歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の伊達政宗像を訪ねて(その4-③)

2020-02-01 22:52:30 | 私の伊達政宗像を訪ねて
題 : 『私の伊達政宗像を訪ねて(その4-③)』

【政宗の海外への夢か野望か】

①慶長遣欧使節出帆400年記念事業

伊達政宗の名を世界に知らしめた慶長遣欧使節派遣の出帆から400年の平成25年(2013年)、政宗の壮大な海外への夢を記念するイベントが郷里宮城を席巻していた。そして同年6月に、12年前に歴史資料として初めて国宝に指定されていた慶長遣欧使節の持ち帰り資料の内三点が、ユネスコ世界記憶遺産に登録された。
翌26年2月、在京宮城県出身者で組織する「みやぎ夢フォーラム」の一員として、ホテルニューオータニで開催された仙台市主催「2014仙台の夕べ」に招待され、スペインで演奏活動をされている川上ミネさんのピアノ「サムライ支倉の大いなる旅」を拝聴する機会を得た。
その10日後には、在京宮城ふるさと協議会主催の慶長使節船ミュージアム館長濱田直嗣氏の講演「慶長遣欧使節出帆400年をめぐって」で勉強させていただいた。
そして8月25日、慶長遣欧使節を題材に仙台市の委嘱で制作された三善晃作曲・高橋睦郎原作脚本のオペラ「遠い帆」の東京公演を、新国立劇場で鑑賞した。
支倉常長の栄光と失意の運命を描いた和製オペラで、仙台フィル管弦楽団とNHK仙台少年少女合唱隊など総勢230人が、果てしない海上場面を軸に回想を織り込みながら、マドリッドでの洗礼、ローマ法王との接見など、ヨーロッパで翻弄される使節の長い旅と不幸なその後を描く壮大なドラマだったが、その時の感動と余韻がその後の私の常長を訪ねる旅の大きな原動力となった。

②岩倉具視使節団の発見

政宗の慶長遣欧使節派遣は、徳川幕府の禁教政策と鎖国政策の下で、歴史の闇に抹殺され、長く忘れ去られていた。明治新政府が明治4年に欧米に派遣した岩倉具視使節団が、イタリアのヴェネツィアで支倉常長の書状を偶然に発見したことから、政宗の偉業が250年の時空を超えて日の目を見たのである。
太政官少書記官久米邦武編修「特命全権大使米欧回覧実記」(明治11年刊行)に、ヴェネツィア文書館で常長の書状を発見した当時の様子が報告されている。
「此書庫ニ、本朝ノ大友氏ヨリ遣ハセシ使臣ヨリ送リタル書翰二枚ヲ蔵ス。其遺紙ヲ一見センヲ望ミシニ、挟紙ヨリ取出シテ示シタリ。皆西洋紙ニ羅甸文ニテ書セル書翰ニテ、末ニ本人直筆ノ署名アリ、鉄筆ニテ書セルモノナリ、岩倉大使、余ヲシテ模寫セシム、左ノ如シ」
次行に「支倉六右衛門 長経」の署名と花押の写し書きが二つ、そしてそれぞれに1615年2月24日と1616年の年号が付されていたという。
同文書館には、外に1585年に大友宗麟が送った天正遣欧少年使節の書翰五葉が保管されており、支倉六右衛門も、大友宗麟が派遣した使臣とみられていたらしい。
久米書記官は「支倉六右衛門は、是より30年も後れて至りたれば、大友家の使臣には非るべし、滅国した大友家の信に篤き遺臣か、豊臣家の遺党に非ざるか、或は仙台の伊達政宗の家臣なりと謂うが、伊達氏の西洋に交通せるは殆ど怪しむべきに似たり」と追書していた。
 
ヴェネツィアで支倉六右衛門の書状を発見した岩倉具視は、帰国するや仙台藩に調査を指示、仙台城内に隠匿していた常長の持帰遺物が開示された。明治9年6月、明治天皇の東北・北海道巡幸の際に、仙台博覧会に伊達家古物として出展され、天皇に叡覧されるとともに、江戸時代初期に使節団をヨーロッパに派遣して通商交渉を行った政宗の海外への夢が全国に知られることとなった。

③慶長遣欧使節団の行程

昨年(平成31年)1月、仙台城本丸跡の青葉城資料展示館に展示されていた慶長使節出帆400年記念の特別展「写真で見る支倉常長の遣欧使節行」を、主任学芸員大沢慶尋氏にご案内いただいた。
掲示されていた110点の写真パネルに沿って慶長遣欧使節団の行程を概観してみる。(〇番号はパネル番号)



『仙台藩石巻月の浦を出帆』

①サン・ファン・バウティスタ号(復元船):
 1613年10月28日(慶長18年9月15日)に伊達政宗建造の洋式帆船が出帆。
②総勢180余名:内、日本人約140名。その内、幕府船手奉行向井忠勝配下の者10名程。ソテロ、ビスカイノなど南蛮人40名。
③造船地・出帆地=月の浦:造船者は、ビスカイノと部下、幕府船手奉行配下の大工たち。八百人の大工、七百人の鍛冶、石巻牡鹿地域の三千人の人夫。
⑥伊達政宗・ソテロ・支倉の図:使節行は、政宗とソテロ(サン・フランシスコ会宣教師)が基本立案。徳川家康の許可と幕府の協力・了承のもと実現。
⑦政宗とソテロの目的:
《政宗の希望》 仙台領とスペイン最大の植民地メキシコなどとの直接貿易を行いたい。キリスト教を領内に広めたい!?(ソテロの希望でもある)
 当時の日本のキリスト教は、西日本の長崎に日本全体の司教が置かれ、ポルトガルと関係の深いイエズス会の大きな勢力の下にあった。
《ソテロの希望》 西日本とは別に東日本の奥州に独立した司教区を新設し自ら司教になり、スペインと関係の深いサン・フランシスコ会の勢力下にし、発展させたい。そのためにも日本のキリシタン信徒代表たちを伴ってローマまで赴きローマ教皇に謁見し、サン・フランシスコ会の日本での布教成果を認めてもらいたい。
⑧支倉六右衛門像:約600石の中級家臣。四三歳。ソテロとともに政宗の大使に任命される。
⑨なぜ支倉が大使に抜擢?:政宗が父支倉飛騨の切腹と子六右衛門(常長)の追放を命じる茂庭綱元あて書状。

