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スグルの歴史発見

社会科教員をやっているスグルの歴史エッセイ。おもに中学生から高校生向きの内容ですが、大人でも楽しめると思います。

ムワッヒド朝と両シチリア王国

2004年12月17日 14時15分50秒 | 世界史
 高等学校の世界史の教科書には、あまりにもお粗末な扱いの語句が少なくない。両シチリア王国とムワッヒド朝はその好例だ。名前が出てくるだけ、である。日本の教科書は、とにかく語句の詰め込みをめざしているから、こうゆうことになる。その王朝が歴史に果たした役割や意義を説明しないのなら、名前など出さない方がいい。
 両シチリア王国は、1130年にノルマン人によって建国され、形式としては1860年まで続いた王国である。この両シチリア王国は、12世紀のいわゆる「商業の復活」と深くかかわっている。当時の地中海の制海権は、イスラム教徒に握られ、「キリスト教徒は板きれ一枚浮かべることができない」という状態だった。制海権の喪失は、経済圏の喪失である。ヨーロッパ人は、地中海経済圏をイスラム教徒に支配され、自給自足とわずかな域内交易にたよって生活していた。
 これに変化をもたらしたのがノルマン人、いわゆるバイキングの活動だった。彼らは海や川を自在に移動でき、戦闘にも強かった。その一派が、地中海にまで進出し、イスラム教徒に支配されていたシチリア島を奪い返して建国したのが、両シチリア王国だ。ローマ対カルタゴの戦争がそうであったように、シチリア島の確保は制海権の確保を意味した。地図をみれば、西地中海と東地中海の往来におけるシチリア島の重要性は一目瞭然だ。
 両シチリア王国は、地中海の制海権をイスラム教徒から回復することで、12世紀の商業の復活の大きな足がかりをつくったのだ。
 ムワッヒド朝は、1130年から1269年まで存続し、北アフリカからスペインにいたる広大な地域を支配したベルベル人のイスラム王朝である。こちらは13世紀以降の、フィレンツェ、ジェノヴァといったイタリア諸都市の繁栄、フランドル地方の海港都市の繁栄とハンザ同盟の繁栄、シャンパーニュ市場の衰退と関わりがある。
 ムワッヒド朝の重要な点は、ジブラルタル海峡の領有にある。地中海と大西洋を結ぶ唯一の海路であるこの海峡は、ウマイヤ朝のイベリア半島進出以来、ずっとイスラム王朝の手に握られてきた。地中海沿岸と北ヨーロッパとの交易は陸路にたよらざるをえなかった。(陸路は海路よりもはるかに割高で少量の荷物しか運べない)。しかし、13世紀に入るとムワッヒド朝の勢力が衰え、北ヨーロッパと南ヨーロッパの間の水路が利用できるようになった。こうして、北欧経済圏と地中海経済圏が海路で結ばれ、北と南で海港都市が繁栄、内陸ルートとそれに沿った都市の市場は衰退することになった。
 ムワッヒド朝の盛衰は、ヨーロッパ南北の経済圏を結びつける鍵だったのである。
「重要な語句はどれですか」と生徒は問う。重要でない語句などない。重要なのは語句ではなく、その語句の持つ意味や意義、その事象が他の歴史事象の何によって影響を受け、何に影響を与えているかといった学習である。
 

神々の指紋

2004年12月16日 22時18分33秒 | 歴史一般
 古代史は謎で満ちている。当然、歴史の教科書は古代史からはじまるのだが、生徒が読めばあたかもすべてのことが確定された事実のように書かれている。とんでもない話で、教科書は、あくまで今現在わかっている断片的な事実の要約でしかない。それは真実のうちの氷山の一角にすぎない。
 日本の歴史を旧石器時代、縄文時代、弥生時代と順を追って理解していくとき、与那国島の海底遺跡はどう説明するのか。あの海底遺跡は、僕は人口建造物に間違いないと思っているのだが、少なくとも旧石器→縄文→弥生という日本史が、現代の我々の単なる想定にすぎないことを物語っている。
 ピラミッドは何のために作られたのか。エジプトのピラミッドが、あまりにも高度な数学にもとづいてあまりにも高度な建築技術で建造されたことは、今では確たる事実だ。なぜただの墓にそれほどの精巧さを求める必要があったのか。あれは本当に墓なのか。
 疑問をあげればきりがない。
 私たちは、こうした古代史の疑問に完全な答えは得られないまでも、現在歴史の教科書に述べてある古代史が、氷山の一角の、そのまた現代人の想定にすぎないことは知っておく必要がある。
 さて、このような疑問に真正面から向き合った本が、グラハム・ハンコックの「神々の指紋」である。大胆な想像力を駆使して、古代史の謎を解こうとするこの本の姿勢は、その内容の信憑性はさておき、古代史に対して硬直した視点しか持ち得ない我々の歴史観に警鐘を鳴らしている。
 古代史とはまばらな点の集まりである。その点から、全体像を再構築することは困難だ。歴史の教科書も、神々の指紋も、こうしたまばらな点から全体像を構築しようとする「想定のこころみ」であることを、私たちは忘れてはならないだろう。
 古代史とはいわば、偶然検出された指紋から、犯行の全体像を解明しようとするこころみである。

母を訪ねて3千里、マルコのお母さんはなんでそんな遠くに行ったの?

