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人生の想い出ーその8昭和の想い出・8『ケガとダイヤモンド』その1

2023-06-25 19:40:08 | 人生の想い出
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昭和の想い出ーその8

『ケガとダイヤモンド』その1

 
 

忘れられないケガ

 
幼いころからほんと、ケガばっかりしている子供でした。
 
 
家の前の飯場に遊びに行くと、いつも飯場の人たちから『ボウズまたケガしたのか?』なんていって、からかわれていたそうです。
 
 
手足はもちろんですけど、幼い頃は特に顔にケガをしていたみたいで、その頃の写真はだいたい顔に絆創膏を貼ってます。笑
 
年上の子供たちに交じって遊んでいたから、きっとムリしていたんでしょうね。
 
3回くらい頭から血が出ていたような気がします。笑い泣き
 
 
『自分の容量以上のことをしてケガしていた』と母親に言われました。
 
何歳か忘れましたが家の隣のアパートの塀を飛び越えたら、頭から着地していたこともありました。笑い泣き
 
アパートと言えば、小さいとき家の隣のアパートに住んでいたおじいちゃんに『ウチに来ないか?』と誘われて家に遊びに行ったことがありました。
 
今思うと、危ないですよね~、幾ら隣だからといって何が起こるか分からないですしね。
 
家に上がると、そのおじいちゃんは木の容器に、アラレを入れて持ってきてくれましたが、僕は「毒が入ってるかもしれない」と思って、ほとんど手をつけませんでした。
 
『じゃあ何で行ったんだよ!真顔ってツッコまれそうですが、本当に何で付いていったのかは自分でも不思議です。
 
 
家にいる間は、襲われてきたときの対処法ばかり考えていました。
 
結局、何事もなく開放されたんですが、そのおじいちゃんは子供好きだったらしいです。
 
きっと何か理由があったのかもしれませんね。
 
まぁ、親を悲しませずに済んで良かったです。
 
 
※幼稚園の遠足の写真(どこですかね、ここは)
 
 
小学生時代は、ケガばかりしている毎日でしたが、中学に進学してからはとんとケガをしなくなりました。
 
ところが、ある日忘れることができないケガをしてしまいました。
 
教室で同級生らとふざけて遊んでいたときに、ガラスに両手を突っ込んでしまいました。
 
『危ない!!』と思って手を引っ込めたので大丈夫かと思ったのですが、、、。
間に合わなかったようで、ガラスは割れて両手からボタボタを血がしたたり落ちていました。

すぐに保健室に連れていかれて、ガーゼを巻いて近くの病院に歩いて行ったのですが、血だらけで手に刺さっているガラスが認識できないからと、看護婦さんに両腕を掴まれて勢いよく開いた蛇口の下に両手を押さえつけられ時の痛みは一生忘れられません。
 
本当に痛いときって、声も出ないし涙もでないんですね。

それと同時に、初めて見た自分の指の骨が輝くような白さだったことも脳裏に焼き付いています。



左利きだったからか、左手は中指の付け根と小指一部が切れた程度だったのですが、右手は中指と薬指と小指を切っていて特に薬指は丸ごと切れていて、薄皮一枚でかろうじて肉が付いているような状態でした。

薬指がついているだけでラッキーだったそうです。
後から聞いた話では薬指切断の可能性もあったそうですゲローアベシビックリマークビックリマークドクロ


長い時間をかけて、それぞれの指を縫合していただきました。
 
縫合していただいた右手薬指は、縫い糸だらけでアリが群がっているみたいに見えました。
 
それから歩いて学校に戻るのですが、あの時の風景と気持ちは今でも忘れられません。
 
夏休み直前の天気が良い日で、外ではセミの声が聞こえていました。
 
学校のプールからは、キャッキャと楽しそうな声がしてきて、天気の良いとても穏やかで幸せそうな日常の中で、何で自分だけこんな境遇、こんな気持ちでいるのだろう?と思っていました。
 
 
同じ世界に住んでいるのに、全く違う世界に自分一人だけいるような...(自業自得なんですけどね)
 
 
暫くは後悔ばかりしていたんですけど、人間て強いですよね、忘れっぽいというか( ;∀;)・・・。
 
 
しばらくしたら、抜糸もしていないのに砂場でバク宙して遊んでいる自分がいました。おーっ!
 
んで、いざ抜糸の日が来ました。拍手
 
今はもう溶ける糸とかあるんでしょうけど、当時は抜糸ですよ、抜糸!奥さん抜糸です!!
 