『メキシコ入国』

⑯支倉常長銅像:支倉使節一行がメキシコ・アカプルコに到着した1614年1月28日、幕府は京都でキリシタン禁教令を発すべく大久保忠隣を派遣、2月1日家康は、金地院崇伝起草の「バテレン追放文」を公布。
⑱支倉本隊、メキシコシティ3月24日着:アカプルコに日本人は20名程を残し、120名程でメキシコシティへ、アカプルコから山岳地帯を1ヶ月程で到着。
⑳支倉、メキシコ副王グアダルカサール候に謁見:
《政宗の書状を呈す》書状内容:
 ◎政宗自身は障害がありキリスト教徒になっていないが、領国の民で望む者がキリスト教徒になることに異議はない。ソテロを使僧としてスペイン国王・ローマ教皇に遣わすが、家臣の侍一人を添え遣わす。
 ◎宣教師を政宗領国に遣使船で渡海させてほしい。
 ◎その船が帰る時メキシコから商品を積ませて下さい。
 今後船の往来に障害のないよう命じてください。
《徳川家康・秀忠の書状を呈す》家康書状のスペイン語訳文の内容:我が国ではキリスト教を尊ばない。
㉔サン・フランシスコ教会:4月9日に一行日本人中20名がこの教会で受洗。4月20日に22名受洗。
㉘メトロポリタン大聖堂:4月25日に日本人64名が大司教より堅信礼授かる。
㉚メキシコ地図:5月29日にメキシコシティ出発。日本人は20数名(全体で30名位)。6月10日に大西洋岸のベラクルスのウルーア港からスペインへ出港。

『スペイン入国:セビージャ・マドリッド入市』

㉛スペイン地図:10月5日にスペインのサン・ルカール・デ・バラメダ入港。一週間滞在後、船でコリアへ。
㉟コリア・デル・リオの街:ハポン姓の人がコリアと近郊に約八百人。10月21日に馬車でセビージャへ。
㊲アルカサール宮殿:市長らに迎えられセビージャに入市、宮殿に入る。支倉一行の宿泊所。一ケ月強滞在。
㊴カテドラル大聖堂:スペイン最大の教会建築。支倉も聖庫内の宝物を見、音楽演奏と舞踏の歓迎を受ける。
㊵ヒラルダの塔:高さ98m、支倉も登ったという。
㊶セビージャ市役所:10月27日の特別市会に臨む。
 市長に政宗書状と贈物の刀を呈す。セビージャはソテロの出身地。兄は市の参事会員。日本出帆後一年経過。
㊸セビージャ市宛て政宗書状の内容:
 ◎政宗自身は止む無き事情によりキリスト教徒になっていないが、領民をキリスト教徒にしたいのでソテロに頼み支倉六右衛門と申す侍一人を指し添え渡す。
 ◎スペイン国王とローマ教皇のもとへ、ソテロと支倉が無事参着し望みが叶えられるよう協力を仰ぎたい。
 ◎すぐに日本よりセビージャに行くことについてご決断いただければ、今より毎年船で渡海したい。
 ※政宗は、自領とメキシコ間の直接貿易のみならず、スペイン本国とも直接貿易を行おうとしていた。
㊺スペイン地図:11月25日に大歓迎を受けたセビージャよりマドリッドへ出発。費用はセビージャ市負担。
㊻サン・フランシスコ・エル・グランデ教会:12月5日頃マドリッド到着。入市式なく教会修道院が宿泊所。
㊿マドリッド王宮:1615年1月30日に国王フェリーペ三世に謁見。マドリッド到着後55日程経過。
52.スペイン国王宛て政宗書状の内容:
 ◎去る年(慶長15年)ソテロを家康の使者としてスペイン国王のもとに渡すことが決まっていたが、病気のため別のバテレンを渡した。このたびソテロの病気も全快したので使者に頼んで渡したのである。
 ◎政宗自身は解決困難な支障でキリスト教徒になっていないが、キリスト教徒になるよう領国下々の者たちにすすめるので、サン・フランシスコ会のオブセルヴァント派のバテレン衆をお渡しくだされたい。
 それで今後の申し合わせのため、このたび船を造りメキシコまで渡した。この船でバテレンをお渡しください。毎年渡海させます。
 ◎スペイン本国のみならず、メキシコ副王、フィリピン総督、マカオ地区司令官、モルッカ諸島長官へ、我らの船が行っても間違いのないようご命令下さり、渡航の許可状を下されたい。
 ◎協定の条項は別に一書をもって申し入れ、尚ソテロが申し上げる。万一旅の途上ソテロが死んだら、ソテロが指名するバテレンが申し上げる。使者として侍一人を渡す。日本の道具五種類を進上する。
54.デスカルサス・レアレス女子修道院:2月17日に支倉の洗礼式。当時国王の姉妹(内親王)が修道生活中。
55.付属教会:フェリーペ三世、フランス王妃(国王の長女)、両内親王臨席。教父はスペイン政界並ぶ者なしといわれた宰相レルマ公。授洗司祭は国王の侍僧長。
 異教徒の洗礼式としては当時最高のシチュエーション。
56.「ドン・フェリーペ・フランシスコ」ハセクラの誕生:
 フェリーペは国王の名、フランシスコは宰相レルマ公の本名のフランシスコをいただいたものであろう。
59.困難を極める交渉とローマ行の決定:
《マドリッドでの使節に不利な状況》
 ◎「徳川幕府のキリシタン禁制・迫害」情報の到達
 ◎日本のイエズス会の妨害報告
 ◎使節の目的や実態について情報収集し、使節の正体を疑ったインディアス顧問会議の阻止活動、
 ◎政宗が日本全国の皇帝ではなく、一分国の王にすぎないという資格の問題。
 ※ローマ行を認めるか否かの判断に8ケ月以上を要す。
《ローマ行きの決定》
 スペイン国王の裁決で。「日本人たちがかの地において、福音の宣教と信仰を打ち立てていることを報告するために、かの地にいるカトリック教徒に代わって、教皇に臣従を示すためローマに赴くのを妨げることは、熟慮をもってすれば不都合があるように思われる。そして他に得られた良い結果の中には、異端者たちが教皇に臣従しないこの時に、彼らがかくも遠方から教皇の脚下に跪くために来たことが見られることである」
 ローマへの旅費をスペインの国費で支出。
60.スペイン地図:1615年8月22日にマドリッドをローマへ向け馬車と荷車、驢馬で出発、10月3日頃バルセロナ着。バルセロナに少なくとも四泊五日は滞在。
61.モンセラート聖母教会・ベネディクト会修道院:支倉は修道士達の聖なる生活、山に棲む隠者に感化受けた。
65.バルセロナのカテドラル大聖堂:市庁舎訪問後に訪問。
71.地中海の地図:10月上旬に支倉一行バルセロナを出帆。

