ユーカリスティア記念協会のブログ

できるところまで、できることから始めちゃうのだ。
歩みは遅いけど、自由です。

出版クラウドファンディング開始

2015年06月29日 21時22分28秒 | new! トピックス
いよいよ本日より、『実存論的神学』増補改訂版の出版資金調達を目標に、クラウドファンディングをスタートさせました。

Readyfor? プロジェクト「野呂芳男著の『実存論的神学』を増補改訂し再出版したい!」

クラウドファンディングといえば、米国でオバマ大統領が選挙資金を集めるために使った資金調達手法として有名ですね。投資家からお金を集めるのではなく、パーティー券購入によるのでもなく、一般市民からの小口の寄付によってネット上で資金を集めたという、あれです。こちらの場合も Yes We Can! と、うまく軌道に乗ってほしいものですが…。

今日から8月18日(火)までの50日間の公開ということになりました。目標金額に到達しなかった場合には、支援金はご支援くださった方々にお返しされるという仕組みも、よいアイディアだなあと思いました。

皆様の温かいご支援をお願い致します。

ラジオ放送原稿「宗教的回心について」

2015年05月06日 12時56分39秒 | アーカイブス
発掘しました。

「昭和59年(1984年)8月12日(日)朝6:30-7:00(NHK第二〈ラジオ放送〉「宗教的回心について」私の放送原稿)」

とあります。
 

手書き、400字原稿用紙25枚。

NHKアーカイブス、ラジオ放送の保存はどうなっているのでしょうか。今後音声の方も見つかるとよいですね。
うーむ、テレビの方も出演があったのではないかと思うのですが…。

学会発表

2015年03月21日 19時45分20秒 | 研究会
3月20日に開催された日本基督教学会関東支部会で研究発表しました。
以下はA4一枚にまとめた要約です。電報のような簡潔さです。発表原稿は約10枚で、←こちらでさえ、「いろいろとはしょっちゃたなあ」と冷や汗かきながら簡潔にまとめてありますから。というわけで、ほとんど「何言ってるのか分からない」でしょうが、一応アップしておきます。(林昌子)

*****
「メソジスト宗教箇条から提起される課題―削除された条項からみえるもの」

1. 「25箇条」の成立概略
 1784年、英国国教会司祭でありメソジスト運動の創始者ジョン・ウェスレーは、すでにアメリカに渡りメソジスト運動を展開していた3人の説教師たちに、新たな「メソジスト監督教会」の設立を許可した。その際に彼は、『祈祷書』とともに、メソジストが守るべき「宗教箇条」を書き送った。その24条(後に1条追加された)からなる宗教箇条は、自らの属する英国国教会の宗教箇条39箇条の変更や削除を施したものであった。
 確かに変更箇所の多くは「読みにくい部分をより分かり易くしただけ」ともいえるが、削除された条項についてはいずれも、それだけでは到底片付けることはできない。それらは「困惑を誘う」「疑問を抱かせる」とユリゴイェンが言うとおりであり、神学上重要な論点が潜んでいることを示唆する。研究者はそれを看過してはならない。

2. 第8条「3信教について」の削除
 削除された条項は15ある。それぞれが神学上の論点として重要であり、さまざまな問題提起がなされ得るが、今回は第8条の削除を取り上げる。すなわち、「3信教、すなわちニケヤ信経、アタナシオ信経、およびいわゆる信徒信経は、全面的に受け入れられ、また信ぜられるべきものである。(後略)」であるが、ここを敢えて削除したウェスレーの意図はどこにあるのかについて検証する。

3. メソジスト宗教箇条の、これまでの扱いについて
 200年あまりの間、「メソジスト宗教箇条25条」は、ウェスレーによる『新約聖書注解』および『標準説教』と合わせてメソジスト教義の礎とされてきた。この間、それらの教義を保持する重要性については幾度となく強調されてきた。25箇条は、アメリカの合同メソジスト教会(UMC)の教義であるだけではない。日本を含めアメリカ以外の国々・地域でもメソジストの最重要教義と定められてきた。メソジストの教義ついては、最近30年間ほどはとりわけ、上記(あるいはそれ以外の要素)のうち「どれを教義とすべきか」という、メソジストとしての正統性を定義することに議論が集中している感がある。しかし、むしろ求められているのは、神学はもちろん、広く学際的な見地から、ウェスレーが削除した条項の意味することは何かについての神学的、解釈学的議論であると私は考える。