 
 
抜糸って痛いんですよ~、血も出てきますしねキョロキョロ
 
20針くらい縫ってますからね、なかなかでした。
 
で、これでやっと解放されるウインクスターと思っていたら、現実はそんなに甘くありませんでした。
 
薬指だけ曲がらないんです、ずっと伸びたままでガーン
 
薬指の腱が切れていたので、縫合してくれていたらしいのですがキレちゃってたみたいですアセアセ
 
砂場でのバク宙が原因か!? 分かりませんがとにかく薬指は曲がらなくなってしまいました。
 
縫合してもらった病院は救急病院だったので、日赤医療センターを紹介してもらいました。
 
『とても腕の良い医者がいるから』とのことでした。
 
指が曲がらないことは不便でしたが、少しでも指が曲げられるようになれば手術を受けずに済むんじゃないか?そう思って毎日指を曲げる練習をしていました。
 
ある日、父に呼ばれていくと、曲がらなくなった薬指の右手を両手でマッサージしてくれたんですね。
 
手のひらから薬指にかけて、ゆっくりと丁寧に丁寧に。
 
気持ちを篭めてマッサージしてくれているのを感じました。
 
時間にしてどれくらいか覚えていませんが、とにかく長い時間マッサージを“心を篭めて”マッサージしてくれました。
 
心なしか、少しだけ曲げ伸ばしできるようになったような気がしました。
 
 
この時のことが嬉しくて、いつか父に恩返しをしよう そう思いました。
 
 
 
 
この出来事から四半世紀後の2007年9月25日、その年の中秋の名月の日に父は旅立ちました。
 
父が亡くなる数日前に、入院先の病院から危篤の知らせがきました。
 
その日は、下高井戸八幡神社のお祭りの日だったので、姉弟3人とも実家に集まっていたので、母も一緒にみんなで病院に駆け付けました。
 
父はベッドの上で、横になって右手をバタバタとしながら苦しそうにもがいていました。
 
 
“いよいよかもしれない” そう思った僕は、あの日にもらった恩を父に返そうと思いました。
 
バタバタとしていたその右手を、両手で包んで『あの時はありがとう』と、精一杯の感謝の気持ちを父の右手に流しこみました。
 
 
すると、しばらくしてス―っと父の苦しそうな表情が落ちついてきました。
 
 
それから父は、ベッドの上で身体を起こして、僕の目をジーっと見つめてきました。
 
その頃の僕は、父に対して思うところもあったので、父の目線を正面から見ることができずに“感じている”だけでしたが、父の目はくぼみ、ほっそりとやつれている表情は感じていました。
 
そうしている時間はたぶんそれ程長くはなかったのかもしれませんが、僕には長く感じました。
 
 
やがて父は、ゆっくりと横になりました。
 
『状態も落ち着いたので、もう大丈夫です。』
 
看護師さんにそう言われて、僕たちは実家に戻ったのですが、それから数日後に父は旅立ちました。
 
でも、あの時に父からもらったものを父に返すことができたので、心残りなく父を見送ることができて良かったです。
 
 
 
 
話が脱線してしまいましたが、ガラスのケガのその後に戻ります。
 
夏休みに入って、母と二人で日赤医療センターを訪ねました。
 
そこには、その道の第一人者と呼ばれるお医者さんがいました。
 
その年の夏休みと、翌年の夏休みの2回に渡って手術をしてくださった方なので、その先生のことはよく覚えています。
 
 
僕は心の中で、あれだけ父がマッサージしてくれたし、僕も毎日練習して少しだけ曲げられるようになったのだから、手術はしなくても大丈夫なんじゃないか?と思っていました。
 
でも、それを見た奥津先生が発した一言は『やはり曲がらないね』でした。えーん手術決定ビックリマークビックリマーク残念ーっ!!
 
 
 
 
その2につづきます
 
 
 
 
 
 
 
 
 

人生の想い出ーその7昭和の想い出・7『エキゾチックレザーとの出会い』

2023-06-23 19:00:14 | 人生の想い出
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昭和の想い出ーその7

『エキゾチックレザーとの出会い』

 

昭和のテレビ番組

 

テレビ番組っていっても、幼稚園から小学校低学年くらいまではアニメとか、ヒーローもののテレビばっかり見ていました。
 
今、思い出して出てくるのは、僕が生まれた時にはすでに再放送のものもありましたが
・月光仮面
・黄金バット
・パーマン
・マッハGoGoGo
・リボンの騎士
・鉄腕アトム
・火の鳥
・ブラックジャック
・ゲゲゲの鬼太郎
・怪物くん
・サスケ
・妖怪人間ベム
・ひみつのアッコちゃん
・忍風カムイ外伝
・タイガーマスク
・サザエさん
・ハクション大魔王
・ムーミン
・アタックNO.1
・エースをねらえ
・ルパン三世
・海のトリトン
・デビルマン
・科学忍者隊ガッチャマン
・ど根性ガエル
・マジンガーZ
・ウルトラマン
・仮面ライダー
・人造人間キカイダー
・新造人間キャシャーン
・勇者ライディーン
・ゴレンジャー
・バビル2世
・超人バロム・1
・魔法使いサリー
・サイボーグ009
・ベルサイユのばら
・巨人の星
・あしたのジョー
・侍ジャイアンツ
・宇宙戦艦ヤマト
・銀河鉄道999
 
 
ざっと思い出しただけでもすごい数ですね滝汗
 
記憶の片隅に白黒実写版の月光仮面があって、それが一番古い記憶のような気がします。
といっても、実写版は僕が生まれる以前の作品なので再放送を見たのかな?
 