『イタリア入国:ローマ入市』

73.クィリナーレ宮殿(パウロ五世の離宮):10月25日 ローマ到着すぐ教皇パウロ五世に内々に謁見。
74.ローマ教皇パウロ五世肖像画:国宝、仙台市博物館所蔵、2013年6月、世界記憶遺産に登録
76.「王の間」のフレスコ画:ソテロ・支倉・伊丹宗味ほか日本人キリシタン信徒代表と思われる。日本のキリシタン代表達のローマへの巡礼=宗教使節でもあった。
77.ローマ入市式:10月29日、非公式だが盛大。アンジェリカ門→サンピエトロ広場(祝砲)→サン・タンジェロ城→アラチェリ教会(ローマ約70日の宿泊所)
83.サンピエトロ宮殿:11月3日、ローマ教皇に謁見
84.支倉が教皇に呈した政宗書状:ヴァチカン図書館所蔵。
85.ローマ教皇宛て政宗書状の主な内容: 
 ◎宣教師の派遣依頼。大司教の任命・派遣依頼。
 ◎政宗領国とメキシコ間の貿易のことで、スペイン国王への働きかけを要請。
94.支倉のローマ市公民権証書:11月23日に受ける。
 小寺外記・伊丹宗味・野間半兵衛・滝野嘉兵衛も。
95.アマーティ編「伊達政宗遣欧使節記」(1615年出版):東洋の果てからきた使節のことはヨーロッパで広く知られブームとなる。支倉在欧中に出版。しかし、ローマ教皇からは、使節の請願は実質的な成果としての正式な回答を即座には得られず、貿易のことなど多くはスペイン国王の判断になるものとして回答なし。

『スペインから日本へ』

105.地中海の地図:1616年1月7日にローマより帰路につく。4月17日マドリッド到着。4月中にセビージャへ向け出発。6月22日に先発の日本人15名セビージャより帰国の途。支倉・ソテロと日本人随員5名はセビージャ近郊のロレト修道院にとどまる。
108.ロレト修道院のパティオ:極めて困難となった使命達成のため、必死にソテロと共にスペイン国王への嘆願書をはじめ各方面へ手紙を出し働きかける(約1年間)。
110.黄金の塔(セビージャ):1617年7月4日追放に近い形で帰路につく。支倉・ソテロらここから乗船か。
112.大西洋と太平洋の地図:1618年4月2日メキシコアカプルコから出帆。8月10日マニラ着。1620年9月20日頃、支倉帰朝。6年11ケ月の旅は終わる。

④慶長遣欧使節派遣の目的

政宗は、メキシコとの交易を求め、支倉常長と宣教師ルイス・ソテロを使節にメキシコ、スペイン、ローマに派遣、仙台藩内での布教活動の容認と宣教師派遣の受け入れを条件に交渉を進めたが、幕府のキリシタン禁制令で信徒への迫害情報がヨーロッパに伝わり、常長一行が日本国の正式な代表ではないと疑われたこともあり、交渉は困難を極め、結局はなんの成果も上げることなく、国外追放同然に、7年後に禁教下の日本に帰国した。
常長は、スペイン国王フェリーペ三世に、政宗の親書と八ケ条の「申合条々(和平協定)」を提示していた。
 ①キリスト教の領内布教とフランススコ会宣教師の派遣、
 ②交易船の建造とメキシコとの交易、
 ③操船する航海士と水夫の派遣、
 ④交易船の領内寄港と便宜供与、  
 ⑤造船の資材提供、
 ⑥自由通商と関税免除、
 ⑦スペイン人居留地提供と治外法権の保証、
 ⑧スペインと敵対するイギリス人とオランダ人の領内追放。
その内容は、キリスト教と貿易を切り離す新教国イギリス・オランダと交易を進めている幕府の禁教政策に反しており幕府への謀反に等しい。この申合条々が日本に残っており、石母田家文書「南蛮への御案文」に収録されているが、慶長18年9月4日付で出帆の11日前、渡欧した使節団の自作自演でないことは明らかである。
ではなぜ政宗は、幕府が禁じるキリスト教の布教と宣教師の派遣を交易条件に容認したのだろうか。
青葉城資料展示館で写真パネル展をご案内いただいた主任学芸員の大沢慶尋氏から貴重な話をいただいた。
幕府が江戸でキリスト教弾圧を始めたばかりであり、かつ2年前の慶長三陸地震による甚大な津波被害からの復興対策の一環もあって、海外貿易による利益の創出を図り、領国をキリスト教布教特区、国際貿易特区にする構想でスペイン国王との協定が実現すれば、それを家康に認めさせることができると政宗は考えたのではないか。
そしてソテロ自身も、日本キリシタンの代表をスペイン国王とローマ教皇の下へ引き連れて謁見させ、フランシスコ会の布教成果として認めてもらい、新たなる司教区を東日本に設立し、ソテロ自ら司教となる希望を抱いていたのではないか、という。

