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SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

戦国・江戸時代 武将 甲冑・刀剣・茶道具 博物館・美術館・城・茶室などを巡る拝見記。その他の雑記もあり。

1211 サンリツ服部美術館 箱は語る 茶の湯情報学ことはじめ

2013-01-28 | 探訪
長野県は諏訪にやってきました。

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サンリツ服部美術館

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企画展「箱は語る 茶の湯情報学ことはじめ」
期間:9/25(火)~12月9日(日)
「茶道具を収めた箱には、その道具が辿ってきた歴史が刻まれています。銘の由来や以前の持ち主など、数多くの情報を箱から読み取ることができます。また、箱そのものだけではなく、仕覆や風呂敷からも大切に伝えてきた人々の想いを感じ取ることができますし、中に収められた文書からはより詳しい来歴を追うことができます。」(公式より)

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唐物茄子茶入 銘 紹鴎茄子
大名物。武野紹鴎より弟子の辻玄哉に贈られた茶入。細口茄子とも呼ばれる。
辻玄哉は京の商人で連歌師でもあった人物。また利休の師ともされている。
黒楽茶碗 銘 雁取 長次郎作
利休が七哲の芝山監物にこの茶碗を贈ったところ、お礼に雁が贈られてきたところから銘が付いた。
芝山監物は豊臣秀吉の家臣ですが、伝わった事跡は少なく、所持した茶道具もうほとんど残っていません。しかしながら利休の書状では芝山監物宛のものがもっとも多く残っており、また現存する利休最後の書状は監物宛との事で2人の仲は深かったようです。
大正時代には井上世外(維新の元勲・井上馨)が所持。
所有者が代わる度に箱が作られ、展示ではどんどん大きくなっていく七つの箱がみれました。
白楽茶碗 銘 不二山 本阿弥光悦作
国宝。2点しかない国宝の和物茶碗のひとつ。上部が白く下部が黒い景色を富士山に見立てたことから銘が付いた。また光悦本人が「不二山」と蓋表に書いたとされ、これが作者が箱書き付けした「共箱」の最初とされています。
竹茶杓 北向道陳作
利休の師とされる北向道陳作の茶杓。利休の前の時代の人物だが中節の一般的な竹茶杓で、幕末の茶会に使われた事が解説されていました。

和物茶碗で2つしかない国宝の不二山が観れたのが大きい。冬の富士を思わせるその姿は茶碗の域を超えています。
雁取も、利休七哲マイナー三将wのひとり芝山監物の数少ない所持品を観れて良かったです。

1211 香雪美術館 「寛永文化の茶人たち」

2013-01-23 | 探訪
今回は神戸です。

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香雪美術館

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秋季企画展「寛永文化の茶人たち」
期間:11月10日(土)~12月16日(日)
「寛永文化とは、桃山と元禄に挟まれた寛永年間(1624-45)を中心としたおよそ80年間前後の江戸時代初期の文化を指します。(中略)本展では、遠州をはじめ、臨済宗大徳寺の禅僧江月宗玩、沢庵宗彭、その帰依者でもあった松花堂昭乗や近衛信尋らの由縁の茶道具や書画より、江戸・寛永の時代に育まれた文化人達の風雅な交流をご紹介します。」(公式より)