アニメ化もされているみたいですね。
 
『月光仮面のおじさんは~♪』っていう箇所だけは覚えています。ニコ
 
黄金バットは笑い声だけで、ストーリーは覚えていませんうさぎ
 
というか、ほとんど最終話はおろかストーリーを覚えていないものばかりです。
 
 
黄金バット | アニメ動画見放題 | dアニメストア
 
パーマンとサイボーグ009は、ペラッペラの紙みたいな赤いレコードが家にあったので聞いてました。
 
009は最初白黒でした。
 
白土三平さんのサスケとカムイ外伝は好きでした。
サスケは主人公が途中で死んでしまって、その後は兄弟だか従妹だかが主人公になったような気がします。
なかなかに衝撃的でした。
 
『バカ!死んだら何も残らないじゃないか』っていうセリフは覚えています。
 
家にカムイ外伝の他に、“カムイ伝”があったのですが、カムイはあんまり出てこなくて、当時の人々の暮らしとか、大飢饉とかについて書かれている大人の漫画でした。
 
少しお休みしてます】がいろじゅ☘ on Twitter:
 
ゴレンジャーは戦隊もののはしりでした。キレンジャーの好物はカレーでした。笑
 
あしたのジョーは、最初の頃はバンドに挑戦したりとかっていう件があったらしいです。
単行本にも掲載されていないので真意の程は明らかではありませんが、祖母はそのように言っていました。
 
宇宙戦艦ヤマトは、『さらば宇宙戦艦ヤマト』劇場ではラストシーンでシクシク泣いている人が結構いて感動的なラストでした。
しばらくして、宇宙戦艦ヤマト新作の製作発表を聞いた時は、アゴが外れるかと思いました。笑い泣き
 
アトムとか、デビルマンのアニメの最終回は覚えていないのですが、原作の漫画はかなりシリアスで深い内容だったみたいですね、子供向けアニメなので、テレビでは彼らを単なるヒーローとして描いているのですが、実は“人間こそが悪である”みたいな感じみたいです。
 
鉄腕アトムでは、AIなどの科学技術が発展していくことへの警鐘のような側面も持っているみたいです。
 
アトムの結末について解説されているチャンネルがあったので、リンクを貼っておくので、よろしかったらご覧ください。
 
原作の漫画版デビルマンの紹介動画
今度ゆっくり、子供の頃みた漫画とかアニメのお話もしたいですね~。
 
さて、そんな小学生時代の昭和の子供の遊びは、色んなものがありました。
 
缶蹴り、鬼ごっこ、ロクムシ、野球、虫取り、ベーゴマ、メンコ、スーパーカー消しゴム、キンケシ、銀玉鉄砲、水鉄砲、水風船、ゴム飛び、縄跳び....
 
他にもまだまだあると思いますけど、思いつくのはそんなとこです。
 
缶蹴りなんかは、ウチの子供たちもしていなかったんじゃないですかね。まさに昭和の遊びって気がします。
 
 
 

エキゾチックレザーとの出会い

 
そんな缶蹴りとかして遊んでいた、小学校3、4年生くらいの頃ですかね~。
 
夏休みのある日、父が3人の子供たちに向かって言いました。
 
『3人で会社に来てバイトしないか?』
 
『?』
 
僕たちはきょとんとしていましたが、父からしたら自分がどんな仕事をしているのか見せたかったのかも知れません。
 
バイト代をくれるというので、僕たち3人は喜んで父の車に乗って、当時入谷にあった父の会社へ行きました。
 
 
僕は当時、車に乗るとすぐに酔ってしまうので心配していました、車の中の匂いだけで気分が悪くなってしまうので、クルクルと窓を開けてできるだけ遠くを見つめるようにして乗り切りました。
 
まだ、当時の車は手動式だったんですよね、懐かしいです。
 
で、やっと会社に到着した僕たちを待っていたのは巨大な木箱の数々でした。
 
父が開けてくれた木箱から、強烈な臭いがしました。
 
覗き込むと、塩漬けにされた大量のワニ皮が!?びっくり
 
臭いとその数にビックリしました。
 
取り出すと、大量の塩がジャリジャリとついていました。
 
そのワニ皮の枚数を数えることが、3人に与えられた役割でした。
 
当時、僕は小学生でしたが兄は中学生だったんじゃないですかね、姉は中学か高校かってとこですね。
 
で、3人で協力してワニ皮の枚数を数えたのですが、たしか1日では終わらずに2日か3日かかったと思います。
 
 
 
 
あれは、なかなか衝撃的な出会いでしたね~。
 
思えばあれが、エキゾチックレザーとの初めての出会いでした。
 
結局、その後もたまに父の会社に連れて行ってもらうことがあったのですが、バイト代をもらえることはもちろんでしたが、もう一つ嬉しいことがあったのです。
 
それは、お昼ごはんです。
 

想い出のチキンライスと焼きおにぎりと

 
父の会社の近くの中華料理屋さんから出前を取ってくれていたのですが、そのお店のチキンピラフが超絶美味しかったのです。!!ラブラブラブ
 
今まで54年生きてきて、父の会社で食べたチキンライス以上に美味しいチキンライスは食べたことがないですびっくりマーク(きっぱり)
 
兄も同じことを言っていました。
大人になってから香港だか台湾で、美味しいチキンライスを食べたことはあるけど、あのチキンライスは今までで一番美味しかったと。
 
僕は大人になってから、あの時のチキンライスをもう一度食べたい!そう思って記憶を頼りに訪ねてみました。
 
 
おおよその場所は記憶していたので、ここだろうという中華料理屋さんに入店して、チキンライスを頼んでみましたが、全くの別物でした。
 
父にそのことを伝えると、先代の親父さんが亡くなって、その後息子だか誰かがお店を継いだらしいけど味が落ちたらしいな。と言っていました。
 
とても残念なことですが、あのチキンライスを、あと一度で良いから食べてみたいな~...なんて思っています。
 
きっと、皆さんも同じような経験があるんじゃないでしょうか?
 
