あの日以来、日にちと曜日の感覚が無くなってきました。
学校も仕事も、ほとんどの社会生活が麻痺しているためです。
震災後二週間が経ちました。
色んなことに追われてあっという間に一日が終わります。
記憶もおぼろげになってきたので、その後の経緯を続けたいと思います。
一夜明けた震災翌日。
何度も携帯を使って連絡を試みるも何の反応もなく、
圏外の表示にため息をつき、送受信を諦めたのはいつ頃だったでしょうか。
避難した高台から戻り自宅に入ると、前日出たまま落下物が散乱していました。
足場に邪魔なものをどけながら、必要なものをバッグに詰めたり、
あれやこれや動き回っているわけですが、どこかパニック状態なのか、
今思えば家の中をウロウロするばかりだったかと思います。
そしてご近所の方とすぐ近くの集会所に集まり安否を確認し合いました。
余震も津波も心配で、親子3人自宅にいるのはあまりにも不安です。
2日目の夜は集会所で眠ろうということになりました。
その日から数日間、ここでの炊き出し作業に追われることとなります。
両親の安否確認が出来ません。
nonさんとも連絡が取れません。
その他大勢の人がどうなって、どこでどうしているのか、
どうしてこんなに何も分からないのか、いつになったら安否が確認できるのか、
この頃は、全く見通しの立たない状況に呆然としていました。
気仙沼が壊滅、女川町はもうない、塩釜、多賀城、名取…。
次々と飛び込んでくる沿岸部の様子でしたが、
百回聞いてもこの目で見ていないので想像もつかない訳です。
遠くの情報は比較的ラジオ等で知ることとなりましたが、
近場の情報が全くと言っていいほど分かりませんでした。
テレビの津波の映像に驚きの声を上げたのは何日後だったでしょうか。
やがて少しずつ集会所に出入りする人たちから情報が入るようになりました。
また、各地沿岸部の職場から命からがら逃げて生き延びた人達によって。
それぞれの生還は全て奇跡的なものでした。
誰もの口から『たまたま』とか『偶然』とか『運良く』という言葉が出ていました。
良くぞ生きて帰って来たと、ご近所の家族の帰還に抱き合って泣いて喜びました。
また、知り合いの訃報に接し泣き崩れる人には、寄り添って一緒に泣きました。
一週間ほど地区の集会所で日中を過ごしていたので、
そこにいれば水や食糧や様々な情報が入りました。
ところが、本当に大変な所には何も届かないのが現実です。
nonさんのいたところがまさにそうでした。
それにしても、携帯が使えない不便さと言ったら。
何度『圏外』の文字を見てため息をついたことか。
非常時にこそ、その文明の利器の威力を発揮してもらいたいところですが、
想像を絶する災害時には全滅なのですね。
何日か経って、炊き出しに集まった近所の方のポケットで着信音が鳴り始めました。
おにぎりを握りながら歓声が上がったのは言うまでもありません。
それから一日のうち少しだけ、携帯が使える時間がありました。
おにぎりを握っていると誰かの携帯が鳴る…。
一人、二人、三人…。
『みんないいなぁメールが来て。私には誰からも来ないよ』と寂しがる私。
この頃は皆さんが心配して下さっていたことを知る由もなかったのです。
ただ前にも書いた通り、地震の後に避難したことはジョニ友さんに伝えられたので、
安否確認は大丈夫かなと思っていました。
ちなみに、通信可能時期が早かったのはソフトバンクとauでした。
私のdocomoはホント遅かった。
ある日の夜中、寝ている枕元で念願の着信音が鳴りました。
その時の嬉しさと言ったら…。
まとめてドバっとメールを頂きました。
本当にありがとうございました。
ご心配をお掛けしていたことを初めて知り、更には皆さんの温かい励ましに涙が出ました。
こんな時間に迷惑だろうと思いつつ、いつまた圏外になるかも知れない恐れもあって、
出来る限り返信をし続けました。
皆さんの寄せて下さったお気持ち、本当に励みになり有難かったです。
どうもありがとうございました。
返信を終えて眠って、目覚めた翌朝、またしても携帯は圏外でした。
そんな状態でしたが、いつまた繋がるかもしれないと思うと、携帯は肌身離さず持ち続けました。
これだけが誰かと繋がる唯一の拠り所のように。
ただ、ちょっと気になったことがありました。
私が住む地域の西側、仙台や他県からのコンタクトはあるのに、東側からのコンタクトは一切ありませんでした。
友人知人、親戚のほとんどは東側からあっちです。
不気味な偏りでした。
両親の安否は?親戚の安否は?友達の安否は?
nonさん一家はどうしているのか?