礼拝、ふたたび

2014年11月28日 21時53分23秒 | 礼拝&聖餐式
11月24日、やっと礼拝を再開することができました。
場所は、市井の貸会場です。そこに、ポータブル聖餐式用具を持ち込んでの礼拝です。



とはいえ今回は初めての試みですので、参加者は内輪のみで行いました。「ヘブライ人への手紙」6章の聖書の箇所より、キリスト者の完全の教理について若干のお話をさせていただき、本当に感謝です。

いわゆる一般的なキリスト教会からとても遠いところ、街中の、雑踏の中の空間にある礼拝集会。既存の教会では聖餐の恵みにあずかれないとされる立場の友人たちとともに、信仰とは何か、プロテスタントの救いは難しいのか、祈りの自由と、そして形式と、これらについてざっくばらんにお話し合う集会となりました。

聖餐式を礼拝の第一に据える点では保守的な礼拝スタイルですが、出席者各自が万人司祭として参加するというのは再洗礼派プロテスタント的でもあり、中でも出席者各自が自由に発言し合うというスタイルは、ちょっとクェーカーの集会にも通じるのではないかなあと勝手に思いました。これからも私たちらしい、ユーカリスティアらしい集会、救いを求めるのであれば誰もが 神様の恵みに感謝し、キリストを味わうことのできる礼拝集会を開いて行きたいです。(林昌子)

『実存論的神学』第一章より、ほんの少し引用

2014年06月08日 17時55分28秒 | 野呂芳男研究
「ボンフェッファーの言葉をもって表現すれば、近代人であるわれわれは‐‐中略‐‐「成人した世界」、「非宗教的世界」に生きている。すなわち、われわれは、世界を宗教的に理解することを止めた時代に生きている。‐‐中略‐‐人間は世界に対立するものとして立っていて、神はその世界に所属していない。人間の創作的管理に委託された世界という本来のキリスト教使信と、現代人の世界とは適合する点をもっている。だから、このような近代科学により逃避することによって、または、それを黙殺することによって、キリスト教をその現代での頽廃から救おうとするような試みは、愚の骨頂である。むしろ、われわれは近代性を突き抜けて行かなければならない。このことは、単にキリスト教の文化史との折衡に関係するばかりでなく、宣教の場での弁明にも関係してくる。」


ここの、「だから」以降における野呂の主張だが、実はここに至るまでに、われわれの時代におけるキリスト教の可能性について、言い換えると、現代における“護教論”が丁寧に論証されている。それだけに、この部分だけを引用することで余計な誤解を招くかもしれない危険があるかもしれないが、それでもなお、引用への衝動が勝る部分だ。

そして以下もまた、その先を読まないと具体的に何がつまずきとなるのかが分からないと思う。けれどもここ、うまいことおっしゃる、という部分なのでやはり引用しておく。

「躓いて貰いたくないような、キリスト教福音の周辺的な躓きで躓いてしまう人々が多い。ところが、キリスト教の福音には、どうせ躓くのなら、あそこまで行ってほしい、あそこで躓くなら仕方がない、諦めようというような場がある。」(以上、『実存論的神学』72‐73ページ)


あ、それから、先日発掘されたルターのクリスマスブック (The Martin Luther Christmas Book)について、本書第一章、注で取り上げられているよ!実は、わざわざこの『クリスマスブック』から引用しなくても、という箇所ではあるだけに、エドウィン・ルイスから贈られたこの本、本当に嬉しかったのだろうと分かる。(発掘の甲斐があったなあ、ふう。)「職業について発言している、ルターの美しいクリスマスの説教を忘れることができない」(76ページ)ですって。この本もすぐに確認したいのに、埼玉の倉庫にあるのでなかなか閲覧できないのが残念 (;ω;) --(林昌子)

NYタイムズのカール・バルト訃報記事

2014年03月09日 21時54分06秒 | アーカイブス
菅円吉『カール・バルト研究』(昭和43年)に挟んであった、ニューヨーク・タイムズ紙によるバルトの訃報・追悼記事です。

菅先生のご著書発行‐バルトの死去年‐野呂芳男がニューヨーク・タイムズ紙の当記事をこの本に挟んでおいた、という出来事の年代的整合性が、資料整理作業中は頭の中でうまくつながりませんでした。