在りし日の父
 
チキンライスに添えられているスープも又、絶品だったんですよね~にっこり
 
絶品といえば、祖母のばばちゃんが作ってくれた“焼きおにぎり”も絶品でした恋の矢
 
以前、家に遊びにきた高校の後輩も食べたことがあって、その後その後輩はオーストラリアに行ってしまうんですが、10数年後に日本に帰ってきた時に、その後輩が『おばあちゃん元気ですか?』って聞いてきたんですよね。
 
 
『元気だよ、なんで?』って聞いたら、
 
『昔おばあちゃんが作ってくれた焼きおにぎりの味が忘れられなくて』
 
『あんなに美味しい焼きおにぎりは食べたことがなかったので、あれから色んなお店で食べたり、自分で作ったりもしたけど、あの焼きおにぎり以上に美味しい焼きおにぎりに巡り合えていないので』
 
そう言われて、“同じだ~っ”って、とても嬉しかったです。
 
僕も何度か、ばばちゃんの焼きおにぎりを再現しようとしましたが、2度とあの味に出会えてはいません。
 
きっと、あの味噌の焼きおにぎりは、ばばちゃんが作るからこその味だったのでしょう。
 
 
でも、何にせよあの時に幸せな気持ちにさせてくれたことには、感謝しかないです。
 
生きることは食べること
 
そんな風にも言われるほど、食の記憶って鮮明に残るものですが、そんな記憶に埋もれることなく残っている、衝撃的なエキゾチックレザーとの出会いのお話でした。
 
 
最後までお読みいただきありがとうございました。
 
 

あなたにとって、素敵で幸せな日常でありますように願いを篭めて

 
 
 
 

人生の想い出ーその6昭和の想い出・6『君の名は』

2023-06-21 18:17:04 | 人生の想い出
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昭和の想い出ーその6

『君の名は』

在りし日のチコとクロと兄と

※クロと一緒に何を見ているんですかね?好きな写真の一枚です。

 

在りし日のチコとクロと兄と散歩

 

 

チコとクロ、母子が並んでいる姿を見ることができなくなってから、どれくらいの月日が流れたのでしょうか

 

 

※たぶん中学の入学式の日の写真だと思います。

 

チコとクロ

 

中学生になっていた僕は、日常的にしていたケガも、随分としなくなっていました。

 

 

チコが旅立ってから、夜に遠吠えをするクロの姿は切ないものがありました。
 

隣で感じられていた温もりが、ある日突然なくなってしまったのですから切ないですよね。


家で生まれたからかクロは気立てが良くて優しい犬でした。


クロが小さい頃から、チコはケンカの仕方を教えていたりしたのは、もしかしたらクロと長くは一緒に居られないことを感じていたのかもしれません。



息子にケンカの仕方を教えてはいましたが、チコはケンカが弱い犬でした。

猫に返り討ちにあっていたこともあったようでした。笑

 


チコはちょっと気が小さい所があったのですが、クロは真逆でとても大らかな性格をしていました。

 

そしてチコがケンカを教えたとは思えないほどケンカが強い犬でした。

 

自分からケンカを売ったことはないのですが、売られたケンカを買って無敗でした。

 

自分より大きな犬にも敗けたことはありませんでした。

 

在りし日のチコとクロと自転車と



クロはいつも嬉しそうに、顔とかいろんなところをペロペロと舐めてくるのですが、父が水虫の足を舐めさせようとしたときだけは、嫌そうにしていました。

それでもしょうがなく、あきらめたように舐めてあげていました。

何でも、クロに舐めてもらうと1シーズンは水虫の発症を抑えさせられたそうです。

僕も、たまに擦り傷とか舐めてもらっていましたが、自分で舐めるより治りが早かったです。

ケガをして、一番治りが遅いのは“赤チン”を塗ったときで、次が自分で舐めたとき、クロに舐めてもらうのが一番治りが早かったんですよ、ほんとうに。


クロとは一緒に成長しているような気がしていましたし、友達のような感覚。今でもその気持ちは変わっていません。

縁側で横になってテレビを見ていると、クロが縁側に上がってきて僕の足元を枕にして寝ていた光景が僕は好きでした。


チコが旅立ってから、どれくらの時間が流れたのでしょうか・・・。

 

 

君の名は

 

中学何年生のころか覚えていないんですけど、僕の交通事故キッカケで階段をつけてくれた“下高井戸八幡神社”のお祭りの日の出来事です。

 