当時のスペインは、世界に誇る無敵艦隊がイギリスに敗れて「太陽の沈まぬ国」の栄光も揺らぎ始めていた。
太平洋航路を開拓してメキシコ経由でアジア進出を図りながら、インド洋経由でアジアに進出して禁教政策を採る家康に食い込んだオランダに遅れを取っており、そのスペインの焦りに付け込んだ政宗が、キリスト教容認を条件に直接交易を持ち掛けたのかもしれない。しかし政宗の狙いは、果たして交易の実利だけだったのだろうか。

⑤政宗の南蛮征討説

慶長遣欧使節派遣の目的に、政宗の南蛮征討説がある。使節派遣の90年後に編纂された『伊達治家記録』に「今度、公、南蛮ヘ船ヲ渡サル事、其地ノ様子ヲ検察セシメ、上意ヲ経テ攻取リ玉フヘキ御内存ナリト云々」と南蛮の実情を偵察し攻め取るためだったとある。
政宗の詩歌集「伊達の松陰」に『欲征南蛮時所作』と題した詩「邪法、邦を迷わし唱ヘて終まず、南蛮を征せんと欲して未だ功を成さず、図南の鵬翼 何れの時にか奮はん、久しく待つ扶揺萬里の風」が収められている。南蛮を征せんと欲してとは、尋常ではないが、政宗は本当に南蛮征討を目論んだのだろうか。
幕府の禁教策に反する布教容認と宣教師派遣を条件に海外交易を画策した遣欧使節派遣が失敗に終わり、盟友の家康が既にこの世を去っており、政宗は、幕府からの嫌疑に抗弁すべく、日本を脅かすキリスト教国征討の斥候を海外に遣わした、と方便したのではないだろうか。
欲征南蛮の詩歌も、禁教の幕府を憚った誰かが政宗の名を騙って歌集に追録したとは考えられないだろうか。
 
日本最初の国語辞典『玄海』の編纂者大槻文彦が、祖父玄澤の著作『金城秘韞』の補綴に「熟ら、公(政宗)が此の擧の發意を察するに」と、次のように書いていた。
「公、少壮より四鄰と戦ひ、天正17年、遂に会津四郡仙道七郡を併せ、凡百二三拾萬石なりしなるべく、公が23歳の時なり。然るに其の明年、豊公の為に地を削られ、又移封せられ、尋で、海内一統して、復た雄飛すること能わず、其れ何ぞ、咄々髀肉の歎に堪へん。征韓の役も徒爲なりき、石田の乱にも、寸地を得たりしのみ。
然るに、慶長14年に至りて、島津氏、琉球を取れり、公、豈欽羨に堪へんや。然るに、恰も此の時に當て、徳川氏、西班牙と交通せんとするに會せり、乃ち、機に乗じて、意を海外に注ぎ、先づ此の擧を試みられしこと、疑ふべくもあらず。」
若くして天下への野望を抱きながら、秀吉の奥州仕置で屈辱的な減移封を受け、関ヶ原で家康の天下がほぼ決まり、戦乱の世が終息に向かい、奥州制覇の夢も果たせぬまま、閉塞感に囚われていた政宗が、薩摩島津氏の琉球への侵略と家康の海外交易への進出という新しい潮流に触発されて、萎えかけていた戦国武将の血潮を、南蛮征討の野望に掻き立てられたのかもしれない。 
 
晩年の政宗が小姓に語った言行録『木村宇右衛門覚書』に「我一年黒舟を作らせ南蛮へ渡す、国の重宝求めにあらず、異国への聞こへのため成」とあるが、海外への野望に燃えた往年を懐かしむ政宗が、戦国武将の生き残りとしての気概を吐露していたのだろうか。

⑥政宗の幕府転覆野望説

平成30年6月のテレビ番組「世界ふしぎ発見!伊達政宗の野望、海を渡ったサムライの密命を追う」に、小中学時代の学友で、現在青森中央学院大学大学院教授の大泉光一君がゲスト出演、常長は政宗の討幕目的の密命を帯びて派遣されたと持論を展開していた。