要するに、野呂は帰国後もニューヨーク・タイムズを購読していたということなのでしょう。学者にとって情報収集は大切な仕事ですが、当時は今とは違ってメディアが限られていた時代です。ツイッターなどで、誰かの訃報が瞬く間に国際的に広まるということがない代わりに、その分、当時は情報のひとつひとつがもっと貴重だったように思います。

このように、野呂が保存していたスクラップなどで、保管スペースの問題上、廃棄せざるを得なかったファイルもあります。美術ポストカードなどのスクラップなどがそれにあたります。それにしてもマメな人だなあと関心もしますが、野呂にとってそういった作業自体、当時ささやかな楽しみのひとつだったのかもしれません。



本書は1968年発行で、バルトの死去年も1968年ですので、この記事もその年に書かれたものと思われます。紙面半ページほどに書かれた記事は、バルトについて簡潔にしかも分かりやすく丁寧に紹介されており、記者の力量がうかがわれます。記事の内容が濃いです。(林昌子)

小田切文庫目録と巻頭言

2014年03月07日 00時18分17秒 | アーカイブス
立教大学新座キャンパスの図書館に、「小田切文庫」という個人寄贈による保存文庫があります。医師であり、キリスト教の良き理解者でもあった小田切信男氏が所蔵していたキリスト教関連の本を、氏の死後、奥方である小田切道子氏から野呂芳男を経由して、立教大学に寄贈されたのです。

この経緯の記述はもちろんありますし、目録の巻頭では野呂芳男が当文庫の意義について述べています。

小田切文庫の存在は、今ではネット上の検索によっても分かります。小田切文庫の本にお世話になっている人々も少なからずいることでしょう。立教大学の図書館では、写真の目録は閲覧可能なようですが(ただし、調べてみたら禁帯出扱い)、特に私立大学図書館は外部からのアクセスが難しいので、これらは手元にあっていい資料です。昭和時代のキリスト教関連の和書7212冊その他が、とにかく一瞥して確認できるという資料の価値は高いといえるでしょう。

さらにたとえば、「野呂芳男は小田切信男氏の本を、『古本屋に売っても二束三文にしかならない』と言いながら全てそれらを古本屋に売った」と事実と違うことを言う人に対しては、それは違いますよと説明申し上げるのにこのような資料があると面倒でなくてよいです。(林昌子)

サイン本&贈り物の本

2014年03月05日 01時16分42秒 | アーカイブス
まずはこちら、ラングドン・ギルキーからのサイン本。ギルキーは基本的にシカゴ大学系の神学者といえますが、京都大学でも教えたことがあります。



表紙カバーがかなり傷んでしまっているけれど挿絵のすばらしいチャーミングな本だなあ、ルターのクリスマスブックが出ていたなんて。かわいい本、と思ったら……この本、野呂の恩師エドウィン・ルイスからのクリスマス・プレゼントでした。なんて素敵なクリスマス・プレゼントでしょう。



なお、本をおさえている画面下方の黒くて丸っこいのは私の膝です(林昌子)

実存論的神学会 プレ研究会開催(更新1版)

2014年02月25日 19時37分43秒 | new! トピックス
まずは以下、ご案内致します。

第2回実存論的神学研究会(プレ学会)

日時:2014年3月13日(木)

   13:00‐14:00 野呂芳男所蔵の神学資料公開
   14:00‐16:00 実存論的神学研究会
   16:30‐18:30 総会
※当日は、時間延長の可能性があります


場所:立教大学池袋キャンパス ロイドホール5階 第一会議室


概 要

【神学関係資料の一部公開】………コーディネーター 岩田成就
【研究会】………司会 吉田幸司
1.学会発足に向けての趣旨説明~実存論的神学会のあり方、および構想について
(1)発題:「神学の立場から」 林昌子
(2)質疑応答・意見交換

2.村田康常「神学の門外漢である一哲学徒が野呂神学を学ぶということ」(第1回実存論的神学研究会における発表)から提起されうる課題を考察する
(1)課題提起人: 林昌子
(2)意見交換

【総会】………司会 佐藤啓介

発起人(2014年2月25日現在)
岩田成就 郷義孝 佐藤啓介 西原廉太 林昌子 松田江美 村田康常 吉田幸司


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「今年2014年、実存論的神学会という新しい学会を開きます。」