お祭りから帰ってみると、車庫に見慣れない子犬の姿がありました。

 

『おや?』

 

『君の名は?』

 

※家にきてしばらく経った頃のベス

 

その犬は、とても小さくて生後間もない感じでした。

 

毛がふさふさとしていて、誰かが“サルみたい”って言ってました。

 

何でもお祭りの人通りの中で、家の前をずっとウロウロしていたのだそうです。

 

まだ生まれて数週間程度に見えたその子犬を放置して、人に踏んずけられたり車に轢かれでもしたら可哀想だからと、とりあえず家に保護したのだそうです。

 

家は、八幡神社への通り道になっていたので、お祭りの日はかなりの人が往来するのです。

 

その犬は雌犬だったこともあってか、それか淋しがってたところに来てくれた仲間のような感覚だったのか分かりませんが、クロはとにかく優しく接していました。

 

自分のごはんも、その小さな子犬に分け与えているようでした。

 

※ベスに食べられて空になった自分の鍋を見つめるクロ

 

その名はベス

 

お祭りも終わって暫くして、家族で話し合いました。

 

あんな小さな子犬だし、飼い主だった人はさぞかし心配しているだろうと、近所の人とかに見覚えがないか聞いて回りましたが飼い主は見つからず。

 

『子犬預かってます』と、貼り紙を作って呼びかけもしましたが、飼い主らしき人は一向に現れず・・・。

 

 

『何で首輪していなかったんだろう?』家族の誰かが言いました。

 

そうです、その子犬は首輪をしていなかったんです。

 

どれだけ探しても飼い主が見つからなかったので、“飼い主が見つかるまで家で育てよう”ということになりました。

 

とりあえずでも家で育てるなら、と『ベス』という名前をつけました。

 

結局その後、家に居つくことになるのですが、ある程度時間が経った頃に『似たような犬を探している家がある』という情報が届いて、母親と兄が連れていったのでした。

 

僕は、『もしかしたら、ベスとはもう会えないのか』と少し寂しい気持ちになりましたが、ほどなくして母親と兄がベスを連れて帰ってきました。

 

どうやら犬違いだったようです。

 

 

※同居人(犬)がきて嬉しそうなクロとベス

 

 

ベスはちょっと不思議な犬でした。

 

犬らしくない犬、というのか家の人は“宇宙犬”て言っていました。

 

“自分のこと人間だと思っているんじゃないの?”と父が言っていましたが、よく二本足で立ってました。

 

クロも人懐っこくて愛嬌たっぷりの犬でしたが、ベスは自己アピールもハンパない犬でした。

 

クロがベスに対して甘やかすもんだから、ベスの態度はどんどん増長していきました。

 

といっても、クロだけにですけどね。クロが良いならそれで良いけど...なんて思って見ていましたね。

 

それぞれの鍋に餌を入れると、ベスは先ずクロの鍋から食べ始めるんですね。姉はよく怒っていました。

 

でも、クロとベスは何だかんだ仲良くやっていましたし、クロも嬉しそうだったので良かったのかな??と思います。

 

後から、クロにごはんあげたりして。

 

 

※なぜかよく二本足で立っていたベス

 

 

ベスは人間に媚びるのが上手というか...かわいいと思わないのは、僕の姉くらいだったんじゃないでしょうか。笑

 

家の前を通る小学生たちからは“チョコ”と“クリーム”って呼ばれて可愛がられていたみたいです。

 

ベスは僕が家に帰ると、一度挨拶を済ませると、その後まわりにある何かを口で噛んで持ってくるんですね。

 

いつもはたいてい車庫にある布切れとか、毛布とかを噛んで持ってくるんですけど

 

ある日、僕が帰った時に、僕に寄ってきて挨拶を済ませたあとにベスが後ろを振り向いてキョロキョロとし始めました。

 

その日車庫には何もありませんでした。

 

ベスはしばらく考えています。

 

僕は、どうするんだろう?と様子を窺っていました。

 

 

その瞬間ベスは、“まさか!?” の行動にでます!

 

庭先に行って、自分のフンを口に咥えて持ってきたのです、それも嬉しそうな顔で。

 

さすがに僕も、そのときばかりは逃げるようにして玄関の扉を閉じたのでした。

 

 

 

※あくびをするクロと宇宙犬ベスと兄

 

大切な想い出

 

その後、クロは僕が22歳の時に旅立っていきました。

 

旅立つ前の日の晩に、弱っていたクロに話しかけたときに、力なく『クゥ~ン、クゥ~ン』とないた声が、僕が聴いたクロの最期の声でした。

 

クロとの出会いに感謝していますし、今でも僕にとっての友達のひとりです。

 

ベスは、クロが旅立ってから一人(犬)になるのですが、暫くしてまたもやひょんなことからベスに同居人が現れます。

 

父が会社の近くで信号待ちをしていたところ、見知らぬ犬が付いてきてしまったそうです。

 

詳細は知りませんが、“捨てられた飼い犬”だと判断した父は、家に連れってベスと一緒に育てました。

 