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茶杓 銘 茶瓢 村田珠光作
まだ形が定まらない最初期の竹茶杓。撓めがなく掬いにくそう。
瀬戸 白天目茶碗
4碗が現存する白天目の内の一つ。覆輪は銀色だが他の白天目では金のものも存在する。
武野紹鴎が所持し、後に豊臣秀吉から細川三斎へと伝わった。
茶杓 銘 夢 津田宗及作
大らかな姿の茶杓。津田宗及の息子で僧となった江月宗玩が「夢」と銘をつけた。父の作った茶杓にいかなる夢を見たのだろうか。
籠花入 銘 桂川
利休が桂川で漁をしていた者の魚籠に眼を留め掛花入としたことから銘がついた。
利休らしい侘びた風情をもつこの花入だが少々血生臭いエピソードも伝わっている。
赤穂浪士の討ち入り事件の時、吉良上野介の首を奪還される事を危惧した浪士は風呂敷になんとこの花入を包み生首の代わりにして主君・浅野内匠頭の菩提寺である泉岳寺に向かったとされます。
魚籠を花入とした利休も、まさか生首のかわりのなるとは流石に思わなかった事でしょう。
瀬戸肩衝茶入 銘 堪忍
その丸々とした姿から堪忍袋を連想した伊達政宗が銘を付けたとされる。以降仙台伊達家に伝来した。
「堪忍袋の緒が切れる」なんて言いますが政宗らしい物騒なネーミングですなぁ。
黒楽茶碗 銘 黒光悦 本阿弥光悦作
千宗旦が光悦に茶碗を所望したところ、どちらか好きなほうをと2碗を提示された。ところが宗旦は2碗とも頂戴してしまった。黒光悦はそのひとつで、もうひとつは「鉄壁」(関東大震災で焼失)。タイプの異なる光悦の茶碗、きっと宗旦でなくても両方欲しくなるだろう。
二重切花入 銘 のんかう 千宗旦作
楽家三代の道入は通称を「のんこう」と呼ばれるが、その由来がこの竹花入の銘だそう。
宗旦と道入が伊勢参りの帰りにのんこ茶屋の近くで良竹を見つけ、宗旦が花入を作り道入に贈った。道入はそれを大変気に入り日々花を入て客を迎えたところ、いつしか人々はのんこうと呼ぶようになったそうだ。

訪れる前は寛永時代との事で少々対象の時代と違うしどうだろう?と思っていましたが、これが中々興味深い。
寛永時代の茶人達は前時代の茶人達に負けない工夫をし豊かな茶湯を行なっていると感じました。

1211 福山城博物館 特別展「福山城展」

2013-01-21 | 探訪
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福山城
この日はものすごく天気が悪いドンヨリした日でした。

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福山城築城390年記念秋季特別展「福山城展-城郭と城下町-」
期間:10月6日(土)~11月25日(日)

水野勝成所用 革包茶糸威二枚胴具足
熊毛を植えた唐冠形兜に獅噛の前立。胴には弾痕らしきものがある。
水野勝成は信長・秀吉・家康以下数多くの大名に仕えた。出奔→放浪→仕官をくり返し、その間数々の武勇伝を残した。1619年福山10万石の藩主となり1622年福山城を完成させる。1638年の島原の乱では70歳を越える老齢ながら出陣している。
水野勝俊所用 紺糸威二枚胴具足
一の谷兜に獅噛の前立。吹返や胸板には家紋の沢瀉紋を表す。
水野勝俊は勝成で二代福山藩主。

1211 秀吉の黄金茶湯

2013-01-19 | 探訪
前回紹介した北野天満宮は豊臣秀吉縁の場所である

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1587年に行なわれた北野大茶湯がそれ。
宝物殿にも大茶湯の開催をふれた高札などの資料が展示されていましたが、利休・今井宗久・津田宗及など1000人以上が参加した大茶会であり秀吉もご自慢の黄金茶室を持ち込んだそうです。

現在でも秀吉の黄金茶室を復元したものが全国の何ヶ所かで観ることができます。
しかし復元は復元。元の物ではありません。
そんな秀吉の黄金茶室を窺い知る手がかりとなりそうな茶碗が現在に伝わっています。

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醍醐寺
1598年ここで秀吉が醍醐の花見を行いました。

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三宝院 唐門
国宝。全体を黒漆塗とし中央二枚の扉に桐紋・外側二枚に菊紋を金箔押とするが、これは経年劣化して剥落していたものを近年に修復したもの。

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霊宝館(宝物館)
秋期特別展「醍醐寺の至宝」

金天目(黄金天目茶碗)
秀吉愛用と伝わる。病気になった秀吉の回復を祈願した醍醐寺第80代座主・義演に与えられた。
胎の部分は木製で、それに純金の薄板を内外に貼ったもの。金無垢では無いのはケチった訳では勿論なく実用性を考慮した結果だと思われます。