彼が支倉常長を研究していたことは、40年ほど前に城山三郎の小説「望郷のとき」の中で偶然に知った。
小説の主人公は、遣欧使節団180人の一員として太平洋を渡った仙台藩士荻野伸介(仮名)、スペイン・ローマに向けて大西洋を渡った常長一行の30人から外されてメキシコに残り、交渉に難航する常長の帰りを待つこと三年半、祖国日本は禁教となり帰国も難しく、望郷の念に駆られる伸介の瞼に浮かぶ郷里が、大河原と白石川と蔵王、なんと私の郷里ではないか。なぜ城山三郎が私の田舎の地名を知っているのか不思議に思っていた。 
その疑問は、小説後半の第二部で解けた。そこに同郷の彼の名前が出てきたのである。城山三郎がメキシコに遣欧使節団の末裔を尋ねる第二部に、大使館の職員から「あなたと同じようなことを調べている若い人が居ます」と紹介された「オオイズミ・コウイチ」という青年が、父が仙台の郷土史家、一家がカソリック信者、中学時代から支倉に興味を持っていた、とあった。なんと小学中学時代に同学年だった大泉光一君ではないか。
城山三郎は、彼のことを「商社でアルバイトしながらメキシコ大学で勉強している学生で、支倉一行の資料を求めてかなりこまめに歩き回っており、ラテンアメリカの経済を勉強しながら、この先、スペインからイタリアへと支倉の足跡を廻ってみたいと本腰を入れていた、飽きっぽいとか功利的とかいわれる若者の多い中で、こういう人も居たのかという思いもした」と書いていた。
そんな彼に城山三郎がメキシコの古文書館などを案内してもらったというから、小説「望郷のとき」の主人公の荻野伸介が望郷する風景が、私と彼の郷里だったのは、彼が城山三郎を案内しながら、常長の故郷の宮城県川崎町支倉に近い私らの郷里の風景を話していたのだろう。
 
彼が上智大学学長で郷里大河原町名誉町民の大泉孝先生の親戚だということは同級生の間で知られていたが、厄年の同窓会で再会した時には日本大学国際関係学部教授になっており、9・11同時多発テロ直後に危機管理と国際テロ対策の専門家としてテレビによく出ていた。
2006年に著書「支倉常長慶長遣欧使節の真相」の和辻哲郎文化賞受賞記念パーティに招待され、久方ぶりに旧交を温めたが、支倉常長遣欧使節研究をライフワークに半世紀に亘り取り組んでいたことを改めて知った。
テレビ番組「世界ふしぎ発見!伊達政宗の野望」の中で、俳優の前川泰之さんが、ローマ教皇庁のヴァチカン図書館を訪ね、保管されているローマ教皇宛て政宗の親書を閲覧して、仙台領内へのキリスト教布教のため教皇が推薦する宣教師の派遣とスペイン領メキシコとの交易の後押しなどを政宗が請願したと説明、その後にゲスト出演した大泉光一氏は、その政宗の親書にある「六右衛門尉口上ニ而可申上候(常長が口頭で申し上げることがある)」という一文に注目して、政宗は表立って言えない事を常長に口頭で請願させていた、と指摘した。
そしてヴァチカン機密文書館に保管されている「ローマ教皇の回答書」の中に「剣と帽子の叙任」という文言があり、政宗親書に書かれていないことに対する回答であることから、これぞ常長に口頭で教皇に請願させた政宗の密命に対する答えではないかと推論したのである。
 
この「剣と帽子」について大泉氏は、定説はただ直訳していただけだが、剣は王座、帽子は王冠を意味し、王としての権威を象徴的に示す言葉であり、「カトリック王への叙任」の意味であると、反論した。そして、自分を「カトリック王」に叙任し「カトリック騎士団」の創設を認めてもらえば、日本国内の30万のキリスト教徒を味方に、幕府を倒して日本をカトリック王国にすると政宗は常長に口頭申立てさせたというのである。
しかし教皇の回答書には「剣と帽子に叙任する」に続いて「私たちは、主が許すならば、貴下(政宗)が請願した司教の任命と騎士団の創設に関する貴下たちの望みを解決するために努力するようにします」とあり、政宗がキリスト教徒になるなら請願は認めるが、ならないなら請願を認めることはできない、と教皇は答えていた。
騎士団とは、イスラムから聖地防衛と巡礼者保護を目的とした十字軍のこと、かつてイベリア半島にも派遣されており、入団はカトリック教徒が最低条件である。
しかし政宗は「自分は事情があってまだ洗礼を受けることが出来ないが、家臣や領民下々までキリシタンにする所存である」と、自分はキリシタンにならずに対価の叙任と交易の利を求めた政宗の策略は、教皇に見透かされて、請願は認められず、政宗の野望は失敗に終わった、と大泉氏は番組を締め括っていた。

歴史の定説を覆す大胆な論考に、同郷の学友を応援したいところだが、素朴な疑問が浮かんできた。
常長が口頭でカトリック王の叙任とカトリック騎士団の創設を請願していたことは、状況証拠から類推できるとしても、その請願が本当に政宗の本意であり、政宗の指示だったとする物的証拠はあるのだろうか。 
番組の中で大泉氏は、幕府転覆の野望を幕府に悟られないよう政宗は文書でなく口頭で申立てさせたと答えていたが、通常、書状末尾に書かれる使者口上云々は、補足説明か、出状後に事情急変した場合の臨機応変な対応を指示する場合だろう。本文にない重要な秘密案件まで使者に口頭で申し立てさせるものだろうか。二人が昵懇な間柄ならともかく、異邦人が初見の教皇相手にである。
幕府による禁教と迫害の実情が伝わり、政宗が一地方領主に過ぎず日本の正式な代表ではないことが相手側に知られて難航する交易交渉を打開するため、政宗はローマ教皇とスペイン国王の助力でカトリック王として幕府転覆を狙っていると、ソテロと常長が独断で虚言を弄し方便を重ねて申し立てたとは考えられないだろうか。 

