目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

Princeville91- 祈り

2009-12-16 03:23:18 | その他
Princeville, Hawaii 1991


質問: 私の質問は「主の祈り」に関してです。 この言葉の本来の意味を教えてください。各フレーズを逐一解説して頂けませんか。 サンキュー。


RAJ: まず第一に貴方は次の事を理解する必要があります。 祈りは分離感覚に基づいた「ものの見方/考え方」から発せられている時しか意味を持っていません。

そして祈りとは何時でも、合一でない(神と一つになっていない)体験をしている時に、合一体験(Unity)へ戻ろうとする無意識な望みのことです。

Our Father who art in Heaven:  
天にまします我らが父よ。

こう言って、貴方は現在の自分の状況認識内から飛び出ようとするのです。
こう言って、貴方は現在の自分の現実感覚以上のものが存在する事を認めているのです。
こうして、私が好奇心と呼んでいるものが始まるのです。

貴方は、自分の現在の体験を超える「何か」に対して興味が出るまで、何らかの選択に対して無意識なまま存在し続け、自分が体験している「何らかの事」を耐え忍び、それを運命と呼ぶのです。

天に(つまり、よりリアルなところです。よりハッピーなところ、貴方が今体験している所とは違うところ、に)いる我らが父よ。

主の祈りの一番初めのフレーズは、コース(ACIM)の第一レッスン「私が見ているものには、何も意味がない。」"Nothing that I see means anything."  と同等のものです。

Hallowed be Thy Name.
貴方の名前が称えられますように。


これは尊重の表現です。 「祈りを捧げている者」が、自分が「触れようとしているもの」の神聖を認めているのです。

「私は自分が祈りを捧げている対象を知りません。 しかし、私は貴方を尊重し、私が貴方を恐れる必要がないことを認めます。」 と言っているのです。

Thy Kingdom come.
貴方の御国が来ます。


「私は貴方の視点を体験したいと望みます。 私はそれがどの様なものか知りませんが、私はもはや現在の存在感覚に囚われ切っては居ないので、貴方の視点を体験したいと望みます。 私は何かが貫かれる事を許可します。 貴方であるに違いない光が、私が体験している様に見える暗闇を貫通する事を望みます。」

Thy Will be done.
貴方の意志が成されます。


オリジナルはこうでしたが、現在では「私の意志ではなく、貴方の意志がなされます。」”Thy Will be done, not mine.”です。

"Science and Health,"(クリスチャン・サイエンスの本)というもう一つのチャネル文献(一般的にチャネルされたものとは考えられていませんが)では、この行には「天国と同じく、地球でも神(善)が最上のものだと我々に解る様にして下さい。」と言う解釈が与えられています。

「貴方の意志が成されます。」とはパーソナルな「もくろみ」を放棄する事、自己主張の放棄、傲岸さの放棄、自己の最上の判断に依存する事を放棄する事です。

こうしてパーソナルでプライベートな自己意識に歪められていない、意識的なリアリティ体験を呼び込むのです。

こうして、神の主権が「神の神聖な意識(祈り手の神聖なるマインド)」で「祈っている個人」を満たす事、を呼び入れるのです。


"Our Father who art in Heaven: Hallowed be thy name. Thy Kingdom come. Thy Will be done."
天にまします我らが父よ。 貴方の名前が称えられます。 貴方の御国が来ます。 貴方の意志が成されます。

この言葉が実行されれば、祈り手は居なくなり、これ以降の祈りは言われません。

私がこの祈りを初めて分け与えた時、この祈りをここで終わらせられる準備が整っている人は居ませんでした。 これが最終的な終わりの部分であると理解できる人も居ませんでした。

今私が貴方と共にいる様に、(完全に適切なあり方で)私は彼らと共にいました。

祈りのこの初めの部分は、求めるべきもの、それが求められるべき態度、(その時可能な限り)喜んで受け取る態度で臨むべきこと、を示しているのです。

しかし「神の真の性質」に対する無知ゆえに、絶対的な観点ではなく相対的な(人間的な)観点からの祈りを、付け加える必要があったので。

何故なら、神が嫉妬深いもの、神が愛と憎しみの両方を持ち、神が天災や病や飢餓や貧困をもたらすものだと、考えられていたからです。

だから人々には、神の新しい概念を表す新しい言葉が必要だったのです。 神をよりリアルに示す新しい概念が必要とされていたのです。

Give us this day our daily bread.
この日、我々に日々の糧を与えてください。

「与えてください」。 これは驚くべき言葉だと解るでしょう。 貴方にその意志があれば。

GIVE us this day our daily bread. Meet our need through a GIFT.
この日、我々に日々の糧を与えてください。ギフトによって我々の必要(我々のとても人間的な必要)を満たしてください。

この文は「私が日々の糧を獲得できる機会をください。」とは言っていません。
「この日、我々に日々の糧を与えてください。」です

初めのうち、この神の概念はほとんど理解不可能はものでした。 意識的気付きとしては{人々の顕在意識にとっては}非常に革新的なものでした。

これはただ単に神に対する理解を新しくするだけではなく、「私が生得権(持って生まれた権利)と呼んでいるもの」を受けとる意志を彼らが再度表明する事だったのです。 彼らの神聖故に、彼らが存在するが故に、彼らが日々の糧を受け取るに値するという事なのです。