その他では豊臣秀吉や義演准后の肖像画や醍醐の花見で秀吉や武将・女房衆が詠んだ和歌を書き残した「醍醐花見短籍」等秀吉に関係する資料の展示がありました。

1211 源氏の宝刀

2013-01-18 | 探訪
秋の京都

清和源氏二代・源満仲は二振の刀を作らせた。一つは髭切。もう一つは膝丸。二振の太刀は兄弟刀として作られたがいつしか離れ離れとなり、また所持者が替わる都度に名を変えていきました。

・髭切→鬼切→獅子の子→友切→髭切
・膝丸→蜘蛛切→吠丸→薄緑

今回はそんな二振の源氏重代の太刀を拝見しに秋の京都へ。

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大覚寺
嵯峨にある真言宗大覚寺派の本山。

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秋の特別名宝展「大覚寺と源平時代Ⅱ」

太刀 薄緑
「 忠」との銘が彫られているが詳細は不明との事。
源満仲以降は頼光や義家・為義が所持した。その後に源義経に渡り平家討伐の戦いに使用された。

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北野天満宮
菅原道真をお祀りする、通称「天神さん」。

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非公開文化財特別公開

太刀 銘 國綱(鬼切)
「國綱」の銘が彫られているが元は「安綱」であったらしい。
源満仲以降は頼光や為義・義朝そして源頼朝が所持。鎌倉幕府滅亡後には新田義貞に渡り以降は斯波氏・最上氏へと伝来した。


太刀の伝来には様々な説があるようで、どれが真実なのか不明ですがこうして現存している事に価値があるのではないでしょうか。

1211 茶道資料館 -茶会記にみる茶道具― 姫路藩主 酒井宗雅の茶と交遊

2013-01-16 | 探訪
11月編に突入
京都です

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茶道資料館

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秋季特別展「-茶会記にみる茶道具― 姫路藩主 酒井宗雅の茶と交遊」
期間:9月29日(土)~11月25日(日)
「江戸時代中期の大名茶人・酒井宗雅は36年の短い人生の中で、茶会記『逾好日記』と日次記『玄武日記』を残しています。これらの記録を紐解いてみると、流派にこだわる事なく茶会を楽しみ、茶入の熟覧に心躍らせ、茶道具を手造りする、等身大の宗雅の姿がいきいきと記されています。この度の展覧会では、茶会記・日記に記された茶会、茶道具、茶の湯を通した交遊等をご紹介いたします。」(公式より)

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夢・蝶図 酒井宗雅筆・抱一画
荘子の「胡蝶の夢」の逸話より、酒井宗雅が「夢」の文字を酒井抱一が蝶を描く。
酒井抱一は姫路藩主・酒井忠以(宗雅)の実弟。琳派の絵師として名を成した。
唐物肩衝茶入 銘富士山
黒釉の「へ」の字の景色を富士山に見立てた事からの命銘。小堀遠州が所持し後に松平不昧に渡った。
茶会記『逾好日記』の天明七年(1787年)三月十八日不昧の茶室に招かれた際、酒井宗雅が願って最後に拝見している。
古備前茶入 銘さび助 
その寂びた姿から古田織部が命銘したとされます。松花堂昭乗が所持し住職を務めた滝本坊に伝来していたが、他の茶道具と共に散逸の危機にあった事から酒井宗雅が買い戻し滝本坊に寄贈した。
その後滝本坊よりお礼として贈られ、宗雅の没後に松平不昧に譲られた。
古銅蟹蓋置
足利義政が庭の景物として十三個作らせたものの一つと伝わる。蓋置とする為に足の部分が切断されている。
武野紹鴎、松花堂昭乗、遠州が所持した。小堀家七代の宗友から酒井宗雅に贈られた。

