目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

09-06-20 #2

2009-07-13 15:55:30 | Chapter 15
もう一度訊きましょう。 聖なる瞬間とは何ですか?  

それは貴方が孤児として振舞っていないことです。 それは貴方が自分のマインドを不毛な事に使っていないことです。 それは貴方が自分のマインドを使ってリアリティを体験する事を拒まない様になる事です。

聖なる瞬間とは貴方が「私は、キリスト意識と調和するものだけを認める。 そして、父の意思‐存在の目的‐と調和するものだけを認める。」と言った瞬間です。

聖なる瞬間とは貴方が「自分のややこしい思考などは糞食らえ! 自分の信念がなんぼのもんじゃ! 自分の善悪判断にどれ程の信憑性があろうか! 私は自分の碇を神聖に投げ込んで深遠なる神の元へ引き摺られて行こう。 私は自分の正気(神のマインド)の無限性に自身を浴びせたい。」と言うことです。

そしてネガティブな思考に浸らない様、貴方が抜かりなく思考を律するのです。 「これは上手く行くわけが無い。私は年を取り過ぎている。その様な再生や修正を望むのは無理だ。」などと言い続けてはいけません。

あるいは「私はまだ若いから、ニキビや不体調に悩まされないで過ごすのは不可能だ。」とか。 

それらは真理ではありません。 それらは貴方が殉じている信念です。 それらの信念を貴方は尊重しているのです。 そうして(それらの信念に自分が縛られる事を許して)貴方は聖なる瞬間を避けているのです。

貴方はノイズを発生させて聖なる瞬間を避けています。意識のノイズです。 考えて、考えて、考えて、心配して、心配して、心配して、疑って、疑って、疑って。 貴方が持っている事を否定して。 持ってない、持ってない、持ってない、欠乏、欠乏、欠乏、苦しみ、苦しみ、苦しみ、欠乏してるから苦しい、苦しい、苦しい。 そしてそこから抜け出る手段が見つからない。 見つからない。見つからない。  

こんな風にノイズを発生させているのです。 そして聖なる瞬間を遠ざけています。

この様な煩雑さが発生しているのです。これが起こっているとき、この様にしか考えられないと感じる事でしょう。
しかし、これが聖なる瞬間をもたらしますか? ここに、凝り固まった貴方の認識以外のものが入り込む余地が残されていますか?

別の言い方をすれば「この時、恐れの声以外のものを聞く余裕が貴方にありますか?」 答えはNo です。

そうならない為には、「この様な思考は「聖なる瞬間」をもたらさない。 この様な考えは、神の法が統治する「聖なる瞬間」をもたらさない。 聖なる瞬間だけに意味がある。だから、これを続けるのは止そう。 これを続けるのは馬鹿げている。」という必要があります。

「神の法がなされない<所>で動き回る必要があるだろうか? 私が神の法を意識的に無視して、故にそれが私に感じられない<所>で苦しむ必要があるだろうか? 」 と言う必要があります。

貴方は毎日、様々なことの瞬間的癒しを期待しなければいけません。 貴方は日常の生活の中で、癒しを不可能な事と退けていてはいけません。 

そして、癒しの為に必要な事をしなさい。 癒しの為に必要な事とは、貴方が自分の平和を選ぶ事です。 

「自分の平和を選ぶ」とは、頭に浮かんでくる馬鹿らしい思考、貴方を縛っている思考、を観察して、こう言うのです、「いいえ、私はそれを受け入れません。 その招待を受けてそこに行く事は拒否します。」。 「私は脅かされる必要は無いので(大きく息をしましょう)私は脅かされたように行動する必要はないのです。 そして私は(その中で神の法がなされる)「聖なる瞬間」を促進する行動をあえて取りましょう。 」


喜ばしい沢山のことが貴方を待っています。  それは、貴方が自分一人で引き起こせるような事ではありません。 それは貴方が自分一人だけで何かしようとする事を放棄し「父よ、ここの真理は何ですか?」あるいは「(私の正気である)精霊よ、ここの真理は何ですか? 精霊よ、貴方と一緒に見るにはどうしたらよいのですか? 教えて下さい。」と言った時に体験できます。


“When the Son of God accepts the Laws of God as what He gladly will, it is impossible that He be bound or limited in any way.”