And forgive us our debts as we forgive our debtors.
我らが債務者(借り手)を許すように、我らの負債を赦して下さい。

ここでまた少し良心が紹介されています。 祈り手が彼の兄弟を赦す度、彼は父から赦されるのです。 その度、愛が愛に反映(反射)するのです。 人は同胞を赦す事なくして、自分が父から赦される事を期待する事が出来ないのです。 これら二つの事は、実質一つの事なのです。

この文は、「人は父との関係の中に入り良きものを受け取って、自分の同胞を貧しいままにしておく事は出来ない」と示しているので。 それはリアリティの「あり方」ではないからです。

And lead us not into temptation but deliver us from evil.
我々を誘惑へと導くのではなく、悪から導き出してください。

これは嫉妬深い、怒りに満ちた、憎しみに満ちた、神の概念を修正する文です。

この文が、二元論的な{善と定めたものを祝福し、悪と定めたものを罰する}神のイメージから人々を解き放つ助けになったのです。

一つの(分割不可能な)目的を持った神だけに、人を危害から守る愛と気遣いが可能なのです。

これは神に対する新しい概念でした。これはその当時の人にとっては、とても感動的なものだったのです。 何故なら当時は今ほど、神にはポジティブなイメージ(概念)が与えられていなかったのです。

"Give us this day our daily bread. Forgive us our debts as we forgive our debtors. Lead us not into temptation, but deliver us from evil.”
この日、我々に日々の糧を与えてください。 そして、我らが債務者(借り手)を許すように、我らの負債を赦して下さい。 我々を(人間的な)誘惑に導くのではなく、悪から(誘惑から)導き出してください。 エゴが囁く示唆から導き出してください。

これが誘惑、(エゴの)催眠的な示唆(暗示)です。 これらは、祈り手が開放されたがっている人間的体験を語っています。


For Thine is the Kingdom...
何故なら、王国は貴方のもので


私のものではありません。 だから「私のもくろみ」は無意味なのです。 「私のもくろみ」は、私が心惹かれるものではありません。

And the power...
そして力も

"Thine is the power."
力は貴方のものです。

これはパワフルな言葉です。
力は貴方のものです。 私は自分の力は有していません。

「私は自身では何も出来ない。」「もし貴方が私を見たなら、貴方は父を見たのです。」という言葉を聞いた事があるでしょう。
貴方達がお互いを見たなら、貴方達は父を見たのです。 それは私だけに当てはまる事ではないのです。

「力は貴方のものです。」

これらの言葉は、偉大な動きが起こる事を可能にします。 個人的力のアイディア(概念)に疑問を挟む事によって。 なんとなく朝起きてお店に行って卵を買って、と行動し続ける能力に対する疑問です。 貴方が今までそうし続けてきた事に疑問を起してください。

『そうすることが適切か? そうすることが「ものごとのあり様」に適っているか? 貴方が疑問に思う事無く続けてきた』個人的パワーに対する疑問を起し、偉大な動きを可能にするのです。

貴方は大破局をもたらす事無く、これをする事が可能です。

何故なら、王国も力も栄光も(数分の間だけではなく)永遠に貴方のものだからです。

最後の数フレーズで、全てを父の元に返しているのです。


この祈りは(例え半分でもこれが抱擁出来たなら、これらの言葉を本当に意味あるものとして受け入れられたなら)エゴの構造を弱める好奇心を瞬時に引き起こし、真理の進入が可能に成ります。

現在の貴方達全員には「貴方の意志が成されます。」で祈りを終えるようアドバイスします。 これは卒業の為(目覚めの為の)の重要なステップです。

これはコース(A Course In Miracles)の最後のレッスンで「私は自分一人で判断はしません。 私は永遠に貴方の声を聞き続けます。」と言う意味の事を言っているのと実質同じです。

「私は自分個人の理解には依存しません。私は『知りたい』と望み、私は聞きます。」

このより短い形式では、貴方のエゴがより刺激され、貴方のエゴがより反応することになります。 エゴは「私の意志ではなく、貴方の意志が成されます。」と貴方が自分に言い聞かせ続ける事を好みません。

しかしこのより短い祈りの形式を使えば、より迅速でより優雅な変容と目覚めが促進される事に成ります。 そして目覚め/変容とは、貴方達全員が自分たちの正しいマインド(正気)に帰っていく事です。 貴方達全員の瞼が開いて、天国が貴方の目の前に見えるように。

この祈りを、言葉の羅列として言うのは止めなさい。 魔法をもたらす言葉の予備演習として扱うのは止めなさい。

これらの言葉に意味があると心から信じなさい。 「貴方を、完全に間違って狂った自分感覚(自意識)に閉じ込めてしまっている」エゴの構造を解体する事が、これらの言葉の意味に成るのだと信じなさい。

質問をしてくれてありがとう。

1 コメント

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2009-12-17 03:15:33
『こうして神の主権が「神という神聖な意識」で、「祈り手本来の神聖なるマインド」で、「祈っている個人」を満たす事を呼び入れるのです。』 

の文を以下のように書き換えました。

『こうして、神の主権が「神の神聖な意識(祈り手の神聖なるマインド)」で「祈っている個人」を満たす事、を呼び入れるのです。』


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