ところで、市の南側半分、線路の向こう側はいったいどうなっているのか、
炊き出しと家の片付けに追われて様子を見に行くことはできませんでした。
というよりも、怖くて見に行けなかったという方が正確かもしれません。
とんでもないことになっているということは分かりました。
こまごまと入って来る情報をかき集めてあれこれ想像をしてみるものの、
どう頑張っても想像できないのですが。
実際には何が起こったのか。
聞こえて来る話のひとつひとつは、言葉にすることさえもためらわれます。
無常で、残酷で、無念で。
ついこの間会ったあの人は、私の思い出に優しい笑顔を残したまま、消えてしまいました。
学校も仕事も、ほとんどの社会生活が麻痺しているためです。
震災後二週間が経ちました。
色んなことに追われてあっという間に一日が終わります。
記憶もおぼろげになってきたので、その後の経緯を続けたいと思います。
一夜明けた震災翌日。
何度も携帯を使って連絡を試みるも何の反応もなく、
圏外の表示にため息をつき、送受信を諦めたのはいつ頃だったでしょうか。
避難した高台から戻り自宅に入ると、前日出たまま落下物が散乱していました。
足場に邪魔なものをどけながら、必要なものをバッグに詰めたり、
あれやこれや動き回っているわけですが、どこかパニック状態なのか、
今思えば家の中をウロウロするばかりだったかと思います。
そしてご近所の方とすぐ近くの集会所に集まり安否を確認し合いました。
余震も津波も心配で、親子3人自宅にいるのはあまりにも不安です。
2日目の夜は集会所で眠ろうということになりました。
その日から数日間、ここでの炊き出し作業に追われることとなります。
両親の安否確認が出来ません。
nonさんとも連絡が取れません。
その他大勢の人がどうなって、どこでどうしているのか、
どうしてこんなに何も分からないのか、いつになったら安否が確認できるのか、
この頃は、全く見通しの立たない状況に呆然としていました。
気仙沼が壊滅、女川町はもうない、塩釜、多賀城、名取…。
次々と飛び込んでくる沿岸部の様子でしたが、
百回聞いてもこの目で見ていないので想像もつかない訳です。
遠くの情報は比較的ラジオ等で知ることとなりましたが、
近場の情報が全くと言っていいほど分かりませんでした。
テレビの津波の映像に驚きの声を上げたのは何日後だったでしょうか。
やがて少しずつ集会所に出入りする人たちから情報が入るようになりました。
また、各地沿岸部の職場から命からがら逃げて生き延びた人達によって。
それぞれの生還は全て奇跡的なものでした。
誰もの口から『たまたま』とか『偶然』とか『運良く』という言葉が出ていました。
良くぞ生きて帰って来たと、ご近所の家族の帰還に抱き合って泣いて喜びました。
また、知り合いの訃報に接し泣き崩れる人には、寄り添って一緒に泣きました。
一週間ほど地区の集会所で日中を過ごしていたので、
そこにいれば水や食糧や様々な情報が入りました。
ところが、本当に大変な所には何も届かないのが現実です。
nonさんのいたところがまさにそうでした。
それにしても、携帯が使えない不便さと言ったら。
何度『圏外』の文字を見てため息をついたことか。
非常時にこそ、その文明の利器の威力を発揮してもらいたいところですが、
想像を絶する災害時には全滅なのですね。
何日か経って、炊き出しに集まった近所の方のポケットで着信音が鳴り始めました。
おにぎりを握りながら歓声が上がったのは言うまでもありません。
それから一日のうち少しだけ、携帯が使える時間がありました。
おにぎりを握っていると誰かの携帯が鳴る…。
一人、二人、三人…。
『みんないいなぁメールが来て。私には誰からも来ないよ』と寂しがる私。
この頃は皆さんが心配して下さっていたことを知る由もなかったのです。
ただ前にも書いた通り、地震の後に避難したことはジョニ友さんに伝えられたので、
安否確認は大丈夫かなと思っていました。
ちなみに、通信可能時期が早かったのはソフトバンクとauでした。
私のdocomoはホント遅かった。
ある日の夜中、寝ている枕元で念願の着信音が鳴りました。
その時の嬉しさと言ったら…。
まとめてドバっとメールを頂きました。
本当にありがとうございました。
ご心配をお掛けしていたことを初めて知り、更には皆さんの温かい励ましに涙が出ました。
こんな時間に迷惑だろうと思いつつ、いつまた圏外になるかも知れない恐れもあって、
出来る限り返信をし続けました。
皆さんの寄せて下さったお気持ち、本当に励みになり有難かったです。
どうもありがとうございました。
返信を終えて眠って、目覚めた翌朝、またしても携帯は圏外でした。
そんな状態でしたが、いつまた繋がるかもしれないと思うと、携帯は肌身離さず持ち続けました。
これだけが誰かと繋がる唯一の拠り所のように。
ただ、ちょっと気になったことがありました。
私が住む地域の西側、仙台や他県からのコンタクトはあるのに、東側からのコンタクトは一切ありませんでした。
友人知人、親戚のほとんどは東側からあっちです。
不気味な偏りでした。
両親の安否は?親戚の安否は?友達の安否は?