明らかな飼い犬なのに首輪を外されていたとか、少し怯えているようだったとか、そんな理由だったような気がしますが理由は覚えていません。

 

その犬はそこそこの年齢で室内で飼われていたらしく、当初は鳴くこともありませんでした。

 

散歩に連れて行っても、最初は痛々しくアスファルトを歩いていましたが徐々に慣れていきました。

 

その犬はケリーと名付けられました。シープドッグでした。

 

 

最初に飼った犬がチコで、その子供がクロ、そしてお祭りの日に保護してそのまま居ついたベス、父についてきた犬ケリーと、妙な縁で家に住みついた犬は4匹です。

 

血縁はチコとクロだけでしたが、4匹の犬たちには縁あって出会えて良かったです。

 

やがてケリーが旅立ち、最後にベスが旅立って、実家から犬が居なくなりました。

 

 

 

 

この写真から、何となくわかりません?偉そうなベスに従うクロの構図。

 

クロはとにかく、色んな意味で“男らしい犬”で、ベスは“女らしい犬”だったのかもしれません。

 

昭和から始まった4匹の犬たちとの想い出は、平成で幕を閉じました。

 

チコ、クロ、ベス、ケリー、大切な想い出をありがとう!!

 

 

最期までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

あなたにとって、素敵で幸せな日常でありますように願いを篭めて

 

 

 


人生の想い出ーその5昭和の想い出・5『生と死と』

2023-06-16 18:50:07 | 人生の想い出
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昭和の想い出ーその5

『生と死と』

 
なかなかヘビーなタイトルですよね、『生と死と』って。
 
でも、これって本質的なところで日常なんですよね、触れることがないと考えませんけど。
 
 
僕は、幼少の頃は男の子とも遊んでいましたが、女の子ともよく遊んでいました。
 
“きょうこちゃん”ていう子が近くに住んでいて、幼い頃によく遊びに行っていました。
同い年か一つ上の子だったと思うのですが、何をして遊んでいたのかは覚えていないんですけど、なぜかきょうこちゃんのことを思い出すときに、お面が出てくるんですよね。
 
たぶん、一緒にお祭りに行ったりしたのかな~、ウルトラマンのお面のイメージがあります。
 
近所に住んでいた“まり”ちゃんは、同い年ということもあって家も近かったので、親同士も仲良かったように思います。
 
まりちゃんには妹が居て、妹さんのことは“あやちゃん”て呼んでました。
 
家から少し離れたところにまりちゃん家が引っ越ししてからは、顔を見ることもなくなったんですけど、25歳くらいのときに甲州街道であやちゃんにバッタリ会ったときはビックリしましたけど、月日が経っても一目みたら分かるもんなんですね~。
 
懐かしい話とか、お互いの最近の話とかしてお別れしたんですけど、懐かしい人にバッタリ会うのって、なんだか嬉しいものですね。
 
 

 

ガンのおじさん

 
さて、本題に入るんですけど、幼稚園か小学校低学年くらいのときによく遊びにいっていた“ちずこちゃん”の家に行った時の話です。
 
そのときはいつも居た、ちずこちゃんのお母さんは居なかったように記憶してます。
 
僕たちのいた部屋から見える隣の部屋には、初めて見るおじさん(子供からみえるおじさんだったので、まだ3~40代くらいだと思います)
 
その人は、隣の部屋のテーブルの前の椅子に腰掛けていました。
 
何をするでもなく、静かに座っている。そんなイメージでした。
 
すると、僕の耳元でちずこちゃんが囁きました。
 
 
『あの人ガンで、もうすぐ死んじゃうんだって』
 
『!?』
 
 
その頃の僕にとって、すごい衝撃でした。
 
ガンていう言葉は知ってはいましたが、当時はまわりの親戚にもいませんでしたし、ガンと診断される人は今ほど多く居なかったので、とても珍しい病気だと思っていたからです。
 
もうすぐ死ぬだなんて言われて、なんであの人は普通に座っていられるんだろう?
 
静かにその時を待っているように見えたその人が不思議でなりませんでした。
 
 
死と向き合っていたと思われるその人が静かに椅子に座っている姿は、今でも僕の脳裏に焼き付いています。
 
死というものを少しだけ考えた初めての記憶です。
 
その後、海に遊びに行って溺れかけて、死を意識する恐怖体験をすることになるのですが、その話はまた別の機会でさせてもらいます。
 
 
※実家前で、チコと親戚のゆきちゃんと
 

生と死と

 
幼稚園に行くか行かないかくらいの頃に、実家で犬を飼い始めました。
 
『チコ』と名付けたその犬は、柴犬のメスでとても頭の良い犬でした。
 
飴玉をあげると散歩中に、噛まずにずっと舐めていました。
 
たまにポロっと口から落としたら、口ですくってずっと舐めている、そんな犬でした。
 
そんなチコは、『生と死』を初めて僕に教えてくれた師匠なのかもしれません。
 
小学5年生頃のある日、隣の家のトッチとかピーマンと一緒に兄たちが駐車場で野球をやっているときに、僕は実家の二階にいたんですけど、『ニャー、ニャー』と猫の鳴き声のようなものが聞こえてきたんですね。
 