世間の皆さまにこのような告知をするまでには、実は有志の仲間たちで様々な議論を行ってきました。その議論の中の大きなひとつとして、新しい学会名をどのようにしようかということがありました。学会名というのは、当たり前ですが「名は体を表す」わけですから。

この学会を立ち上げようと賛同している有志たちが、すでに基本的なコンセプトについて共通の認識を共有していることは確かです。それは、まずは野呂芳男神学の検証を行う、そしてそれを柱として、そこから神学のみならず哲学や歴史学その他の人文科学分野、さらにはそのような垣根を越えて広く学際的な対話を行う、その対話が各々の学問領域の深化に貢献するはずだから、というものです。

神学とは何か、いや、組織神学とは何か。少なくとも野呂およびこの記事の記者である林にとっては、そのような対話を、(狭義の)神学界のみならずそれ以外の分野の方々と話合うこと、それ自体が(広義の)神学の営みです。しかしこのようにいう時点ですでに、そのような態度は他の学域に対する神学の傲慢だと批判され得るかもしれません。

そのような、(想定される)ご批判があるとしたらそれは、何と楽しいことでしょう!そこから新たに建設的な議論が生まれてゆくはずです。

とにかくそのような学会の発足を念頭に、昨年夏にまずは実存論的神学研究会を開催しました。

そして今年、秋の第1回本学会開催に先立ちまして、主に呼びかけ人や発起人等になって下さる方々とともに、この春、第2回研究会兼プレ学会を開くことになりましたのでこの場でお知らせします。

昨秋より野呂芳男所蔵の神学等資料にアクセスが可能になりました。それらの一部公開も同時にその場で行います。当日は、発掘された数千冊の本を持ち寄ることはできませんが、ダンボール箱5~10箱程度の資料を初公開する予定です。

ご興味のある方は、ぜひご参加ください。当日は、ご興味のある方であればどなたでも参加可能です。

なお、会場調整の都合上、参加の際には以下のメールアドレス宛にご連絡下さいますようお願い致します。
readyforema-exisitentialtheol@yahoo.co.jp


3月13日は参加できないけれども、学会参加に興味がある方、賛同してくださる方、呼びかけ人や発起人になってくださる方がいらっしゃいましたら、ぜひ応援のほど宜しくお願い致します。

こちらからも、この先お声がけをさせていただくこともあるかと思いますが、その際には「いいよ」と言って下さればこの上なく嬉しく存じます。

あぶない、あぶない

2014年02月25日 19時27分30秒 | アーカイブス
いよいよ建物解体作業開始まであと2週間という今、資料の保存作業は最終段階に入っています。

ところが、「もうここはチェックした、救える本はないはず」と思っていた物置から、ヘルムート・ゴルヴィツァーの編集したカール・バルト著『教会教義学』が出現して冷や汗。

以前から述べているように、残念ながら遺されたすべての本を救出できるというわけではありません。本の状態や保存できるスペースの限界を兼ね合わせて考慮し、瞬時に優先順位をつけながらこれまで運び出しをしてきたわけです。(当然ミスジャッジもあると思われます。これも実にコワい。)



この本自体は、特にキリスト教系の大学図書館であればどこでも所蔵しているでしょうし、日本語訳にこだわらなければ、ドイツ語・英語版ではまだ比較的手に入りやすいと思います。実際、倉庫には既に英語版は保存されていると思いますし(自分が学生時代に購入した記憶もあり)、ドイツ語版もあったような気がします。だからこちらを見逃していたのでしょうか。

作業中、パラパラっとページをめくって、思わず「うわっ」と言ってしまいました。そこには、野呂芳男筆跡の書き込みが多数見られたからです。そこが、この資料の貴重度を高めているところであったりします。個人的に。



昨日は、その後の仕事に追われて中途半端に切り上げた分、まだこのような本が結構たくさんあるかもしれないと、余計気になってしまいます。

箸より重い物を持ったことがない御嬢さまな私としましては(大嘘)、もっとテキパキと動ける強靭な肉体の持ち主であったらよかったのにと思います。2週間あるとはいえ、時間が取れるのはあと数回でしょう。しかしたぶんこれだけの時間があれば、やり残した感なしに作業を終えられると思います。これまでご協力いただいた岩田さんのお陰様が大きいんです。感謝。(林昌子)