nonさん一家はどうしているのか?
ところで、市の南側半分、線路の向こう側はいったいどうなっているのか、
炊き出しと家の片付けに追われて様子を見に行くことはできませんでした。
というよりも、怖くて見に行けなかったという方が正確かもしれません。
とんでもないことになっているということは分かりました。
こまごまと入って来る情報をかき集めてあれこれ想像をしてみるものの、
どう頑張っても想像できないのですが。
実際には何が起こったのか。
聞こえて来る話のひとつひとつは、言葉にすることさえもためらわれます。
無常で、残酷で、無念で。
ついこの間会ったあの人は、私の思い出に優しい笑顔を残したまま、消えてしまいました。
ずっと、記事読んでいます。
もちろん、ニュースでも、いっぱい見聞きした情報ではあるけれど
こうして、体験者自らが書いてる言葉の重みといったら・・・
Reiさんの当時の様子を思い、涙し
Reiさんが教えてくれるまわりの状況に
涙がこぼれます。
どんな思いでいたのか・・・
いるのか・・・
去らなければならなかったのか・・・
幸い被災しなかった私たちは
こうした声から、多くのことを学ばないといけないと思っています。
Reiさん
身体気をつけて・・・
記憶は消える事はないと思います。
日本は地震の国。
地震への対策は考えていたけど
まさか、まさか、
津波がこれほどの脅威だとは!
沿岸部へお住まいの人達も考えもしなかったでしょう。
多くの人たちの命を代償に今、日本は
たくさんの事学んだのですね。
亡くなられた方々のお名前を新聞で見ると
あまりの事に胸が詰まります。
Reiさん、nonさん、お体気を付けて下さいね。
本当にありがとう!
今回の震災では、一人一人に語り尽くせない物語があるのだと思います。
誰もが、それぞれの体験を語り合い、
お互いの様子を報告し合い、慰め合い、癒しあっています。
生きてこその語り合いですね。
お陰様で私は本当に恵まれている方です。
沢山の方のお力をお借りして、この厳しい状況を助け合って乗り越えられたらと思っています。
いつもご心配をお掛けして申し訳ありませんが、
私たちが助けを求められる対象であって頂くためにも、
ももさん他皆さんには、いつも通りの元気で溌剌とした生活を維持して頂きたいと思います!
元気も一緒に貰っていますので、よろしくお願いします。
いつも気遣ってくれてありがとう
nonさんはあの信じられない風景が目に焼き付いているのだと思います。
その違いは大きいです。
身に迫る恐怖を実際に味わったのですから、
忘れたくても忘れられないでしょうね。
本当に恐ろしいことだと思います。
>津波がこれほどの脅威だとは!
ホントにそうですよね。
誰がこんな津波の災害を予想し得たでしょうか。
人間の想像には限界があるのだと痛感します。
自然の猛威には到底敵わないのですね。
>多くの人たちの命を代償に今、日本は
>たくさんの事学んだのですね。
おっしゃる通りですね。
命を無駄にしないように、きちんと学ばなければいけませんね。
優しいお気遣いをありがとうございました。
わたしは気付かず、母からメールで
『大変!外にいるなら早く帰って子供たちと一緒にいなさい!