僕は、“もしかして!?”と思って、二階の窓から犬小屋を覗くと、身籠っていたチコが子供を産んだのです。
 
僕は「産まれたよ~」と、子犬が産まれたことを兄たちに知らせて、階段を駆け下りて犬小屋にいきました。
 
産まれたばかりの犬って、猫みたいに“にゃーにゃー”泣くんですね。
 
子犬は4匹生まれていて、めちゃくちゃ可愛かったのを覚えています。
 
4匹もうちで飼えないからと、1匹だけ残して他の3匹とは別れることになりました。
 
近所の野良犬との間にできた子供たちは、黒と茶色が混じったような色をしていました。
 
産まれた子犬4匹の中で、一番不細工で一番黒っぽかった犬をみんなで選んで決めたように思います。
 
とても黒っぽかったので、『クロ』っていう名前にしたんですけど、段々黒くはなくなっていきました。笑
 
 
※家の近所で兄と、チコとクロの散歩
 
 
チコは幼いクロに、色々と教えてあげているようでした。
 
家に帰ると必ずクロが飛び掛かってくるんですけど、後ろからチコが前足でクロが飛び掛かれないように抑えたりしてくれたりすることも度々ありました。
 
そんな母子の時間は長くは続かずに、ある日突然終わりを告げるのでした。
 
 
2~3年後のある日の夕方、車庫の方から「カチャン」という音がしました。
 
 
僕たち家族は、“またか!”と思いました。
 
近所の人が勝手にウチの車庫の扉を開けて、犬を逃がしていたのです。
 
一度や二度のことではなくて頻繁にです。
 
近所の人から見たら、檻の中に入れられて可哀想にと思っていたのかもしれませんが、毎日朝と晩に一日に2回、30分から一時間、兄弟で欠かさずで犬の散歩をしていたので、家族からしたらとても迷惑していました。
 
三人一緒に散歩に連れていくときは、姉と兄がそれぞれ犬の手綱を持って、僕はビニール袋とスコップを持って付いていっていました。
傍からみたら犬の散歩じゃなくて、一人で散歩しているだけの子供ですよね。笑
 
その日も、車庫に行ってみると扉が開いていて、チコとクロはいませんでした。
 
それから、いつものように姉兄3人と母親とで、チコとクロの名前を叫びました。
 
僕はその日、二階の窓から『チコ~!クロ~!』と名前を呼んでいました。
 
5~10分くらい名前を叫んでいると、いつものように遠くの方から家に向かって走ってくるチコとクロの姿が見えました。
 
チコが駐車場の向こうの畑の方から走ってくる姿と同じタイミングで、右側の道路からすごい勢いで走ってくる車の姿がみえました。
 
家の前の道路は車一台分くらいの狭い道路だったんですけど、その車はすごい勢いで走ってきていました。
 
僕は嫌な予感がして、名前を呼ぶのを止めたのですが、チコの勢いは止まりません、車も止まりません。
 
二階から見ていた僕の眼前で、チコと車が接触!!
 
頭を強打して跳ね飛ばされた後に車の前輪に踏みつぶされて後輪が乗り上げました。
 
車の下敷きになっているチコ
 
その車は、一度戻ろうとしてバックして前輪が乗り上げた状態から、途中で諦めたのか逃げるように再び加速して再度チコを踏んで走り去っていきました。
 
 
 
僕は二階からチコの名前を叫びながら階段を駆け下りて、チコの元へ駆け寄りました。
 
チコは口から出血していて、ヒューヒューしていました。
 
動物病院に電話して、すぐに来てもらったかどうか?
 
その後のことは、あまりよく覚えていませんが、頭を強打していて、内臓破裂で即死に近い状態だったと聞いたような気がします。
 
 
 
あの日、チコとクロを逃がした人が車庫の扉を開けていなかったら
 
あのとき、あのタイミングでチコとクロの名前を呼ばなかったら
 
あの車があんなにスピードを出していなかったら
 
色々な思いが頭を巡りました。
 
 
 
次の日の朝、車庫の片隅に毛布を掛けて冷たくなっているチコの姿がありました。
 
僕は、泣いていました。
 
ずっと泣いていた僕を目て父がいいました。
 
『チコがいなくなったことは悲しいことだけれど、チコがいなくなってしまったことを悲しむんじゃなく、チコがいてくれたからこそ楽しい時間を過ごすことができたと思って、その想い出を大切にしていきなさい。その方がチコも嬉しいはずだよ』
 
そう父に言われました。
 
チコは命が生まれる喜びを教えてくれましたし、自分の身を以てその命の儚さをくれました。
 
もう、チコとクロを一緒に散歩に連れていくことができなくなったことは、とても悲しいことでしたが、一緒に居てくれた母親を失ったクロの悲しみを思うと、悲しんでばかりもいられませんでした。
 
それから時折り聞こえるようになったクロの遠吠えは、突然いなくなってしまった母親を想ってのことだったのかもしれません。
 
 
 
 
「生と死」について、その身を以て教えてくれた師匠、チコの写真は殆ど残っていません。
 
短い間でしたがチコとの想い出は僕たちの心の中で生きています。
 

 

