目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

09-07-11 #2

2009-07-20 08:24:51 | Chapter 15
私が言おうとしているのは、貴方が過激な理想主義を実用的現実主義へ変容させる体験をしようと思うなら、その為に練習しなければならないと言うことです。

もし、貴方が余り上手く出来ないようなら。貴方は努力を続ける必要があります。 その時「私が練習している事はとても重要で、私の人生に過激な好転をもたらす事が出来るはず。 でも、もし上手く行かなければ、私はどうしたらいいのだろう。」と、考えてしまう事があるかもしれません。

これは、瞑想をしていて平和の中にいる時「あー、誰々に電話するのを忘れていた。とても重要な用件なのに。」と思考が起こるようなものです。 その時貴方は、その思考は自分が今している事にはそぐわないと認識し、それを脇において自分の意識を瞑想に返す事が容易には出来ないかもしれません。

貴方は、過激な理想主義を実用的現実主義に変容させる事を、その重要性故に、断念する誘惑にかられます。  神が愛であるという真理を、自分の平和を感じる事として体験したり、自分がするべき事を平和の内に、(神の法のなされる)聖なる瞬間の内に、貴方の健全の内に行おうとする時、その重要性故に、貴方はそれを断念する誘惑にかられます。 {もし上手く行かなければ、どうしようと不安を掻き立てて。}

だから練習が必要なのです。 これが要点です。 貴方には練習する意欲が必要です。

過激な理想主義 = Radical Idealism。 Idealism という言葉の中にはIdeal(理念)という言葉が含まれて居ます。 過激な理想主義とは、何か良かったり悪かったりするラジカルなものを示しているのではありません。 過激な理想主義とは、その焦点に理念があります。 神は理念です。 神の行動も理念です。 そして神の行動の証拠としての貴方も理念なのです。

そこで、我々は貴方を完璧なポイントから理解し始めます。 私は、完璧なポイントから見た貴方について話しています。 そして貴方がそこ{完璧なポイント}に自分の意識をおけば、貴方はよりクリアに成ります。  貴方が自分の意識を、常に流れ込んでくる恐れや疑いや不安ではなく、完璧なポイントにおけば、貴方の不純さが減ります。

貴方は、今ここに貴方が知っている自分としての貴方の存在は、より恐れ無くなっています、より軽くなっています、より柔らかく、よりリラックスして、よりオープンに、より反応し易くなっています。貴方の自信に満ちた自己主張(self-assertion)が薄れています。 

そして貴方の自己定義(自己主張)が無いところ、その静寂の中で、神が創ったパーフェクトな貴方の存在は、 そこ(静寂)で神の法がなされている故に、自分が癒されている事(つまり貴方の真実)を知ります。  何故なら、貴方と言うパーフェクトな存在は神に基づいているからです。 何故なら、 貴方と言うパーフェクトな存在は、貴方がいるその場所に神が挿入されていると言う事だからです(過激な理想主義)。

しかし貴方が孤児院から{神から独立した境地から}自分の癒しを求め続ける限り、それは起こりません。  貴方が、より善き孤児になれるよう努力している間は、よりスピリチュアルな孤児に成ろうとしている間は、それは起きません。

これは、良い子としての貴方の古い概念を満たす事とは関係がありません。 パパやママが貴方に求める「良い子供」の概念を体現する事とは違います。

貴方が「二つのステップ」を行ったとき、貴方が聖なる瞬間に自分を呼び入れたとき、古いものは過ぎ去ります。  古きものは消え去って、新しいルールに取って代わられます。 これが貴方が理解するべき事です。 そして、新しいルールは間違いなく(全てをつかさどっている)神の法を見えるようにします。 神の法を見えるように出来るのは、新しいルールだけです。