最後にもうひとつ展示品で気になったものが有る。それは酒井宗雅と松平不昧の往復書簡である。
宗雅は茶人の先達として不昧を尊敬していたようで、様々な茶湯に関する質問を書状にして不昧に送っている。不昧はそれに赤字で解答して返していた。2人は茶人である前に大名であり参勤交代などで直接会う事が自由に出来なかった事からこのような方法とった様だが、宗雅の熱心さ非常に伝わってきた。

宗雅は36歳の若さで亡くなっている。茶湯に対する異常なまでの探究心は、その事を悟っていたからだろうか。

1210 出雲行4 松平不昧編

2013-01-14 | 探訪
ここ雲州でもっとも有名な茶人と言えば第七代松江藩主・松平治郷こと松平不昧ではないでしょうか。


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出雲文化伝承館
出雲市にあります。

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秋の特別展「不昧公の大名茶展」
期間:10月20日(土)~11月25日(日)
「不昧は生涯にわたり天下の茶道名物である「雲州名物」を蒐集し、今日でも高い評価を得ています。また、江戸や国元出雲で職人を指導して、多種類のお好み道具をつくりました。このたびは、不昧遺愛の雲州名物やお好み道具を展示して大名茶人不昧の美意識の一端を紹介します」(公式より)

妙一字 千利休筆
「妙」の一字と花押だけの手跡。利休の書状ではないこの手のものは珍しいとされる。孫の千宗旦が利休直筆と認めた極書と共に表装されている。雲州松平家伝来
青磁中蕪花入 銘 夕端山
中ほどが膨らみ上下が朝顔状に開いた中蕪(尊形)の花生。利休所持の伝承をもつ。
種村肩衝茶入
大名物。銘の由来は近江の武将種村刑部少輔から。織田信長の重臣佐久間信盛の子で茶人であった佐久間不干斎や木下利房(兄は歌人・茶人の木下長嘯子)が所持。その後には絵師の狩野探幽が所持していたが、火災でこの茶入が焼失したと思っていたところ京都で発見され江戸の探幽へ返還された事から「都帰り」の別名もある。
雲鶴狂言袴茶碗 銘 疋田筒
大名物で天下三筒の一つとされる。京都の商人であの初花肩衝を所持していた疋田宗観が所持していた事から銘が付いた。
瀬戸金華山芋の子茶入 銘 京童
その形が里芋に似ている事から芋の子と呼ばれる茶入のひとつ。姫路藩主で茶人であった酒井宗雅が所持。宗雅の没後に師である不昧に贈られた。

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明々庵
不昧好みの茶室

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田部美術館
江戸時代は武家町であった塩見縄手にあります。
不昧筆の「野生」横一行や不昧銘の高取肩衝茶入銘秋野等、不昧縁の茶道具の展示がありました。

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月照寺
松江藩主松平家の菩堤寺

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宝物殿
藩主縁の遺品を展示。

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初代 松平直政 墓所

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七代 松平不昧 墓所

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出雲行はこれにて終了です

1210 出雲行3 松江編

2013-01-11 | 探訪
出雲方面から松江へ

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松江城
1611年堀尾氏により築城された。現存する12天守のひとつ。
個人的には11番目の現存天守登城です。

松江城内の展示品をいくつか紹介。

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松平直政所用 金箔押貝型前立
出雲松江藩初代・松平直政の兜に付けられた前立。

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真田幸村所用 軍扇
金地に松と日の丸が描かれている。
「大坂の陣と越前勢」展で紹介した逸話「冬の陣で奮戦する松平直政に幸村が投げ与えた」その軍扇です。この旅で興奮したところの一つ。

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松江神社
城山にある松平直政・堀尾吉晴・松平治郷(不昧)・徳川家康の4人を御祭神とする神社。

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興雲閣
松江神社の隣にある木造洋風建築。1903年明治天皇行幸の際の御宿所として建てられたが行幸は実現しなかった。1907年皇太子(後の大正天皇)の御宿泊所として利用された。