流れた時間は戻りませんが、でもだからこそ良いのかもしれません。


 

 

やがてクロの、夜の遠吠えがおさまる出来事が起こるのでした。

 

 

 

 

つづく

 

 

昭和の想い出ーその5『生と死と』でした。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

あなたにとって、素敵で幸せな日常でありますように願いを篭めて

 
 
 
 
その6につづきます
 
 
 

人生の想い出ーその4昭和の想い出・4『空き地での野球と赤い空と』

2023-06-14 18:39:57 | 人生の想い出
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昭和の想い出ーその4

『空き地での野球と赤い空と』

 
子供の頃の想い出は、思い起こしてみるとほんと沢山あって、とにかく空き地が沢山あって色んな昆虫が沢山いました。
 
友達とザリガニ釣りに行ったり、クワガタやカブトムシを取りに行ったこともありましたしね。
 
同年代くらいの子供も沢山いたので、遊び相手にも困りませんでした。
 
僕には、5歳年上の姉と4歳年上の兄がいました。
 
実家の隣の家にも、男の三兄弟がいて、家の前の空き地で野球とかして遊んでいました。
 

あだ名

 
その三兄弟にはあだ名があって、姉と同い年の長男が『ピーマン』、その二つ下の次男が『トッチ』、僕の一つ上の三男が『ドボヨン』ていうあだ名で呼ばれていました。
 
なんで、そんな変なあだ名なのか知りませんが、『ピーマン』だけは、頭がスカスカだから、だったと思います。(ひどいですね~)
 
でも、子供のあだ名なんてそんなもんですよね。
 
 
※家の前の飯場にて(一緒に写っているのが誰だろう?と思ったのですが、もしかしたら、隣にいるのがピーマンで、その後ろのピースしてんのがトッチ、後頭部がドボヨンなのかな?昔過ぎてワカリマセン)
 
 
 
余談ですけど、祖母のばばちゃんは、僕の兄のことを『ボク』って呼んでました。
 
理由は、兄が自分のことをぼくって言ってたからみたいで、祖母から『ボク』って呼ばれるのを嫌がっていた兄は、中学生くらいから自分のことを我輩っていうようになりました。
 
ばばちゃんは、それ以来兄のことを『わがはい』って呼ぶようになりましたとさ。笑
 
家の前の飯場では、良く遊んでいたように思います。
 
近所の子供たちと遊ぶときは、僕が一番年下だったので、よくムリしてましたね。
 
土管から飛び降りたりするのも怖かったけど、頑張って飛んでケガしてました。
 
壁の塀とか、土管から飛び降りて頭から地面に激突して2~3回は頭から出血したのは覚えています。
 
いつもどこかをケガしていました。
 
 
※右手前が僕ですが、JoJo立ちぽくないですか?笑
 

空き地での野球と赤い空と

 

家の前の飯場も、ちんじたちが引っ越ししてからしばらくは空き地だったんですかね、積載用のトラックが出入りしたりしていた時期もありました。
 
その後は砂利が敷かれて業務用のトラックとかの駐車場になりました。
 
昼間はトラックも出払っていたので、そこでよく野球をして遊んでいました。
 
僕は一番年下だったので、オミソでした。
 
僕のときだけ、下手投げとか、それが嫌で悔しかったんですけど、まぜてもらえるだけ有難いもんでした。
 
家の前の道路で、ロクムシとかもしてました。
 
小学校の頃までは、よく一緒に遊んでいました。
 
野球は僕らの子供時代、子供たちが集まって遊ぶ定番の一つと言っても過言じゃないんじゃないですかね。
 
僕はサッカーの方が好きだったんですけど、周りでは誰もやらないのでサッカーはやりませんでしたね、結局。
 
いつものように野球をしていたある日の夕方、物凄い数のトンボの群れが飛んできました。
 
あの時の光景は、とても印象に残っています。
 
空一面が赤とんぼの群れで真っ赤に染まるような勢いだったんですよ。
 
季節は秋頃だったと思うんですけど、秋の空と相まってみた赤とんぼの群れは、それは美しい光景でしたよ。
 
 
 
その日一日ではなかったと思うんですけど、その日は特に異常なほどのトンボの群れが飛んでいたんですよね。
 
今では信じられないような、二度と見ることはないような景色でした。
 
オニヤンマとかも飛んでいたような気がしますが、とにかく赤とんぼの数がハンパじゃなかったです。
 
トンボって、目の前で指をぐるぐるさせると捕まえられるんですよね。
 
その日はもう、捕まえ放題でした。笑
 
すぐに離してあげるんですけどね。
 
とても素敵な季節からのプレゼントでした。

 
いつのまにか、東京でトンボをみかけることがなくなって、どれくらい経つのでしょう
 
 
今よりも不便なことも沢山あったけれど、昭和の時代は、季節を感じられる日常でした。
 
心の豊かさとテクノロジーの進化とは全く違うものなんだなぁ、とか思います。
 
最後までお読みいただきありがとうございました。
 
 
 

あなたにとって、素敵で幸せな日常でありますように願いを篭めて

 
 
 
 
 
 
 
 
 
その5につづく