2004年12月16日 15時33分00秒 | 名作シリーズ
 母をたずねて三千里は、1886年、デ・アミーチスの作品。イタリアのジェノバの少年マルコが、手稼ぎに行った母を追ってアルゼンチンへ旅をするという物語だ。三千里というのは、イタリアとアルゼンチンの距離である。
 さて、なぜマルコの母は遠いアルゼンチンに渡ったのかというと、何のことはない、19世紀のヨーロッパでは移民は一般的な出来事だったのだ。移民と縁の薄い日本に住んでいる僕らには実感がわかないが、19世紀のヨーロッパではあたりまえのように移民が行われていた。それは主に、ヨーロッパから南北アメリカやオーストラリアへの移動だった。
 移民がさかんになった背景には、農業革命と産業革命がある。
 農業革命は、コロンブスによる新大陸の発見以降、段階的に進行したもので、新大陸からの安価な穀物の流入が農産物の価格を下落させ、小規模経営の農家が没落して農業の大規模化・効率化がすすんだことをいう。ヨーロッパの食糧事情は大幅に改善され、人口が飛躍的に増えた。マルサスが著書「人口論」でこの人口増加に警鐘を鳴らしたことはよく知られている。
 産業革命は説明の必要はないだろう。ここでは、蒸気船と蒸気機関車の登場を取り上げる。19世紀にはいると、1807年にフルトンの発明になる汽船が登場し、1825年にはスティーヴンソンの発明による蒸気機関車が登場した。蒸気船と蒸気機関車の登場は、人類の移動能力を質量ともに大幅に高め、距離に対する考え方を革命的に変えた。それまでは一週間かかった距離を、1日あれば移動できるようになったのだ。
 つまり、農業革命よって人口があふれかえっていたヨーロッパに、産業革命によってもたらされた高速・大量交通機関が、移民というはけ口をつくりだしたのである。
こうして移民の時代が幕を開けた。19世紀は移民の世紀だ。
 新大陸の側にも移民を呼び込む事情があった。新大陸には仕事があったのだ。産業革命をなしとげつつあるヨーロッパに対しての原料供給地の役割を担うようになった新大陸では、大量の労働力が求められており、それが移民を呼び込む役割を果たしていた。
 マルコと母親は、そうゆう時代を生きた。移民という歴史が、マルコと母親のように家族を引き離すような悲劇をほかにも数多く生み出したことは、想像に難くない。

なぜ堺は信長に屈服したか?

2004年12月15日 22時50分23秒 | 中学歴史
 織田信長は堺を屈服させた。その目的は、堺の経済力と鉄砲生産能力を天下統一に活用しようとしたからだ。教科書ではそのように説明している。
 しかし、これは堺側の立場を無視した考え方で、いささか説明不足の感がある。
 信長の屈服要求(矢銭つまり軍事費の供出要求)を受けた堺では、当然、従うか従わないかの激論が交わされた。しかし、わりと簡単に、軍事費を供出するという結論に達したのではないかと想像する。堺にとって、軍事費の提供は、屈服ではなく、投資であった。
 織田信長の勢力範囲は戦国大名の領国の中ではもっとも広く、しかも最大の消費地であった都を含んでいた(のちの三都のうち、当時、まだ大阪は石山本願寺の砦、江戸は荒地であった)。堺は、拡大していく信長の勢力圏を、巨大な経済圏の誕生と見たのである。
 信長の勢力圏の拡大は、経済圏すなわち商圏・統一市場の拡大を意味した。信長に軍事費を提供することは、境にとって損な話ではなく、むしろ何倍もの見返りが見込める投資話であったといえる。当時の日本には投資という言葉はなかっただろうが、境の豪商たちはこうような投資を積極的に行い商圏・統一市場の拡大をもくろんでいたのだ。
 秀吉は、この堺の意図を巧みに利用している。秀吉は、堺の商人から軍事費を借りまくった。借りなければできないような大規模な戦争が、借りることで実現した。商人たちもまた、秀吉の急激な勢力拡大がすなわち急激な商圏・統一市場の拡大であることを知っていたから、それを見込んでじゃんじゃん投資した。現代の企業と銀行のような関係が生まれていたわけだ。
 このように、信長や秀吉は、一国の大名ならばなしえなかったはずの大事業を、融資を得ることによってなすことができた。信長と秀吉の天下統一は、現代の株式会社のシステムのさきがけであったと言える。
 そのなかで、堺の果たした役割はきわめて大きい。一地方の戦国大名からの脱皮を目指した信長と秀吉の儲け話に、一地方の自治都市からの脱皮を目指した堺が乗ったのである。政界と経済界の双方からの、これは戦国の世を打破する挑戦であった。 

日本の子ども達の学力低下

2004年12月15日 17時00分54秒 | 教育問題
 日本の子どもの学力が低下しているという国際的な調査結果が出た。驚くことはない。中学校の現場で仕事をしていると、そうだろうな、と納得してしまう。子どもの学力が国家発展の基礎であることは歴史が証明している。それを見て見ぬふりすることは許されない。国による実効的な対策取りまとめと、その早急な実施が望まれる。
 子どもの学力を低下させている原因には以下のものがある。
「絶対評価」・・・競争なくして発展はない。現在の評価方法では、子ども達ひとりひとりが、自分の学力の位置を把握できず、向上意欲がわかない。
「総合学習」・・・学校ごとに差はあるだろうが、私の勤めてきた学校では、週2時間、年に100時間以上の時間を割いて取り組んだ成果とは思えない、おそまつな学習が多い。これを時間の浪費でない、お遊びでないと言える現場教師は果たしているのだろうか。
「基礎基本の徹底」・・・応用的な内容を扱うことがはばかられる風潮が生まれている。基礎は応用をともなわないが、応用は基礎をともなって歩む。
 教育立国とは、ゆとり教育や総合学習や生きる力によって達成されるものではない。
 子どもたち一人一人に、与えうる限り最良の学習の機会を与え、豊富な学習経験・学習知識が、子ども達の将来の財産となるような教育を言うのではないだろうか。