猿田日記

レッド・ハッピネスの猿田大先生の日記

長崎原爆の日 何故浦上天主堂は保存されなかったのかの巻

2013-08-09 17:22:30 | 報道/ニュース

長崎市北部に非人道的な原爆が投下されて68年となりますが、広島には原爆ドームが存在していますが、長崎は浦上天主堂の廃墟は取り壊されております。此の取り壊しになった要因の一つが、昭和29年の第五福竜丸のビキニ環礁での米国の水爆実験による被曝に端を発しており、反米・反核の日本国内での高まりを抑える絵図を本格的に実行し始めた結果となっております。昭和28年にアイゼンハワーが核の平和利用を言い出し、昭和30年に突然に米国セントポール市が姉妹都市提携を長崎に言い出し、何故か田川市長が当時では驚くべき1ヶ月にも及ぶ訪米をしており、遡る昭和29年に浦上天主堂再建委員会が発足しましたが、資金不足から、金の調達にカトリック長崎大司教区の山口司教が昭和30年から昭和31年2月迄渡米して資金を集めましたが、資金提供の条件は保存せずに廃墟を消し去る事だったと言われております。上記の流れから田川市長も訪米後は保存から撤去に方向転換をしてしまいまいた。上記の絵図には更なる伏線が存在しており、永井隆著の長崎の鐘の中に在る原爆投下は神の摂理をも利用をしており、永井氏の出版が当時何故GHQにより許されたかも考えれば原爆投下責任を消し去る意図があったとなり、其れが出版に際して日本軍のマニラ虐殺とセットで出版が当時としては異例の初版3万部からも判る事となっております。因みに原爆投下を神の摂理を利用して米国内に於けるキリスト教から批判をかわす狙いもあったと捉えておくのが相当だろうです。そんな訳で昭和30年前後の流れを捉えると様々な事がですが、其れ等の延長線上に現在の原発等も有りで、全体を把握しとかんとあれです。兎にも角にも上記も推論と結果的になりますが、推論ですが現状を見ても決して否定できない流れです。兎にも角にも騙されん事があれかなですとしときますです。

今日も凄まじく暑かったですが、今も風すらなくとなっております。そんな訳で明日は更に気温上昇と言われております。

今日は銀行に行く時間をずらして、夕方に通帳記入等もしとかんといけません。時間的には十分夕方ですが、明るいので、もう少し後でと考えております。

今日は此処まで

次回を待て

P.S.

カメラのキタムラへ行く用事が出来ました。

 

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