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松江歴史館
松江城の東隣にあります。松江の歴史を紹介する施設。
訪れた時には
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特別展「雲州松平家の 大名行列―お殿様の道中と街道―」
が行なわれていました。
歴史館の展示をいくつか紹介

小太刀 額銘 長光
父である結城秀康から子の松平直政に伝わった小太刀。
太刀 銘 包平
1663年霊元天皇の即位に際して将軍名代として参内した松平直政に下賜された太刀。

福井の「大坂の陣と越前勢」展では兄(忠直・忠昌)の陰に隠れていた印象の松平直政ですが、ここ松江では別格の存在感。さすが雲州松平家初代であります。
次は雲州松平家7代目を紹介。

BOWIE 10年ぶりの新作

2013-01-09 | 音楽
いやービックリしました。このニュース。



デヴィッド・ボウイの誕生日である1月8日に発表されたニュー・アルバム「The Next Day」の3月発売と先行シングル「Where Are We Now?」の当日発売はまさに驚愕の出来事。
なんせ前作「Reality」のリリースが2003年と、実に10年ぶりなのです。
2004年のツアー中に入院し手術を行い。それ以降は特に目立った活動もなく、ボウイに近しい人物からも「隠居」「引退」なんて言葉がとび出し、去年のロンドン・オリンピックにも登場しなかったのに。

本人はマイペースに新作の作業をトニー・ヴィスコンティと行なってたんでしょうね。いやはやボウイらしいっちゃ、らしいです。

先行の「Where Are We Now?」をPVで視聴しましたが、ボウイらしさ満載の出来。
アルバムはボーナス・トラック含め17曲。ああボウイの新曲がこんなに聴けるなんて幸せだ。

1210 出雲行2  島根県立古代出雲歴史博物館 「戦国大名尼子氏の興亡」

2013-01-07 | 探訪
出雲大社の近く

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島根県立古代出雲歴史博物館

やたら人が多いと思ったら「神話博しまね」なるイベントをやってる為だったらしい。

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企画展「戦国大名 尼子氏の興亡」
期間:10月26日(金)〜12月24日(月)
「出雲の人々の心に深く印象づけられた戦国大名尼子氏の勃興から滅亡、そしてその後について展観します。今日まで廃れることなく続く尼子人気の理由はなぜか。経久の武具、経久や晴久の肖像や古文書、尼子氏と関係が深かった神社・寺院の宝物、山中鹿介の兜や絶筆書状などが一堂に集まります。 」(公式より)

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尼子経久 肖像画
洞光寺蔵。黒の束帯姿で描かれている。別人説あり。
尼子経久は月山富田城主。出雲守護代であったが主家の京極氏を凌駕し中国地方11ヶ国に影響力をもった。
尼子経久所用 色々威腹巻
三十二間筋兜に大きな梶の葉の前立。胴は紫・白・紅色の色々威となっている。尼子経久が佐太神社に奉納したと伝わる。
大内義隆 肖像画
義隆が陶隆房(晴賢)に謀反され自害した終焉の地・大寧寺に伝わる。
大内義隆は尼子経久と中国地方で激しく争った大名。経久死後の1542年月山富田城戦で大内方が大敗。これが大内氏滅亡の一因とされる。
毛利元就 肖像画
元就の寿像。尼子氏をを滅ぼした1566年に鰐淵寺の和多坊栄芸に贈られたと伝わる。
尼子義久 木像
大名としての尼子氏最後の当主義久の木像。義久は毛利の軍門に降り、最初は幽閉されていたが後に客分となる。子孫は毛利氏の家臣となった。
山中幸盛所用 鉄錆十二間筋兜
三日月の前立が特徴的な山中鹿介こと幸盛の兜。
尼子家の御家再興の為に奮闘した幸盛が最後の戦いまで着用していた兜。
鹿介を捕虜にした後に殺害した岩国吉川家に伝来した。

中国地方を席巻した尼子氏。それに対抗した大内・毛利両氏をバランスよく紹介する展示でした。
今年(2012年)は中国地方の戦国大名に関する展示会が多かったですが、その最後を飾るに相応しいものでした。