政宗の海外への夢を開き、遣欧使節派遣を提案し政宗を説得し実現させたのはソテロである。政宗の抱く夢以上のものをソテロが描いていたにちがいない。ソテロの夢実現に邁進するあまり、暴走していたかもしれない。
政宗に絶大に信頼されて使節となり、太平洋から大西洋を渡海してスペイン国王とローマ教皇の謁見まで実現したソテロだが、政宗の教皇宛て和文書状をラテン語文に自分に都合よく翻訳していなかったとしても、恣意的に拡大解釈して通訳していた可能性は無いとは言えまい。
交渉が難航し追い詰められていた彼らの焦燥と挫折はいかばかりだったろう。主君の夢実現に翻弄され徒労な交渉を続けざるを得なかった二人こそ悲劇ではないか。
懐かしい東北弁に久方ぶりにメールすると、近刊著書『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」』と平成29年1月にテレビ放映された『歴史ミステリー「不屈の独眼竜伊達政宗 野望実現の城」』のDVDを送ってきた。
彼は、慶長遣欧使節に関する国内史料が極めて少なく、海外の一次史料を調べるには原文解読力を身に付けなければならないと、東京オリンピックの年にメキシコに留学して難解な古典ロマンス語(古典スペイン語と古典ラテン語等の総称)の習得に努力した行動家である。
その後スペイン、イタリアに渡り、半生を掛けて常長研究に関わる未発見の原史料を発掘して、従来の定説を覆す持論の政宗幕府転覆野望説に至ったと言っていた。
そして歴史研究の基本作業は、研究素材としての史料の収集と正確な解読であり、資料の信憑性と信頼性を検討する史料批判にあるが、我が国では、客観的な信憑性のある史料が存在しなくても、状況証拠だけで平然と歴史が創られ、公的機関や学者に後押しされていつの間にか通説となって定着している、と痛烈に批判していた。
 
送られてきた著書『暴かれた伊達政宗』の第2章「幕府転覆計画への転換」は、まさに彼の面目躍如である。
使節団の当初の目的地はメキシコだったが、ある事件が切っ掛けで渡航先がスペイン・ローマに変更、政宗の計画も幕府転覆計画へ舵を切ったのではと力説していた。
慶長18年3月に使節船の建造が着手された時点ではまだ政宗の通商使節派遣の目的は家康と一致していたのだが、6月4日に江戸で大掛かりなキリシタン狩りがあり、3千人以上が棄教させられ、棄教を拒んだソテロ主宰の勢数多講に所属するキリシタン指導者28人が処刑される事件が起きた。
主宰のソテロも逮捕され火炙り処刑執行直前だったが、幕府と進めていたメキシコ通商使節団の通訳兼案内役として政宗の陳情により釈放され、ソテロは仙台に逃れた。
しかし勢数多講のキリシタン28人の斬首と自身の火炙り刑直前という体験で、徳川政権下での布教活動に絶望感を抱いたソテロは、キリシタンに寛容で未だ天下への野望を棄て切れていない政宗を説得、ローマ教皇の力を借りてスペインと軍事同盟を結び、徳川政権を倒すしかないと考えを変えたに違いない、と論じていた。

幕府の迫害で仙台に逃れてきた畿内キリシタン代表の瀧野嘉兵衛・伊丹宗巳・野間半兵衛三人も、ローマ教皇宛て畿内キリシタン40名の連署状を持参して使節団に加わり、サン・ファン・バウティスタ号に乗り組んだ。
そしてメキシコ訪問を終えた使節団は、伊達藩の一部と幕府の随行員ら大半が帰国する中、支倉一行20余名がひっそりメキシコからスペイン・ローマに向けて出発、ここから伊達藩単独の秘密外交が始まったのだという。
大泉君が送ってきた「歴史ミステリー:不屈の独眼竜伊達政宗」のDVDから彼の論拠を探ってみた。
〇 使節団の通訳として同行したイタリア歴史家アマーティが、著書「伊達政宗の遣欧使節記」に、常長がスペイン国王に「我らの王国全てにおいて軍事力を備えておりますので、陛下のお役に立つ機会があれば力を尽くしたいと望んでいます」と軍事力提供を申し出たとある。
〇 セビリア文化芸術院に、政宗のセビリア宛て親書が保管されており「キリスト教の聖なる教えの優れていることを拝聴し、それが神聖で正しい救いの教えであり、真の後世の道であることを知りました」と、幕府が禁じるキリスト教を賛美、理解していると伝えていた。
〇 仙台藩で布教活動をしていた宣教師アンジェリスが、ローマのイエズス会本部宛てに日本の国内事情を書き送った書簡が、イエズス会本部文書館に保管されている。
「天下殿(家康)は政宗がスペイン国王に遣わした使節のことを知っており、政宗は天下に対して謀反を起す気であると考えていた」と伝えており、当時の日本国内に政宗の幕府転覆の野望が噂されていたようである。
〇 ソテロがスペインを国外追放同然にメキシコに渡ってから、スペイン帝国の植民地を統括するインディアス顧問会議宛てに「皇帝はキリシタンを迫害するが、政宗は依然これを保護している。そして政宗は自分の家臣たちにキリスト教徒になることを勧めて自ら洗礼を受ける考えがある。政宗は多くのキリシタンが日本に30万人位いることもよく承知している。幕府によって迫害を受けている者、彼らと手を結んで帝国(幕府)を攻撃することを希望していた」と書き送っていた。
この書状は常長一行をメキシコに迎えにきたサン・ファン・バウティスタ号の船長横澤将監に託した政宗の書状と横澤からの話を聞いて認めたというが、横沢が日本を出帆した元和2年8月は、大阪夏の陣が終わり、徳川の天下が盤石となり、政宗の盟友家康がこの世を去り、秀忠によるキリシタン迫害が更に激化した時期である。
それでもなお政宗の野望が健在だったとは、使節団の交渉が絶望的な現実を、政宗に伝えていなかったのだろうか。ソテロはまだ一縷の望みを抱いていたのだろうか。
 