世界の全ての聖なる言葉(ACIMも含めて)に何らかの価値があるなら、それらは、貴方が過激な理想を実際的現実として表現できるポイントまで、貴方を連れて行きます。

神が貴方を創造しました。神が行った創造は、パーフェクトな行為でした。 彼の創造は、つまり貴方は、だからパーフェクトなのです。 そして{貴方がパーフェクトだと言う}この過激な理想が現実に成るのです。  つまり、お医者さんが貴方を検査して、以前あった問題が見えない/存在しないと言うのです。 問題と思われていたものが無くなるのです。

それだけでなく、欠陥(病気や問題では無いが、何かバランスを欠いた事)も消え去ると言う事です。

貴方は「そんな馬鹿な。 それはラジカルな(馬鹿げた)理想主義だよ!」と言いますか? それでも、これが真理です。 そして、この真理は貴方が体験するべき事なのです。 だからACIMは、その体験が出来るポイントまで貴方を連れ出すのです。

ACIMは、貴方が次のように言えるところまで連れ出すのです。

「精霊よ、私はお前が私の正気{Right Mind、正しい心}だと知っている。」あるいは「私の正気は神の精霊だと、少なくとも知識としては知っている。」「だから私は、私の正気(Right Mind)を呼び入れて、自分のものとして認識出来るようにしよう。 つまり、過激な理想主義と思える事をあえて求めよう、それが私の真実として認識出来る様それを招き入れよう。 {精霊を}地に足の着いた実際的なリアリズムとしての私として受け入れよう。 何故なら、それこそが、するべき事だから。」

困難な状況が続いているとき、問題がなかなか解決しないときには、希望を無くしてしまい、自分の不満や怒りを正当化するのは、とても容易いでしょう。 しかし、怒りや不満の正当化は実用的ではありません。 それらは適切でもありません。それらは、過激な理想主義を実用的現実主義に変容させる下地を用意するものでもありません。 それは貴方にも理解出来ているはずです。

全ての憎しみ、全ての怒りの表現は、貴方の体にも良くない影響を与えると、ご存知のはずです。 それらは、神の愛が貴方の中に響く環境を整えるものでもありません。

怒りを抱いたり、怒りを大声で言い募る事には、エゴを黙らせる効果はありません。  何故なら、それらもエゴが自分一人で(独立した状態から)状況をコントロールしようとする行為だからです。

怒りは常に、状況をコントロールしようとする事と関連しています。 怒りは常に、他者や他のものに対して働く権限を探す行為です。

「私はこの癌を支配していなければいけない。 私の人生を左右しているこの阿呆に対して主権を確立しなければ。 私は、経済や社会を支配している人たちをコントロールできなければいけない。 私は自分の主張を表明できなければならない。」

このような主張は全て、もっともと感じられるかもしれません。 しかし、これらの主張{定義}は全て孤児院の状況からされています。 孤児院の状況とは、 貴方が自立的に存在しており、自分の想像力で作り上げたもの以外には、自分の源とは繋がっていないと言う、基本的に間違った仮定の事です。  そして貴方が他の人にも信じ込ませているルール、彼らが貴方のサポートするように行動するよう、他の人にもそのルールを信じ込ませて自分を守ろうとしいる事などが、孤児院の状況に当たります。

初めに、「神が貴方を愛している」と言いましたね。 そして今回はお話を中心に進めると。 貴方が時々立ち止まって、激しく努力しすぎるのを止めれるように、そして静寂の中で「神が貴方を愛している」と神の存在から、貴方の中にいる愛の存在から、告げられるチャンスがもてる様に。

だから今夜は、考え方について話しています。 貴方の目の前の状況対してどの様な意識で臨むべきか話しています。 貴方がまだ習得しきっていない事を、何回も繰り返して行う事によって、完璧に習得するする事について話しています。  それは瞑想者が、自分の思考に気付き、「それは瞑想の後にしよう」と言って瞑想に戻るようなものです。  この瞑想者は、反復練習を通して、静寂の中に長く留まる事を習得したのです。 そして、静けさの中で神を迎え入れる機会が得られるのです。

