気ままに散歩

気の向くままに好きなところに寄り道するのが好きです。
よろず雑多で思いつきの多い日記です。

1週間すぎて・・・

2010-10-26 20:48:05 | weblog
父がなくなって1週間が過ぎた。
7年間の闘病生活ののちあと次の誕生日まで1週間というところだった。父は開頭術を2回受け、ガンマ―ナイフ1回とサイバーナイフ2回の治療をうけた。髄膜腫が悪性化するのは珍しいと聞いたが悪性髄膜腫と診断されてから最後加速のついたような進行をたどるまで2年生きていてくれた。・・・遠く離れて住んでいた自分は断片的にしか父の姿をみていなかったから父の気持ちも考えずもっとがんばれ、なんて励ましていたつもりだったけど・・・不自由なからだでさぞ悲しかったろう。目もほとんど見えなくてろれつもうまく回らなくて・・6月になったら自分で起きれなくなり母の介助をうけて1日中ベットで過ごしていた。
それでも1か月前高熱出して入院したときはまだ支えてもらえば立てたのだそうだ。帰りたい、退院させてくれと騒いでいたらしいが・・・1週間すぎたころからカクッと体力が落ちて寝たままになってしまった。抗菌剤に全く抵抗性で原因不明の高熱が亡くなるまでずっと続いていた。最終的には7年前に入れたシャントチューブの感染が考えられたがそのまま見守ることになった。

バルーンは入れて貰ってなかったが仕事柄父の容態をみていればいよいよかなり悪いということはわかっていた。亡くなる前の日、最終の新幹線ぎりぎりまで父に寄り添った。心配だったので妹に夜付き添ってもらうようたのんで病院を出た。仕事の段取りをつけて夜にはUターンするつもりでいた。自宅に戻ってきたのが深夜の1時過ぎでうとうとしていたら4時半ごろ妹から急に血圧が下がったけど大丈夫かと泣きながら連絡があった。
もう間に合わないと思ったけど冷静にと自分にいいきかせながら荷物をまとめて始発の列車を調べた。
何度調べても10時着であり・・・絶望的な気持ちで行き当たりばったり乗れる列車に飛び乗った。

結局・・・1時間遅かった。

妹が葬儀関連の仕事をしていたのでいろいろよく取り計らってもらえて自宅葬だったけどいいお葬式だった。

まだ・・父が死んでしまったことが半分嘘みたいで・・・
私は年に数えるくらいしか父に会ってなかったからまだよく理解でいないのだと思う。

父は寒がりで夏でもホカロンを抱えていた。
たぶん2回目の手術から間もない去年の冬だったと思う。
寒いのに暗い部屋にちょこんとすわって何をごそごそやっているのかなと思った。
帰りの新幹線を待っていたらコートのポケットが暖かいからなんだろうと思ったらネットに入れて縛ったホカロンが入っていた。きっとあのとき私のために・・・と浮かんだ。
なんだか泣けてきちゃってずっと捨てずにとっておいたのだけど・・・今じゃ形見みたいなものになっちゃって・・・

小さな姪っ子を入れて女4人だけ残して逝くのはきっと父には痛く心残りだったにちがいない。
父とはだいぶ喧嘩した。晩年のことを振り返ると私は親不孝すぎて本当に父に謝りたいことばかりなのに
どんなに泣いても父はもういないと父が死んで気付いた。

最後に入院してからは可能なかぎり病院に足を運んだ。きっと熱が下がれば家に帰れると信じていた。最初のころはまだ意志の疎通ができていたのに・・
荒い息の中で手を握って呼びかけると視線を向けてくれたように思えた。聞こえてたかどうか知らないけどいっぱい父に謝りながら泣いた。聞こえていたらいいのに。。。
まだ・・・一人になるとふとしたときに涙が出てしまう・・
コメント
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