政宗の遣欧使節派遣が討幕目的だったとは、あまりに荒唐無稽な話だと思うが、そういえばNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で見たことがあるとネット視聴してみた。
大河ドラマ第41話「海外雄飛」で、渡辺謙扮する政宗が、さとう宗幸扮する常長に、スペイン無敵艦隊来援要請の密命を口頭で命じるシーンが、確かにあった。 
大河ドラマの原作となった山岡荘八の小説「伊達政宗」にも、大阪湾にスペイン艦隊の来援を要請、混乱に乗じて大坂城内の切支丹勢力と呼応、娘婿で家康の六男松平忠輝を擁して天下を取る野望が書かれていた。

⑦箕作元八の政宗討幕説

政宗の討幕説は、明治後期に既に流布されていた。岡山県津山出身の西洋史学者箕作元八が、明治34年にドイツの史学時報へ「彼(政宗)は日本の耶蘇教徒、西班牙並に羅馬法王の援助によりて、全日本を掌握せんと欲せしなり」と論文を発表、歴史学会で注目を浴びた。
箕作元八は、ヴァチカン古文書館で、日本耶蘇教信徒の羅馬法王パウル五世に呈した願書を見て、此研究の念を起したと云い、その論文要旨を、大正3年出版の「南亭史説集」の「伊達政宗羅馬遣使の目的」に書いている。
〇 日本キリシタンの代表として遣欧使節団に加わっていた瀧野嘉兵衛・伊丹宗巳・野間半兵衛の3人がローマ教皇に謁見した際に奉呈したローマ教皇宛て「畿内キリシタン40名の連署状(同年8月15日付)」がヴァチカン機密文書館に所蔵されており、そこに「此人(政宗)日本にて一番之大名、知恵深き人にて御座候へは、日本之主(将軍)になり申との取沙汰御座候間」と、日本のキリシタンは政宗の日本王を望んでいると訴えていた。
〇 日本基督信者の願書中に「大いなる門戸は既に開きぬ。上帝は上述の奥州の主を照耀したまひぬ。王(政宗)は其勢力の大なるに於いて、何人をも凌駕す。而して予等は王が出来得る限り早く、皇帝とならんことを期待すればなり」そして「當時日本の耶蘇教徒は政宗を目するに、未来の彼等の君主を以てし、政宗自らも其地に立たんことを厭はざりしは確かなり」と書いている。
〇 常長が、スペイン国王に政宗書状で申合条々を呈して宣教師の派遣と同盟を申し入れ、更に常長が口頭で「彼(政宗)の身體、彼の領国並に彼の有する一切の者を陛下の保護の下に置き、而して彼の親誼と彼の忠勤とを捧げんことを欲す」と奏したとある。
〇 ヴェニス公使の政府あて報告に、使節中のソテロの発言に「彼の王(政宗)は今後幾くもなく、今より一層高き冠(将軍)を戴くべく、其時に及べば、彼自ら濾馬教会の基督教信者となるのみならず、併せて一切の他の者をも之に引き入るべし」と確信せりとあったという。

確かに政宗はキリシタンに寛容で、仙台領内に教会の建設や宣教師の招致を勧奨しており、家臣後藤寿庵の水沢福原地区は、奥州キリシタンの聖地として、幕府の迫害から逃れるキリシタンが全国から流入していた。
弾圧されるキリシタンの救世主として期待され、政宗も意識してそう思わせてきた節があったかもしれないが果たして本当に政宗は討幕まで考えていたのだろうか。
父輝宗以来家康と蜜月な関係にあり、仮に天下への野望はあったとしても、秀吉との確執に幾度も救いの手を差し伸べてきた家康の信頼を裏切ってまで、政宗が徳川幕府の転覆を画策していたとはとても思えない。

⑧高橋富雄の奥州王主権外交論

手元に東北古代史研究の第一人者といわれる高橋富雄編「伊達政宗のすべて(昭和59年発行)」がある。
奥州藤原氏のルーツに興味を抱いていた20年程前に古本屋で偶然見つけた文庫本「奥州藤原氏四代(昭和33年)」で、著者高橋富雄の名を初めて知ったが、その後、東北古代史講演会の講師の先生方が、高橋富雄ゼミだったことを誇らしげに語られることから、東北古代史専門の高橋富雄先生が、近世の伊達政宗について何を語るのか、興味があり買い求めていた。
冒頭の項「伊達政宗とその時代」で、小田原遅参の秀吉謁見、葛西大崎一揆と和賀一揆の煽動、家康発病時の政宗謀反騒動、秀忠の政宗邸での饗応騒動など、なぜ政宗はかくもしばしば無謀としか言いようのない冒険を繰り返すのか、そこに「政宗の戦国主張」があったという。
戦国大名は、夫々の領国を独立国家として支配統治する主権的な存在であり、秀吉と家康の天下人支配の統一主権体制が確立してなお、政宗は、その体制内に独立大名の主張を持ち続けた、最後の独立戦国大名であった。
戦国は主権と主権の戦いであり、前田も毛利も上杉も島津も、一度は戦国の主張に賭け、失敗すると二度と冒険に賭けようとしなかったが、政宗は生涯、戦国の道を体制の中で追い続けて、比類ない個性と政治家の素質が、いつも破局から救ってきたという。政宗の冒険は、すべて徒労に終わったが、それだけの冒険にもかかわらず、伊達62万石は厳然として残ることが出来た。
曽祖父稙宗が陸奥国守護職に任命されて秀衡以来と称された。それは伊達に平泉時代相当の半独立公権が政治的に付与されたことを意味しており、政宗はこの東北天下人の論理を主張、奥州に自治が許される正義を信じ、後に奥州にキリシタン王国創設を夢見たのであろうか。
 