瞑想者の中には、静寂こそが最上のもの、静寂こそが目的と考えて、静寂の保持に夢中になるあまり、神が話しかけているときに、「それは瞑想の後にしよう」と言って(創造の動きを含まない)「パーフェクトな静けさ」の中に留まってしまう人もいるようです。 その場合、真実の声が彼女には聞こえません。 創造の真の側面(創造の動き)が彼には見えません。

我々がしている全てのことには意味があります。 それは、カオス(混沌)の中で平和を見つける事だけではありません。 「内に平和が外にカオスがある」状況に甘んじることが、我々の意味ではありません。

信心を持つのは簡単ではないと思われるかもしれません。 「神が愛であり、神が貴方を愛している」という過激な理想主義がたわ言に思えるとき、虚しい約束に聞えるとき、自分の運命から目を逸らして、現実逃避するために人間がでっち上げた嘘と思えるとき、神を信じる事は難しく思えるかもしれません。

それらの考えが起こったとき、どうしたら良いでしょう?  それらの考えは貴方を硬直させてしまいます。 それらの考えは、貴方が{聖なる瞬間}の実習を続けることを難しくします。 それらの考えは、何らかの理由で貴方が自転車(実習)に戻る事を止めようとします。

前の部分で言ったように、これが起こる主要な理由は「考え」が貴方を恐れさせてしまったからです。  貴方達は全員これに注意して下さい。

「これが上手く出来るように成らなかったらどうしよう。  間違った事をしてしまったらどうしよう。」  実際のところは、下手でも間違っても『何も起こりません』。 

しかし、それらの考えに影響されて動けなくなってしまうと、 『{まずい事は}何も起こらない』と言う言葉が聞えなくなってしまうのです。

貴方は、上手くやっても下手にやっても、存在し続けます。 何故なら、貴方が神の表現であるという事実の外に出る事は、貴方には出来ないからです。 神の表現である貴方は永遠で、存在としては不変なのです。

だから、もし貴方が間違えても、何も起こりません。 ただ(間違えない様になるまで)何度もやり直す機会を得るだけです。  そして私は今夜、正しいやり方がある事を貴方に知らせています。 貴方には正しいあり方があるのです、神が貴方を創造したあり方が。 本当は、あなたはそれ以外の「あり方」は出来ないのです。 しかし貴方達全員は、それ以外の「あり方」があると言う信念に囚われ続けているのです。

そして、「実用的現実主義に変換できる過激な理想主義などある筈が無い」という惨めな信念の中で貴方はのたうち回っているのです。 「実用的現実主義は切り離され独立した存在状況で、過激な理想主義とは何の繋がりも無いから」と考えて。

これは(貴方の現在の信念/定義は)リアルなものを間違えと呼ぶ様なものです。 リアルでないものを真理と呼ぶようなものです。 「だから真理を求めるのは止めなさい。 時間の無駄です。」と言う様なものです。

「過激な理想が実用的現実に変換できる」という考えは永遠に手の届かない誘惑である! 真理を得る事は不可能、と考えたりするのです。

違います。 貴方は真理を絶対に得られるのです。  熱心なピアノの生徒が、完璧なトリル(連打音)を習得できる様に。 貴方はただ続ける必要があるのです。

ピアノの生徒がピアノから立ち去って外に行き、友達に「ピアノなんて女々しい奴のすることさ。もうしないよ。そんな価値はないもの。 難しすぎるし、女の子がやればいいのさ。」と言っていては、ピアノが弾けるようになりません。

貴方自身に対して寛容でいなさい。 貴方自身を十分に愛して、自分を痛める事は止めなさい。 それが一時は気持ちよく思えても、自分を痛める事は止められるよう自分を愛しなさい。

怒りは何時でも、その瞬間は気持ち良いものです。時にはオルガズムより気持良いでしょう。 怒りがオルガズムを妨げるのは良くある事です。 「あなた! わたし今夜は怒っていたい気分なの。」