東北で大地震!車が浮いてる!こっちにも大津波警報!』と知らされたのです
今思えばとっても的確なメールなんだけど、その時は???って感じでした
初めて聞く「大」津波警報に現実味も危機感も感じていませんでした
でも、帰宅して、TVを付けて愕然
大地震、大津波、車が浮いてる…これ、ホントのこと?
現実の映像なのかどうかも理解できなかった
その後、携帯が繋がらなくなり、メールは滞り…
(コチラでも回線はdocomoが回復遅かったです)
電車が止まったり、道が混雑したり…
遠く離れたわたしたちでもこんな風に混乱しましたが、
被災地ではまだその混乱の真っ只中なんですよね…
TVを見て泣くわたしの涙と、Reiさんたちの涙は、意味も重さもは全く違う…
Reiたんはじめnonさん、ご家族の皆様
風邪などひいていませんか?
ここ数日気温も下がり、緊張し続けた2週間が過ぎ
心身ともに どっと、疲れが来ているときだと思います
どうか、お体大切にしてくださいね
記事を読ませていただき、あの時起こった地震がもたらした被害が
どれほどのものだったのか…
あらためて感じています
nonさんが目にして、体験されたこと、
叔父様のとられた写真
るみりんさんのおっしゃるように、私たちがテレビで見る光景よりそれはすさまじく
涙の意味と重さがが違うということ、その通りだと思いました。
この震災で、私は今まで知らないことだらけだったことも恥ずかしく思いました
自分たちの電力はどこから来ているのか、当たり前のようにひねっていた水道の水はどこから?などもそのひとつで・・・
この震災で考えたこと学んだことをずっと忘れちゃいけない
日常の生活に感謝しながら、自分ができることをやっていきたいと思ってます
Reiたんたちに一日でも早く、笑顔と安らぎが戻りますように
本当にどうしても言葉が見つかりません。
今日今住んでいるところで地域の小さなイベントがありお手伝いしたのですが、そこにも募金箱がおいてありました。
小学校低学年の子が小銭をいっぱい入れてくれて、「ありがとう」が涙声になってしまうのを必死でこらえました。外国人の方もお札を入れてくださいました。
何もできなくて申し訳ない気持ちでいっぱいなのですが、今日の女の子のことをお伝えしたくて書きました。
>今思えばとっても的確なメールなんだけど、その時は???って感じでした
ホントですよね。分かります。
あまりに非現実的で、理解しがたい現実です。
>大地震、大津波、車が浮いてる…これ、ホントのこと?
実際に津波の惨状を目撃した人たちさえも、
るみりんさんと同じことを思っているのですから、
遠く離れた人達がそう思うのも無理はありません。
まるで映画かCGのようだったと皆言っています。
自分が見たものが信じられないんですよね。
あの日から生きていた世界が変わってしまった気がします。
でもみんな同じなので前を向いて頑張っていきます。
ありがとうございました。
お陰様でみんな元気に暮らしてます。
私達でさえ、『爆心地』と呼びたいような現場には怖くて立ち入ることができません。
映像や画像で見るのと、リアルにその空間に身を置くのでは、
その体感や実感が異なるのだと思います。
近づいただけで足がすくみ、腰が引けてしまいます。
誰もが当たり前の大切さを思い知ったかもしれませんね。
子供たちも、電気が復旧した日には『電気っていいね』と言ったくらいですから。
そういうことを心から実感して感謝できたとしたら、
この震災で学んだことのひとつになるのでしょうね。
命の大切さだとか、絆だとか、深く考える機会であったことは間違いないようです。
今後とも見守っていて下さい。
ありがとうございました。
ご無事で何よりでした。
私は車で高台に避難したので実際には津波を見ていないのですが、
私の住む市は60%以上が浸水ということで驚きました。
かろうじて難を逃れたというところでしょうか。
YaaaHさんも募金活動に参加して下さったのですね。
ありがとうございました。
小さな女の子のご厚意、外国の滞在者からのご厚意など、
沢山の方の温かいお気持ちに助けられ、支えられているのですね。
本当に有難いことだと感謝の気持ちでいっぱいです。
お知らせ下さってありがとうございました!