「神の子が神の法を喜んで受け入れたとき、彼を縛るものは何もありません。」

これは、痛みが消える事を意味します。砕けた肘が治る事を意味します。 びっこが消えてなくなります。 癌が消え去ります。 痛いのどが心地よいものに取って変ります。

もし聖なる瞬間が何か意味深いものでないなら、それは捨ててしまいなさい。  しかし、それがなにか意味のあるものなら(もちろんあります)それを掴み取りなさい。 そして自分の思考をモニター(監視)して、自分が「恐れの声」を繰り返し始めたらすぐに気付いてそれを止めなさい。 

どうしたら、自分が「恐れの声」を聞いているか解るのでしょう?  その時貴方は気分が悪くなっています。 その時貴方は憂鬱になっています。 何故でしょう? それは事態が絶望的だからではなく、貴方のマインドの中の声が絶望的な言葉を繰り返しているからです。 絶望的な言葉を予行演習しているからです。  
憂鬱な気分を予習しているからです。 それがチェックされずに横行しているのです。 なぜなら貴方が「恐れの声」を取り締まっていないからです。

そこでは、誰もYESともNOとも言っておらず。 貴方がまだ、「キリスト意識を表現するものだけを、私は許可します。」と言っていないからです。  「****** だけを、私は許可します。」。 これはとても白黒のハッキリした表現です。 そして「存在の目的、つまり父の意思に適うものだけを、私は許可します。」

ここには貴方の面白い思考、あるいは非常にクリエーティブな思考の入る余地はありません。 ここには神を少し助けるかもしれない思考さえ入る余地はありません。

(自分の正気<精霊>から遠ざかってしまった)貴方が「私は、精霊を表現するものだけを許可します。」と言ったならどうでしょう。

この意味は貴方にも解るでしょう。 貴方が精霊に完全に自分を与えたとき、貴方のマインドは一つになります。 そして狂気が消えます。 分離が無くなるのです。

しかし、 貴方の正気(精霊)が貴方から離れているものだと考えている限り、自分の正気(精霊)に100%委ねなければならないと言うアイディアは、貴方が自分の力を放棄しなければならないことになり、貴方の孤児意識(エゴ)はそれを愚行と言って退けます。

もし貴方(これが自分だと貴方が現在考えてる存在)が自分の正気に100%の委ねたなら -自分の為に自分一人で考えるのを完全に放棄したなら- 何が起こるでしょう? 貴方と貴方の正気の間にあると思われていた壁が消えて、統一がそれに取って代わるのです。 それが成されなければならない事なのです。

だから貴方が{神の}木偶の坊になる必要があるのです。 何故なら、自分の正気の木偶の坊(操り人形)に100%成ったなら、貴方は正気に帰ることができるからです。

私がこの様に表現しているのは、貴方が「あれ」を疑ったり、「これ」に関して憂鬱に成っている時、それらの状況に対して貴方が異を唱えられるようにする為です。 

それらの状況が貴方を圧倒してしまう唯一の理由は、貴方がそれらの状況を黙認してしまうから、貴方が黙従してしまうからです。 貴方が、それらの状況に対してNOと言っていないからです。

その時貴方は「キリスト意識を示している事だけを、(存在の目的である)父の意思と共鳴する事だけを、私は許可します。」と言っていないのです。 貴方がしなければならないのは、それだけです。  貴方は「私は*******だけを許可します。」と言い始めなければいけません。  その時貴方が許可するのは、自分で考えたもの、自分で解釈したもの、貴方が独自に行動して作り上げたもの以外でなければいけません。

“Letting in That Which You aren’t responsible for.”

〔貴方が作り上げたのではないものを、呼び入れ(なさい)〕

貴方が許可しているのがそれだけ(自分で作り上げなかったものだけ)なら、貴方が神だけを許可したなら、貴方が自分の正気だけを許可したなら、貴方は目覚めます。 その時、貴方はもう一度統合されます。 貴方は正気に帰るのです。 これが貴方のするべき事です。

それがどの様に起こったか見てみなさい。 貴方がどの様に自分の正気に帰ったか見てみなさい。これは既に起こった事なので、ここでは過去形で表現しました。


先週の所から読み返しましょう。

“In the Holy Instant nothing happens that has not always been. Only the veil that has been drawn across Reality is lifted. Nothing has changed. Yet the Awareness of changelessness comes swiftly, as the veil of time is pushed aside.”

