78才で入滅したが、大寺院に安住せず名声を求めず、ひたすら民衆への法話による教化の道を全うした禅師だったという。

政宗は、松島瑞巌寺を再興させた終生の師である虎哉禅師の勧めで、当時名声の高かった幡桃院の雲居禅師を招聘しようとしたが、雲居が応じないうちに政宗が死去、政宗と二代忠宗の誠意が通じてようやく瑞巌寺99代住職として来仙、翌月に政宗の百ケ日法要を営んだという。
幡桃院は、伊達家の菩提寺ではなく政宗の香華寺で、政宗の位牌を安置して香や花を供えて菩提を弔っており、政宗と雲居の周忌行事には、仙台に招かれるという。
住職は、政宗は雲居に会ってはいなかったろう、政宗はここに来てもいなかったのでは、とも話された。ではなぜ、虎哉禅師の勧めとはいえ、面識ない雲居を再興した伊達家菩提寺の瑞巌寺住職に迎えようとしたのだろう。

住職は、雲居禅師の面白い逸話を話してくれた。
かの有名な豪傑の塙団衛門が、出家中に幡桃院へ預けていった甲冑を、大坂の陣で大坂城に入った塙団衛門に届けてやろうと、雲居禅師が身に付けて大坂城に駆けつけたところ、捕えられたが、兜を脱がされて坊主頭だったことから許されたという講談まがいの話である。
政宗の好きそうな逸話だが、そんな剛毅で優しい雲居の話が気に入って瑞巌寺に迎えようとしたのであろうか。

住職は閉じられた本堂横の玄関扉を指し、聚楽第から移築したものだが、風雨に晒され漆がはがれて表面はボロボロ、文化遺産なので勝手に補修も出来ないと話していた。欄間の透かし彫りは、左甚五郎の作だという。
話題は私の尺八談義からドイツに居る娘さんのバイオリン演奏活動へと昼の時間も忘れ、突然の来訪者に快くお付き合い頂いた住職のご好意に謝辞して外に出た。
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