居間にあるこの絵の空と雲の色が数十年ずっと気になっていた。日本海軍出身でシベリア抑留から復員後に国鉄に勤務していた方が描いた絵。親の縁でうちの居間に飾ってある。私も1年後に70才を迎える歳になってこの絵の背景にある人生にようやく気づいた。
もう一点飾ってある居間の絵の空と雲の色と見比べて尚更はっきりわかる。 冒頭の絵に敬意を表して一曲作りたいが簡単ではない。出来るかな。。。チャレンジ。作曲出来たら…冒頭の絵を横に置いてギター弾き語りで公開したい。
居間にあるこの絵の空と雲の色が数十年ずっと気になっていた。日本海軍出身でシベリア抑留から復員後に国鉄に勤務していた方が描いた絵。親の縁でうちの居間に飾ってある。私も1年後に70才を迎える歳になってこの絵の背景にある人生にようやく気づいた。
もう一点飾ってある居間の絵の空と雲の色と見比べて尚更はっきりわかる。 冒頭の絵に敬意を表して一曲作りたいが簡単ではない。出来るかな。。。チャレンジ。作曲出来たら…冒頭の絵を横に置いてギター弾き語りで公開したい。
本日、6/14(日)父の14年目の命日を迎えて飛燕設計の謎を改めて振り返る。
父 ( 牧野哲夫1923.3.18 - 2006.6.14 )は飛行機の設計をしていたと私が幼児のときにその絵を描いて教えてくれた。
その飛行機の名前は「 飛燕 ( ひえん ) 」。父が描いた流線型のデザインとともに鮮明な記憶が今も蘇る
戦時末期、父は中島飛行機(後の富士重工)の三鷹製作所で航空機の設計業務に携わっていた。住まいは中野で三鷹まで通勤していたと。
だが私がインターネットで検索して調べたところ、当時「飛燕」を生産していたのは川崎航空機という記録がある。中島飛行機の記録には「飛燕」の名前はないが父が感違いする筈はないので中島飛行機も飛燕の改良設計製作に関わっていたのでは?
基本設計生産は川崎航空機だが戦争末期には中島飛行機も改良設計製作に協力したのではないかというのが私の推測。中島飛行機は1945年4月に国営化されている。
三菱が設計した零戦の全体の約2/3を中島飛行機が生産しているという記録もあるので事実上国営化された中島飛行機が終戦間際に飛燕の改良設計製作に関わっていた可能性がある。父( 牧野哲夫 1923.3.18 - 2006.6.14)は1945年4月当時22才なので設計陣の一員として製作現場で飛燕の図面を引いて改良設計監理をしていた可能性は高い。私が幼児のときに父が描いてくれた飛燕のデザインはとても精巧だった。
飛燕に関する父が遺した資料や遺品はない。父が当時住んでいた中野の家は東京大空襲で何もかもすべて焼けてしまったからだ。それでも父が生き残ったのは奇跡に近い。昭和58年頃に父の希望で戦時中に父が住んでいた中野と勤務先の三鷹を訪ねたときに感慨深い面持ちだった父の表情を今も忘れない。
生前もっと詳しく聞いておけば良かったと今は思う。まだ二十代だった私の関心は残念ながら浅かった。この件は今後も機会を見て調べて記録に残したい。