牧野哲夫 Makino Tetsuoの履歴~明日6/14(日)で没後14年
牧野哲夫 まきの てつお
大正12年3月18日生まれ。
旧制米沢高専電気工学卒業(現、山形大学 工学部)
戦時、22才の若さで中島飛行機にて航空機(飛燕)の設計に従事する。
戦後、故郷の北海道に戻り日本電信電話公社北海道電気通信局に勤務。
日本電信電話公社本社資材部調査役、函館市電報電話局長、
札幌北電報電話局長などを歴任後、社団法人電信電話工事協会
北海道支部事務局長の職務を最後に現役を引退。
平成6年(1994年)11月3日、皇居にて勲四等瑞宝章受勲*。
その後、札幌市西区の北八軒中央町内会の副会長、会長を歴任、
八軒中央連合町内会の副会長などを含めて町内会の活動を十数年勤める。
平成18年(2006年)6月14日没。享年83才。
平成18年(2006年)6月14日、従五位叙勲。
*平成6年11月3日に皇居で受勲式典に出席した父と母を祝福・慰労するために兄が用意した下北沢の老舗居酒屋二階を貸切り、兄の家族とともに祝賀会を開催した。
帰る時、階段を降りたら一階片隅にハードロックバンドのラウドネスが全員揃って飲んでいて、兄から紹介されたのでご挨拶したが意外に地味でおとなしく静かなラウドネスのメンバーの普段の姿が印象的だった。そのとき一緒にいた兄の娘(5才)は世界的にも有名なラウドネスのことを知ってか知らずか緊張のあまり下を向いて固まっていたのでラウドネスのメンバーの笑みを誘った。
「中島飛行機 三鷹研究所で飛行機の設計をしていた父(牧野哲夫)」
平成18年6月14日に83才の生涯を終えた父、牧野哲夫の思い出を記録。
大正12年3月18日生まれの父は中島飛行機三鷹研究所で航空機の設計をしていた。当時の住まいは中野。東京大空襲で財産のすべてが焼けたそうです。だから当時の写真など記念になるものはまったく残っていないと生前語っていました。
戦後は民間会社に勤めた後、かつての先輩から声を掛けられて電電公社に勤めたのは技術者が圧倒的に不足していたんでしょう。父は旧制米沢高専(いまの山形大学)で電気工学を学んでいたので電電公社に勤めて水を得た魚のように電気通信事業の任務に没頭したそうです。電気通信技術者として幸せな生涯を送ったと思います。
そういえば私の高校進学の時に電気工学専攻を勧めていたのを思い出しました。相模原市立工業高校に合格確実ということで父は喜んでいた。けれども私が男子校は嫌だということと工学系に対する興味関心が当時はまだなかったので断ったら父はかなり落胆していた。後々、息子を電電公社に入社させたかったのでしょう。私が芸術系の高校進学の道を選んだので面白くなかったようで母に不満を言っていた。当時インターネットがあったら電気通信工学にも興味を持ったと思うけれど大組織の電電公社は私には不向きだったでしょう。
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