〔聖なる瞬間の中で起こる事は、全て今まで常に起こってきた事です。 リアリティの上に掛けられていたヴェールが、ただ取り除かれるだけです。 何も変化したものはありません。時間のヴェールが取り払われたとき、不変の意識が速やかに現れます。〕


{登山に例えれば}初めに山が見えて、もう少し進むと見えなくなって、もっと進むとまた山が見える様なものです。 本質的には何も変わっていません。 {山はそこに在り続けるだけですが、貴方の認識の変化に応じて真理の見え方は変化するでしょう。}

初めに貴方は自分の誤認のレンズ(孤児意識/分離意識)を通して山を見ます。 そして山を見失うでしょう。 その後自分の正気を通して山の本当を姿を見るでしょう。 その間、変化したものはなにもありません。 山は山であり続けました。 しかし全ては変わったのです。


“Nothing has changed. Yet the Awareness of changelessness comes swiftly as the veil of time is pushed aside. No-one Who has not yet experienced the lifting of the veil, and felt Himself drawn irresistibly into the Light behind it, can have faith in Love without fear.”

〔 何も変化したものはありません。時間のヴェールが取り払われたとき、不変の意識が速やかに現れます。 ヴェールが取り除かれるのをまだ体験していない人は、ヴェールの後ろの光に否応無く惹かれる体験をしていない人は、恐れなく愛に対する信頼を持つ事は出来ません。〕

愛に対する信頼は不可能なのです。 恐れが必ず付きまといます。 何故なら貴方が孤児として父から分離した途端に働き出したのが、恐れと罪だからです。

4 コメント

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Unknown (放蕩)
2009-07-14 21:25:43
二つの世界を同時に体験しているんですね。
外側ばかりで争い合っていて、内側は忘れてしまっている。
内側の体験に気づけば、コースに書かれていることは、すべて本当だということが解りますよね。
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Unknown ()
2009-07-15 06:40:12
なるほど。

私はまだコースを読み通していないのです。

何を言っているか私には解らない文もあり、それらは Rajの説明を読んで、初めて辻褄が合いました。

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Unknown (mahalo)
2009-08-05 00:55:27
ACIMを理解するのにとても大切なブログとして読ませて頂いています。有難う御座います。今日瞑想で「聖霊は実在を見分けるために否定するが、あなたは罪を見て攻撃するために否定している。」と言われました。確かに人を見る目も、環境や、暑さ寒さに対する不満も、同じくそこに罪を見て攻撃している自分の中の思いの感覚は同じだと気づきました(ちなみに今日のレッスンは259)が!先程気持ちよく寝るつもりが何かイライラして眠れません。身体もあちこちムズムズしてるので何だこれは・・・と観察したら、ふと浮かんでくる情景や、思いが全てエゴのマインドで出来てる、見ているからだと気づきました。そしてどうしたものかと取り合えずこの記事を見たらピッタリの内容が書いてありました。早速やってみます・・・感謝!
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mahaloさん (訳者)
2009-08-05 03:57:38
こんにちは。

私も上記の文を再度読んで見ました。

そうそう、コメントしたい事があったんですよ。

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だから貴方が{神の}木偶の坊になる必要があるのです。 

私がこの様に表現しているのは、貴方が「あれ」を疑ったり、「これ」に関して憂鬱に成っている時、それらの状況に対して貴方が異を唱えられるようにする為です。 

状況が貴方を圧倒してしまう理由は、貴方が状況を黙認してしまうから、状況に対してNOと言っていないからです。

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何か状況が貴方を苦しめている時は、その状況と戦うのではなく、二つのステップを行いなさい。 
(二つのステップとは 1.反応せずに踏みとどまる 2.聖なる瞬間に入り父に真理を問う です。) 

すると、そこで何が行われているか正しく見る事が出来るでしょう。 

そして何か正されるべきことがあり、その為に行動が必要なら、適切なことが行えるでしょう。  

これを神の意思で行うのです。 つまり神の木偶の坊‐God's puppet- に成る訳です

これが状況に対してNOと言う事だと思います。
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