次の項「慶長遣欧使節」で、慶長遣欧使節は重い国家的使命を帯びた外交使節であり、徳川の統一封建制のもと、一切の国家的外交権が否定されていた大名に、外交自治権・領邦国家主権が復権する事になる由々しき国家問題であり、政宗はかなり危険な賭けをしていたという。
政宗は皇帝(将軍)の委任を受けて外交権を代行する形態をとっていたが、これは隠れ蓑で偽装に外ならず、実際は皇帝権(幕権)の白紙委任、奥州王の主権外交であり、国家間交渉を平和通商条約という形で締結する近代の国際感覚を、既に政宗は身に付けていた。
条約内容も皇帝(将軍)の外交とは正反対で、切支丹の積極拡大と旧教国との締結を進め、更に奥州国王権の上にスペイン皇帝権を宗主権として承認する主権移譲の同盟条約で、幕府への反逆になるのは明らかである、と古代東北史研究の権威は、政宗の野望を指摘していた。

⑨消えた常長の道中記

慶長遣欧使節に関する一次史料は、禁教と弾圧の日本国内には一切残っておらず、全て海外史料だけ、と言われていたが、実は常長の道中記らしき書物十九冊が、仙台藩評定所の切支丹所に保管されていたという。
その常長道中記は、明治の廃藩置県で藩から県に引き継がれたが、明治12年頃に県庁から持ち出され、以来所在不明になってしまったらしい。誰かが私欲で持ち去ったのか、仙台藩にとって不都合なことが書かれてあるとして隠匿あるいは抹殺されてしまったのか。
この消えた常長道中記の中身を見て記録に残した人物がいた。蘭学者で仙台藩侍医の大槻玄澤である。
大槻玄澤は、22歳で江戸に遊学、解体新書で有名な杉田玄白に医術を、前野良澤にオランダ語を学び、二人の師の一字をもらい玄澤を通称に、26歳でオランダ語の入門書を著し、後に長崎に遊学、江戸に日本最初の蘭学塾「芝蘭堂」を開き、仙台藩の侍医に抜擢されていた。 
その子大槻磐溪は開国論者で、戊辰戦争で薩長新政府に対抗する奥羽越列藩同盟を提唱して謹慎幽閉され、教え子の但木土佐と玉虫左太夫は、仙台藩の主戦派指導者として斬首刑に処された。磐溪の子大槻文彦は、日本初の近代的国語辞典「言海」を編纂した国語学者で、後に仙台市北山の光明寺で支倉常長の墓を発見している。
大槻玄澤は、文化9年(1812年)仙台に下った折、藩侯に請い、仙台城の切支丹評定所に収められている支倉南蛮将来の諸道具の一覧を許されて、その調査記録を『金城秘韞』上下二巻に著した。

玄澤は、切支丹所で調べ上げた常長持帰器具を下巻に図解を交えて記録、天帝御影、支倉六右衛門畫像、打掛、合羽、鞍、鎧などを列記するなか「切支丹諸道具入箱」の中に「書物大小拾九冊」あったと記していた。
以前その書物を見た旧藩士一條彌三郎が「六右衛門が手帳の如きもの、十余冊ありき、その中に、暦の如く、日本西洋の月日を対照するよう記したるあり、又、道中記の如きもありし」と語ったと大槻文彦の金城秘韞補遺にあり、常長の遣欧日誌だったようである。
  
玄澤はこの常長の書物について「三〇有余品の諸器物が初めて目に触れる物多く、かつ初冬の短景の僅かに未申二時(夕方四時間)草卒に(慌ただしく)見過ごす所にして審らかに弁別するに及ばず、細視熟覧する事をえず遺憾なり」と言いながら「日本紙へ認たるものなり、これは六右衛門等覚書聞書と見ゆるかな本なり、法教の事にや、草卒の際、取りあげ読みても見ず、尤も読みても解すべきものにもあるまじ、併に熟覧しなば、廻歴せし国々の事等の荒増は知るべきか。奇怪の事書き集めしものとも見へず」と添書きしていた。



玄澤は藩から事前に貰った伊達治家記録の抜き書に「今度呂宗よりの便船に帰朝す。南蛮国の事物六右衛門物語の趣奇怪尤多し」とあり、伊達氏正史の治家記録に常長の書物類が奇怪多しとあることを承知で、敢えて「奇怪の事書き集めしものとも見へず」と記していた。
時間が足りず細かく調べられなかったと言いながら、常長の書物をよく読まなければ、治家記録の記述を否定するようなことは書けないだろう。しっかり読んでいたからこそ、奇怪ではなかったと書けたのではないか。玄澤の最大の関心事は、常長道中記だったにちがいない。
 
治家記録は、切支丹禁制を布く幕府を憚り、常長の書物類を奇怪多し、と書かせたのだろうが、和蘭の学に通じた幕末の玄澤は「今は分明なる海外の事情も、当時にありて不審なりしは、論なき事」と、鎖国当時では奇怪な書物と評したのもやむを得ないと書いていた。
常長道中記の現物が所在不明な現在、その道中記を読んだ玄澤の記述は、遣欧使節の真の目的を知る貴重な手懸りであり、玄澤が使節派遣は決して奇怪なものではなかったと、後世の我々に発信しているようである。
今年(2020年)は、常長の帰国400年である。所在不明になっている常長の道中記が現れない限り、慶長遣欧使節の派遣が政宗の夢だったのか、野望だったのか、永遠に謎のままである。
コメント    この記事についてブログを書く
« 私の伊達政宗像を訪ねて(そ... | トップ | 私の伊達政宗像を訪ねて(そ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

私の伊達政宗像を訪ねて」カテゴリの最新記事