森にようこそ・・・シャングリラの森

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アイヌ民族 4 

2022-06-28 07:53:00 | アイヌ民族

 

      アイヌ民族 4・・・・和人・日本人の開拓移民から見て

 

 これまでアイヌ民族から見た明治期の歴史を見てきました。今度は、和人・日本人の

開拓移民から見てみることにします。

 この時期の開拓移民は、北海道の冬の厳しさなどはほとんど教えられずに、いわば騙

されて連れて来られたような人たちも少なくありません。明治近代化国家と言ってもま

だ日本の領土では無かった北海道を急いで日本の領土として確定したかったのでするだ

から、北海道の開拓を急いだのです。ですから時刻の国民をだますようにしてでも植民

地北海道に連れてきたのです。これは満州開拓の歴史を見たらよくご理解できると思い

ます。ブラジルへの移民を出す時にも、どんなに良い環境の大地がまっているかという

説明で、多くの人達が船に乗り込んだのです。移民政策というのは、決して生易しいも

のではなく、多くの苛酷な犠牲を伴うものです。

 元々アイヌの島(大地)であったところに、開拓移民が「新天地」を夢見てやってくるわ

けです。ところがその多くは、新天地どころか地獄の島だったのです。鬱蒼たる原野を田

畑にするには莫大な労力と長い時間が必要でした。生計が成り立つ凄惨をするまでの生活

はかなり苛酷だったでしよう。さらに、冬の寒さ、雪の問題がありました。春から秋にか

けては、農作物ができなくても、山や川には食料となるものが豊富にありましたから、と

りあえず命を繋ぎ長らえることはできます。しかし、白い雪で大地が覆われる厳寒の冬は、

そうはいきません。山菜類はまったくありません。秋には川に上ってきた鮭もいません。

その上に、マイナス10度~20度、今でこそ、断熱殿他かい暖かい家で暮らしていますが、

そのころは板張りのすきま風邪だらけの寒い家です。家というより小屋のような住まいで

会ったのです。こうしたことが2年、3年と続くうちに、体力のないものは凍死という悲惨

な現実に多くの開拓民が居られたのです。その様な環境ではとてもこれ以上この地にいる

ことはできず、故郷に戻ってしまった人たちも沢山いました。故郷に帰れる余裕のある人

はまだいいけれども、そのような体力も減退し資金も尽きた人たちは、この大地で身を朽

ちるより仕方が無かったのです。でも、、北海道に残って成功し広大な地主となっている

人達もおられます。

 この違いは、様々な要因がありますが、一つには資金力の問題です。つまり農作物の生

産体勢を確立するまでの生活を支えるお金がある場合は、越冬用の、冬を越すのに必要な

食料などを秋に買い求めて蓄えることができたでしよう。でも、何とか夢だけを持って少

ない当座の資金しか持ち合わせていなかった開拓民たちは、その日その日をしのぐための、

現金収入を求めて日雇路移動などの仕事をせざるを得ず、厳しい開墾作業に専念すること

もできず、その結果、冬の生活をより厳しいものにしてしまうという、悪循環に陥ってし

まいます。

  開墾を成功に導くもう一つの要因として語られているのは、先住民族アイヌの生活の

知恵でした。奈津の山菜にしろ、、食べられるものと毒草との区別がつかなくては、空腹

のお腹を満たすことができるどころか、命まで落としかねません。また、夏には何とかな

ったにしろ、長く厳しい冬はそうはいきません、冬を越すだけの資金のないものは生活の

知恵が必要です。この大地で長く過ごしてきたアイヌには、冬を越すたげの豊富な知恵を

持っていました。当然ながら、こうした高度な生活技術・知恵、つまり文化を有していた

からこそ、厳寒の地で長く生き続けて来られたのです。

 最初、先入観と偏見とで、アイヌを軽蔑していた開拓民も、喰うや喰わずの、もう生死

の境まできたときに初めて、アイヌにすがったものもいたようです。アイヌの生活の知恵

を教えてもらったのです。春にはどこに行けばいいのか、秋には鮭が川に上ってきますが、

シ-ズンはじめの鮭は脂がのっていて保存には向かないこと、冬近くに上ってくる鮭は脂が

少なく、保存用にはうってつけであること、オオバユリの根は、優れたでんぷんで、これ

を乾燥しておけば、冬の貴重な食料になること。寒い寒い冬の暖房の取り方、たくさんの

生活の知恵を授かり、生き延びた開拓移民はたくさんいたであろうと思います。この時代、

北海道を旅行した外国人の記録にも、言葉がだんだんアイヌ語的になっていった開拓移民

のことが残っているようです。和人がアイヌに同化していった例と言えるでしよう。もっ

とも、これは強制的でなく、必然的なものなのでしようが。

 

 一方、新天地を夢見てきたが、結局故郷に帰らざるを得ない人たちの中には、北海道で

生まれた乳の飲み子を連れての移動は困難だからと、アイヌコタン(集落)に我が子を、預

けていくものもおりました。アイヌはこうした子供たちを我が子と区別なく育てたという

ことです。(こういうことは、満州から引き上げる人たちのなかにも可なりの方々が居られ

ました)

 30年ほど前に亡くなられた方ですが、アイヌから尊敬を集めた長老がおりました。口に

はアイヌの伝統的な刺繍がしてあり、アイヌ語を母なる言葉・母語として育ち、ユ-カラを

はじめたくさんのアイヌの文芸を伝承され、刺繍(ししゅう)をはじめとする女の工芸も伝承

され、たくさんの優れた作品を作り、たくさんの後継者を育てて今日に至っております。

こうした功績から、たくさんのアイヌ文化伝承に関する賞を数多く受賞されました。アイヌ

からは女性の長老の敬称・尊敬語である「フチ」と呼ばれていました。このフチは四国の人

なのです。生まれて親からアイヌの家に養女に出され、そこで育ったのです。アイヌであり、

私たちの尊敬を集めたフチも、血のことをいえば和人なのです。このフチは、現在の北海道

旭川周辺で活躍されました。こうした例は各地にあるようです。0

 

 

 

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